決意
欠伸を噛み殺し、ため息を吐く。
いつも以上にだるい目覚めだった。昨日考え事をしながら眠りに就いたからだと思う。
彼の居所が分かった。だが、あたしはそれ以上何をするのだろうか。
彼を待ち伏せて美枝とのことを聞く。
答えは一つしかないのに躊躇してしまっていた。
「おはよ」
あたしの今の心境と対極にありそうな明るい声が響いていた。
肩越しに振り返ると、いつもと変わらないあいつの姿があった。
「寝不足?」
「そ」
複雑な気持ちを悟られないように素っ気ない返事をする。
「珍しい。勉強とか?」
「いろいろあるのよ」
本当のことを言えるわけもなく、曖昧に答える。
「今日はいつもより遅くない?」
この前美枝と功が二人でいるのを目撃してから、あたしは登校時間を自然と遅らせるようになっていた。
早く行けば会う確立はぐんと低くなるが、早起きというものは辛い。それに早く学校に着いても鍵を職員室まで取りにいくのは面倒だった。残された選択肢は遅く登校することだった。
「そんな日もあるよ。正直言うと、朝、美枝からメールが届いて一緒に行けないと言われたんだ」
少し照れたような笑顔を浮かべる。
何も考えていないような口調だった。
実際何も考えていないんだろう。
幼馴染と一緒にいた美枝の姿が頭を過ぎる。
それってやばいんじゃないの?
思わずそう言いそうになるが、言葉を飲み込んだ。
「理由は聞いた?」
「だから用事があるんだってさ」
彼女の言い分を素直に受けとめているところはすごくいいと思う。
だが、用事と言っても幅広い。都合が悪いときにはすごく便利な言葉だ。
通りかかった小道を見たとき、心臓がどくりと鳴った。
あたしは思わず功の腕をつかんだ。
「パン買いたいからついてきて」
「弁当じゃないんだ。珍しい」
彼の言葉を無視するような形で近くのコンビニに功を連れ込む。
コンビニには同じ高校の人がレジの前に列を作っていた。
あたしはパン売り場まで来ると、功の腕を離す。
功はパン売り場に並んでいるパンを見つめていた。
パンを買う気もなかったあたしは適当な菓子パンを見繕い、レジまで行く。
功はその後をひょいとついてきた。
あたしの番がやってきてパンを購入する。そして、お店の外に出て美枝の姿がなかったことにほっとする。
あたしはさっき美枝を見つけたのだ。それも頬を赤らめ、照れたような表情を浮かべていた。彼女が一人ならいい。功は彼女に気付き、彼女の傍に行くだろう。でも、彼女の傍には彼が立っていたのだ。
彼にとっては幼馴染でも、美枝にとって彼はどんな存在なのかが分からなかった。
学校を出ると、いつのまにか鮮やかな夕焼けが辺りを包み込んでいた。
その曖昧な光は一日中憂鬱な過ごさせたあたしにある記憶を呼び起こさせた。
「柚月はどこを受けるんだ?」
部活を引退し、勉強を教えてくれとせがむようになってきた、功のペンの動きが止まる。
そのとき、窓辺から差し込んできた艶やかな夕焼けが、今の夕焼けが似ていたのだと思い出す。
彼のまっすぐな瞳があたしの姿を捉え、彼の言葉にドキッとしていた。
「S高校」
それは今通っている高校だった。そこを選んだのはただ家から近いし、まず確実に合格するからだ。
「そこを受けるんだ。じゃあ、俺もそうしようかな。サッカーも強いし」
流れるように聞こえてきた言葉を最初、聞き流していた。
だが、言葉の意味に気づき功を見る。
功は笑顔を浮かべる。
「本気なの? 今の成績だと厳しいよ」
「本気。結局、高校まで一緒になりそうだな」
「功が受かったらね」
安全圏を選んだあたしとは違い、彼のそのときの成績は落ちてもおかしくないほどだった。
「大丈夫。受かるから」
自分を励ますような言葉がほほえましくなる。
