まねんご様
ただの不思議な体験なんて、一般に募れば両手から溢れるくらい集まってくる。
それらはあからさまな虚偽であったり逆にささやかすぎたり……なので、雑誌に載せる際は大幅な脚色を必要とする。それが怪談雑誌の記者という仕事だった。
でも、今回は必要じゃないかもしれない。
脚色に後から文句をつけられることもあるため、ハガキやインターネットではなく直接顔を合わせての話を歓迎している。今回はその形式だ。
指定した喫茶店の卓、向かい合わせに座る彼は五十代くらいだろうか。くたびれた服装はホームレスのようで、額から上を覆ってしまいそうなハンチング帽からは伸び放題の白髪がこぼれている。その下に掘られた表情は陰気だった。
だけど、それは重要ではなかった。中肉中背のただの中年男性から、その異様な風袋だけでは説明のつかないような禍々しい空気が放たれているのだ。誰に教わったわけでもないのに、人が蛇や死体に恐怖を抱くような根源的な破滅の圧力。ゴクリ。と唾を飲みこむ。
「そ、それではインタビューを始めます。貴方が体験した……【まねんご様】について」
纏わりつく恐怖を払うように、メモ帳を取り出す。
彼は、くへ。とひとつ笑い、遠い過去を想うように視線を空に投げかけた。
「……あれは、私がまだ十二歳の、やんちゃなガキの頃でした」
「霧の夜は外に出ちゃいけん。【まねんご様】が出るでな」
霧の日になると、決まって祖母はこう言うのです。住んでいた村は山の中腹にありまして、しょっちゅう霧がかかるんですわ。
ませたガキでしてね、その忠告の真意を知った気になっておったのです。
「視界が悪い日に子供が出歩くと、変質者に攫われたり側溝にハマったりして危ないだけだ」
ってね。
事実、道も整備されているとはいいがたくてね。駐在さんも年寄りが二人だけ。見知った顔ばかりの村とはいえ危ねえもんは危ねえって、大人も霧の日は外出を控えてましたねぇ。
私はそれに反発したくなっちゃったんですよ。大人でもできない霧の夜の外出を、俺が成し遂げてやろうなんてさ。
それに、みんなが恐れる【まねんご様】が何者なのか、誰も知らんのですよ。
大昔から語り継がれるお話ってこと以外、村一番の年寄りの村長ですら、それがどういう存在でどう悪いことをするのかわからねえってんですから。馬鹿らしいなんて鼻で笑ってましたよ。
ある日、霧の夜がやってきました。決行の日ですわ。友達はいくらかおりましたがみんなビビりでしてね。私だけで霧の夜を歩くことにしたんです。
祖母の言うことを素直に聞くふりをして早く寝床に入りましてね、寝たふりですが。そんで、大人たちが揃って寝息を立てるのを聞きまして、そっと起きたわけです。
一応、野球の木製バットを持ちまして、忍び足で外に出ました。
田舎の夜ですからね。街灯なんてのもロクになくて、昼間の太陽の下ですら見えづらい霧も相まってまったく道がわからんのですよ。
バカなガキでしたね。そこで引き返せばよかった。
「怖くない、怖くない!」
なんて頬を叩いて、日常で染みついた習慣と足裏の感触だけで、家の敷地から踏み出したんです。
霧っちゅうのは、要は水蒸気ですな。詳しい原理は知りませんが、細かい水の中を私は歩いていたわけです。
そのときは夏も終わりかけでしてね、中途半端に蒸し暑いのがむしろ気持ち悪かった。肌を撫でていく水がぬるくて……巨大な化物の口をひとり歩いているような気分でしたねぇ。
「俺は、なにも怖くない!」
家からしばらく歩いて、ようやく参りかけていたんですわ。進むんでなく、来た道を戻って帰る。その勇気を振り絞るための鼓舞でした。
ところがです。
『俺は、なにも怖くない!』
って、私の声が霧の中から聞こえてきたんです。
山の村ですからね、この現象には覚えがありました。ヤッホーなんて登山客がはしゃいでおりますな。『こだま』って奴ですわ。
だから私は「……こだま、かな」とぽつりとつぶやきました。
そうしましたら、また聞こえてきたんですよ。霧の中から『……こだま、かな』って。
