とある二人の恋愛模様
なんとなくの思いつきで書いてみたので設定にあらが多いかも^^;
作中の意見は作者の私見ですので、異性がどう考えているかはわからないのでおかしかったらごめんなさい。
その辺をゆるく流して楽しんでいただけたら嬉しいです♪
「ラブホは嫌、外泊はできないって、どんだけ生殺せば気が済むんだぁ」
半ば以上くだを巻き始めている同僚の愚痴に尊仁がグラスの影で小さく笑う。お互い実家住まいの彼女に延々そう言ってやんわりと、けれど断固とした態度で拒まれ続けているのだという良太の言い様は、本人には切実なのだろうが聞いている分にはおかしい。
医学部時代の同級生同士の飲み会だ。男しかいない席で酒が入れば話がそんな方向に滑るのはもはや必然なのかも知れない。
「まぁ、わからないでもない言い分だけどな」
良太の愚痴に苦笑混じりで頷いたのは、尊仁も同じく双方実家住まいで付き合っている相手がいるからだ。もっとも、尊仁の場合年下の恋人は非常に聞き分けがよかったので同様の問題を抱えているわけでもない。
けれどここでそんな事を言ったら絡まれるのがわかっているので、もう一人一緒にいる友人に話題を振る。
「その点、圭吾は一人暮らしだから問題なくてうらやましい」
「部屋に呼ぶなら片付けて掃除して、シーツは洗いたてのに変えといてくれって毎度うるさいけどな。かといって毎回ホテルなんて余裕もないし」
ふられた圭吾は肩をすくめた。寝に帰るだけの部屋の大掃除なんてそうそうできるか、と続けたのは恋人の要求する掃除のレベルが彼らの基準より高いせいだろう。
医師免許を取ってからまだあまり間がない若い医者には時間もないのが当たり前だ。はっきり言って、研修医としての給料だけでは生活ができない。それをどうやって補うかと言えば、あちこちの病院で夜間救急の宿直を引き受けて、そのバイト代をあてる。確かに経験を積むという意味ではいいのだが、通常の勤務に加えてそのバイトを繰り返せば必然的に時間と体力が削られた。勢い、予定の入っていない時間は部屋で泥のように眠る事が増える。洗濯は手を抜くと不衛生な服を着てくるなと咎められるので手を抜けない。となれば調理と掃除にしわ寄せが行くのは必然だろう。
そんな環境での生活の中、泊まりがけのデートなど時間的体力的金銭的、全てにおいてハードルが高すぎる。その上、医者=金持ちという変なイメージを持っている人間も少なからずいる。人の恋人を悪く言いたくはないが、そんなイメージを持っている人間程、彼らの忙しさや節約に眉をとがらせる傾向があるようだった。
圭吾は休みの日の朝に起きてざっと掃除と洗濯を済ませた昼頃恋人と落ち合って昼食を食べ、要望があれば買い物かドライブ、なければDVDを借りて圭吾の部屋で時間を過ごす、というのが基本らしい。彼の場合、相手がインドア派なのと、一度病院のシフトとバイトの予定、それに給料明細を見せて納得してもらったという。
尊仁の恋人・春海は姉が医学部卒で大学院に進んでいるので、その辺の実情もすぐに飲み込んでくれた。『無給で無休、かぁ。いい感じに掛詞になってるね』と笑う辺りがいかにも彼女らしかった。
「つか、良太は相手同い年だろ? 尊仁より楽じゃないか」
「あ~、そういや尊仁は相手七つ下だっけ? …………って、高校生相手か?!」
圭吾の言葉に、自分たちの年齢から逆算した年齢の意味に良太が声を上げる。遠慮のない声量に尊仁は『この春から大学行ってる』と微妙な訂正の言葉を返す。
「彼女、三月生まれだし学年は六個違い」
訂正の理由を口に乗せた尊仁が苦笑いなのは、改めて相手の身分を指摘されるといくらか後ろめたさがあるからだった。
「女子大生かぁ。お前、そんな貴重な生き物どこで……」
恋人がいるのに良太がかなり切実な調子でうらやましがったのには、少しばかり呆れてしまう。けれど、こんな反応も自然なことだろうと聞き流す。他の友人達にも散々言われ続けた言葉だ。
「本屋で喘息の発作起こして倒れかけてたの介抱したのがきっかけだよ。サルタノールなんて使ってたから放っておけなくて」
その時春海が使っていた薬の名前を出すと、友人達が眉を寄せる。この薬は喘息の発作を抑えるが、心肺機能にかかる負担も大きい。副作用で目眩や動悸が出るし、使った後しばらくは安静にするように指示をした上で、かなり酷い発作を起こす患者にしか処方されないものだ。
もっとも、春海の咳は恐らく喘息ではない。話を聞いていると咳をし始めると見る間に悪化するが、ぱったりと治まってしまう時期もあるという。それに、一度気になって呼吸音を確かめさせてもらったが、喘息に特徴的な音がないのだ。しかし、他の薬では咳が止まらないので、特に酷い時にだけという注釈付きで処方を受けたと言う。
「数ヶ月前まで高校生でしかも喘息持ちって……。そりゃ成人するまでおあずけだなぁ」
至極真っ当な意見に、つい視線をそらす。と、それを見とがめた良太が目をすがめた。
「……お前、まさか……」
