思い出
「すみません、タバコ買いたいんですけど、このパッケージと同じものをお願いします」
初秋。平日の真っ昼間だ。私はコンビニに立ち寄って、店員に声をかけた。店員は若い男性だった。おそらく私と同じ大学の学生だろう。彼は私が差し出したスマホの画面を数秒眺めると、少々お待ちくださいと言ってすぐに頼んだタバコを持ってきてくれた。
「450円になります。以上で宜しいですか?」
私は財布から500円玉を取り出した。会計を済ますと商品を鞄にしまい、お釣りの50円玉は募金ボックスに入れた。いつもならレシートは家計簿用にもらうようにしているが、もうその必要はないからもらわなかった。
コンビニを出ると、やや風が出ていて外は涼しかった。雲一つない快晴である。日が出ているから暖かいが、半袖ではやや肌寒く感じた。そのコンビニはアパートから徒歩5分ほどの距離に位置している。普段なら自転車で2,3分といったところだが、今日は徒歩の気分であり、かついつものようにせかせか歩く気にもなれなかったから片道に10分近くかかった。
車通りも少なく、出歩いている人も殆どいない。とても静かで長閑だ。私は歩きながら昔のことを回顧した。主に6つ年上の兄についてだ。
私の兄、立川彰はかつて私にとって太陽のような人だった。私の一番古い記憶にある兄は、とても私を可愛がってくれていた。私が5つか6つくらいの時である。親が留守の時によく二人で一緒にカードゲームをして遊んだ。兄は、今一ルールを理解していない私相手に手加減をしてわざと負けてくれた。また髪を結ってくれる時もあった。
中学時代の兄は男子バレー部に入部し、部活か部活仲間の家に遊びに行くかのどちらかであることが増えた。私はあまり交友関係が広くなかったから、近所の仲のいい友達とたまに遊ぶか遊ばないかくらいで、殆ど放課後も休日も家で過ごした。兄も夕方には基本的に家にいたが、ゲームをしたり漫画を読んだりしているかで、夕飯を済ませたら宿題を始めるから前のようには遊んでくれなくなった。私がちょっかいを出してもそっけない態度で軽くあしらわれることが増えたのだ。だから、私はてっきり兄に嫌われたんだと思ってしょぼくれていた時期もあった。母親が私を出掛け先によく連れ回す人だったから退屈をした覚えはないが、その頃の兄との思い出はあまりない。口を利いてくれなくなったわけではなかったから、せいぜい他愛のない話をしたくらいだと思う。
兄は家から最も近い高校に進学した。部活動は山岳部に入ったようだった。部の詳しい話はあまり聞いたことがなかったから知らないが、活動自体は頻繁にはないようだった。よく遊びに出かけてはいたが中学時代に比べて家にいる時間が増え、家が高校から近いこともあって部活仲間の格好のたまり場となっていた。当時まだ小学生だった私は、相変わらず家にいることが多かったため兄の友人たちにとてもかわいがられた。
「まじ、光ちゃんいい子だし静かだしかわいいよな!」
「ホント、俺の弟と交換してくれよぉ。口答えしかしないしうるさいし」
子ども部屋はあったがとても狭くて最低限の広さしか確保されていなかったから、兄と友人たちは客間で過ごす事が多かった。試験期間中も家へ来て皆で勉強していることが多く、私が飲み物と菓子を出しに行くと友人たちはわちゃわちゃと賑やかにお礼を言ってくれた。
「ダメダメ、光は俺の大事な妹なんだから」
兄はいつもまんざらでもなさそうにそう言った。初めてその場に遭遇したときは、昨年までの態度との豹変ぶりに面食らったが、私も良く言われる分には嬉しかった。少しずつ私たちの関係性も元に戻り、むしろ兄は昔以上に私をかわいがるようになった。
「おかえりー。今日もかわいいな、光」
朝は両親がいたし忙しなく朝食を食べてゆっくり話す暇もなかったが、夕方私が学校から帰ってくると、兄は挨拶ついでにそう言ってくるようになった。それがいつからだったかはもう覚えていないが、山岳部の友人たちが家へ遊びに来るようになってからだったように思う。きっと周りに感化されたのだろう。私だって友人に自分の家族を褒められたら悪い気がしないと思う。ある時母が私に、中学生の頃は丁度思春期で妹にかまうのが恥ずかしかったのだろうとこっそり言ってきた。
