第六話
伯爵邸を二人が去っていく姿を応接室から眺めながら、伯爵とヴォルフはほぼ同時に深いため息をついた。顔を見合わせた二人はその理由までも同じに違いないと悟ったのか、今度は全く同じタイミングで苦笑する。
「いやいや、まいったね。まさか、ケント君の掌の上で踊らされてしまうとは。交渉事が苦手と言っても情けない限りだよ。」
「伯爵、今回ばかりは仕方がありませんよ。我々がエルンスト殿下に命令された様々な指令の中で打つ手が全くなかった魔大陸との接触の糸口が突然開けたんですから。」
王国の第二王子エルンストは自らの腹心の部下たちに様々な密命を下しているが、その中に『伝説の魔大陸との航路を確立させること』というものがある。一般的には物語に出てくる場所という認識だが、王族や一部の貴族、そして高位の神官などはその存在を知っているのだ。
大陸が割れたのは侵略してきた魔族との戦争によるもの、という創世神話は一般的にはただの物語だ。歴史資料によると約五百年前までは大陸は一つであり、それは魔族との大戦が起こった時期と被っている。無論、資料自体が口伝による叙情詩ばかりで信憑性は低い。だが、それを信じる者は高い地位の者ほど多く、同時に魔族・魔獣という単語に恐怖する者も多いのだ。
「殿下は先を見据えて行動なさるお方ですからね。魔大陸に意思疎通が可能な相手がいるのならば利益を得られる可能性がありますし、友好関係の構築が不可能あれば防衛線を張る必要性が出てくる…ですか。とはいえ、先ほどの御嬢さんは見たところ穏やかそうでしたね。魔大陸の人々が皆そうであるならば良いのですが。」
「その通りですね。しかし、楽観視ばかりしてはいられません。殿下の指示を仰ぐためにも、僕が彼らに付いていきますよ。」
「そうしてください。よろしくお願いしますね」
二人の貴族は未だ見ぬ魔大陸へと思いを馳せていた。
屋敷の中でそんな会話が行われている間、ケントは次の目的である路銀の確保に向かうために足早に庭園を歩いている。その後ろをサーリャが小走りで付いてきていた。
「ケントさん、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ?」
「どうして私に本当のことを話させたのですか?結果的にはうまくいきましたが…。」
ケントは少し考えた後、ニヤリと笑いながら答える。
「理由は二つ。魔大陸って言葉でインパクトを与えることとその利益をちらつかせることだ。魔大陸のことを知ってるみたいだったが、それでも相当驚いてたろ?んで、コネを作っておくメリットを提示してやれば口説けると思ったんだ。人間ってのは基本的に利益が無いと動かない生き物だからな。
後は付いて来るなら魔大陸まで、みたいな言い方を最初からすることで王都まででもいいって譲歩をして見せたんだな。」
「すごいです!ケントさんは戦士だと思っていましたが、実は策士なのですね!」
サーリャは眼をキラキラさせながら尊敬の視線をケントに送っている。だがそれは買いかぶりすぎだ。ケントは困ったように頭を掻きながら苦笑する。
「そんな大したもんじゃない。昨日の夜から無い知恵を振り絞って考えたにしては不確定要素の多すぎる交渉だった。相手がもっと上手だったらここまでうまく事が運んだとは思えんな。」
「はぁ…。それでも私ではとてもあんなに堂々と交渉事なんてできません…。ところで、路銀はどうされるんです?当てがあると仰っていましたが…アーヴィング様にお借りするのですか?」
「いやいや、これ以上あいつに貸しは作らないさ。」
サーリャはケントの雰囲気がガラリと変わったように感じた。彼の眼にはさっきまでは無かった獲物を狙う獣のような輝きが宿っていた。サーリャはケントから放たれる殺気によって背筋に走った寒気を振り払うように、努めて明るくもう一つ気になったことを聞くことにした。
「そ、そういえば先ほど『人間は基本的に利益が無いと動かない』と仰いましたが、ケントさんはどうして私に力を貸してくれるんですか?何か別の目的があるんですか?」
「え!?あー、目的か…。」
先ほどまでの猛禽類のような殺気が嘘のように、ケントは眼を泳がせている。慌てふためくケントの様子が可笑しくてサーリャはクスクスと笑ってしまう。それと同時に、即答できないということはケントが自分に付いてきてくれるのは明確な目的があってのことではないと確信した。
「お、俺は、ほら。困ってる女の子をほっとけないというか、なんというか…。」
「ふふふ。やっぱりケントさんは優しい方ですね。」
ケントは未だに隣で笑っているサーリャから目線を逸らしつつ、心の中で深くため息をつく。不意打ちすぎる。ケントがサーリャの旅に付いていく明確な目的が無いわけではない。祖父の足跡をたどってみたいという理由だ。だが、それは目的の一部に過ぎない。彼の本当の目的は、一目惚れしてしまったサーリャの力になってやることだ。だからこそ、ケントはサーリャの質問に即答できなかったのだ。
(下心があります、なんて、本人に言えるわけないだろう…)