問われた尊仁が言葉につまって酒をあおる。けれど、友人にはそれで全てがわかってしまったらしい。
「どうやってやりやがった?! うらやましすぎんぞ、お前っ」
テンションが振り切れた叫びに、内心でため息を落とす。どうやら、白状しない限り今日は放してもらえそうにない。
先ほど尊仁が口にした理由で知り合った二人は、いくつかの偶然が重なってつきあい始める事になった。もっとも、告白への返事をもらうまでにたっぷり三日も待たされた尊仁は、その当時相手が高校生ということもあって体の関係は早くても春海が卒業してからだろうと思っていた。
尊仁自身はそこそこ外見がよく、姉と弟がいる三姉弟の真ん中という育ちからくる気配り上手な面が評価されるのか、来るもの拒まずそつなく楽しませて浅く軽く恋愛をこなすのがよかったのか、相手に困ることもなかった。その付き合い方からして、とりあえず寝てみてから考えるか、というような事も多かった。
けれど今度の相手は、一見愛想がいいようでいてかなり警戒心が強く友人として付き合う間に恋愛に全く興味を示さない性質だとわかっている七才も年下の高校生だ。それも、数ヶ月前までは義務教育で手を出せば児童虐待やら青少年保護条例やらに引っかかってしまったような相手だ。
それとわかった上で付き合ってくれと切り出したのだし、春海の目の届かない所で他の相手と、という気も起きそうにない。気長に待てばいいさ、とのんびり構えていたのだ。
しかし、そんな風におおらかに構えていた尊仁を、想定外の行動に走らせたのは春海だった。半分だけ紅葉してる木が見てみたいという春海の不思議な希望を入れて、二人でドライブに行った時のことだ。
紅葉シーズンであれば混んでいるのだろうが、その日は他の車が一台も止まっていなかった展望台で、うっすらと色づき始めている木があるかな、程度の景色を眺めている最中だった。
展望台の胸まである柵にもたれるようにして景色に視線を投げているうち、かわしていた他愛のない会話が途切れがちになっていき、とうとう春海が返事を寄越さなくなった。
景色を眺めていた尊仁は隣にいる春海に視線を動かして、そこで魂を取られた。誇張でも何でもなく、本当に思考が止まって息をすることすら忘れたのだ。
今まで一度も見た事がない、何か思い詰めたような表情で遠くに視線を投げている春海はまるで別人だった。極々平均的な外見の――有り体に言えば身綺麗にしていても化粧やおしゃれに興味を示さない春海を、異性としては完全に子供扱いしていたというのに。
風になぶられた髪を指で梳くようにしながらうなじ辺りで押さえているが、それが本人の意識に上っていないのだろう事が表情から知れる。どこを見ているようでもないぼんやりとした視線を景色に向けながら、その心は何かに占められている。恐らく、隣に尊仁がいることすら、既に春海の意識にはないとわかるのだ。
わずかに眉をひそめ唇をひき結んで髪を押さえたまま何かを見つめる横顔は、決して子供の表情ではない。過去の何かを思い出して、あるいはここにいない誰かを思って愁いに沈む女のそれにしか見えなかった。
一体どれくらいの間、黙って春海を見つめていたのかはわからない。やがて、春海の唇が動いてほんのかすかな声がこぼれた。
「……が、私の体に刻んだ想いをこの景色に帰してもいい?」
最初は人の名前だったようだが、風にさらわれてなんと言ったのかはわからなかった。けれど、それがどうでもよくなったのは続く言葉が聞き取れたせいだ。時折、どこからそんな言葉を覚えてくるのだろうかという程詩的な言葉を使う一面がある春海が、どんな意味を含ませて選んだ言葉なのかわかってしまったのが悔しい。
体に刻まれた想いなどと表現されては前に付き合った男に抱かれたと言っているようなものだ。何かの折に聞いた『男の人と付き合うの初めてだからよくわからないけど』という言葉が嘘だったのか、付き合ったことはなくとも経験はあるということなのか。
ついそんな事を考えてから尊仁は舌打ちをする。これでは春海は誰か別の男に心を残していて、その相手を忘れるために適当な理由でここまで連れてこさせたという意味にしかならない。
そんな事ができる性格じゃない、と考える理性はその時風に攫われでもしていたのだろう。
気付いた時には春海の腕をつかんで強引に振り向かせて、唇を奪っていた。驚きにか硬直している相手の背を柵に押しつけ、逃げ場をふさぐ。首の後ろに手を回して強引に上向かせ、開いた隙間から入り込むのに成功すると一方的にせめたてた。
春海を解放したのは彼女の膝が砕けたからだった。体を保てなくなった春海をゆっくりと座らせながらも、目元や頬に唇を落とす。
「……尊仁、さん?」
上がった息の合間、問いかけるように名前を呼ばれてもう一度唇に触れると、体が強張った。少しやり過ぎたか、と思いながらも放してやる気になれない。唇を離さないまま、逃げる余裕も与えず抱き寄せて『誰?』と問う。
「だれって……、何が?」
意味がわからないというように問い返され、ようやく戻ってきた理性が何かがおかしいと警戒信号を明滅させた。いくらなんでもこの状況でここまで見事にすっとぼけられるものだろうか。