「ありがとう、お兄ちゃん。お兄ちゃんもかっこいいよ」
私は初め、冗談のつもりでそう返事をした。毎回のようにそのやりとりは行われた。
いつだったか、兄の友人が兄に対して「お前、本当に光ちゃんのこと好きな」と私の前で冷やかしたことがあった。とっさに私は兄の顔を見た。なんて返事をするのか。私が話を振られたわけではないのに顔が一気に熱くなった。
「そんなの、大好きに決まってんじゃん」
そのとき、私はどんな反応をしたのだったか。気が動転していたからあまり覚えていないが、とにかく嬉しかったことだけは覚えている。そして、この感情は普通ではないかもしれないと感じた。私は気づきかけた自分の気持ちに蓋をした。兄は私を妹として、そして私も同様に兄を兄として好きなだけなのだと自分に言い聞かせた。しかし、誤魔化しはいつまでも続かなかった。私は自分の気持ちに気づかされてしまった。それは兄が初めて彼女を家に連れてきたときだった。
兄は高校卒業後、家から電車で1時間ほど乗っていったところにある大学へ進学した。私は中学生になった。兄はソフトバレーサークルに入ったようだったが、活動自体はあまりしていないようだった。私は部活へは入らなかった。なんだかんだ理由をつけて兄への思いを自分で否定していたものの、今思うと結局家にいる時間を減らしたくなかったのだと思う。兄は大学近くのコンビニでバイトを始め、週3日ほどはバイトの都合で終電まで帰ってこなくなった。高校時代までとは違い、兄の知り合いが家に来ることはなくなった。
中2の夏、兄が久しぶりに人を連れてきた。兄はその人を自分の彼女だと言って紹介した。
「実は去年の冬から付き合い始めたんだ」
正直、衝撃が隠せなかった。今まで兄に相手がいなかったのは偶々だったのだと思い知らされた。それと同時に、兄に対する気持ちを認めざるを得なくなってしまった。兄が他の人と付き合っていると知って、どんな表情で話すのだろうとか彼女に甘えたりするのだろうかとかいろいろ具体的に想像してしまった。具体的に考えて、そこにいるのが私ではないことを受け入れがたく思った。
私は自分から誰かに好意を抱いたことがなかったから、この気持ちは勘違いなのではないだろうかと考えたこともあった。しかしそんなことは自分の気持ちを誤魔化していた頃から散々考えていたことだった。クラスの男子を見ても生徒会の先輩を見ても兄に対するほどの感情は抱けなかった。女の子相手に恋愛感情を抱けるのか考えてみたこともある。それでもそれらはなんの気休めにもならなかった。私は兄のことがどうしても好きなのだと、そのことを再認識させられるだけだった。
幸いだったのは、兄が彼女をあまり家に連れてこなかったことだ。家でもバイトの話や世間話ばかりで、大学の話は殆どしなかった。兄が学校の話をしないのはいつものことであったが。私は中学を卒業した頃に、ふと気になって「そういえば最近彼女さんとはどうなの?」と聞いてみた。そしたら、大分前に分かれたとあっさり告げられた。そんな程度のものだったのかと、私は一瞬喜んだ。しかし、いつまで経ってもこの気持ちが報われることはないのだと思い直して、こんなことなら早く家から出て行きたいと思った。兄が出て行かないのなら大学進学先は実家から通えないところがいいと思った。結局私は高校でも部活には入らなかった。放課後は学校の図書館にこもって勉強をし、学校が閉まった後は市の図書館へ移動して20時頃まで勉強をしてから帰っていた。休日は家事の手伝いをしたり母の外出に付き合ったりしていた。そして昨年、私は実家から車で5時間ほどの距離にある大学へ無事合格し進学した。兄は私が高校3年の頃に二人目の彼女を紹介してきたが、そのときは初めほどの衝撃は受けずに済んだ。受験期でそれどころでは無かったのもあるかもしれない。
