七夕の夜
俺は昔、確かにこの目でゾンビを見たことがある。あれはそう、俺がまだ中三の夏。7月7日、七夕の夜だった。何故それがゾンビだと断定できるのか? それは、死んだはずのやつが俺の目の前を歩いていたからだ。死んだはずの、くそ親父が――
「……で、俺は何でその話聞かされなきゃならんわけ?」
「何でってお前、今日はあれから7年経った7月7日、トリプルセブンだぞ!? またそいつが現れたらどうするんだよぉ」
ガタンッ
飲みかけの日本酒が入ったマグカップを置く手に、思わず力が入った。今俺の目の前に座っているのは、大学に入学して以来なんだかんだ4年間関係が続いている親友の加藤正則だ。久しぶりにお互いの予定が合い、急遽正則の家で宅のみをしようという話になったのだ。
「ただでさえ、七夕の日に昼間っから男と二人で酒飲んでるなんて悲しい状況なのに、そんな意味不明な話聞きたくねえよ。つうか、お前の父さん死んでるのとかも初耳だし」
「あ、待て。同情とかはいらねえからな。今時片親家庭なんて珍しくないし」
「いや、そんなつもりないけど。どっちかっつうと、ゾンビ見たとか言ってるお前の可哀想な頭に同情してるけど。もっと浮ついた話の一つや二つないわけ? 彼女できたーとか」
「ねえよ。就活忙しかったし、終わってからはバイト三昧だし」
大学4年生の今頃、まだ就活生は居るわけだが、俺も正則も早々に内定をもらっていて、俺らは早々に就活を終えていた。就職できればどこでも良かったから、わざわざ辛いことを長引かせる必要もない。
「そんで? ゾンビ見たって、具体的にはどんな状況だったわけ?」
正則は文句を言いつつも俺の話の続きを聞いてくれるらしい。こういうところが優しくていいやつである。
7年前、ゾンビに遭遇したのは部活帰りの夜だった。俺は運動が苦手で仕方なく吹奏楽部に入部していたため、周りの運動部の友達が早々に部活を引退していく中、俺は地区大会に向けた練習真っ只中の頃だった。
通学路の途中には、大きな橋がある。実際にそんなことがあったという話はあまり聞かないが、地元で噂が立つくらいには有名なちょっとした自殺スポットだ。俺の父親は、10年前にその橋から飛び降り自殺をしたんじゃないかと言われている。正確にはわかっていないらしいが、母親からはそう説明された。父親の遺書にそんなようなことが書かれていたらしい。しかし遺体は見つからず行方不明の扱いをされていて、3年前に失踪宣言によって法的に死亡したことになった。
当時母親と揉めていた父親はその1年ほど前から別居しており、俺が最後に生前の父に会ったのは小学6年生の春、母の居ないタイミングを計って荷物を取りに帰ってきていた時だった。当時は何故母と父が揉めていたのかよくわかっていなかったし、父のことも別に嫌いではなかったため、次はいつ帰ってくるだろうかとぼんやり考えながら日々を送っていた。だから、父親の行方不明に気がついたのは、無断欠席が続いたことを不審に思った勤務先の上司だったらしい。
今でも母親の前で父の話はタブーである。別居の原因は今も知らないままだが、その後の母の苦労を見てきているし、俺の中でも父親のことは日に日に憎たらしい存在になっていった。だから、橋を渡るときはいつもいい気持ちはしなかった。経年と共にあまり気にならないようにはなっていったが、当時はまだ自分の中で気持ちを上手く処理し切れていなかった時期だし、何より思春期真っ只中である。普段は部活仲間の友人と一緒に帰ることで気が紛れていたが、その日に限って友人は体調を崩して欠席していた。
「――部活帰りに通学路の橋を渡ろうとしたら、橋の向こう側から人影がこっちに向かって歩いてきたんだ。最初は別に気にとめてなかったんだけど、その人影の歩き方に違和感を覚えて……で、立ち止まって橋の手前の木陰に隠れた。橋っつっても普通に歩いたら1分くらいで渡りきれる距離なんだけど、そいつが橋を渡りきるのに10分くらいはかかってたと思う。こう、足を引きずるみたいにして、歩く度に頭が左右に大きく揺れて、肩がガクン、ガクンって上下に揺れてて」
「ふむふむ」
「で、そいつがとうとう俺の近くまで来た。夕方で辺りは暗かったしこっちからも向こうはよく見えなかったから、気づかれないと思った。腐敗臭みたいな嫌な臭いが一緒に近づいてきて、思わず嘔吐きそうになったけど我慢して。怖いもの見たさでそいつの方を見てたんだ。そしたら――」