それに、冷静さが戻り始めるとあの言葉を復唱するのはいくらか――いや、だいぶ、相当恥ずかしい。
「誰の思い出をここに置いてくつもりだったのかと思って」
少し迷って、迷いの分春海の表情を見たくなって顔を離す。すると、春海は朱を上らせた頬で、それでも記憶をたぐる風情だった。のぼせたような表情が可愛くて、それ以上に生々しく女を感じさせているのに気付いてしまった尊仁の前で、突然春海が目を見開く。
「……口に出てた?」
「出てた」
おそるおそるの確認にきっぱり頷くと、春海が叫んだ。
「嘘っ、やだっ、忘れて忘れてーっ」
泣きそうな声での叫びに今度は尊仁がきょとんとする。それまで以上に頬を染めて忘れてと嫌だの嘘だのと繰り返す様は、何か恥ずかしい過去をばらされた時ののりだ。
「お願いっ。ほんと、これはまずいから忘れてっ。……あ~、もう、なんで?!」
姉がリカバリーの難しい失敗をした時そっくりな慌てぶりを見せられ、事態について行けないなりに尊仁の理性が自分の勘違いを確定する。
「……ええと、春海ちゃん? とりあえず車戻ろうか。寒いし」
ならば後は状況の確認だが、春海はコンクリートの地面に座り込んだままだ。これではまだ秋口とはいえ標高の高い場所のこと、体が冷えるのは早いだろう。その上風は強いし冷たい。けれど、日差しは暖かいので車内であれば充分暖かいのだ。風邪をひかせてもと思って立ち上がるが、春海は尊仁の顔と差し出された手を見比べるばかりで動かない。
「あんな事の後で車に二人っきりは怖い?」
おびえさせた自覚はあるので尋ねると、またもや女の顔をちらりとのぞかせた春海がうつむいて、でもはっきりと頭を振った。
「……じゃなくて、その……」
「一発殴らないと気が済まない?」
冗談めかして怒ったのかと問うと、これにも頭を振る。
「なら車で話さない? 結構体冷えてきたし、嫌なら……向こうの自販機の所まで行こう? 暖かいの飲みながらなら違うしね」
うつむく春海にあわせて、もう一度膝をついた尊仁がうながすと細い手が尊仁の上着の袖を握った。
「……その、……」
「なぁに?」
口を開きにくそうにしている春海を柔らかくうながすと、ようやく顔を上げる。
「……立てない」
「え? どこか痛くした? ……って、あぁ」
足の弱い春海が、座らせた時にひねったかと思ったが、言葉の途中で頭を振られて気付く。そもそも、彼女がコンクリートの地面に座り込んだ原因は尊仁だ。砕けた足がまだ立ち直れていないのだろう。
「春海ちゃんが嫌じゃなかったら車まで連れて行けるけど、いい?」
尋ねると頷いたまま頷く。余程顔を見られるのが恥ずかしいらしい。そんな反応が可愛くもありおかしくもあり、上着のポケットから引き出した車の鍵を春海の手に落としながら笑みをかみ殺す。
「持っててくれる? 両手ふさがると鍵開けられないから」
言って鍵を握らせると、反対される前に春海を抱き上げた。
「なっ?!」
「できたら首に捕まっててね。その方が安定して俺も楽」
驚きの声を無視して頼むと、真っ赤な顔をした春海がわずかに迷ってから尊仁の首に両腕を絡めた。車まではたいした距離でもなかったが、その間首筋にかかる吐息を極力意識しないでいるのはかなりの労力だった。
話をするのには運転席と助手席に座るより後部座席の方がいいだろうと、春海を後部座席に座らせる。その後、自動販売機で暖かいコーヒーとココアを買ってから尊仁も並んで座った。
「それで、ええと……。さっきの、忘れてって、どういう事?」
缶を開けてからココアを渡すと、春海は礼を言って受け取ってから困り切った様子でため息をこぼした。
「その……。私、バイトしてるって話した事あるでしょ?」
「そう言えば言ってたね。パソコンさえあればできる簡単な内職みたいなことだって言ってたっけ?」
友人として付き合っている間にそんな話を聞いた覚えがあったので、そう問い返す。時折、バイトの締め切りが近いからと誘いを断られることもあった。これまで詳しい話をしたがらなかった彼女のアルバイトがどう関わってくるのか、尊仁にはわからなかったが、自分もコーヒーの缶を開けて口をつけた。
「でもそれとさっきの話がどう繋がるの?」
「……ええとね、要するに……。私のバイトって、フリーのライターっていうか……。ちょっとした文章書き?」
「それってつまり、小説家ってこと?」
「いやいやいや! そんなたいそうな事じゃないから!」
尊仁の言葉に春海が間髪入れずに否定する。その後で、もう一度『ええと』と呟いた。
「昔、ちょっと小さな賞取ったことがあるの。それ以来、時々、仕事回してもらえてて。今、ちょうど秋の終わりから冬にかけてくらいの風景をバックにした短編を頼まれてて。なんか旅行誌に載る二~三ページの短い読み物で。なんかつまっちゃってるんだけど、……ええと、旅行に行きたい気分を盛り上げるような?」
若干前後するのは、春海が混乱しているせいだろう。