現在兄は社会人4年目である。今月末に3年間の交際を経て二人目の彼女と結婚するそうだ。昨日の夕方、電話口で恥ずかしそうに報告してくれた。兄の電話はずいぶんとあっさりしたものだった。報告があるからといって数秒沈黙があった後、由美と結婚することにしたと言われた。由美さんは兄と同じ大学出身で、同じ職場に就職してから初めてお互いを知ったそうだ。兄は由美さんとの話をあまりしたがらなかったが、彼女をたまに実家へ連れてきたから、彼女から馴れ初めや職場での兄の様子を聞く機会が多かった。由美さんはとても気さくで明るい人で、兄もかなり信頼しているようだった。二人の関係性は端から見ても良好だった。だから、結婚するのも時間の問題だろうと思っていた。前からわかっていたことだった。ただ、そのタイミングが今来ただけだった。
私は電話越しにおめでとうと伝えた。結婚式の詳細は決まり次第また連絡すると言って兄は電話を切った。たった3分にも満たない会話だった。スマホの通話終了画面をぼうっと見つめながら、私はいろいろ考えた。一頻り考え終わると、いつの間にかスリープモードになっていたスマホをベッドの上に放ってから、部屋の電気を消した。そしてベッドに横になって明日の朝を待った。異様に目がさえていて眠られる気配がなかったが、目を瞑ってじっとしていた。夕飯も食べていなかったが空腹感はなかった。
朝になってベッドから出ても、正午を過ぎるまでは特に何もしなかった。午後からようやく身支度を調え、『後ほど使うものたち』を用意してから家を出た。
そして今に至る。
丁度回想が終わった辺りで家に着いた。私の部屋はアパートの一階の角である。家の鍵を開けている最中に丁度隣人が中から出てきた。こんな平日の昼間に人がいるとは思わなかったから、驚いて小さく声を漏らしてしまった。やや気まずさを感じたが隣人はさっさと鍵を閉めて去って行った。
部屋に入り、私は家を出る前に用意したものたちを使って準備を始めた。それが終わると、先ほどコンビニから買ってきたタバコと実家から持ってきていたライターをじっと見つめた。私はタバコを吸ったことがなかったから、自分で買うのは初めてだった。ライターは引っ越しの際にたまたま荷物に入っていただけのものだ。兄が使っていたがライターはいっぱい持っているようだったし、せっかくだからと内緒でずっと持っていた。兄がタバコを吸うようになったのは就職してからだった。父親が喫煙者だったこともあり、タバコのにおいには慣れていたからタバコを吸い始めたことに対しては特に何も思わなかった。兄が愛煙していたのはウィンストンのタバコだ。パッケージを開けると、バニラの甘い香りがふわっと香ってくる。兄がよく身に纏っていた匂いだ。懐かしさと共に、苦しさと切なさで胸が締め付けられた。目頭が熱くなって、眼前の景色が滲む。ベランダへ出て、タバコに火をつけてみた。実家にいた頃はタバコのにおいも煙たさも慣れたものだったが、今はそうではないみたいだ。あまりの不快さに思わず顔をしかめるが、せっかく買ってきたのだしと思ってそのままタバコを咥えてみた。煙が口に入ってくる慣れない感覚にすぐむせた。ある程度は予想していたとはいえ、やはり自分にタバコは合わないのだと思うとなんとなく残念な気持ちになった。そしてそのとき、自分がそんな風に感じていることの可笑しさに気づいて思わず笑いそうになった。残念ってそんなの、今更思うことではないのに。家には灰皿などないから、仕方なくベランダの床にタバコを押しつけて火を消すことにした。床に焦げ跡がついた。そのことに若干の罪悪感を覚えつつ、そしてまたそんな感情を抱く自分が可笑しかった。
部屋に入って、キッチンに向かう。ワンルームのアパートで、キッチンに向かうも何もないが。部屋のドアを開けるとすぐにキッチンと玄関に出る。ガスの付臭剤の臭いが鼻についた。先ほどの準備の時にガスの元栓を開いておいたせいだ。ポストの口やトイレのドアはさっきガムテープで目張りしておいたし、窓は幸い部屋側にしかついていない。予め置いてあったガムテープを手に取り、たった今出てきたドアを目張りする。
