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満開−心時間の金時計−

作者: 風野

「和也ぁっ!いつまで寝てるの!?早く起きなさい!」


 今朝もけたたましい姉の怒鳴り声から始まる、鶴見家。

 自室のベッドでぬくぬくと丸まっているのは、二人暮しの鶴見家の一人、鶴見 和也だ。

 

 十七歳、高校二年生。高校は中途半端な進学校で、成績は中の下。授業の半分を寝て過ごし、確実に起きているのは休憩の十分間のみ、という、どこに居てもおかしくなさそうな問題児である。

 両親を亡くし、今は姉と二人暮しだ。


「和也!いい加減にしろ!この馬鹿!」


 短気な姉は早くも痺れを切らし、和也の部屋に飛び込んで、彼がしがみついている布団を剥ぎ取り、床に叩き落した。


「いてぇ!何すんだ、美里香!」

「美里香ぁ?何よそれ!お姉さまに向かって!」

「くっ」


 拳を振り上げる、ノーメイクの鬼婆……もとい、彼の姉に、和也は口を閉ざし、自分だけに聞こえる声で呟いた。


「何がお姉さまだ。SM女王じゃあるまいし。二十代のオバサンの癖しやがって、くそぅ」


 上目遣いに見上げると、そのオバサン、美里香には、ばっちりと聞こえていたらしく、彼女は、和也を見下ろし、ふっ、と冷たい笑みを浮かべた。


「何言ってんの?従兄弟から見たら、あんたもオジサンじゃない。しかも、あんたもあと三年すりゃ、そのオバサン・オジサン年齢に突入よ?一緒ねぇ?ふふふ」

「――――なんでそんな事ばっかり頭にあるんだ。可笑しいじゃねぇか、他は全然の癖に……しかも、地獄耳だし。なんであの声が聞こえるんだ……」


 ブツクサと言いながら、美里香を見ると、先程と同じ冷たい笑みをたたえ、こちらを見下ろしていた。


「そんなこと言ってたらね、仕事やめるわよ?良いの?飢え死に人生歩みたい?」

「――――すいません、ごめんなさい。何もございません、文句いいません」

「よろしい」


 おほほほほ、と高笑いする真似をして、美里香は、あ、と抜けた声を出した。


「大変!私もう行かなくっちゃ!」

「!げ!やっべ!俺もだ!」

「ったく、あんたが起きないからぁ!」


 ばたばたと姉が慌しく出て行くのを見て、和也は溜息をついた。


「お互い様じゃん……」


 ぼそりと呟いた一言に、返ってきたのは、玄関が乱暴に閉まる、どんっ、という音だった。

 和也は床から起き上がり、急いで制服に着替えると、鞄を引っつかんだ。

 台所を覗くと、剥いた林檎が一切れと弁当箱。


「林檎一切れとか……成長期の若者には少なすぎるんじゃねぇすか、お姉さまよ」


 呆れたように呟きながらも、その林檎を口に咥え、弁当を鞄に詰め、玄関へ走る。スニーカーをろくに履かぬままに飛び出し、自転車へ飛び乗ると、和也はそのまま自転車で走り出した。


「お?」


 目に一瞬入ってきた、枯れた桜の木。

 もう数年、咲いた覚えはない。流石に春になっても夏になっても、いつになっても葉っぱ一枚ないのは、いささか寂しいものだ。あるのは枝だけである。

 しかし、一応生きているらしい。手入れをすれば良いそうだが、生憎その時間も無く、早数年、という有様だ。


「――――もう一回くらい、咲かねぇかね」


咲くも何も季節外れだよ、と自分に突っ込み、和也は全速力で自転車をこいでいった。




・・・


 落ちていく。


 すべてが。


 先程まで自分が乗っていた車も。

 そこに乗っていた筈の、人間も。


 炎に包まれ、黒い煙に包まれ、落ちていくトラック。


 爆風でふわりと浮き上がった体。


 赤く、熱い液体が、宙を舞う。


 此方を見つめる、親の顔。

 うっすらと笑ったその顔。


 次第に、その姿は遠くなり、伸ばした手は、虚しく空気を掴むのみ。


 大きな、衝撃。

 熱風が、頬を掠めていく。



 ――――すべてが、落ちていく。



・・・



 和也は、叫びかけて必死にこらえ、顔を上げた。


(ヤベ、また寝てた……しかも数学じゃねぇかよ)