「要するに、仕事で短編小説書かなくちゃいけないけどイメージ沸かなくて困ってたら俺からデートの誘いがあったんで、舞台になりそうな所を指定してみたって事?」
「そう、それ! そういう事なの。風景見てたらなんか急にイメージ沸いてきて、尊仁さんいるんだから意識飛ばしちゃまずいって思ってたんだけど、つい夢中になっちゃって……」
「てことは、さっきの、考えてた小説の台詞?」
「うん。……あのね? まだ発表前の作品だから人に話しちゃいけないの。聞かなかったことにならない、かな?」
上目遣いにうかがいながらのお願いに、思わず苦笑いになる。聞いてみれば恐ろしく単純な話だ。
春海の姉であり尊仁にとっては同じ教授についている先輩でもある冬海からも、彼女のアルバイトが少々特殊だとは聞いていた。春海の言葉の端々に現れるその年頃らしからぬ表現も、そんな理由があるとすれば納得できた。
「でも、何で話してくれなかったの? それ、すごいことだと思うけど」
「すごいって、別にたいしたことじゃないと思うけど? そういうのは、初版売り切れ飛ばすような人のことだろうし、私なんていくらでも替えのきく程度だもの」
ココアをすする春海の言い様は至ってのんびりとしていて、自分のアルバイトを誇る様子はない。
「大きな賞でも取れば誇っていいのかもしれないけどね。たまたま書くのにむいてたから書いてるだけ。……というか、せっかく連れて来てもらっておいて、他の事に没頭して意識飛ばすとか失礼すぎるし」
大きなため息をついて春海が肩を落とす。そんな様子も可愛くて、尊仁は笑って隣に座る恋人の頭をなでた。
「最初から教えてくれてれば考え事の邪魔しないですんだけどね。……考えてたこと、忘れちゃわなかった?」
「……っ、大丈夫、だと思う」
「何なら、忘れないうちにメモしといたら? そのくらい待ってるの何でもないし」
缶コーヒーをすすりながらうながすと、春海はつかの間迷ったが結局尊仁の提案に頷いた。
「ええと、じゃあ急いでやっちゃうから少しだけごめんね」
そう言うと、春海は自分の鞄から手帳を取り出した。A五サイズの手帳は革製で、ちらっと見ただけでもおよそ女子高生の持ち物ではない値段のものだと見て取れる。
せわしくページをめくった後、目当ての項を見つけたのかそこに何かを書き込み始めた。時折考えるように視線が泳ぐが、ほとんど止まることなくペンを走らせている。
万年筆で書き込まれるのが相応しいような手帳だが、春海が使っているのは細いシャープペンシルらしい。挟まれている用紙もアニメ映画のキャラクターを水彩画調で描いたイラストが入っていた。
五分程、メモを取るのに没頭してから春海が手帳を閉じた。
「終わった?」
「うん。ごめんね」
「謝らなくていいよ。それ、仕事用の手帳?」
興味を引かれて尋ねると、春海が小さく頷いた。
「仕事の予定とか、連絡先とか、思いついた事のメモとか、学校で使うのとは分けてるの」
「まぁ、確かに学校でそれ開いてたら目立ちそうだしね」
春海の言葉についそう言うと、同じ事を思っていたのか苦笑めいた笑みを浮かべて春海が肩をすくめた。
「そうなんだけど、ノートだといまいち使い勝手が悪くて。こういう手帳なら中身の差し替えも簡単だし、持ち歩く前提だから丈夫だし机がなくてもある程度書きやすいから」
「なるほど。実用性を追求したらそれになっちゃった、と」
「うん。受賞した時の賞金で買ったんだ。仕事道具にはお金惜しむなって父さんがいつも言ってるし、頑張った」
春海の金銭感覚ではかなり思い切った買い物になる金額だったらしいと知り、自然と笑みが浮かぶ。普段から洋服もそれなりに質のいいものを着ているが、金銭感覚はしっかりと地に足がついている春海らしい。
考えてみれば、服は見た目より機能性と広言してはばからない冬海も、デパートでなければ買えないだろうとわかる値段も質もそれなりのものを着ているのだ。久住家では値段相応の価値があると判断したものには金惜しみしない面があるのだろう。
春海側の事情が一段落したのを見て、ほっとする反面、自分のした事を振り返るとどうわびたものか悩ましい。
「ええと……。ところで、……さっきの、なんで?」
春海の方でも気になっていたのかためらいがちな質問に覚悟を決める。誤魔化せることではないし、そうやって流してしまうのもまずい。
一通り、春海の呟きを聞く直前からさかのぼって説明すると、彼女の頬にうっすらと朱がのぼる。話を聞き終わってからやや気まずげに沈黙していた春海が、尊仁をうかがうように見つめる。
「……それって、その……。尊仁さんは私とそういうことしたいって意味?」
さすがに恋愛に関してはかなり奥手な春海も、実際にあれだけのことをされた後では読み違いようもなかったのだろう。戸惑い気味な確認に、尊仁は正直に頷いた。
「本音を言えばそういう意味でも春海ちゃんの側にいたいって思うよ。でも、その気になれない相手に無理強いする程馬鹿でも身勝手でもないから、そこは信頼して欲しいかな」
