高い洞窟
いつからかはわからない。気がつけばそこにいた。暗く寂しく、それでいて天井だけは先も見通せないほどに無際限に広がっている此処は、まるで渓谷に蓋がされたかのような場所であった。
持ち物はカンテラ一つに替え用の油のみ。道は一本で、先に分かれ道があるのかすら分からなかった。
頭がズキズキと痛む。意識がなかったのは頭をぶつけたからなのだろうか。頭蓋からは鈍い痛みが伝わってきており、それは歩く事すら億劫に感じる程度だった。
しかし、私が今すべきことは痛みに耐え忍ぶことではない。一刻も早くこの洞窟のような空間から脱出しなければ。
強い使命感に駆られた私は、カンテラを手に持ち、見えづらい足元に気を配りながら歩みを進めた。食料もない中、一箇所に留まり続けることなど愚の骨頂だ。そんなことをするのならば歩き回って助けを求める方がまだマシというものだろう。
しばらくすると遠くの方に小さな明かりが見えた。本当に小さな、線香ほどの明かりだったがこの現状を鑑みれば希望の光といっても過言ではない、望みの光だった。
今の今まで道は一本だった。ただ道のりに沿って歩くだけというのはなんとも言い難い辛さがあった。話相手もなく、景色も変わらず、ただただ転ばぬように神経をすり減らすだけの時間。そんな苦痛なだけの間に変化が訪れたのだ。
自然と足も早くなる。早歩き、小走り、全力疾走に移ろうとしたところでその光源に辿り着いた。
小さいボロの掘っ建て小屋。しかしながら機能性は持ち合わせておりすぐに崩れることはないと言える程度にはしっかりとした作りをしているように見える。
急いでこの小屋の入り口であろう扉のノブに手をかけた。無造作に開かれた木製の扉はキィと抗議するかのような音をあげながらも古臭い見た目に似合わぬ滑らかさで役を果たす。
周囲を見渡す。服、食料、油に...人影はなし。
落胆。いや、そもこのような場所に人がいるなどとは期待してなどいなかった。全くというわけでもないが、まあ居ないのならば仕方がない。淋しさを紛らわせながらの探索などもう慣れた。
というよりこれは喜ばしい結果なのかもしれない。食料を見るに此処に運ばれてきたのはごく最近。つまりこの洞窟の何処かで何らかの作業をしている人物がいるということの証明に他ならない。ならば希望の芽が芽生えたと考えるべきだろう。そうでなければやってられない、それほど私の精神は摩耗していた。
あれから何日過ぎただろうか。腹が減っては食いを五回ほど繰り返したのは覚えているが、正直今の自分の体内時計の正確さには自信がない。
助けが来ると思い込んでいた。此処が最近見捨てられた可能性も考慮せずに。
この飯を食ったら、壁を登ろう。
もうこんなところは懲り懲りだった。一分一秒だってこの景色を見ていたくない。助けなど来ないと理解した。ならば今度は甘い考えを捨て、代わりに強い意志と覚悟を決めるべきだ。
「此処を絶対に脱出してやる」
おそらく数日ぶりに出した声は思いの外低い声であり、同時に自分が緊張していることに気がついた。
大丈夫だ、俺なら出来る。そう言い聞かせながら飯を掻き込む。粉末を溶かしただけのこれは一度食べれば満足出来てしまうような味をしており、五回連続ともなると流石に遠慮したくなるような味ではあったが、これがこの小屋での最後の食事だと思うと何故だかとても美味しく感じられた。
洞窟の側面、ゴツゴツとした岩肌の突起部分に手をかける。右手、左手、右足、左足。順番に手足をかけながらどんどん上へと登って行く。私は趣味にロッククライミングでもしていたのだろうか、どこに手をかけ足をかければいいのかが無意識レベルで理解できる。ニヤリ、と思わず口元が緩む。登攀は体にとっては負担の大きいものだったが心にはとても良い行為のように思われた。
脱出に向かっている。それはただ変わらぬ道を歩くことよりもよっぽど有意義なことに思え、何より生きる気力というものが湧いて来るような気がするのだ。
次第に息が切れ始める。手の皮が厚いのか幸いにして怪我をすることはなかったが、筋肉の疲労は身体の極限に至っていた。
だが身体を止める事は許されない。何故なら、休めば下を振り返るだろうからだ。振り返れば真っ暗闇が私を再び孤独に引きずり込もうとするだろうからだ。そうなってしまえば、きっと私の心は折れてしまうだろうからだ。
登る登る登る。肉体の限界を超えて、気力のみで手足を駆動させる。
しかして、長かった壁にもついに終わりが来たようだ。あれ程までに遠かった天井がもう目の前にある。
あと一メートル、あと三十センチ、あと少し。
コツン、洞窟内に乾いた音が鳴る。長く苦しかった空間との別れ、音はそれを意味していた。
