五部
日も暮れかけたころ、老人はふとあることを思い出し、とたんに勇気づけられた。かれは昔、カサブランカの居酒屋でシェンフェゴス生まれの黒人の大男と腕相撲をしたことがあった。相手は波止場きっての腕っぷしの持ち主だ。かれらはテーブルにチョークで線を引いたところに肘を重ね、腕をまっすぐに立て、手をぐっと握りあったままずっと動こうとしなかった。どちらも相手の手をテーブルにねじ伏せようと力をこめつづけてはいた。勝負には相当の金が賭けられていて、見物人が石油ランプに照らしだされた部屋を出たり入ったりした。かれは黒人の腕、そして手を、顔を、じっと見つめたまま目を逸らさなかった。審判は最初の八時間で根をあげ、睡眠をとるため四時間ごとに交代していた。かれも黒人も、指の爪に血をにじませていた。それでもなお、互いに相手の眼の色をうかがい、手と腕に目を釘付けにすることは忘れていない。勝負に賭けた連中は、入れ替わり立ち代り部屋にはいってきては壁ぎわの高い椅子に腰を下ろし、勝負の行く末を好奇の眼差しで見守る。あかるい青色のペンキで塗装された板張りの壁に、ランプが群衆の影を大きく映しだした。炎がかすかな風に煽られるたびに、黒人のひときわ大きな影法師がゆらぐ。
勝負は一晩すぎたところで決着がつかなかった。見物客が黒人にラム酒を飲ませてやったり、煙草の火をつけてやったりしていた。相手はラム酒を一口ほうりこむたびに、馬鹿力をだして襲いかかってくる。一度は老人も、いや、そのころはまだエル・カムペオン(訳注 スペイン語=選手)のサンチャゴだったが、三インチほど押されて、あやうく負けてしまいそうになった。だがかれは、腕をまた元の垂直の位置に押しもどした。そのときかれは、この肉のかたまりのような巨漢の黒人を打ち負かした気分になった。夜明けごろになると、賭けた連中が引き分けにしたらどうかとざわめきだし、審判も首をかしげはじめたころになって、かれは最後の力をふりしぼり、黒人の手をぐいぐいと押したおし、ついにはテーブルの板にぴったり押さえつけてしまった。勝負は日曜の朝にはじまって、月曜の朝におわった。勝負の最中、賭けた連中はなんども引き分けを主張していた。というのも、かれらのほとんどが砂糖袋の荷役で波止場に出かけなければならなかったり、ハバナ石炭会社に勤めていたりしたからだ。そうでもなければ、だれだって勝負を最後まで見ていたかっただろう。だからかれは、かれらの気持ちを汲んでやり、みんなが仕事に間にあうよう決着をつけてやったのだ。
その後しばらく、かれは「チャンピオン」という呼び名になった。春にはリベンジマッチも催された。けれど今度はたいした賭金が賭けられなかった。一回戦でシェンフェゴス生まれの黒人の自信をずたずたに打ち破ってしまっていたので、かれは難なく賭金をせしめることができた。かれはその後も二、三度勝負をした。だがそれきり勝負には手をださなくなった。その気になればどんなやつだって目じゃない、だが、漁をするには右手がなにより大切だ、かれはそう思ったのだ。左手で二、三度勝負をしてみたことがある。しかし、左手はいつもかれを裏切った。じぶんの思い通りに動いてはくれない。それからというもの、かれは左手を信用しなくなった。
太陽の熱がいいぐあいに利いてくれるだろう、とかれは思った。夜のうちあまりに冷えさえしなければ、つるようなことはもう二度とあるまい。けれども今夜はいったいどうなるか、わかったものではない。
飛行機がマイアミのほうを向きながら、かれの頭上をすぎていった。その影が飛魚の群れをおどろかせ跳ねあがらせるさまを、かれはながめていた。
「こんなに飛魚がいるなら、きっと鱪もいるはずだ」かれは口に出してそういうと、肩にかけた網に体重をかけるようにしてのけぞり、すこしでも引けるかどうかをたしかめてみた。綱の先は梃でも動かない。綱はいまにも切れそうな気配をみせながら、ぱっと水飛沫をちらしてふるえる。舟はゆっくりと海面をすべっていった。かれは飛行機を見あげ、姿が消えてしまうまでそのあとを目で追う。
飛行機ってのはどんな乗り心地なんだろう、かれは思った。あんな高いところからながめたら、海はどんなふうに見えるのだろうか? 高度がなければ魚も見えるかもしれない。二百尋くらいの高さでゆっくり飛んで魚を見下ろしてみたいものだ。いつだったか、海亀とりの舟に乗りこんで、マストのてっぺんの横桁から下を見たことがあったっけ。そのくらいの高さでもずいぶんよく見えたものだ。上からだと鱪はもっと緑色に見える。縞や紫色の斑点もはっきり見える。それから群れをなして泳ぎまわっているようすも俯瞰できる。それにしても、暗い潮流に乗って旅をするすばしっこい魚が、そろって紫色の背中をもち、示しあわせたように紫色の縞や斑点さえあるのはどういうわけなんだ? 鱪は実際には金色をしているから緑色に見える。そこまではわかる。色が違うなんてのも当然のことだろう。だが、腹がへってきてなにか食いはじめると、マカジキとおなじような紫色の縞が横腹にできる。それは怒りからなのか、それとも、すごい速さで泳ぎまわるからなのだろうか?