春海の年齢と性格を考えれば、尊仁に対する感情がどうあれ体の関係に踏み込むのはまだ無理だとわかる。その意味で春海が尊仁を受け入れるにはあと数年は時間が必要になるはずだ。
そう思っての返事だったが、聞いた春海の方はどう思ったのかいくらか不思議そうに首をひねっている。
「何か気になる?」
「……前から不思議に思ってたんだけど、誰かを好きになるのと、そういう事したいって思うのって、違うの?」
思わぬ方向からの問い返しに、尊仁も首を傾げる。
「うぅん……。それって、ぶっちゃけた返事が聞きたいって意味だよね?」
「うん」
こくりと頷かれ、いくらか迷ったが結局正直な意見を口にすることに決める。下手に誤魔化しても春海には口先の嘘を見抜かれそうだったし、中途半端な誤魔化しを告げるのも嫌だった。それで嫌われたら仕方がない、と覚悟を決める。
あくまでもこれは俺個人の意見だけど、と前置いて口を開く。
「嫌いな相手とか我慢できないくらい不衛生な相手じゃなければ寝るだけならできるかな。ただ、好きな相手だから触れたい、抱きたいって思うのとはまた別だと思うけどね」
「それってどこがどう違うの?」
「そうだね、たとえば男は外見が好みの相手となら誰とでもできる傾向があるかな。気持ちよくなりたいって欲求があって、やらせてくれるって女の人がいればできちゃうもんだし」
「……相手の人のこと、よく知らなくても?」
「できちゃうよ」
まったくわからない、という体での問い返しに苦笑混じりに頷く。高校生位というのは男はやりたい盛りだが、反面女子はその手の話題を過敏に嫌う傾向がある。尊仁の目から見た意見なので実際どうなのかはわからないが、彼が春海の年頃だった頃のクラスメート達はそう見えたものだ。
だから春海がその年頃特有の潔癖感、あるいは女性の側に強い貞操観念から理解できなかったとしても不思議はない。
「まぁ、この辺は個人の考え方の他にも男女の生物学的な違いもあるんだろうけどね。男は入れて出すだけだから、結婚が視野に入らない限り相手はその気にさせてくれて実際やらせてくれるならそれですんじゃうし」
「そういうものなの?」
「極論すれば、だけど。逆に女の子は体の中に相手受け入れる訳だから行為自体が既に怪我とかの危険度高いよね。避妊に関しても、失敗があれば全面的に泥被せられちゃうの女の子だしさ。リスク管理って意味でもする事に対して慎重にならざるを得ないよね」
具体的な話を口に乗せると、春海の頬がわずかに赤味を増す。確かに、こんな話を恋人と二人きりの環境で面と向かってするというのはかなり恥ずかしい。尊仁自身、内心の照れや動揺を表に出さないでいるだけでかなりの羞恥プレイだと感じているのには違いがない。
けれど、こういったことに関して意識のすりあわせをしておくのは決して悪い事ではないはずだ。特に自分たちのように年が離れている場合、春海の方で尊仁がもう大人なのだからと変な気を回して無理をさせるようなことになりかねない。
これまで、適当な付き合いをしてきた反動か、春海が今まで付き合ったことのないタイプだからか、彼女に対しては触れたいという思いよりも傷付けたくないという思いの方が強かった。
「その上、初めてだろうが下手だろうが割と簡単に気持ちよくなれちゃう男に対して、女の子は痛い思いもするし、力で敵わないからいざとなって男が避妊してくれなかったらどうしようとか思ったりもするだろうからね。物理的にも精神的にも、怖いことの方が多いんじゃない?」
「確かに、それはある、かな……。……力尽くで来られたら、どうしようもできないし」
何を思っているのか、尊仁の言葉に春海が眉を寄せる。
「だからね、逆に言うとすぐにやらせろってがっついてくるような男は、遊びかやりたいだけかもって疑った方がいいよ。ちゃんと女の子のこと考えてれば、信用してもらえなければ無理だってくらいわかるもんだから」
「……わかるの?」
「まぁ、そこそこ真面目に高校の授業受けてればわかるよ。生物やら保健体育やら、受精から出産までの過程は習うだろ? その上、俺はそういうの熱心な学校だったから高校時代に性感染症のリスクが、避妊失敗のリスクが、中絶するとなったらどんな手術がいっていくらかかってとか、リアルな情報たたき込まれたからねぇ」
当時そんな情報を教えられた衝撃を思い出して苦笑いになってしまう。本当はそれだけでなく、彼氏に押し切られて渋々応じた行為で妊娠した挙げ句、退学になり親戚中から非難を浴び、妊娠させた本人も逃げ出したなどという悲惨な体験をした女性の、生々しい体験談まで聞かされた。
女性は、その一件で二度と子供を産めなくなったともいい、同じ思いをする女の子を一人でも減らしたくてこの活動をしているのだと話した。壇上から語りかけられた言葉はあまりに衝撃的で、尊仁が軽く恋愛をしてあっさり関係を持ちながらも、そのあたりをきっちりと割り切っている相手とだけとこだわるきっかけだった。
