伝えられない言葉
あいつにとってあたしはただの幼馴染だった。
「この子とよかったら仲良くしてあげてね」
目鼻立ちのはっきりとした黒いパンツをはいた女性が、あたしと目線を合わせる。赤のTシャツを着た少年の肩を軽く叩いた。
はきはきと話す女性とは対照的に、少年はちらちらと潤んだ目であたしを見て、母親の腕をつかんでいる。
あたしと彼の母親がひょんなことから知り合いとなり、子供同士を引き合わせたのだ。
子供の頃のあいつは大人しく、初めて見る人に対してはいつもそうだった。逆にあたしは男の子に間違えられるほど活発で、すぐに誰とでも友達になった。
人見知りが激しい彼に友達を作りたかったのだろう。
あたしたちはすぐに打ち解け、幼馴染になっていた。そうして彼は次第に今の彼になっていった。運動は得意だったが、落ち着きがなく、勉強が苦手な悪がきそんなイメージだった。
兄弟のほしかったあたしにとって彼はいわゆる「弟」みたいな存在で、男として意識するのは論外だと思っていた。
それが変わったのは中学に入ったときだったと思う。
「功君って好きな子いるの?」
そう聞いてきたのは隣のクラスの皆川愛子だった。少し小柄で、クラスの中心になるような明るい子だ。話しやすいので、あたしも良く話をする。
「へ? いないんじゃない?」
不意打ちをくらったようにそう答えていた。そのときのあたしはくちをぽかんとあけて間抜けな顔をしていたと思う。
功が誰かを好きになり、彼女ができるなんてそんなこと考えたこともなかった。
「お願い。聞いて」
「聞いてって、まさか愛子はあいつのこと好きなわけ?」
必死に顔の前で手を合わせる彼女に冗談めかしていった。彼女は違うと強い口調で言うのだと思っていた。だが、彼女はほんの少し頬を赤らめる。
「うん。かっこいいよね。優しいし。ちょっと恋愛とかに鈍そうなところがまたいい」
功がかっこいい?
思いがけない言葉に戸惑い、彼女を凝視する。
子供みたいに好奇心旺盛で、純真で、背も小さくて、かわいいなら分からなくもない。だが、かっこいいなんて言葉は似合わない。
「お願い」
彼女があまりに必死に頼むので断れなくなり、流されるようにうなずいていた。かっこいいなんて彼女の戯言だと思っていた。
予想外の荷物の重さに、功にどうやって聞くか迷いながら帰っていると、肩を叩かれる。振り返ると、見慣れた少年が立っていた。
彼は黒い瞳を細めて、あどけない少年のような笑顔を浮べている。やっぱり彼は可愛い存在だと確信を持った時、功が頭をかいた。
「柚月のクラスは数学どこまで進んだ?」
「宿題くらい自分でやりなさいよ」
「どうしても分からないところがあってさ」
「なら教えてあげるから」
功は面倒そうな顔をしている。
「柚月は先生より厳しいよな」
「当たり前でしょう。見せても理解しないと結局無意味なんだよ。そんなんじゃ高校受からないよ」
「それはやばい」
「でしょ。だから教えてあげる」
彼はあたしの提案を受け入れる。
その頃の功は既に部活に夢中で、勉強なんて二の次だ。二科目あわせてもあたしの一科目の点数に届かないこともよくあった。おばさんたちがそんな彼の成績を気にしていたことも知っていた。
「柚月は俺の姉みたいだよな」
弟と思っていたあたしはその言葉に嫌な思いをすることなかった。大げさに肩をすくめる。
「じゃあ、迷惑かけないように頑張ってよね。あ……」
姉にと言おうとした言葉がすっと消えていく。
功があたしの隣に並び、目線の違いに気づいた。最近、その視線が少しだけ上がってきたのには気づいていたが、上向きに変わったことには気づかなかったのだ。
あたしは女の子の中では背が高く、あたしより背の低い男はまだ多い。
だから、まさか彼に抜かれるとは思いもしなかった。
「どうかした?」
功が不思議そうな顔をする。
「背、伸びたね」
「気づいた? 柚月を抜かすまで黙ってようと思ったのに」
そう言って功は笑っていた。彼はまだ気付いていないんだろう。恐らく彼と一センチも差はないので、目線はそこまで変わっていない。
今まで弟だった彼が別の誰かにかわってしまったようなそんな違和感があった。
「まだ伸びているの?」
「半年で十センチは伸びたよ。あと十はほしいよな」
そう言うと、功はまた笑っていた。
少しだけ彼が遠いところにいってしまった気がした。
あたしは目の前の彼が功だという確信を持ちたくて、問いかけた。
「功は好きな子いるの?」
「はあ?」
彼はあからさまに変な顔をする。
「知りたいの?」
謎解きをするかのように首を傾げ、あたしを見る。
「友達とそういう話になったの。いるかいないかだけだから」
「いないよ。恋愛なんて興味ないし」
彼は無邪気な笑顔を浮かべていた。