「お前の父さんだったって?」
「そう。髪が水に濡れて肌に張り付いてて、皮膚とかぶよぶよで、ガチでトラウマ級に怖かったんだけど……顔はわからんまでも雰囲気とか背格好とかがそっくりだったんだ。そんで、俺の目の前でピタッと足を止めて、こっちをじっと見返してきた。そのまま襲われて死ぬかと思ったけど、しばらくしたらまた歩き出して、気がついたら居なくなってたんだ」
説明しながら、そのときの映像が鮮明に思い出された。暗がりではっきり見えないのが逆に、まるでホラー映画のワンシーンみたいな雰囲気を醸し出していた。じっとりとした視線が俺の体に刺さって動きを封じ込められたかのように、ただただ立ち尽くすしかできなかった。自分の心臓が破裂するんじゃないかと思うほど心拍数が跳ね上がり、体全身の筋肉が硬直しているのがわかった。
4年前に家を出て行った父親の、哀れな姿。形容しがたく見るも無惨なその様相は、確かに死ぬほど怖かったが、立ち去るときに見えた背中からは、どことなく哀愁が漂っていた。
「……ふうん」
正則は俺の話を聞いて、つまらなさそうな顔をしながら日本酒を呷った。
「まあ、仮にその話がお前の妄想じゃなかったとして、どうしてお前はそれがゾンビだと思ったわけ? そういうの見てゾンビ! って発想にあんまり至らんくない? 普通真っ先に思うのは幽霊だろ」
「幽霊って、実体がないイメージあるだろ? でも、あれはちゃんと足跡が残ってたんだ。その日は暗くて見えなかったけど、翌朝学校へ行く途中に確認したら、あいつが足を引きずって歩いてた跡がちゃんと残ってた。それに、あまりにも生々しく見えた肉体といい、腐敗臭といい……あんまり考えたことなかったけど直感的にゾンビだって思ってたな」
「なるほどねぇ。でも、ゾンビっつったらあれだろ? 噛みつかれて伝染するやつ。なんで噛み付かれずにすんだんだろ」
「さあ……」
確かにそれは俺もずっと疑問に思っている点だった。ゾンビと言ったら、地縛霊とかとは違って意思のない肉塊が歩いているだけのイメージだ。ゾンビ映画やゲームでは繁殖目的で行動している映像が多いが、現実にもしゾンビが居たら今頃パンデミックが起こっているだろう。しかしそういった話は聞かない。
「ま、いずれにしても心配する必要ないんじゃないか。地元じゃないし、そんなトリプルセブンとかゾンビが意識するわけないって。今までが大丈夫だったんなら、これからも大丈夫だろ」
正則は俺の肩をバシバシと叩いた。地味に痛くて酔いが覚めそうである。
「そうかなあ」
「はいっ、これでこの話終了ー。ゲームやろうぜ」
正則の目線の先には、某有名ゾンビゲームのソフトのパッケージが置かれていた。7年間誰にも話したことのなかった話を唐突にしてしまったのは、正則が大のゾンビ作品好きであることを知っていたからかも知れない。
「じゃ、今日はありがとうな」
「こっちも久しぶりに楽しかったぜ」
あれからゲームで一頻り盛り上がった後、軽く夕飯をご馳走になってすっかり辺りは暗くなっていた。午後8時の帰宅。まあ、大学生にしては早いほうだろう。
「ほんじゃ、お互い卒論頑張ろうぜー」
楽しかったひとときも、正則の一言で一気に現実に引き返された。
「……おう」
正則にも散々馬鹿にされたが、確かにこの歳にもなってゾンビだ何だとくだらないことを言っている場合ではない。とりあえず今日は早く帰ってシャワーを浴びて寝よう。
正則の家から自分のアパートへ帰る道中、大きな橋を渡る。地元とは全く関係ない進学先ではあるが、奇しくも俺は何かと橋に縁があるらしかった。地元のあの橋とは無関係だし、俺ももう一応成人済みのいい大人であるから、橋を渡るときにいちいち気分を害することはなくなった。しかし、あの話を正則にしたせいか、自分の中でトリプルセブンとか言って意識してしまっているせいか、今日はなんだか橋を渡るのが恐ろしかった。かといって迂回する気力もなく、仕方がないから橋へ向かう。
「……」
今日はいつになく車通りが少なく、辺りはしんとしていた。近くの田んぼから聞こえるアマガエルの鳴き声だけが響いている。梅雨が明けるか明けないかという時期の独特なじめっとした空気が体にまとわりついて気分が悪い。