 すぐに冷静な頭が戻ってくる。

 数学担当の鈴木が、黒板に色々書いて、それを説明している。いつもの授業風景だった。

 ふら、と気を遠くしかけ、和也は自分の頬をつねった。

 数学くらい、起きておいた方が後に良い。それくらいは分かっているつもりだ。


 ――――ふと、夢を思い出し、和也は窓の外を見た。晴天だ。雲ひとつ無い、真っ青の空が広がっている。


 そんな空を見つめながら、和也は眉を寄せた。

 まだ、生々しく残っているのだ。自分の記憶には。両親を亡くし、姉と二人だけになってしまった事故が。


 そういえば、あの日も、今日のように青く晴れわたっていた。まるで自分達を嘲笑うかのように。


 制服の黒いズボンをあさると、両親の形見である金色の懐中時計がすぐに見つかる。


 長い鎖がついていて、安物の金メッキで塗られた、どこにでも売っているような代物だ。

 しかも、時計は動いていないと来ている。


 いや……動かしていない、のだ。

 そう、正しくは。

 母の言葉に従って、あの事故以来、一度も、 龍頭りゅうず をおした覚えは無い。


(――――そう……まだ、動かせない……)


 和也は、黒板のほうへ顔を向けた。皆の顔が、眠気で歪んでいるのが分かった。数学教師、鈴木は、その睡魔を呼ぶ声のため、安眠教師、とまで呼ばれている男だ。

 そんなクラスの様子を見ながら、和也は時計から手を放し、ノートを取り始めた。


 ――――頭には、その内容はさっぱり、入ってこなかったが。



・・・


 和也の母親は、少々風変わりな女性だった。

 というより、この一家四人全員が風変わりとも言えるが、まぁ、それは置いておくとして、この母親は、考えが他の人とは、多少違っていたのである。


 他人と意見が違うのは当たり前かもしれないが、しかし、それでも、彼女の行動には謎が多かった。夫でさえ、全て理解していたのかどうか。


 和也のもつ、あの金時計も、そうだ。


 あの時計は、和也が幼稚園児の時からずっと、持たされていたものだった。

 そして、母はいつも言っていた。


『これはね、自分の気持ちなの』


と。


『すごくすごく、困ったりして、気持ちに整理がつかなかったりすること、あるじゃない?』


 金時計の鎖を和也の首にかけ、彼の頭を優しく撫でながら。

 いつも、いつも。


『そんなときはね、思い切って止めちゃえば良いのよ。自分の気持ちを』


 ふふ、と悪戯っぽい笑顔を浮かべ、例えばよ、と人差し指を立て、話し出す。

 金時計が一秒一秒、正確に動くのを確かめるかのように、静かに目を閉じ、語りかけるように。


『例えば、私が死んじゃったとするじゃない?和也はすごく悲しくて、全然整理がつかないの。そういう時は、自分の気が済むまで、考えれば良いの。そしてね』


 母の優しい声が好きだった。


 だから、母の温かな手に自分の手を重ね、一緒によく歩いたものだ。

 母の言う言葉に真剣に耳を傾けながら、しかし、その内容の半分も理解できないままに。


 母はそれを知っていたのだろうか。

 和也が、その言葉を理解しようと努力していたことを。

 だから、口癖のように、毎日毎日、同じことを繰り返し話していたのだろうか。

 まるで、和也の頭に、一語一語を刷り込むように。忘れないようにと。今、その意味は分からなくても、後に、理解してもらえるまで待つわ、と語りかけるように。

 優しく、ゆっくりと、歩くペースに合わせながら、一つ一つの言葉に重みを持たせて。

 それでも、笑みは絶やさぬ声で。


『自分に整理がついたら、動かすの――――いーい?和也。これは普通の時計なんかじゃないのよ。自分の気持ち。自分の精神(きもち)が生きていた時間を表すの。だからね、和也。この時計は、ごまかしが利かないのよ』