全身の血が止まってしまいそうな衝撃でしたよ。
だって、こだまってのは大きな声でないと跳ね返ってこないんですから。
自分にしか聞こえないような小さなつぶやきがこだまするなんてあり得ないと山育ちの私が一番知っておりますからね。
「……!」
声を出すのも恐ろしく、指を噛んで震えを抑えながらあたりを見回しました。
相変わらず霧は深くて、なにかがいるだのいないだのって話じゃない。今更、祖母の言うことを聞くんだったって後悔しましたね。
震える手でバットを水平に持ち上げまして、ゆっくりゆっくり、来た道を戻りました。
ジャリ。ジャリ。俺の足音だけが聞こえる夜の中、家まであと百メートルってところまで辿り着いて、もう少しだと安堵しました。
でもね、よせばいいのに気づいちゃったんですよ。
ジャリ。足を踏み出すと砂の音がします。
でも、ジャリ。とまた聞こえる。私の足音に、別の足音が『続いて』いたんです。
これは、やはりこだまではなかった。私と同じ声。私と同じ足音。
俺だ。俺が霧の中にもう一人いる。
その真相に至って……村長たちが【まねんご様】の詳しい情報を知らない理由がわかりました。
知ることが、トリガーだったのです。
霧が突然、ふわっとはけたのです。私の立っている中心だけ、現れた闇の中、私の目の前に『そいつ』はいました。
私と同じ服、同じ顔つき、手にはバットを持っていて……違うのは、表情だけ。
私は恐ろしくてきっと情けない顔をしていたのに、そいつは口の端が耳まで持ち上がって……残酷な笑みを浮かべていたんです。
「あ、うああああ!!」
勝手に悲鳴が漏れて、その場にへたり込みました。でも【まねんご様】は容赦してくれませんでした。『あ、うああああ!!』と同じ悲鳴をあげながら、手に持ったバットを振りかぶったのです。
【死ぬ】
そう悟って……現金ですね人の心っちゅうのは。それが巨大な実感になった途端に抜けた腰が動くようになりまして、バットをすんでのところでかわすことができたんです。
腰が抜けても、私はバットをちゃんと握りしめていました。
地面に突き当たったバットを拾い上げる隙を見逃さず、私は【私】に向かって、バットを思いっきり、振り下ろしました。頭は真っ白で、無我夢中だった。
ブツリ。と意識が途切れました。
彼はすっかり冷めてしまったコーヒーをぐいっと飲み干した。
話は終わったという合図の代わりなのだろう。
メモ帳に箇条書きにした【まねんご様】を見ながら、俺はある妖怪のことを考えていた。
ドッペルゲンガー。
古くから迷信や創作で語られる怪異のことだ。自分と瓜二つの人間が現れるようになる現象のことで、これのホラーとして優れている部分は、『出くわしたら、死ぬ』ということだ。
現在は精神医学の分野でそれらしい説明がなされてしまっているが……世界的に観測例がある、ポピュラーな怪異。
もしかしたら【まねんご様】とは、【真似っこ様】が訛ったものなのかもしれない。
日本という土壌で生態を変え、【知ること】をトリガーとした呪いへと変貌した……。そこまで考え、身震いする。これはかなり良質なネタだぞ。
「それでは、私は失礼いたします。原稿料とか著作権とか、面倒なんでそちらに一任しますわ」
適当な一礼だけでさっさと出ていく彼を、俺は無意識に呼び止めた。
これは、好奇心。
「……あの、不躾なお願いを承知で尋ねますが……その帽子を、取っていただけますか」
どうしても確認したかった。この話が、よくできた創作なのか、人間では踏み込めぬ闇の世界の話なのか。
【ドッペルゲンガー】は、なぜ出くわしたら死んでしまうのか。
その答えのひとつがあるように、俺には思えた。
「はは、あんたも中々、好きなんですね」
俺の心情を察したらしい。軽く笑っただけで、あまりにも呆気なく、彼は帽子を取った。
ああ、やはり……。
彼が【まねんご様】に出くわしたとき、子供だったのは幸いだった。もう少し力があったら……きっとこの場にはいなかっただろう。
現れた頭はまるで……バットで思い切り殴られたように、醜くへこんでいた。