指が天井に到達した。
そこからはひたすらに愚直なまでに天井を掘った。幸い岩は乾燥していたのか力を込めて掘れば崩すようにして掘ることができた。
幾ばくか時間が経った時、ふと硬いものが指先に当たった。異常なほど硬いそれは黒い石粒の集合体であり、限界ギリギリの私を嘲笑うような無慈悲な宣告でもあった。
「ハッ」
『誰が諦めてなぞやるものか』鼻で笑ってやる。
つま先で、壁を思いっ切り蹴る。
そしておもむろに右手で握り拳を作った私は
......大きく振りかぶり天井の黒を殴り始めた。
一回、また一回と、より威力が出るように考えつつ狂ったように殴り続ける。それはまるで今までの鬱憤を晴らすかのような感情の吐露だった。
無我夢中で殴り続けていると、不意に黒に変化が訪れた。黒を構成する粒のうち、幾つかが固まりとなって崩れ始めたのだ。
「はは...ククッ、ハッ、ハアァァハッハッハッ」
嗤う。気が狂ったかのように、嗤う。最早何に対して嗤っているのかも分からない。拳も自分の意思を離れ、ただそうするのが正しいのだと主張するように振るわれ続けている。
そしてついに、光が見えた。
日光、あるいは私にとっては待ち望んだ神の祝福。暗く孤独な洞窟から私を救い出してくれる慈悲の光。終わりではなく始まりを感じさせるようなそれが私の顔に降り注いでいた。
すぐさま開けた穴を広げる。早くこの光を一身に浴びたいとその一心で。
固定した足と手を外す。外界はもうすぐそこなのだ。ここまで苦労や苦難が絶えなかったがその結果外に出られるのなら報われるというものだ。
はぁ、と大きくため息。そして一気に体を穴の向こう側へと突っ込んだ。
‘雲海’。雲の海で雲海。それは千メートルを超える山などで見ることが出来る自然の絶景だ。それが私の目の前に広がっている。
まさに絶景だ。想像を絶する景色だ。必死になっていた先程までの自分に自慢したいぐらいだ。
ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。
なんだこれは。一体どう......何で。もしかして私は夢の中に居るのか?だって、いや、どう考えてもおかしい。あれだけの時間が、苦労が、すべて水の泡に?徒労に終わったと?
まさか。きっと嘘だ。ドッキリだ。トリックだ。何かの冗談だ。白昼夢か何かだ。
現実逃避に勤しむ私の意識をふと現実に戻したのは、未だ穴の中に残る両足だった。とっくに限界を迎えていたのだろう、絶望的なこの景色を見るとともに先程までの力強さは見る影もなくなっており、ただぶらぶらと投げ出されるばかりであった。
同時に身体がずり落ちる。腰まで出ていた上半身は一気に胸の辺りまで穴に降り、上半身を持ち上げる両手も限界が近くなっていた。
もう......十分だ。
手から力を抜く。必然、身体は自由落下に任せることとなるがそんなことはもうどうでもいい。そのような些事よりも私が思い浮かべるのは壁の登頂に至るまでのことだった。
登攀には常に緊張が付いて回った。一つ間違えば真っ逆さま。精神は極限状態を維持し続けなければならない。心身ともに非常に悪い環境であったことは間違いないだろう。
だが、まぁ、それなりに楽しかったのだ。脱出に向ける高揚感も、出たら何をしようという期待感も、踏み外したらどうなるのだろうという恐怖感でさえも。
不意に下を見る。そこには暗闇という得体の知れない怪物が自分が落ちてくるのを今か今かと口を開けて待っていた。
怖い。素直にそう思った。だが胸中を席巻するのは恐慌ではなく達成感だ。落ちる速度が上がるたびに、報われたような気持ちになる。地面が近づいてくることを確認する度に口元が緩む。何故ならこの速さ、自重に加えられる速度という重みこそが、私の存在を、努力を証明してくれる唯一のものだからだ。これは壁を登る時とは全く矛盾した感情だ、しかし今はそれが心地良い。
あぁ、もう終わりか。
眼前には地上が。名残惜しいが私はこれで終わりだ。
このような不幸に会ったことのせめてもの償いとして、もし神に願いを叶えてもらえるのなら、次はもっと
―――生きがいのある人生を。
頭から落ちた。神への願いも聞き届けられた。
「此処は......どこだ?」
ある洞窟の冷たい床の上で男は意識を覚醒させる。
「一本道か...,」
幸か不幸か記憶はかけらも無く、ただただ出口を探すのだ。
「天井は......先が見えないな」
きっと再び私は天を目指すのだろう。
「取り敢えず道なりに沿って歩くかな」
そして絶望して地へと再び落ちてゆくのだ。
前回よりも少し高くなった洞窟に、少しの満足感と爽快感を感じながら。
生きた意味を
―――生きがいを実感しながら。