ハイドランジア
霧雨と言うにはいささか無理のある粒のはっきりした雨の中を、急ぎもせずに軽い足取りで歩いて行くのは、見知った後姿だ。肩まである髪は雨を含んで、白いブラウスからは内側の腕の色が透けて見える。ふと立ち止まったかと思うと、くるんと回転してみたりする。
「何してんの、望月」
思わず出た呆れ声に、彼女はびくんと振り向いた。
「やだ、松田。見てた?」
「見てた?じゃないだろ。傘、ないの?」
「持ってるけど、嫌いなのよね。気持ちいいよ、雨。松田も傘なんて畳みなよ」
望月の不思議な感性には、もう驚かない。なんせ、保育園からの長いオツキアイだ。
「天才ゴールキーパーの黄金の肩を冷やさせようって言うのか」
「黄金?金メッキでしょ、今年も二回戦敗退」
沙織ちゃん一弥くんと呼び合うことは、もう無くなっていたけれど、中学生のときみたいにお互いにそっぽを向いたりしない。気の置けない会話のできる異性の友達は、稀有な存在だ。
「受験、決まった?」
「サッカー部がある大学なら、いいや。望月は美大?」
夏の大会の後に部活動は引退で、僕たちは晴れて受験生だ。
「あたしはまだ、絞り中……かなあ。美大じゃない」
雨の中、望月は不思議な微笑み方をした。
中学生の時、望月は特定の有名人だった。絵のコンクールで入賞者の常連であり、雑誌や新聞の地方欄に名前が挙がるたび、朝礼で挨拶をしていた。美術のクロッキーですら彼女の引く線は綺麗で、美術室にはいくつもの、彼女の作品が飾られていた。だからこそ、三年生で県のコンクールの大賞に輝いたのは、当然だと誰もが思った。
学校に戻った絵は職員室の前に飾られたが、すぐに外された。誰かが上から墨汁を塗ったらしいと聞いたのは、ずいぶん後になってからだ。
美術コースのある高校に進学すると思っていた望月と入学式で顔を合わせたとき、僕はひどく驚いた。望月は美術部には入らず、もう朝礼で挨拶することもない。
「中学のとき、あんなに賞もらっといて」
「もう時効だよね。職員室の前の絵、墨汁塗ったのはあたし」
空を仰いで雨を顔に受けながら、望月は笑う。
「なんで?」
「見られたくなかったんだもの。あたしの名前が書いてあるのに、あたしの絵じゃない」
「他の人が描いたの?」
驚いて、望月の顔をまじまじと見た。
「夏に描いて、提出したの。もう部活引退だからって、夏休み中使って」
「じゃあ、やっぱり望月の絵じゃん」
望月はうんざりしたように、同じこと言う、と呟いた。
「先生と同じこと言う。確かに、元を描いたのはあたし。入選したくて描いたんじゃないの。描きたいものがあって、描いたのよ」
「どういうこと?」
「それじゃ賞に届かないから修正したよって。先生の筆があたしの筆を消して、線を変えて。あれはあたしの絵じゃない。あたしが夏休みの間に思い浮かべてた風景じゃない」
その絵がどんな絵だったか、僕は覚えていない。僕には芸術なんてものは理解できないし、修正されようが添削されようが、そんなに変わらないんじゃないかと思う。
「100メートル走るときに、自分の後ろにだけ巨大な扇風機があって、強い追い風で走って出た記録が自分の記録だって言える?」
「ありえない」
「うん、ありえないの。だけどそれが公式記録だって認定されちゃったら、どうする?」
僕にも理解できる表現で、望月は説明しようとしている。聞かなくちゃいけない気分になって、僕たちは公園の滑り台の下に入った。
「あたしの絵は、あたしのもの。それが賞なんてとれなくたって、先生から見ればヘタクソだって、あたしはあたしが空想した風景を絵にできて、満足だったの」
「いいじゃん、一回満足したんなら。絵だって、良くなったんだろ?」
スクールバッグの中をごそごそ漁り、出てきた高校の広報誌を尻に敷いて、僕たちはぺたりと地面に座った。
「良くなったのかどうかなんて、知らない。あたしが作ったんじゃない色が乗ってた。あたしの記憶にない線が入ってた」
そう言って、望月は一度口をへの字に結んだ。
「難しいんだな、ゲージュツカさんは」
「二回戦敗退のサッカー部、楽しかった?毎日走りこんで、きったないボール磨いて」
勝てない部の予算は少なくて、僕らは破けたゴールネットを補修しながら、部活動を続けていた。でも、それが苦痛だなんて思ったことはなかった。
「いいんだ、俺らは。一緒にサッカーして、腹減らして一緒にラーメン食えれば」
「あたしも、おんなじ。較べるための絵なんて、描かない。趣味で描くから、いいの」
「でも、上手くなりたいとは思うぞ?勝てればもっと楽しいしさ」
スポーツの勝敗は単純で、上手いほうが勝つ。ゲージュツみたいに、基準のないものとは違う。
「上手くなりたいとは思ってるよ。どうしたら自分が思うとおりに描けるんだろうって考えたりしてさ」