「その程度すら想像つかないお馬鹿さんもいるけどね。結局、想像つかない辺りでそんな相手に今後の人生託すのはかなり冒険だと思うよ。だから、わからないような男は考えるまもなくふっちゃえばいいし。……って、これはもしも俺と別れるようなことがあったら、その後って話だからね?」
話を微妙な方向にむけてしまった尊仁が付け加えると、春海が頷いて首を傾げた。
「ええと、つまり男の人の方が気楽にそういう事できちゃう環境にあるから、簡単に考えちゃうってこと?」
「そういうことかな。まぁ、どっちにも例外はいると思うけどね。こういう傾向はあるんじゃないかと思ってる。……で、ここまでが俺の考える好きじゃない相手とでもできちゃう理由。とりあえずこの件に関してはオッケー?」
ひとまず話を一回区切ることにした尊仁の言葉に、春海は聞いたことを反芻するような間を取った。ココアをすすりながら視線が彼女から見て左上に泳いでいるので何か考えているのだろう。
まとめるのに少しかかるかな、と思っていると案外早く春海が視線を戻してきた。
「男の人にとって、相手が誰でもいいからしたいって思うくらいしたいもの?」
「ん~……。ちょっと生々しい話になるけどね、やっぱり自分でするよりずっと気持ちいいからできるなら女の子としたいとは思うかな。ただ、できなかったからって困る事はないよ。出さないと病気になるってのはただの妄言だし、本気でそれ信じてるなら自分ですればすむよね。どうしても生身の女の子とってこだわるなら風俗行けばいいわけだから」
「……ええと……。それって、その……」
尊仁の説明に春海が何か問いたそうに、けれど口には出せないのか酷く困った様子で言いあぐねる。
「ちなみに俺は行ったことあるよ」
たぶんそんな所だろうと思って答えを口にすると、春海が頬の赤味をひとさじ分濃くして頭を振った。
「そうじゃなくて、そのっ」
「違った? 春海ちゃんの知らない所で風俗行ったりするのかなって気になったのかと思ったんだけど」
慌てぶりがおかしくてつい意地悪な質問をする。言われた春海は虚を突かれた様子で、けれど一拍おいてから、それもちょっと思ったけど、と真っ赤な顔で呟いた。
立て続けに可愛い反応を見せられ、もう少し見ていたくなって尊仁は春海の顔をのぞき込むようにして言葉を重ねる。
「春海ちゃんは、俺がああいう所行ったら嫌だって思ってくれる?」
「……だって、それってやっぱり他の人とするって事でしょ?」
「まぁ、向こうにとっては仕事なんだし気にすることじゃないと思うけど」
「…………」
あえて意地悪な切り返しをすると、春海の目に涙が浮かぶ。
「ちょ、待って! 泣く事じゃないからっ」
予想外にすぎる反応に慌てて持っていた缶を放り出して春海の涙をぬぐう。
「……ごめん、ちょっと意地悪が過ぎたね」
今にも泣き出しそうな風情で、それでも尊仁が止めたからか必死に嗚咽を堪えている春海の頭をなでる。
「その、行ったことがあるのは本当。高校の部活の先輩に、親戚がその手のお店やってるって人がいてさ。みんなで行けば割引してくれるって言ってるから風俗初体験行くかーって、そんなのりになっちゃったんだ。けど俺はああいうの性に合わないってわかったからその一回きりだよ」
大概の女性は恋人が風俗に行くことを嫌うと知っていたのに、不用意なことを口にしてしまった尊仁が事の真相を口にする。割り切ってくれとは言えないが、春海と付き合っているのに風俗に通っていたなどと誤解されるのだけは嫌だった。
「それに、さっきも言ったけど俺は春海ちゃんが本当にそういうことしたいなって思ってくれるまで待つつもりでいるよ。させてくれないから風俗行くとか、脅しみたいな意味じゃないからそれだけは誤解しないでね」
「……でも」
「女の子とする方が気持ちいいとか、やらせてくれる相手がいればできるとか、言った後じゃ説得力ないのもわかってるけどね。だけど、俺には自分が少し余分に気持ちよくなることより、春海ちゃんに嫌な思いさせたくないって気持ちの方が優先なんだ。だから君と付き合ってるのに他の人とするとかあり得ないし」
ひとまず春海を慰めたくてそれだけ言ってから、気持ちを落ち着けるために一つ深呼吸をする。
「いい? 確かに男はそういうことを女の子より簡単に考える傾向があるよ。環境的にも風俗あるしやりやすいのも確かだよね。好きな子ができればしたいって思うのは本能だから、春海ちゃんにそういう欲求があるのも否定しない」
だけど、と尊仁はそこで春海の頬をなでる。
「好きな相手が嫌がること、わざわざしたいと思う? 嫌だっていうの無理強いて怖い思いさせたいって、相手の人生めちゃくちゃにする危険おかしてでも自分がちょっといい思いできればかまわないとか、春海ちゃんは友達にそんなこと思う?」
「思わない、けど……」
「なら俺が同じ気持ちなのもわかって? 確かに春海ちゃんはもう高校生だし体はそういうことできる状態だよね。だけど、君は俺をこの先の人生全て預けられる程信用できる? 痛いのはいやだなとか、そういう関係になったのまわりの人に知られたらなんて言われるかなとか、不安なことに目をつぶって見ないふりしたまま、俺に抱かれて絶対後悔しないって言い切れる?」
