第五話
魔大陸を目指して旅をすることになったケントとサーリャだが、すぐに出発できるわけではない。旅とは危険なものだ。しっかりとした計画と準備が必要になる。幼い頃のケントが祖父と共に続けたほとんど身一つでの旅を思い出すと、それが極寒の湖に張った薄氷を鋲の付いた靴で思いきり踏みしめながら走るに等しい行為であったことがわかる。
旅には資金と物資が必要だ。この旅は大陸間航行が必要になる。そうなれば船が必要になるが、王国で長距離航行が可能な船が集まるのは王都アードラスバウムしかない。旅の最初の目的地である王都は西大陸の最も中央大陸に近い場所、すなわち東端に存在するので王国の最西端にあるブラオスローザ領からゴルドアードラー王国を横断することになるのだ。
そんな長旅を休みなく徒歩で行うのは現実的ではないので馬車が必要となるのだが、そんなものを異邦人のサーリャは当然のこととしてケントも所有しているはずがない。また、馬車があったとしても野盗の類に襲われた場合のことも考慮しなければならない。ケントもサーリャも腕に覚えはあるが、襲撃者を排除している間に物資だけを盗まれる可能性だってある。自身の安全を確保しつつ物資を守りながら旅をするには二人ではいささか心もとなかった。
よって、まずケントが取り掛かったのは共に旅をしてくれる相手のスカウトだ。そのために、彼はサーリャを連れてある屋敷を訪ねた。
「あ、あの、ケントさん?ここって…。」
「うん?ここは領主様の御屋敷だぞ。…あ、守衛のオッサン!入れてくれよ!」
「!?」
サーリャは隣の男が口に出したことが信じられなかった。魔大陸にも王家を頂点とした身分制度は存在するものの、そこまで厳密なものではない。だが、サーリャが聞いた話によれば人間の世界において貴族と平民の間には天と地ほどの差があるはずだ。ましてここはここら一帯を支配する領主、ブラオスローザ伯爵の御屋敷だ。ケントのような平民がおいそれと入ることができるはずがない。
「お?久しぶりだなぁ、ケントちゃん。今開けるぞー。」
しかし、サーリャの予想とは裏腹に屋敷の門前に立っている二人の守衛の内、壮年の方がさも当たり前のようにあっさりと門を開ける。ケントのことをどこぞの高貴な身分の人間と勘違いをしているわけでもない。封建制度に根差した貴族と平民を分ける身分制度を前提とすればこれは異常な光景と言える。
「おいおい、ケント!隣のきれいなお嬢ちゃんは誰だ?お前の女か?」
「違うぞ。…今はな。」
「ほほう?ケントちゃんにも春が来たのかね?」
サーリャが呆然としている間、ケントは守衛の二人と楽しく談笑している。門から離れた位置にいるサーリャには内容がよく聞き取れないが、とりあえずここの領主は変わり者だということだけは解った。
「おーい、サーリャ。早く来いよ。」
「は、はい!」
サーリャは小走りでケントを追いかけて屋敷の門をくぐる。すれ違いざまに守衛の二人が友好的に手を振ってくれたことにも驚く。ケントが連れてきたのだから大丈夫だろう。彼らの顔にはそう書いてあったし、それをケントも当然のように振る舞っている。サーリャは前を歩く大柄な少年についてもっと知りたいと思った。
屋敷の中は伯爵という地位にふさわしい一流の調度品ばかりだったが、貴金属や宝石をふんだんに用いたきらびやかなものは少ない。だが、よく見れば一流の職人が作った一流の実用品がそろっている。サーリャはそれだけで伯爵の虚飾を嫌う人柄がなんとなくわかるような気がした。
「こちらへ。」
急な来客にもかかわらず慇懃な執事に連れられて二人は応接室に案内される。天井にはシャンデリア、壁にはこれでもかと様々なジャンルの古書が詰め込まれた本棚、そして中央には低いテーブルとそれを囲むように置かれた二人掛けのソファーが四つあった。そのソファーに座る二人の男性が向かい合って談笑していた。一人は豊かな口ひげを蓄えた老人だ。穏やかな雰囲気と理知的な印象を相手に与える好々爺然とした人物だ。そして向かい合って話しているのは女性が抱く貴公子の理想像が具現化したかのような近づくだけで涼やかな風が吹いてきそうな青年だった。
「伯爵、元気そうでなによりだ。」
「やあ。よく来たね、ケント君。それとそちらの御嬢さんとは面識がないですね。初めまして。私がブラオスローザ伯爵家現当主、オスカー・フォン・ブラオスローザです。」
「じゃあ、僕も自己紹介をしなければならないですね。アーヴィング公爵家次期当主、ヴォルフガング・フォン・アーヴィングです。よろしくお願いします。」
貴族を相手にしているとは思えないケントの態度にも驚いたが、伯爵と公爵家の跡取りとは思えないほどおだやかな物腰で自分のような異分子に対応したことにも驚きを隠せない。だが、サーリャはそんな動揺は王族として決して顔にも態度にも出すことはない。
「初めまして、お二方。私はサーリャ・スウェルシュ・アーグヴォルドと申します。お見知りおきを。」
サーリャが臆することなく挨拶をしたことが好印象だったのか、伯爵は満面の笑みで二人に座るように促す。伯爵は東側、ヴォルフは西側の椅子に座っていたので二人は南側の椅子に並んで腰かけた。