 にっこりと笑う母親の姿は、今でも、鮮明に覚えている。そして、その言葉も。


 ――――でも。


『――――和也っ!美里香っ!』


 自分の子供を、車が崖下へと落ちて行く直前に突き飛ばし、命を救った母親。

 燃え盛る火と、黒い煙の立ち込める車内に残された。二人のかわりに。


 父親は、そのとき既に事切れていた。

 大型トラックとの正面衝突――――生きているほうが、可笑しかった。

 血を流すその姿に、和也も美里香も言葉を無くしていた。

 そんな状況下の判断。


 落ちていくその姿を、和也は今も覚えている。

 母親は、うっすらと微笑んでいた。

 

 その口の動きも、忘れていない。



『――――貴方達だけでも、助かって』



 声は聞こえなかったが、確かに、和也は、母親がそう言っているのだと確信した。

 その直後に襲った熱風と衝撃。

 母が助かる見込みはゼロだった。


 燃え盛る車を見下ろし、和也は、呆然とする意識の中、この金時計の時を、初めて、止めた。


 ――――あの時から。



『自分に整理がついたら、動かすの』



 ――――時計は、動いていない。



・・・ 



 昼休み。

 親友である純と昼飯を突付く、いつもの時間帯だった。


「お前、今日、どうしたんだよ」

「は?」


 いきなりの一言に、和也は目を瞬かせた。


「三時間も一度も机に突っ伏さずに起きてるところ、俺は初めて見た!」

「――――失礼な」

「安眠教師の授業は流石に寝てたけど、それでも、最後の三十分、お前ずっと起きてただろ?教師のほうが驚いてたぜ」

「……マジで?」

「マジで。だって、俺、見たもん。安眠教師の奴が、お前の方見たとき、一瞬、固まったトコ」


 爆笑する純を恨めしげに見つめ、和也はオカズの玉子焼きを口に放り込んだ。

 ――――卵の殻が、じゃり、と音を立てた。


「なんだ、どうした?変な顔してさ」

「別に……玉子焼きに本来入るべきでないものが、俺の口に現れただけ」

「……卵の殻?」

「なんで分かるんだ……」


 額を抑えながら、その塊を飲み込んだ。


「ほら、俺たち付き合い長いじゃん?」

「あっそ」


 一年も経ってねぇよ、と呆れながらに呟くと、純は、にしし、と笑って、焼きそばパンに齧り付いた。


 ――――その時だった。


「鶴見!鶴見和也!居るかっ!?」


 大声で叫びながら、安眠教師こと数学の鈴木が、乱暴に扉を開けた。

 嫌な予感が、和也の背中をひやりと駆け抜けた。

 鈴木は、慌てた様子で、和也のもとに駆け寄ると、早口で囁くように言った。


「鶴見、お姉さんが事故に巻き込まれたそうだ。今、病院から電話があって――――」


 純の手から、パンがポロリと落ちた。

 和也の目が、これ以上無いと言うほどに見開いて、そして、次の瞬間には、立ち上がっていた。

 体中から、血の気が引いていくのが分かった。視界がくらり、と歪み、足下がふらつく。今にもがくがく、と震え出しそうな程、寒かった。


「職員室に来なさい」

「――――はい」


 悲鳴を上げる胸とは違い、冷静な声が出た。


 教室を出て、廊下を歩き、階段を登る。そんな、いつもの行動さえ、煩わしかった。

 職員室までの道のりが、ここまで遠いと思ったのは、初めてだ。全てが、まるでスロウモードにされたかのように、もどかしい程ゆっくりに感じた。



 ――――あの、事故のときのように。



 職員室に入ると、教師全員の顔がこちらを向いた。上を向いたまま放置された古い型の、黒くてデカイ受話器が、ゆっくりと手渡されるが、なかなか手が出なかった。


 ――――そんな、冗談だろ?