「……それは……」
尊仁の問いに断言できないのが既に答えだ。不安げな表情のまま見つめてくる相手の頭をなでて軽く抱き寄せる。腕の中で体が強張るのが伝わってきて、それをなだめるように今度は軽く背中を叩く。
「春海ちゃんはこうやってハグするだけでも、本当は少し怖いんでしょう? それなのにいきなりできるわけないよ。……俺にとって春海ちゃんは特別だから、したいって思うのは単に気持ちよくなりたいからしたいのとは違うんだよ?」
「……違うの?」
「そりゃね。つまりさ、誰とでもいいやっていうのは欲求の処理としてなんだよ。だけどね、好きな子としたいって思う時にはそれだけじゃないんだ。体だけじゃなくて心を満足させたくてしたくなる」
抱き寄せた背中をなでながら、くさい言い回しだとは思うけど、と照れ隠しもあって笑うと、春海も小さく笑う。
「女の子にとって、男に抱かれるって色んな意味で大変なんだっていうのは一応わかってるつもり。だから、好きな子がいいよって言ってくれるってことは、それだけ信頼してもらえた証拠かなって思うんだよね。万一のことがあってもちゃんと一緒に立ち向かってくれるって、逆境でも見捨てたりしないって思ってもらえたんだろうなって、俺は考えてる」
それだけの信頼の上での行為だから意味があるんじゃないかな、と付け加えると、春海がわずかに眉を寄せる。
「私……」
「大丈夫、俺はまだ春海ちゃんからそこまで信用してもらえるだけの時間、一緒に過ごしてないってわかってるよ。それにね、君は俺がちゃんと信頼してもらえるまでの時間、他の人に手を出したりしないで待てるだけの男かどうかも見極めないといけないんだから。……俺にとって、春海ちゃんとしたいって思うのはね、お互いに大切な相手になれたんだって、他の人とはしない特別なことができるくらい受け入れてもらえたんだって実感したいからなんだよ」
尊仁が言い含めるように言葉をつむぐと、春海に拳でゆるく叩かれてしまった。全く痛くもなかったけれど、驚いて顔をのぞき込む。
「どうかした?」
「……ちょっと、私って最低、とか思っただけ」
相変わらず頬を染めたままの言い分に首を傾げると、だって、と春海がすねた様子で顔を背けた。
「なんかうきゃーって叫びたいくらいわさわさして、恥ずかしいし照れくさいし、……嬉しいのに、これ小説で使える、とか思った」
自分の両手で頬を押さえた春海の言い分に、尊仁が吹き出す。
「笑う所じゃないーっ」
照れ隠しなのか、そのままぽすぽすと全く痛くない力で胸を叩かれ、尊仁が更に笑う。
「春海ちゃん、そういうとこもすごく可愛い。……心配しなくても俺はいくらでも待つからさ、一個だけお願いしていい?」
「私にできること?」
「春海ちゃんにしかできないこと」
「……なぁに?」
不思議そうな中にほんの少し不安げな色を混ぜた問い返しに、尊仁は笑みを浮かべたまま応じた。
「自分でする時、春海ちゃんとしたらどんな表情するのかな、とか想像するくらいはセーフって事にしてもらっていい?」
「なっ、何でわざわざそんな事確認するのーっ?!」
真っ赤になって怒鳴られ、尊仁が盛大に笑う。狭い車内でなければ腹を抱えて笑い転げていそうな勢いで笑われた春海が酷い酷いと繰り返しながら、痛くない力で叩いてくるが、一度火のついた笑いはそう簡単には治まらなかった。
「やーっ。もう、酷いっ。尊仁さんの意地悪っ」
「ごめんごめん。けどさ、折角ここまで話したんだし確認しておこうかなって」
「折角でつなぐなら、折角いい話になってたのにオチつけなくていいからって文句言いたいよ」
「……あ、ばれてた?」
少し重たくて、相当に気恥ずかしい会話の気分を変えたくなってついからかい半分で口にした言葉だ。思っていた以上の反応を返され、予定外に笑わされたがそれもまた一興、と思っていたが見透かされていたのも予想外だった。
「そりゃ、一応物書きだし」
「それは確かに。……で、返事は?」
「こだわる所?」
「俺としては、ね。春海ちゃんが嫌ならできるだけそういうことはしないよう努力するよ?」
「……嫌って言った場合、どうするの?」
「ん~。まぁ、その手の本とかビデオとか? この辺は見逃して欲しいかなぁ」
人並みにその手のものを見たり買ったりする尊仁が苦笑混じりに言うと、春海はしばらく考えてから、条件付きなら、と呟いた。
「条件?」
「あの、ね。男の人にとってそういうの見たりするのは恋人いるいないとは別で、ないと困るものだって言うから、やめてとは言わないけど」
「うわ、誰がそんな事……」
理解ある発言はありがたいが、どこからそんな知識を手にしたのかが気になる。思わずもれた言葉に春海は目をまたたく。
「父さんがいい子は見ちゃいけないあれこれを隠してるから、発見しても見なかったことにしておくようにって」
「……それ、お母さんが?」
「ううん、本人」