ケントは赤くなった顔をサーリャに気付かれないように、彼女とは逆の方を向きながら歩くのだった。
二人がケントの山小屋に帰って来た時、空はもう暗くなり始めていた。だが、ケントは小屋の中に入るのではなく、サーリャと共に山小屋のすぐ裏、森の入り口に立っていた。
「ルガール!」
ケントは森に向かって相棒の名を叫ぶ。すると、一秒も立たないうちに木の影から一頭の巨大な黒い狼のような魔獣が姿を表した。
「なんだ、ケント。それに隣の女は何者だ?」
「おう。この子はサーリャ。しばらく俺やヴォルフと一緒に旅をすることになった。サーリャ、こいつはルガール。この森の主だ。…どうした?」
サーリャはルガールを見た瞬間、その大きな目をさらに見開いていた。それは彼女が魔大陸出身であり、ルガールの一族を知っているからだ。
「初めまして、ルガールさん。私はサーリャ・スウェルシュ・アーグヴォルド。サーリャとお呼びください。誇り高い影狼の方が人間の世界にいらっしゃるとは知りませんでした。」
「「影狼?」」
深々と頭を垂れるサーリャを前に、ケントとルガールは顔を見合わせる。サーリャの言う影狼とはおそらくルガールの種族なのだろう。だが、生まれてすぐに母を失い、ケントやグスタフと共に育ったルガールにとっては初耳だ。
「サーリャとか言ったな。お主は我が何者なのかを知っておるのか?」
「え…?は、はい。影狼は魔大陸において竜族の配下の中でも有力な一族ですが…。」
「へぇ。お前さん、魔大陸に行けばお仲間がいるみたいだな。」
「ふむ。その話は詳しく聞かせてもらいたいが…、それよりも何の用だ?お前がわざわざ呼ぶということはろくなことではないのだろうが…。」
ケントは確かにろくでもないことをやろうとしている自覚はあるものの、悪びれることなく目の前の相棒に協力を要請する。
「狩りをする。手を貸してくれ。」
「ふん。大物か?」
「ああ。一人だとちょっと厳しいかもしれんな。」
「わかった。」
ルガールとの話は終わったとばかりにケントはサーリャに向きなおる。
「そういうわけで、今から狩りに行ってくる。小一時間で戻るから、夕飯は少し遅くなるけど待っててくれ。」
「わかりました。大物を楽しみに待っていますね。」
「おう。任せとけ。」
満面の笑みで自分たちを送り出すサーリャに嘘をついているという罪悪感を感じつつも、ケントは倉庫から弓矢と短剣を取り出した。それらを手際よく装備すると、ルガールと共に夜の森の中へと消えて行った。
ケントの山小屋の中でケントの帰りを待つサーリャは、魔大陸を出て初めて自分が一人きりになったことに気が付く。すると、とてつもない孤独感に苛まれる。自分が普通に振る舞っていられたのは親切にしてくれたケントの存在が大きいことは自覚していたが、ここまでとは思っていなかった。
「ケントさん、早く帰って来ないかなぁ…。」
そんな親を待つ子供の様なことを考えながら、昨日のことを思い出す。思い返してみれば自分はケントに対して失礼なことを言ったものだ。ケントのような強者に腕前を見せてくれなどとおこがましい。一瞬でも勝ったと確信した自分が恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいだ。
「あれ?そういえば…あの時、ケントさんは魔法を一切使っていらっしゃらなかった…?」
昨日の戦いを思い返してみると、ケントが魔法を使った記憶は無い。単純に彼の魔法が戦闘に不向きである可能性や、戦闘に使えるほどの威力を有していないという可能性もある。だが、サーリャは勘ではあるがそれは違うと思った。ケントの祖父を超えたという言葉は腕っ節の強さという単純なものでは無い気がするのだ。
サーリャが一人で悩んでいると、山小屋の戸がノックされた。こんな時間に誰が来たというのだろう。ケントが狩りに出かけてからまだ十分と経っていないはずだ。
「おーい。ケント。いないのか?ヴォルフだけど。」
「…アーヴィングさん?」
「あれ?君は…アーグヴォルドさん、でしたよね?」
意外な人物に出迎えられたヴォルフは戸惑いつつも、サーリャに促されて山小屋の中に入った。小屋の中にケントがいないことを確認したヴォルフは困り顔になった。
「ケント…いないんですね。どこに行ったか分かりますか?」
「はい。ルガールさんを連れて狩りに行くと仰いました。小一時間で帰ってくるとも。」
「…ルガールと?」
サーリャは自分が何かおかしいことを言ったのかと、内心ドキドキしていたが、どうやら違うようだ。ヴォルフはブツブツと何かをつぶやくと、真剣な面差しでサーリャに尋ねる。
「ケントはルガールと共に狩りに行った。間違いありませんね?」
「え、あ、はい。そうですが…何かおかしなことでも?」
「…ケントが言った狩りとは言葉通りの意味じゃないと思うんです。」
確信を持って不穏なことをヴォルフは言っている。ではケントは今、一体何を狩っているのか。
「ケントは今、おそらく戦っています。それも大人数と。」