「さて、お堅い挨拶も終わったところで本題に入りたい。実はこの子と一緒に旅をすることになったんだけど、二人じゃ心もとないってんでヴォルフを連れて行きたいんだ。」
「僕はかまわないけど、目的地は?」
「魔大陸。」
「…ほう?」
伯爵とヴォルフの眼から鋭い光が発せられたのがサーリャにはわかった。ケントが空想だと思っていた例からもわかるように、魔大陸の存在を知っている人間はごく少数だ。にも関わらず、二人の反応は存在を知った上で関心がある者の反応だろう。
「ケント、君が何故魔大陸のことを知っているのかはこの際どうでもいい。一つだけ聞かせて欲しい。何をしに行くつもりだい?」
「それについてはサーリャが説明してくれるさ。嘘偽り無くね。」
三人の視線が彼女に集まっている。三人とも笑顔ではある。しかしながら、三人の眼は決して笑っていない。それを考慮した上でケントの先ほどの発言から察するに嘘やごまかしは許されないのだと察したサーリャは事情を余すことなく伝えることにした。
荒唐無稽ともいえるサーリャの話を二人は黙って最後まで聞いていた。そして年長者である伯爵が重い口を開いた。
「ケント君。そういう話はヴォルフ君の家で彼自身と交渉するべきだ。なのにわざわざ私の前で話したとなると…君は何を知っている?君の御爺さんにして我が親友、グスタフから何を聞いている?」
「わざわざ旦那の前で話したのは、どうせヴォルフだけに話しても後で旦那の耳に入るのは読めているからだ。ここで話しても大して変わらないと思ったからだよ。
話は変わるけど、俺はガキの頃から爺さんは好きだったけどその武勇伝はうさん臭いと常々思ってきた。なのに爺さんの話に出てきた魔大陸は本当に実在した。だったらあの口下手な爺さんが俺に話してくれたことの大半は嘘じゃねぇって考えてみたのさ。
それで思い出したのさ。旦那はあの新しいもの好きで有名な第二王子さんの派閥に属する貴族だってことをな。」
ゴルドアードラー王国の現国王、ジギスムント・グライセル・フォン・ゴルドアードラーには二人の王子と一人の王女がいる。第一王子オットー、第二王子エルンスト、そして第一王女ヒルデガルドだ。王は高齢な上に今は病に臥しており、先は長くないらしい。そこで二人の王子による後継者争いが起こっていることを知らない国民はいない。
オットーを支持する勢力は、既得権益を手放したくない大貴族と国教である聖白教会の神官で構成されている。オットーは政治に関心が無く、自分が神の許へと召される事にしか興味は無い信仰に生きる王子だ。まさしく大貴族や神官の傀儡にはふさわしいのだろう。発言力の強い大貴族と国教の守護者たる神官がタッグを組んでいるのだ。
一方のエルンストを支持するのは王国中の識者層と王国軍、そして一部の貴族だ。エルンストは文武両道、質実剛健にして実直な国民を愛する国民にとってまさに模範的な王子だ。エルンストは識者層の意見で有益なものは即座に採用する行動力、軍から絶対の忠誠を一身に受ける程の強さと指揮能力を有するが、何よりも彼に人が付いてくるのは彼が圧倒的なカリスマ性を持っているからだ。そして彼が王になれば王国はさらに発展すると確信する伯爵のような貴族が彼らの後見となっている。
性格や思想、さらには支持団体においても正反対と言っていい二人は当然のことながら非常に仲が悪い。いつ内紛が起きてもおかしくない状況だ。それに備えて両陣営は着々と準備を進めている最中なのだ。
「確かにこの時期に第二王子殿下の派閥、その中で最強の魔術師を連れて行くのは戦力の大幅な減少になるだろうな。けどよ、長い目で見れば魔大陸とコネを持つ腹心の存在ってのは殿下にとっても大きいと思うぞ。もちろんデメリットも大きいがな。」
伯爵とヴォルフは考える。魔大陸と、もとい魔族と友好関係を築くことができれば、貿易によって莫大な利益を得られるだろう。新しい魔法や魔道具の技術の導入、さらには戦争になった時に魔族が共に戦ってくれるかもしれない。しかし、教会の勢力には神を冒涜した行為だと糾弾され、最悪の場合は破門されるかもしれない。神という高次存在を王権の権威の象徴として据えている以上、破門されることは王族にとって死の宣告に近い。そこまでのリスクに見合った利益を得られるのか。二人の頭の中はそれでいっぱいだった。
「もちろん、無理に付いて来いとは言わないさ。だけどよ、王都までは付いてきてほしい。そこでならヴォルフが殿下と直接相談もできるはずだ。そこで国外まで付いて来るかどうかを決めてくれればいい。」
ケントの出した妥協案は二人にとって渡りに舟だった。エルンスト抜きで決定できることではない上に、旅の最中に魔大陸に関してサーリャから情報収集もできる。
「ふぅ。わかったよ、ケント君。君の案を採用するしかないようだね。」
「そうですね、伯爵。ケント。僕も君たちと共に王都に向かうよ。出発は何時がいい?」
「そっちに馬車を用意してもらわにゃならんから、できるだけ早くとしか頼めないな。」
「そうかい?じゃあ…うん…明日にしよう。」
「流石は公爵家だな。よろしく頼む。じゃあサーリャ、帰ろうか。」
「え!?は、はい!それでは失礼致します。」
サーリャは用は済んだとばかりにさっさと応接室から出て行くケントの背中を小走りで追いかけて行った。