自分で言うか、と内心でつっこみを入れるが、そのおかげで春海が理解を示してくれるのであれば文句も言えない。
「でね、だから、そういうの買うのはいいけど……。……あのね」
「春海ちゃんで想像するのは嫌?」
この流れだとそうかなと思って尋ねるが、春海は頭を振る。
「それも、……その、……すごく恥ずかしいけど、尊仁さんは……したいんだよね?」
「正直言えば、春海ちゃんだったら……って想像するの、そこらのビデオとかよりよっぽど刺激的。いわばかにかまと本物のカニくらい違うかな」
「私かにかまの方が……って、ごめん、違うっ」
余程動揺しているのか、つい、といった雰囲気で呟いてから春海が慌てて頭の上から何かをはらい落とすような仕草をする。その慌てぶりがおかしいやら可愛いやら、またしても尊仁が吹き出した。
「また笑うーっ」
「変なたとえだした俺も悪いけど、そこで一人ボケ突っ込みとか、おかしすぎるから」
「ぼけてないもんっ。私、カニいっぱい食べると気持ち悪くなるからかにかまの方が好きなのっ」
必死になって反論され、これ以上笑っていては怒らせてしまうと、何とか笑いを押さえ込む。もう一度謝りながら頭をなでると、ようやく春海も矛先を納めた。
「とりあえず、比較のたとえとしては通じた?」
「同じくくりだけど激しく違うもので、安い代用品と本物高級品ってことだよね?」
「そういうこと。もちろん、春海ちゃんの方がかにだから」
「……わかってるし。だからその、……想像するのも、それだけ尊仁さんが私のこと好きでいてくれるって事だから、大丈夫。……だけどね、これだけはわがまま言っていい?」
「なに?」
「売ってるのとか、私のこととか、区別なしで……、その、ね」
何度か言い出そうとして、けれどどうしても言葉に出せない風情の春海を見て、尊仁が首を傾げる。想像がつけば先回りして言ってやれるのだが、その手の物を買うことも自分で想像するのもかまわないという彼女が何を嫌だと言いたいのかがわからない。ここまで来て今更風俗は行かないで欲しいなどと言い出す程頭が悪い相手ではないだけに、全く見当がつかないのだ。
「どうしても言いにくかったら、紙に書いてくれるんでも、後でメールとかでもいいよ?」
面と向かってよりはいいだろうかと思って提案するが、春海は頭を振った。
「私、……その、ちょっとやな思いしたことあって……。……だから、その、」
言いあぐねて、いくぶん目を潤ませた春海がやがて意を決したように尊仁と視線を合わせる。
「……その、ね。無理矢理なのは、嫌」
言われた言葉の意味をつかむのに一瞬遅れた尊仁は、けれど春海が何を嫌がっているのか気付いて、なるほど、と思う。
春海の通っているのはそれなりに有名な女子校だし、電車通学だ。嫌な思いをすることもあるのだろう。
「了解。双方合意の上なのが大前提ってことでいいんだよね?」
念のためと確認すると、春海がほっとした様子で頷く。どうしても具体的な言葉を口にするのが嫌で、必死に考えた言い換えなのだろう。
体に触れられるとおびえた様子を見せるとは思っていたが、春海には通学電車で遭遇する痴漢が相当怖いらしい。ならば、尊仁がそんな題材をとったものを使うのも嫌がって当然だ。
「大丈夫、俺はそういう性癖ないし」
冗談めかすと、珍しいことに春海の方から尊仁の肩に額を寄せてきた。
「……ごめんなさい。そういう人じゃないってわかってるけど、どうしてもそういうの嫌なの」
「つまり、俺はそんな卑怯な人間じゃないって信じてくれてるって意味だね」
あんな話の後で尊仁に触れてくるのだから、相手が自分に性的な欲求があるとわかっていても、嫌がる事はしないという言葉を信じてもらえる程度の信頼はあるという証拠だ。
自覚しているのかいないのか、春海のこんなところが尊仁の心を絡め取る。警戒心が強い癖に時折無防備で、聞き分けがいいかと思えば納得がいかなければてこでも動かないような面もあるのだ。可愛くて、つかみきれなくて、何よりも愛おしい。
「やっぱ話さない」
「ちょっと待て、逃げんなよ」
「卑怯で結構。もったいなくて話せないな」
かみついてくる友人をいなして尊仁はグラスに口をつける。
「……今までそんな風に出し惜しみしたことない癖に」
「諦めろよ。それだけ本気だってことだろ。尊仁にしては珍しいから興味は尽きないけどなぁ」
「ちなみに、久住女史の妹だから余計な詮索すると痛い目見るよ?」
裏で聞き回りそうな友人達の気配に、春海の姉であり自分たちの先輩でもある人物の名前を出すと、二人が同時に口の中のものをふいた。
「…………詮索はよくないよな」
「まったくだ」
学生時代、最強伝説があり現在は三人が勤める大学病院に隣接する大学院に勤める人物に深入りするつもりはないらしい。なんとか追求が終わりそうな気配に尊仁は内心で小さくため息をついた。
あんな可愛いところ、ざっくりまとめた話に変えたとしても他人に教えるのはもったいなすぎる。
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