 そんな気持ちで一杯だった。


 ――――まだ、夢を見てるだけだ。そうだよ、美里香が事故だなんて信じられない。


 今更ながら、そんな気持ちが湧き上がってきた。

 どくん、どくん、と心臓が早鐘を打つ。

 くらっ、と今にも倒れてしまいそうなほどだ。


「鶴見」


 鈴木が声をかけてきて、一気に現実に引き戻されたような感覚が襲った。

 鈴木の手には、相変わらず、黒光りするデカイ受話器。


 ――――夢じゃないんだ。


 じわり、と視界が霞んだ。

 震える手で、受話器を受け取り、耳に当てた。


「かわりました……鶴見です」


 受話機の向こう側の慌しさが、直に感じられた。

 ざわざわと人の話す声、走る慌しい音。


 全部知っている。

 あの時、自分はその中心に立っていたのだから。


『鶴見 和也くんですか?』

「はい」

『お姉さん……鶴見 美里香さんが、電車の脱線事故に巻き込まれたんだ』


 医者の声が遠く霞んで聞こえた。


「生きて……」

『ああ、生きている。でも、重傷だ。今から緊急の手術が――――』


 あとの言葉は、ほとんど頭には入ってこなかった。

 頭が熱かった。

 脳が溶けるのではないかと思うほどに。

 考えることが多すぎて、ぐちゃぐちゃで、何も考えられなかった。

 病院の場所を言われ、電話を切った頃には、もう、何がなんだか分からなかった。


「鶴見、大丈夫か」

「――――」

「病院に連れて行こう。来なさい」

「――――は、い……」


 ふらつく足取りで、鈴木の後を追った。


 何もかも、もう、視界には入ってこなかった。


 乗ったはずの鈴木の車の形も色も、病院までの道のりも、すべて真っ黒に塗りつぶされて、頭に、入ってこなかった。



・・・


 病院につくと、そこはあの時と同じだった。

 たくさんの怪我人が運び込まれ、軽傷者の手当ては、ロビー一帯を使って慌しく行われ、看護士達が駆け回り、被害者達の必死の訴えがあたりを支配する。



 記憶が混同する。


 今が過去になり、過去が今になる。今が遠くなる。過去と今が同時に目の前に再生される。



 重傷者を運ぶ担架が次々に運び込まれ、その中には、全身火傷で覆われ、元の顔が分からないような人もいた。和也と同じように呼ばれた被害者の家族達が、そこを走り抜けていく。目当ての人物の名を呼びながら。

 それは、まるで戦場の真ん中にある病院。被害者が次々に来るため、人手も医療器具も足りない。呻き声があたりを支配する、地獄絵図。

 あの時も、今も。

 そう感じたのは、同じ。


「――――」


 そんな、と口から漏れた、呻くような一言。

 和也は、必死に耳を押さえ、その場から逃げるように走り出した。

 思い出したくない事故を、必死で押さえ込むように。

 ロビーから離れると、そこには沈黙だけが広がっていた。

 手術室だ。

 幾つかの部屋はすべて、手術中のランプが光っていた。

 そして、その部屋の前に設置された椅子に、被害者の家族らしき人達が、神妙な顔つきで、黙って座っている。

 息を殺し、気持ちを押さえ込むような厳しい顔つきで。


 看護士が一人通るたびに、ぱっ、と立ち上がり、患者の様子は、と聴く。他の担当である看護士は、分からない、と足早にその人から離れ、その人は、再び椅子に戻って、黙り込む。

 その繰り返しだ。


「もしかして」


 そんな周りの様子を黙って観察しながらも、意識がほとんど無い状態で、呆然と立ち尽くす和也に、後ろから声がかかった。


「鶴見さんの……家族の方?弟さんの……」


 看護士が一人、そこに立っていた。


「美里香さんの手術室は、一番奥です」

「分かりました……」


 案内しましょうか、と言われたが、断った。

 落ち着かなければならない。

 ――――吐きたくなる威圧感に負けない為に。

 硬く閉ざされた扉の向こうで、姉は一体、どんな姿で手術を受けているのだろう。

 意識がないかもしれない。骨が折れてしまっているのかもしれない。内臓が潰れているかもしれない。どれほど重傷なのか、そこまで、医者の話を聞いていなかった。いや、もし聞いていたとしても、この状況下で、冷静に考える事が出来る自信は無かった。嫌な方向に、考えてしまう。そんなわけがないじゃないか!と信じることが出来ない。信じなくてはいけないのに。信じなくては。そうだ。あの時のように――――。


『和也、聞いて。私はね、あんたの最大の味方よ。家族とか姉とか血の繋がりとか、そんなのすっ飛ばしても、私は和也の味方だから。だから、あんたは黙ってあたしを信じてなさい――――』


(姉ちゃん)


 両親が死んで、引き取り手がいなかった自分達。

 成人していた姉がいたからこそ、今、こうして生きていられる。

 大学をやめ、就職し、高校受験を悩んでいた和也に、受験を進めた姉。

 彼女までいなくなってしまったら、自分は一体、どこに行けばいい?


