雨宿り その三
やがて、何処かで覚えのある様なメロディーが微かに聞こえてきた。スマホの着信らしい。
あ、と小さく呟いて、彼女はカバンを探りもしもし、と言った。
盗み聞きも失礼だと、私は煙草に火を点けて立ち上る紫煙のゆらゆら流れては消えてゆく様を黙って見つめていた。
それでも、狭い小屋の中である。聞くとも無しに会話が聞こえてくる。
今何処だよ?野太い怒気を孕んだ男の声が聞こえた。彼女はしばし沈黙した後にか細く、ごめんなさい、と言った。
ごめんなさいじゃねぇだろう。更にドスの効いた男の声が聞こえた。
うん、ごめんなさい、でも無理です。そう言われても…。そんなこと…、ごめんなさい。
彼女は親に怒られている子供の様にうなだれて、泣きそうな声で謝り続けていた。理解されない悲しみと疲労がその声音に滲み出ていた。
どんな関係なのだろう。
職場の上司という感じではない。彼氏、だろうか。親だろうか。誰にせよ、随分と高圧的な物言いである。
聞くともなく聞こえてくるやり取りが、私には辛かった。
やがて、ふざけんなよ、という男の声と共に通話はぷつりと断ち切られた。静寂の小屋に雨がトタン屋根を叩く音が響く。虫の声に混じって彼女のすすり泣く声が微かに聞こえる。
かなり疲れている。かなり参っている。ひしひしと伝わってくる。弱っている者は、やはり弱っている者に敏感なのだ。
どうすることも出来ず、しばしそのまま、街灯に照らされ細い光の糸の様な雨をぼんやりと眺めていた。
あの…。
はっと我に返り、声の方へ素早く首を向けた。
彼女が何処か虚ろな表情で私を見ていた。
胸の鼓動が大きく響く。
私も無言のまま彼女の白い顔を見つめていた。
あの…。彼女が再び口を開いた。
もしよろしければ、火をお借りしたいのですが…。
ああ、はい。火ですね。どうぞどうぞ。
少し拍子抜けしつつライターの火を点けて、彼女がすっとくわえた煙草に近付けた。
彼女は火の点いた煙草を指に挟むと、疲れた顔に微かな笑みを浮かべて、有難うございました、と言った。私も少し安心して、どういたしまして、とあくまで軽く応えた。
静かに、互いの呼吸に合わせる様に、か細い紫煙がゆらゆらと立ち上ぼり、途切れぬ雨音に溶けていった。
何か話すべきなのだろうか?こんな時に気楽に話しかけられる男だったなら、私はもっと楽に生きられたのだろうか。そんな事を考えながら沈黙は続く。
煙草が燃え尽きて、さすがに手持ちぶさたになってしまった。
雨ですね…。
気が付いたら、ふいにこんなたわいもない言葉を口走っていた。私は慌てて、はは、と苦笑いをした。
しばしの間があって、隣から、ああ、雨ですね…、という小さな声が聞こえた。
また沈黙である。私は次の煙草に火を点けた。
あの…。
彼女のか細い囁く様な声が耳をくすぐる。またライターだろうかと上着のポケットを探る。それを制する様に、あの…、さっきはすいませんでした。電話、うるさかったでしょう。ごめんなさい。と彼女は言った。私はとっさに返事ができぬまま、ポケットに手を入れて固まっていた。
悪い人じゃないんですけど、怒ると声が大きくて。私が悪いんですけどね…。
私はなんと応えていいのか分からぬまま、いや…、大丈夫です。大変でしたね…。曖昧な返事をするのが精一杯だった。
君は悪くないじゃないか、そんな男を何故かばうのだ。さっさと別れたらいいじゃないか。
やりきれなく色々心に浮かんでは形にならぬまま消えていった。
曖昧な返事でも少し気が楽になったのだろうか、はは、と彼女は小さく笑った。私もつられて訳もなく、はは、と苦笑した。