手には開封済みのタバコの箱と実家から持ってきていたライター。
もう少しの辛抱だ。
部屋のドアは下も上も1cmほど隙間が空いているタイプだから、プロパンガスはドアの下から部屋側へ流れていってしまっているだろう。10分も待てば充分だろうか。時間の流れがとてもゆっくりに感じられた。他にすることももうなかったから、腕時計の秒針がカチカチと音を鳴らしながら動く様子をじっと観察していた。少しずつ、足先から血の気が引いておなかの底から冷えていくのがわかった。それでも意識は至って冷静で、客観的に自分は恐怖しているのかもしれないと思っただけだった。
昨日結婚報告の電話をもらったあの瞬間、私の中で何かが崩れてしまった。一般人のふりをしてやっとの思いで保てていた何かが。私は兄への思いに気づいてしまったあの時からずっと、兄のことが憎くて憎くてたまらなかった。散々かわいいだとか好きだとか言っておいて、それは全てただのリップサービスだったのだ。許せなかった。なぜ私が兄を好きな気持ちと、兄が私を好きな気持ちが一緒でないのか理解できなかった。そして、そのことに気づいていながら最後まで兄への思いをなかったものに仕切れなかった私の感情が理解できなかった。他の人のことを好きになるくらいなら、最初から私のことを好きだなんて言ってほしくなかった。結婚だって、報告なんかされても祝福なんてできるわけがなかったのだ。
だから由美さんには悪いけど、めちゃくちゃになってしまえばいいと思った。最悪な形で思い出に残してやろうと思った。彼が自身の結婚を振り返るとき、私のことを嫌でも切り離せなくしてやろう。兄はきっと私のことを恨むだろう。私に向けられる感情が負に変わったとしても、なんとも思われていない現状よりはいくらかましに思われた。これは私の醜い抗いだった。
秒針が10周した。私はライターに手をかける。若干手が震えていた。少しだけ、右手を動かすのをためらった。死ぬのが怖いのではなく、ちゃんと死ねるのかどうか不安になったのだ。
でも、それも数秒の間だった。
私は火をつけた。
お読みいただきありがとうございました。前回に引き続き、今回も三題小説でした。お題は「6,恨み、火」です。あまり作品中にはこれらの要素を盛り込めなかったのですが、設定を考える上では結構頑張って入れ込んだつもりです。火が一番わかりやすかったですかね。
あんまり後書きで解説するのは良くないとわかっているのですが、上手く表現したいことが伝わっているか心配なので簡単に解説的なものを書こうと思います。
解説読むのが嫌いな方は注意です↓(いるか知らんけど)
ざっくり言ってしまうと今回の作品は、主人公が兄に恋してしまい、そんな兄が結婚する知らせを聞いてショックのあまり焼身自殺をする話でした。光がなぜ兄を恨んでいるかの部分の描写が少なくなってしまったのですが、兄や兄の友人たちが言っていた冗談のせいで自分は兄を好きになってしまったのだと光は思っています。
久しぶりに暗い話を書いたのですが、なかなか精神力を削られますね。書いていてとても苦痛でした。設定を思いついてしまったので頑張って書きましたが、そもそも焼身自殺なんてしたいと思わないしお兄ちゃんに恋してしまう感情も理解できません。自分の中にない考えを書くのって難しいんだなと改めて思いました。昔の自分、暗い話ばっかり書いてましたけどね笑
さて、前回の話を読んでくださった方はご存じかもしれませんが、この三題小説はリアルの知り合いとお題を出し合って書いているものです。期限が決まっていて、期限内に書き切れるか心配だったのですがなんとか間に合って安心しています。次回はもうちょっと軽くて気楽なお話を書きたいです。というわけで、おそらくこの三題小説シリーズもしばらく続くと思いますので次回もお読みいただければ幸いです。ここまで読んでくださった心優しい方は、ついでに評価なんかもしていただけたら大変嬉しいです。