第二話
薪を届けるという本来の目的とは異なるアクシデントに見舞われたものの、授業が終わるとケントは教会からすぐに出た。子供たちは約束が違うと非難轟々だったが、後日埋め合わせをすると言って逃げてきたのだ。薪を届けるついでに村でパンやチーズなどの山では手に入らない食料を買った後、意気揚々と自宅への帰路についた。すると、突然後ろから声を掛けられた。
「やあ、ケント!今から帰りかい?」
ケントが振り向くと、世の女性たちが抱く理想を具現化したかのような美男子が立っていた。金髪碧眼で線が細く、女性と見まがうほど柔和な笑みを浮かべている貴公子はケントがヴォルフと気安く呼ぶ親友であり、名門・アーヴィング公爵家の跡取りであり、王国でも五指に入る魔術師でもあるヴォルフガング・フォン・アーヴィングがすぐそばの民家から出てきたところだった。
「ヴォルフか。貴族のご子息様が民家に何か用があったのか?」
「ああ。この前隣国で戦争があっただろう?我が国が調停して停戦しているけど、その敗残兵が群れて山賊や盗賊になって暴れているんだ。それで自警団のハンスさんにいざというときは協力してほしいって頼まれたんだ。」
そこでケントはヴォルフが出てきたのは自警団本部を兼ねたの団長の自宅であったことを思い出した。今でこそ打ち解けているものの、ここに来た当初は村はずれに住んでいるよそ者というだけで何度もいちゃもんをつけてきたものだ。
「お前も物好きだな。そんなおせっかいな貴族なんてお前とここの領主様くらいなもんだろ?普通は平民のことなんざお構いなしに偉そうにふんぞり返ってやがるんだからよ。」
ヴォルフは困ったような笑みを浮かべる。ケントの言い分は正しい。貴族の前でほとんどの平民は恭しい態度をとるが、それは畏敬の念を集めているというよりむしろ支配者への恐怖からの態度だ。自分の領地に住む領民は領主の持ち物なのだから領主は平民に何をしてもいい、という考え方の貴族が少なからず存在するのだから当然だろう。
「それよりも、今日は君に頼みたいことがあるんだ。」
強引に話題を変えるためにヴォルフは本題に入ることにした。貴族の批判は最悪、死罪となる可能性もあるからだ。この地を治めるブラオスローザ伯爵は聡明なことで有名な方であり、貴族制度に疑問を投げかければ共に議論を交わしてくれるだろう。だが、公爵家の跡取りであるヴォルフの立場上、貴族批判は耳に痛いことであるに違いない。
「…ああ。俺にできることなら言ってくれ。」
ヴォルフの真意を察したケントは、頭をガリガリと掻きながらばつが悪そうに答えた。ヴォルフは苦笑しながら今まで幾度となく頼んだことを今日もケントに依頼する。
「今日も君の家の裏山に入りたいんだ。ついてきてくれるかい?」
「わかった。アイツはもうお前のことは信頼してると思うけどな。やっぱりまだ慣れないか?」
「ああ。そうだね。あの時、君が駆けつけてくれなかったら食い殺されていたかもしれないから。」
二人は小一時間ほど歩き、目的地である山の前にたどり着いた。この雑木林には昔から魔物がすんでいるという言い伝えがあった。それは単なる迷信の類ではなく、十数年前までこの森に深く侵入する者は誰一人として帰って来なかったからだ。村の者たちでお金を出し合って傭兵を雇ったこともあったが、行方不明者を増やすだけの結果となったらしい。
だが、事態を収束させたのがケントの祖父、グスタフ・シュヴァルツだった。彼は幼いケントと共にこの村にふらりとやってきたかと思えば森に潜む魔物をあっさりと討伐した。それは黒い毛皮の巨大な狼のような見た目であったという。村の人はその知らせを大いに喜び、グスタフとケントが村はずれの山小屋に住むことを快諾したという。
しかし、村の住民が自由に森の中へ行き来するようになったかといえばそんなことはない。森を支配していた魔物がいなくなったとしても、熊などの他の凶暴な獣たちがいなくなったわけではないからだ。それにより、今でも森は危険な場所であることに変わりはない。
「爺さんが死んだあとは俺が案内人の役を務めてたってのに、お前は俺がいない間にズカズカ森の奥まで入ってたんだぜ?殺されてもおかしくないだろ?」
「いやあ、面目ない。自分の腕を過信していたよ、あの時は。」
森の中を歩きながら、二人は出会った時のことを思い出す。ヴォルフは王国でも有数の魔術師であり、どれだけ数がいたとしてもただの獣ごときに遅れをとるわけがない。それは純然たる事実であり、過信ではない。その時、ヴォルフを襲撃したのは獣などではなかった。
「また草を集めているのか。熱心なことだ。」