怖じ気づいてないでさっさと帰ろう。
俺は歩く速度を上げた。一刻も早く家へ帰ってシャワーを浴びて、冷房の効いた部屋で涼みたかった。
ピタッ
しかし、橋の中程まで渡ったところで俺は足を止めることになった――
「っ……!?」
否、思わず全身が硬直し、足が動かせなくなった。
「ま、さか……」
橋の向こう側から近づいてくる、一つの人影。
――ま、いずれにしても心配する必要ないんじゃないか
足を引きずり、歩く度に左右に大きく揺れる頭。
――地元じゃないし、そんなトリプルセブンとかゾンビが意識するわけないって
外灯に照らし出されたのは、あの夜と寸分違わぬ無様な様相の、父親に似た何かだった。
――今までが大丈夫だったんなら、これからも大丈夫だろ
あれから7年経った7月7日の夜、今日こそ何か起こるのではないか――自分で考えていたことではあるが、いざ現実に起こると何も考えられないくらいの恐怖が全身を支配し、俺は後退ることもできずただただその場に立ち尽くした。頭の中ではさっきまでの正則の言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
全然、大丈夫なんかじゃなかった……。
ゾンビと思われるそれは、今度こそ俺の目の前で立ち止まり、じっとりとした視線で俺の全身を舐め回した。そいつの顔は、俺の記憶の中の姿よりも何倍も醜かった。そこから父親の面影を感じる。あり得ないシチュエーションとあまりの恐怖に頭が考えることを放棄して、俺はそいつの顔をじっと見つめ返すことしかできなかった。
「ア゛ァ゛……」
「!?」
突然そいつは俺の方に手を伸ばしてきた。その瞬間体の硬直が解け、俺はとっさにその手を払いのけて後退った。俺の腕をつかもうと泳がせるその手はそのまま空をつかんで、ぐらりと体の重心を大きく崩した。ようやく嗅覚が機能してきて、息が詰まるような腐敗臭のせいで俺はその場に嘔吐した。
ゾンビの腐敗臭と俺の吐瀉物の臭いで辺りは最悪な状況だった。その臭いにまた吐き気を催し、胃の中が空っぽになっても吐き気は止まらなかった。唾液の分泌が止まらず、目にも涙がにじみ、体の穴という穴から水分が絞り出されているような気分だ。
「ア゛ァ゛、グァ゛……」
本来ならその場に倒れ込みたいくらい気分は悪かったが、再び呻くようなゾンビの声がして俺はそちらを振り向いた。ゾンビは体のバランスを崩した後しばらくもたもたしていたが、体勢を立て直したらしくこちらへ向かってきていた。
逃げなければ。
先ほどまでの気分の悪さが嘘みたいに意識は研ぎ澄まされていたが、体は思うように動かせなかった。ゾンビは相変わらず足を引きずりながらこちらへ近づいてきて、今度こそ俺の腕をつかんだ。
「……ジデ……ゴ……ジデ……」
冷たくてむぎゅっとした感触が俺の腕を掴んでいる。
「っうわあああぁぁぁあぁぁぁ――――――――――!!」
俺の頭は完全にショートしていてそのとき何が起こったのかわからなかったが、どうやら俺は力の限りゾンビを突き放したようだった。
ゾンビはそのまま橋の手すりに背中を強打し、その衝撃で頭から橋の下へ落ちていった。
「ユ゛ヴゼイ゛……」
落ちていく寸前、ゾンビがそうつぶやいたように聞こえた。
「……!?」
考えるまもなく、橋の下からぐちゃっと何かが水面に打ち付けられる音が聞こえてきた。しばらくしてアマガエルの鳴き声が耳に付き、気がつくと数台の車が橋を渡っていった。足下には俺の吐瀉物が広がっている。顔は唾液と汗でぐちゃぐちゃで、体も服が張り付くくらいびっしょり濡れていた。
あのゾンビは、落ちる前、確かにユウセイと言っていた気がする。夕惺。俺の名前を呼んで、落ちていった。
その前も、何かを言いながらこちらへ近づいてきていた。ほとんど聞き取れなかったから憶測になるが、殺して、と言われていたような気がする。あれが本当に父親のゾンビなのだとしたら、あいつは10年間もあのまま放浪し続けているということだろうか。
何故地元を離れ俺の進学先にまで現れたのか、何故目撃情報もなく俺の前だけに現れたのか。
多くの疑問は残るが、それ以来あいつが俺の前に現れることはなかった。