(死ぬなよ――――)


 家族が二人だけになってしまっても、彼女は強かった。


『――――和也!ほら、起きな!いつまでも寝てんじゃないわ!!お母さんとお父さんに顔向け出来ない人生なんて、私が許さないわよ!』


 その笑顔が、泣きはらした赤い目での笑顔が、自分を立ち上がらせたのだ。立たなければならないと、思わせたのだ。彼女が居なければ、今、自分がどうなっているか、わからない。


 ――――そんな姉が居なくなるなんてことは、考えられなかった。


 家の枯れた桜を見て、来年は咲かせてこの下で花見をする、と意気込んでいた。


(桜、咲かせるんだろう?花見するんだろ?)


 ――――今朝、別れたとき、あんなに元気だったじゃないか。 和也は、ただ俯いて、沈黙の支配する廊下に、ただ、佇むことしか出来なかった。




 ぱっ、と手術中の明かりが消えた。

 

 いったい、どれくらいの時間が経ったのだろう。重い腰を上げ、扉を見つめていると、暫くして、医者が姿を見せた。

 汗の滲む青い服。

 目があった。


「姉ちゃんは――――」


 自分の声が震えていることに、気付いた。

 医者は、少し微笑んで、和也の肩に手を置いた。

 

「手術は一応、成功したよ」

「!」

「まだ麻酔の効果で、眠ってはいるが、大丈夫。内臓器官に骨が刺さって危険な状態だったが……一命は取り留めた」

「じゃ、じゃあ」

「あとは、彼女の体力の問題だ。二時間位したら、目を覚ますと思うよ」


 がらがら、と音がして、姉を乗せたストレッチャーが自分の横をすり抜けていった。

 その後をゆっくりと、ついていきながら、和也は心底安堵した。

 あの姉が、体力勝負に負けるはずが無い。

 そう信じながら。

 


・・・



『そっか、姉ちゃん無事だったか!』


 ケータイの向こうで、純の弾んだ声がした。


「ああ、なんとか」

『良かったなー。あ、じゃあ、あとで家に鞄届けといてやるよ。今日に限って宿題多いからな。覚悟しとけよ』

「マジで?明日、休もうかなぁ」


 冗談交じりの言葉に、純が笑って言った。

 