先ほどまでは誰もいなかったはずの木陰から、なんの前触れもなく影から大きな獣が現れた。その獣は人語を話し、黒い陽炎を纏った金色の瞳を爛々と輝かせる大型の狼の姿だった。その獣の名はルガール。ヴォルフを襲った加害者であり、グスタフによって退治された魔族の子である。
「よく来たな二人とも。」
「おう。邪魔するぜ。」
「…急に現れないでおくれよ。心臓が飛び出るかと思った。」
ケントは自然体で、ヴォルフはおっかなびっくり挨拶を交わす。そう、この森にはまだルガールという強力な魔族が暮らしているのだ。ルガールは彼の母が討たれた後、その住処を調査したグスタフによって発見された。まだ生まれて間もないルガールに罪は無いと考えたグスタフは彼を殺さなかったのだ。
ルガールはグスタフのことを恨んではいない。彼の母親は彼を守るためとはいえ人間を殺したのは事実であるし、それが人間が自分たちを討伐するのに十分な動機となるとこを理解している。あれだけ人を殺してきたのだから、その子供である自分を生かしておく理由は無いはずだ。しかも生かしたことが知れれば後々まずいことになることを知ったうえで自分を救ってくれた恩人を恨んでいるわけがなかった。
「仕方がないだろう。私はこういう存在なのだ。それで、今日は何が欲しいのだ。」
「ええと、こういうキノコを探してるんだけど…。」
ヴォルフが示した植物図鑑のページを読んだルガールは、少し考えをめぐらせた後に首を縦に振った。
「それならば北の小川のほとりに自生していたはずだ。ついて来い。」
そう言うとルガールはさっさと歩き始めた。彼にとっては普通の速さなのだろうが、四足歩行と二足歩行では基本的な歩行速度が異なる。二人はルガールを見失わないように急いで森の奥へと付いて行くのだった。
森から出た時、もう日はとっくに落ちていた。キノコが生えている場所が思った以上に遠かったこと、そしてその川辺には目的のキノコだけではなくヴォルフも初めて見た植物が多数自生していていてそれを採集したことも遅くなった原因だろう。
「ケント、今日はありがとう。とても有意義な時間だったよ。」
「おう。またいつでも来いよ。」
簡単に別れを告げると、ヴォルフは今にも踊りだしそうな足取りで家へと戻っていった。ちなみに彼の家はアルト村のすぐそばにある豪邸であり、それは彼が研究のためにこの地へとやって来た時に造らせた別荘だ。流石は公爵家としか言いようがない豪快な金の使い方である。
「さてと。夕飯でも食うかな。」
ヴォルフの姿が見えなくなると、ケントはそう言って山小屋に入る。そしていつものように手際よく料理を作り始める。今日は村でパンやチーズなどの高級品を購入したばかりだ。夕飯はきっと豪勢なものになるだろう。思わず顔がにやけてしまう。
ケントが上機嫌で食材の下ごしらえをしているまさにその時、山小屋のすぐそばで轟音が鳴り響いた。その音は、衝撃波で山小屋がギシギシと軋むほどの規模だった。ケントはナイフを手に持ったまま、転がるように外に出た。
「…なんだ?女…か?」
小屋の前には大きなクレーターができており、その中央に泥まみれの人型の何かがうつ伏せで倒れていた。体型から言っておそらく女性であることは確かだが、得体のしれない存在を前にケントは警戒心を緩めることはできない。
十分に警戒して女に近づき、首筋に指を当てる。脈はあるし体温も下がってはいない。何をすればこのような状況になるのかはわからないが、とりあえず気絶しているだけの様だ。
ケントに与えられた選択肢は二つ。このまま放置すること、もしくは一時的にこの女を保護することだ。どう転んだとしても、この女は明らかに厄介ごとの種となるはずだ。前者は巻き込まれる可能性を極力抑えることができる代わりに女性を野ざらしにして放置するという罪悪感を抱えることになる。後者ならば罪悪感は抱えずに済む代わりに確実に厄介ごとに巻き込まれることになるだろう。
「どうしたもんかね、こりゃ。」
ケントはうつ伏せの女を仰向けにする。思った以上に若い。年齢は自分よりも少し年下の十代後半くらいか。陶器のように透き通った肌と、美しい絹のようないつまでも触れていたい肌触りの黒髪。身に着けている黒と白を基調としたタイトなドレスは、泥で汚れてしまってはいるが明らかに高級品だ。
そしてその少女は一言で言えば特上の美少女であった。それもケントの長いとは言えない人生の中で、とびぬけて美しい顔立ちであった。王都の有名な舞台女優よりもはるかに美しい。はっきり言ってケントの好みを直撃していた。
「よし!ここで助けないなんて男が廃るってもんだな!」
誰が聞いているわけでもないのにどことなく言い訳臭い言葉を声に出しながら、ケントは少女を優しく抱きかかえて小屋の中に運び込んだ。