あたしはそのときに言いようのない嬉しさを感じていた。
あたしも功も無事に合格し、彼も彼の両親もあたしが驚くほどに喜んでいた。
だが、功が喜んだ理由はそうでなかったんだと知った。
「柚月が落ちてなくてよかった」
「二年のときからAしかとったことないのに落ちるわけないよ」
「俺に勉強教えてくれていたから、自分の勉強ができなくなくなったんじゃないかなって思ってさ」
年があけて、彼はあたしに勉強を教えなくていいと言い出していた。
以前より成績があがったにせよ、安全圏には程遠い彼をほうっておけなくて、強引に勉強を教えていたのだ。
それは受かる自信があったし、彼と同じ高校に通いたかったからという利己的な理由だった。
彼が教えなくていいと言った理由に、そのとき気づいた。
「お礼するよ。柚月のほしいものを何でもいいから言って」
「お礼って」
あたしにとって何よりも嬉しいのは功の合格だった。
だが、そんなかっこつけた台詞を言いたくなくて、後腐れもない妥協案を選んだ。
あたしが望んだのは功が小さなころから集めていた漫画を貸してくれというものだった。
彼は笑顔でそれを受け入れる。あたしがとりにいくと言っても、家どころか部屋まで運んでくれた。
功に部屋の中に入られるのは無性に恥ずかしかった。
彼から漫画を受け取り、お礼を言ったとき、その漫画の傍に見慣れた紙袋を見つける。
「これ」
「俺からのお礼の気持ち」
功がくれたのはあたしの大好きなお饅頭だった。小さいころ、功のお母さんが買ってきてくれて、よく一緒に食べていた。
そのお店まで自転車で十五分。近いといえば近いが、遠いといえば遠い。
「また、三年間一緒だな」
あたしは功の言葉になのか予期せぬ贈り物になのか喜んでいて、思わず笑顔を浮かべていた。
そのとき、ゆったりとしたメールの音が響いていた。
送ってきたのは母親で、そこに記されていたのは買い出しの指令のメール。
学校帰りに通る大型のスーパーで夕方からケチャップの売出しがあるらしく、ついでに買って帰るようにとのことだった。
高校に行く間にいつしかそんな買出しにも慣れつつあった。
淡い空色を背景に、辺りの閑静な町並みに似合わない煌びやかな看板を掲げているお店の中に入る。お店の中にはその看板にお似合いともいえる音楽が流れていた。
入り口付近にある飲食店の脇を擦り抜け、食料品売り場に到着する。その入り口付近に置いてある緑の買い物籠に手を差し伸べる。買い物籠を手にして、別にこれは取る必要もなかったのかもしれないとも考えていた。振り返るとカゴ置き場には別の人がカゴを取っていた。
一度手にしたかごを戻すのも気が引け、調味料が売ってあるコーナーまで行く。
天井から吊り下げてあるプレートを確認しながら歩くと、丁度三つ目の棚のところに「調味料・粉類」と書かれている。
三つ目の棚の前を曲がろうとしたとき、自然と足が止まった。そして、体を棚の影に潜めていた。
目の前にあるのは明るく笑う男と、彼と対照的な険しい表情の黒髪の少女。彼女の手には黄色のパッケージの小麦粉が握られていた。
功は部活だから一緒に帰れなくても仕方ない。
だからって、彼と一緒にいる事はないのに。
買い物をして偶然であったという可能性もある、都合の良い想像をしてみるが、かごを持っているのは彼のほうで、彼女は手ぶらだ。朝も一緒にいた二人をそうこじつけるのはあまりに無理すぎた。
美枝は小麦粉をカゴの中に放り込む。
美枝の買い物に付き合っているのか、彼の買い物に付き合っているのかは定かではない。
確実に言えるのは、二人でこうしているという事実であり、二人の雰囲気もどこか穏やかで優しい空気が流れていた。
胃が胸焼けを起こしたみたいにムカムカする。