『助かったんなら来なきゃダメだろ、やっぱりさー。ほら、しかも、明日から人権学習とか言って調べ学習始まるじゃん?来なきゃヤバイぜ』

「お前、嫌な事ばっか教えてくれるのな……」

『ホントの事だしぃ。ほら、俺、友達思いだろォ』


 けらけら、と派手に笑う声。

 それに混じって、電車が来ることを知らせる放送が聞こえてきた。


『おっと、ヤバイ。電車来ちまった。んじゃ、また後でな!』

「おう」


 ぶちっ、と乱暴に切られた。

 ケータイを閉じ、にっ、と笑う。

 今更ながら、姉の無事を実感できた。そんな気がした。

 病室に入ると、機械の規則正しい音が、心臓が正しく動いていることを知らせてくれる。


 と、美里香の目蓋が、ピクリと動いた。


「――――ぅん……」


 小さな呻き声と共に、ゆっくりとそれが開き、黒い双眸が覗いた。


「――――うー……ん……?」


 徐々に焦点があい、そして、その目が、和也を捉えた。


「和也?」

「おう」


 美里香は、暫く沈黙して、辺りを見回していた。

 そして、自分の状況――――ベッドに寝かされ、各種機具に繋がれた自分の体を見て、不意に、うわっ、と一声呟いた。


「私、事故って」

「うん」

「――――っはー……死ぬかと思ったわぁー」

「死にかけてココに運び込まれたんだよ」

「む。そうだったのか」

「……今、目を覚ましたトコなのに、なんでそんなに元気なんだ」

「あら、私はいつでも元気よ」


 にっこりと笑って、そして、不意に黙った。

 そして。


「ごめんね。心配かけたわね」


と囁くように言った。


「まさか、二度も、こんな命拾いするとは思わなかったわ。あの時は、死ぬと思ったもの」


 また、今度は小さく笑った。


「死ななかったな」

「がっかり?」

「――――まさか。俺、心配で……」

「なぁに?泣いてるの?全く、和也は泣き虫ね」


 そんなこと無い、と首を振って、和也は椅子に腰掛けた。

 顔が熱い。

 嬉しさで――――実は、少し、泣いた。


「ねぇ、和也」

「うん?」


 目元を擦って、和也は顔を上げた。


「私さ、夢の中で、あの桜を見たのよ」

「あのって……家の?」

「そう。満開の桜でさ――――お父さんと、お母さんと、私と、あんたとで、お花見してた。ずっと昔の」


 懐かしそうに目を細めた美里香の目は、少し、潤んでいた。


「思えばさ、あの桜が咲かなくなったのって、あの事故があった、次の年からだったんだよね」

「そう……だったな」

「私……私達がいつまでも、あの事故のこと引きずっているから、桜も気を使ってさ、咲くに咲けないんじゃないかなって思ったんだ」


 ふふ、と笑って、美里香は目元を拭った。


「もう、何年も前だよね」

「ああ」

「――――私達、少し、止まりすぎたかもしれないね」

「……」

「お母さん、あのとき、言ってたよね。貴方達だけでも助かって、ってさ。きっと、そう言いたかったんだよね。でもさ、それって、ただ助かるだけじゃなかったんだよね。助かって、確り生きていけって事だったんだよね。そういうこと、私達、聞き流してた。きっと」


 美里香は、静かに微笑んだ。


 その顔は――――母の笑顔に、そっくりだった。



 すぅすぅ、と美里香の寝息が規則正しく響いている。

 その寝顔を見ながら、和也は、ゆっくりとズボンのポケットから、あの金時計を取り出した。


「――――そうだな、姉ちゃん。俺達、時間を止めすぎたかもしれない」


 ピクリとも動いていない秒針。

 あのときから、一度も。


『自分に整理がついたら、動かすの』


 母の言葉が、頭に響いた。


「母さん、もう、良いよな……」


 ぼそりと吐いて、金時計の龍頭を、ゆっくりと押した。



 かちっ。



 重い音が部屋に響いた。

 そして、暫くの間をあけて、秒針は、ゆっくりと動き出した。


 ちっ、ちっ、ちっ――――。


 部屋に、その音は響きだした。

 

 あの時から止まっていたものが。


 自分の 時間きもち が。


 和也は、ゆっくりと立ち上がり、その金時計をベッド脇の棚にのせて、背を向けた。

それが、過去を過去とした彼の、彼なりの答えだった。


 その暫く後。

 美里香は、ゆっくりと目をあけた。

 ぼんやりした目で辺りを見回し、そして、あの金時計を見つけた。


(――――これ……)


 和也の金時計。

 あのときから、ずっと止まったままだった、あの。


(和也……)


 手を伸ばして、とったその金時計は、しっかりと、時を刻んでいた。

 止まることなく、規則正しいリズムで。


「――――」


 美里香は、その金時計を額に押し当てた。

 まるで、その一秒一秒のリズムを、自分にも刻みつけるように。



「ありがとう……和也――――」


 ぽろ、と涙が頬を伝った。

 美里香は、その涙を抑えようともせず、ただ、時計を額に押し当てて、そのリズムを、聴いていた。



・・・


 三ヵ月後。四月。


 春麗はるうらら な季節に、美里香は退院した。

 後遺症もなく、ひどい傷は大体治った。歩くことは、もう自分ひとりでできる。

 