あたしはその答えに満足し、愛子にそのまま伝える。。
愛子が告白したかは定かではない。
功があたしの身長を完全に抜かすまで時間はかからなかった。
彼はそのことを丁寧にあたしに報告してきた。
律儀な彼にあきれつつも、心の中ですっきりとしない感情が芽生える。
功はそれから今まで以上にもてるようになったようだ。愛子みたいに、あたしに相談してくる子もいた。
どんな可愛い子でもあいつは興味を示さず、恋愛なんて面倒だとあくびをしながら言っていた。
そんな彼を見て、彼は彼女など作らないし、あたしも彼氏なんて作らないと勝手に思い込んでいた。
だが、それを変えたのがあの子だった。
だから余計に目の前にいる二人を見ていると、でてくるため息の量が増える。
目の前にいたのは美枝と功。
昨日の笑顔を見なければ、功に対して少し反発するような気持ちを持ったまま二人の様子から目をそらしていただろう。だが、今日だけは美枝が気になり、目が逸らせなかった。
昨日と同じ時間に出ると、二人と会う可能性が高いことくらい分かって
いたはずだ。
こんなことになるなら、もう少し学校に行く時間を考えればよかった。あんな場面を見なければよかった。
そう心の中でつぶやくと、自分の間の悪さを呪いたくもなってきた。
「おはようございます」
明るい声が届き、振り向くと由紀子があくびをかみ殺し立っている。
彼女の視線があたしの向こう側に行く。
そして、小さく声を漏らし、眉根を寄せた。
「あれってやっぱり、ですよね」
曖昧な言葉だったが、何を言いたいかは分かる。
美枝の態度があまりに違うことを言っているのだろう。
「そうかもね」
彼女はそれ以上は何も言わなかった。
あたしは一人で学校に行かなくて済んだことに安堵していた。
由紀子と話をすると、目の前の二人を意識しなくていいからだ。
教室に着くと、あいつはもう席に座り、頬杖をつき窓の外を見つめてい
る。
あいつは彼女の名前を出したときだけは表情が変わる。
できるだけ見ないようにして、席に座る。
周りの子に挨拶をし、鞄からノートを取り出そうとしたときに名前を呼ばれる。功のビー玉のような目があたしの姿をすっぽりとおさめていた。
「おはよ」
心臓がいつもより大きな音を鳴らしはじめた。隣にいる功に聞こえるんじゃないかと思う程。
「数学の宿題、分からないところがあったから教えて」
そう言うと、功は笑顔を浮べる。
あたしは鞄からノートを取り出し、功に渡した。
「ありがとう」
お礼を言い、ノートをひろげた功に思わず声をかける。
「どうかした?」
不思議そうに明るい笑顔を浮かべる功に、昨日の少女の笑顔が重なる。
あんたの彼女は昨日他の男と一緒にいて、楽しそうに笑っていたよ、と 伝えるの?
友達なら言うべきかもしれない。
二股をかけられている可能性だってあるのだ。
幼馴染で他の友達よりは近い関係なのに言えなかった。
あいつが傷つく姿なんてみたくないから?という問いかけを自身に投げ かけたら、イエスとすぐに言える。
でも、それだけじゃない。
言えないのはあいつのことが好きだからだ。
どこかであいつが美枝に対して愛想をつかしてくれたら、美枝との関係がこじれて別れてくれたら、そう思っていない気持ちがゼロでないかって言われたら、そういうわけじゃない。
だって、好きなんだもん。
弟みたいなものだから、幸せになってほしい。だが、好きという気持ちが溢れていた。
その好きの延長戦上には、あいつが好きな人といてくれるよりは自分が一緒にいたいと思ってしまう。
浅ましい想いと、自身の罪深さをひしひしと感じる。
「何でもないよ」
堅いものが頭に触れる。それはあたしのノートだ。
「何か悩みがあったらいつでも聞くからさ、相談してよ」
「夜中でも良いの?」
「いいよ」
「部活中だったら?」
「携帯見れないから気づけないけど、すぐに電話するか、会いに行くよ。幸い家も近いしね」
意地悪な心から出た問いかけに彼は真っ正直に答える。
恋人として言われたらこれ以上ない言葉を残し、彼は再びノートに視線を落とす。
目が熱を持つのが分かった。
少し涙ぐんでいることを悟られないように、唇を軽く噛む。
「間が悪いよね」
あたしは昔からそうだった。
どこか間が悪い。
産まれついての運が少し足りないのかもしれない。
ばかみたいな落し物をしたり、終った話題をぶり返したりとそんなことの繰り返しだった。
あたしが功を好きだと気づいたのもそうだった。
それは事もあろうに、功の口から彼女と付き合うことになったと聞いたとき、あたしは自分の気持ちをはっきりと悟ったのだ。
彼の優しさがいかにあたしが自分勝手なのか教えてくれるような気がした。
チャイムが鳴り、木元が教室の中に入ってくる。
あたしはもう一度、唇を噛んだ。