僕の顔を見ずに、望月は滑り台の下から公園を見回した。少し乾き始めたブラウスは、白さを取り戻し始めている。
「だからみんな、学校行って教えてもらうんじゃないか?一人で考えてたって、限度があるだろ」
スポーツ脳の僕は、単純だ。教えてもらって技術が向上するんなら、是非とも教えてもらいたいと思っている。
「そうかな。較べるためじゃなくて?」
「商売にするんなら、較べるんじゃねえ?ってか、おまえの絵ってプロで通用するわけ?」
「しないよ、しない。学生コンクールレベル」
望月はやっと笑いながら、否定した。
滑り台の下から出ると、雨は霧雨に変わっていた。植え込みのアジサイに水滴が溜まり、雨を喜んでいるように見えた。今度は折り畳み傘を開きながら、望月は僕を見る。
「水の器、って名前なんだよね」
「何?」
「学名。ハイドランジアって、水の器って意味なの」
まだ水を含んだ髪を首に張り付かせ、望月はアジサイをつついた。
「聞いてくれて、ありがと。松田とは長いつきあいなのに、こんなに一緒にいたこと、なかったよね」
「そう言えば、そうだな」
保育園のころの世話好きの沙織ちゃんは、小学校ではおとなしくて目立たない沙織ちゃんになり、中学校では絵が上手な望月になっていた。
「また一弥くんって、呼ぼうかな。保育園のときみたいに」
「俺は沙織ちゃんって呼ぶのか?今更じゃねえ?」
「いいじゃん、幼馴染なんだから」
夏休み前に行われた三者面談で、僕は三流大学の志望を高校に提出し、教師からも妥当だと返事を貰った。望月がどこを志望したのか、知らない。望月の言った通りに夏の大会で二回戦敗退した僕たちは、とっとと部活動を引退して、緊迫感のない受験生になった。
望月とは時々、一緒に帰った。とりとめのないおしゃべりをしたり、ファーストフードに寄り道をしたりした。それまではただおとなしい女の子だと思っていたけれど、望月は意外に饒舌で博識だった。いろいろなことに興味があり、地味ながらも小さな知識を身体中に纏っていた。
夏休みが始まって、僕は制服でない望月と待ち合わせた。白っぽいワンピースを着た望月は、僕が考えていたよりずっと可愛らしかった。
「一弥くんがジャージ以外を着てると、違う人みたい」
なんだかお互いやけに照れてしまい、たかだか駅前のカフェに座るのに、席を斜めに取ったりする。受験勉強は進んでいるかとか、新しい映画は何を見に行きたいとか、要するにただの暇潰しだけれど、何か特別の時間を過ごしているようだった。
友人何人かで一緒に出掛けた夏祭りで、同じように友達に囲まれた望月を見た。明るい顔で笑う望月は、いつか滑り台の下で話したのとはまるで別人で、僕に奇妙な優越感を抱かせた。
望月があんな打ち明け話をしたのは、僕にだけだ。僕は誰も知らない望月を、知ってる。その感情を恋だと気がつく程度には、僕は育っていた。
夏休みの終わりに望月は僕を呼び出して、大き目の紙袋を差し出した。油の匂いがぷんと立つ。
「何?絵?」
「うん、貰って。一弥くんに持ってて欲しい」
「絵なんて貰ったってなあ。値がつくんならともかく」
憎まれ口を叩きながら絵を取り出して持ち上げる。水色が、目に入った。
「アジサイ?」
「うん、雨の中のアジサイ」
滑り台の下に座っていたあの日が、目の前に迫ってきた。
「美大、受験するって決めたの。他の人と較べたり賞とったりするためじゃなくて、自分がもっと満足するものを描く。一弥くんと喋ってから、ずっと考えてた」
望月は身を乗り出して、瞳を輝かせた。
「だからね、それを考えさせてくれた日を忘れたくないって思って。一弥くんが言ってくれなかったら、あたしはずっと中学生のときの失望感引きずってて」
テーブルの上に出した絵は、淡い縦線の中でくっきりと咲くアジサイだ。あの日、長いつきあいの僕らは、はじめて知り合った。
小さな知識の花をたくさん纏って、それが望月を形作っている。アジサイは、まるで望月そのものじゃないか。
「ハイドランジア、だっけ」
「うん、よく覚えてたね」
あの日の望月のことは、ちゃんと覚えている。水を含んだ髪も、思いの外激しい言葉も。
「ちゃんと勉強して、小さい子に絵を教える先生になる。それで、自分の描きたいものを描く」
微笑みながら穏やかに、望月は僕に向かって決意を告げる。僕も、負けてられない。望月に努力を約束させて、自分は安穏としているなんて。
「俺も志望校のランク、上げるかなあ」
「どこ志望?」
答えずに、望月の輝いた顔を見た。
希望という水を満々と湛えた望月は今、大きなハイドランジアだ。その水をこぼさぬように、僕は今、番人になりたい。
「俺たち、つきあってる?」
「微妙?でも、そうだったらいいなって」
望月の頬に、朱が上った。
fin.