彼は否定していたが、美枝はそのつもりではないのかもしれない。
ここで二人の前に出て、美枝や彼に直接聞けたらどんなにいいだろう。
だが、そこまでできるほど無鉄砲な人間ではない。
動けないあたしを尻目に二人は笑顔で言葉を交わし、その場から遠ざかっていった。
母親から頼まれていたケチャップを買い物籠に寝そべるように入れて、レジで支払いを済ませると、重い足取りで店を出た。
町並みはオレンジ色に染まり、どこかおぼろげで頼りなさそうだ。
ゆっくりと足を進め、息を吐く。
どんなに艶やかな景色が目に飛び込んできても、思い浮かぶのは楽しそうな二人の様子だった。
どうしてそんなに彼と一緒にいると笑うんだろうか。
あんな場面に遭遇してしまうなんてやっぱりあたしは間が悪い。
その記憶を思い出しては忘れ去ろうとし、その繰り返しの間、歩を進める。
あと少しで家にたどりつく、というとき、
「柚月」
聞きなれた声が聞こえた。
振り返ると、あたりを裂くような甲高い音が響く。そして、何度も見たことのある銀色の自転車があたしの目の前で止まる。功の笑顔が目に飛び込んできた。
息が乱れ、頬が赤くなっているように見えた。
頬が赤く見えるのは夕日の影響かもしれない。
「どうしたの? 今日、部活は?」
そう聞いたのは、功がいつもの制服ではなく、私服だったからだ。
「グラウンドの整備で今日は休み」
「そうなんだ」
「俺も忘れてたんだけどね。帰りがけに同じ部活のやつから聞いた」
あたしの目の前に紙袋が突き出される。
「これ、やるよ」
彼は袋を押し付けるように渡し、手ぶらになる。
そこに印刷されていたお店の名前に、昔の記憶がより鮮明になる。
そこに入っていたものを見て、思わず功を見た。
「これ、わざわざ買いに行ったの? 部活の休みの日に?」
「おう」
彼は笑顔で応えていた。
「どうして?」
「これを食べたら元気になるかなって思って。最近、元気なかったから」
彼が差し出したのは合格発表のときにもらったお饅頭だった。
「バカ」
思わずそんな言葉がこぼれてきていた。
彼女にだけ優しくしていればいいのに、どうしてあたしに優しくするんだろう。
その理由は分かっているくせに、そう毒づく。
幼馴染だからというのとあと一つ。
彼は誰にでも優しい。
困っている人を見ると、放っておけないところがある。
「バカでもいいけど、それ、ここに入れろよ」
そう言って彼が指差したのはあたしの持っている買い物袋と鞄。
「持てるからいいよ」
そう言って歩き出そうとした。
だが、すぐに自転車を止める音が聞こえ、持っていた荷物が軽くなる。
功が横から荷物をとりあげ、かごに入れてしまった。
あたしの手には入れ替わりのように、功に渡されたお饅頭だけが残っている。
「どうせ隣なんだし、自転車で運んだほうが楽だよ」
心配するところを間違っているよ。
功の彼女が別の男と一緒にいたのに。
彼女を放っておいて、幼馴染のことを心配している。
でも、そんな功だから、好きになったのかもしれない。
あたしの家の前に到着すると、彼の自転車とあたしの足がほぼ同時に止まる。
「冷めないうちに食べろよ」
そんな功の言葉に笑顔を浮かべる。
彼の優しさが身にしみて、うれしかったからだ。
「ありがとう」
すると、功も目を細めていた。
「柚月は笑っているのが一番いいよ」
そういうと、功はあどけない笑顔を浮かべていた。
その言葉は近所の人が知っている子供にいうように軽い気持ちで投げかけた言葉だったのだろう。
それでも彼を特別に思っているあたしにはうれしいものだった。
そして、その気持ちは少しだけ分かる気がする。
あたしも功が笑っていてくれたら嬉しいと思う。
だから、あたしも自分にできることをしようと心に決めた。