「ったく、和也は。一人で帰って来い、なんて!」


 迎えに来たっていいじゃない、とぶつぶつ言いながらも、彼女は歩いて帰路についていた。

 ものすごく歩きたい気分だったのだ。

 それに実は、家から病院までは、案外近かったりする。

 和也の学校から病院まではかなり遠いのだが。


「それにしても、ああ、懐かしや我が家!やっと帰れるなんて幸せ!」


 通行人たちが訝しげな目を向けるのにも構わず、美里香はさっきから独り言をかなりデカイ声で言いまくっていた。

 病院内では、おしとやかなお嬢さんで通す、と無駄な意地を張り、本当にやり遂げた結果、かなりの間、デカイ声というのを我慢してきた、その反動だろう。


  と、近所のオバサンが、美里香ちゃん、と声をかけてきた。


「おばさん!」

「まーすっかり元気になって!」

「ええ、おかげさまで。お見舞い、ありがとうございました」

「いいのよー近所のよしみじゃない」


 ぽんぽん、と肩をたたいて、オバサンは笑った。


「でも、本当にびっくりしたわ。美里香ちゃんが大怪我なんて言うから!でも、もうすっかり大丈夫ね。リハビリの成果かしら」

「ええ!頑張りましたから♪――――あ、そうだ、おばさん、私がいない間、和也のこと、どうもありがとうございました」


 このオバサンに、和也は暫くお世話になっていたのだ、ということを思い出し、ぺこり、と頭を下げると、オバサンは、ふふっ、と笑って首を振った。


「いいのよ、別に。和也君、とっても良い子だったわ。お手伝いもしてくれたし、こっちのほうが助かっちゃった……それにねぇ、私、感動しちゃったのよ」

「――――へ?」


 ぱっ、と手を組み、オバサンは、うんうん、と頷いた。


「今時あんな優しい子も少ないと思うの」

「な、何が――――ですか?」


 すると、オバサンは意味有りげに笑って、まぁまぁ、と言った。


「行ってからのお楽しみよ!きっとびっくりするわ、美里香ちゃん!じゃあね、和也君に、またお手伝いに来て頂戴ね、って伝えておいてね!」

「――――は、はぁ?」


 手を振って去っていったオバサンを見送り、美里香は呆然としていたが、直ぐにまた歩き出した。

 次の角を曲がれば、直ぐに、その答えは分かるだろう、と思ったのだ。家は直ぐなのだから。


 やや早足で角を曲がった美里香は――――暫く、そこに立ち尽くした。



「うそ……」


 夢を見ているのか、と思った。でも、違う。夢ではない。

 何故なら、頬をつねってみても、痛いからだ。


「スゴイ……」


 呆然としていた美里香は、はっ、として、我が家に駆け寄った。


 和也が、そこに居た。

 にっ、と笑って。


「か、和也!」

「なんだよ、ただいま、が先だろ、姉ちゃん」

「た、ただいま!」

「おう、お帰り」 


 なんともちぐはぐな挨拶を済ませると、和也と美里香の目は、すっ、とそれに向かった。


「和也……」


「頑張ったんだぜ?」


 そこには、桜があった。

 満開の、綺麗な、薄桃色の花びらをつけた、桜が。


「純の――――友達の親父に頼んで、貰ってきたんだ」


 若い桜だ。

 まだ細く、背も低い――――しかしその分、生命を感じさせる、生き生きとした桜。


「んで、そのついでに」


 へへっ、と笑って、和也は言った。


「そっちの桜も、診てもらったんだよ」


 あの、枯れていた桜が。


「なんとか虫が住み着いてて、栄養取られてたんだってさ。それとったら、このとおり」

「――――」


 咲いていた。


「ホントは、満開のトコ見せたかったんだけど。予定より、姉ちゃん、退院が早かったからさぁ」


 そう。満開とは言えない。

 そして、たくさんの花が咲いているわけでもない。

 でも。


「でもさ、綺麗だろ?」


 ――――綺麗、だった。そう、本当に。

 

 美里香の目が潤み、彼女が何か言いかけたところで、和也は、ちっちっ、と人差し指を振って、にやり、と笑った。


「おっと、姉ちゃんは、まだ感想言っちゃあダメだぜ。満開になったら、花見するんだから。そんときに聞かせてくれよ。感謝の言葉をさ!」

「――――ったく、あんたは。調子良いんだから!」


 ばしっ、と和也の背中を叩くと、美里香はゆっくりと、家に入っていった。そのあとを、和也も嬉しそうについていく。

 若い桜と、美しく命の灯火をあげなおした桜は、二つ並んで、二人を見送った。




 ――――姉弟と、二本の桜は、この日、再び歩み始めた。

 歩めなかった数年分の時を、取り戻し、更に前へと進むために。



 迷うことなく、規則正しいリズムと共に。





fin.


こんにちは、風野です。満開−心時間の金時計−、読了ありがとうございました。

この作品は、高校1年生のときのもの。文化祭という昔なつかしなイベントの際、文化祭特別号、と銘打って部活で「Rebirth」をテーマに書いたものです。高校生になって初のテーマ小説ってことでかなり意気込んだ思い出があります……。

テーマ、って難しいですね、本当に……。そして、締め切りという存在にどれだけ苦しめられたやら……。

それでも、愛情と心意気(?)だけは詰め込んでいた筈の作品ですので、楽しんでいただければ幸いですw

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