そろそろ暗くなるかというころ、舟は島のように盛りあがった海藻のそばを通りすぎた。軽快な波に揺られ、まるで海が黄色い毛布の下でなにかと戯れているようだ。そのとき、短いほうの綱に鱪が食いついた。いきなり水上に跳ねあがってきたので、すぐにわかった。弱った光をうけて金色に輝きながら、身をくねらせるようにして荒々しく空をたたく。つづけてなんども跳ねあがる、狂気のアクロバティックだ。老人は船尾のほうにすり寄り、うずくまり、右手、右腕に大網をゆだね、左手だけで鱪の網を引きはじめる。すこしづつたぐっては、それを左足でおさえた。どうにか魚を船尾の近くに引き寄せると、魚は死にものぐるいであちこちにあばれまわる。老人は、舟から体を乗りだして、紫色の斑点のある研磨されたように輝く金色の胴体を引きあげた。激しく鉤にかみついて顎をがちがちふるわせている。長い平べったい胴体が、頭も尾も関係がないといくらいに、滅茶苦茶な体当たりを船底にあびせる。きらきら照り輝く頭を目がけ、老人はなんども棍棒を打ちおろした。魚は痙攣をみせ、やがて動かなくなった。
老人は鉤を口からはずし、ふたたび鰯の餌をつけて海中に投げこんだ。そしてのろのろとへさきのほうへ戻っていく。まず左手を海水で洗って、ズボンでふく。それから右手の大綱を左手にもちかえ、右手を洗う。そのあいだ、海の下に沈もうとしている太陽が、老人の目に映されていた。それから大綱の傾きぐあいに目がいく。
「やつめ、ちっとも参っていないな」だが手にふれる水の抵抗感に気をくばってみると、かすかにだが遅くなっていることがわかった。
「オールを二つとも船尾に結びつけておいてやろう。そうすれば夜になって速力も落ちてくるだろう」とかれは口に出していった。「やつは夜になると威勢がよくなりやがる。だがな、おれだって夜は得意なんだ」
鱪はすこしたって裂いたほうが、その血を無駄にしないですむ。時間をおいてから料理することにしよう。魚の力をそぐためにオールを縛りつけるのも、そのときに一緒にしてしまえばいい。いまはまだ手をださないほうがいいんだ。夕方はそっとしておいたほうがいい。どんな魚だって、陽の沈むころは扱いにくいものだからな。
老人は手を風にあて、乾かした手で綱を握ると、できるだけ体の力をぬき、へさきに寄りかかったまま魚に舟をひかせた。綱へと割くはずだった労力は、いまや舟が受けもってくれている。
どうやらこつがつかめてきたぞ、そうかれは思う。とりあえずはこの手でいけばいい。そういえばあいつは、餌に食らいついてからというもの、ずっとなにも食えてない。あの図体にはたまらないだろうな。おれは、鮪を一匹まるまる平らげた。あしたは鱪のご馳走だ────老人は鱪のことをわざとドラドーとスペイン語でいった────たぶんそいつを平らげることになるさ、ちゃんと料理をしてな。そりゃ、鮪よりは食いにくい。だが、世の中にはそれほど都合のいい話ばかりころがってるわけじゃない。鱪で十分だ。
「おい、どうだ、ぐあいのほうは?」老人は大声で魚に声をかける。「おれは元気だよ、左手もよくなったし、食い物だって今夜とあすの昼間の分まで用意できているしな。さあ、舟を引っ張れ、引っ張るんだ」
かれは虚勢をはっていた。背中の痛みはほとんど痛みの域をとおりこして、じぶんでも信じがたいほど感覚のない状態に達してしまっていた。だが今までに、これより辛いことがなかったわけではない、とかれは思う。いまのところ右手はほんのかすり傷程度であるし、左手のつりもどうにかなった。脚には問題がない。おまけに食糧という点においては、やつよりおれのほうに分がある。
陽が沈むと、九月の海はたちまち陰る。もうすでに暗い。老人はへさきの朽ちかけた板に背をもたれ、仰向けになって空を見上げていた。やがて、いくつかの星がみえはじめる。かれは名前を知らなかったのだが、オリオン座の片足であるリゲルを見すえていた。名前など知らなくとも、かれにはわかっている。他の星々もすぐに輝きだし、やがては遥か遠くにいる大勢の友人に迎えられるであろう。
「そう、魚だって友人なんだ」とかれは大声をだしていった。「こんなでかい魚は見たことも聞いたこともない。けれど、おれはやつを殺さなくてはならないんだ。ありがたいことに、星は殺さなくてもいいらしい」
考えてみれば、もし人間が月を殺すために毎日あがいていなければならないとしたら、月は逃げ出しちまうだろう。だけれど、もし万が一、太陽を殺すためにあれこれ考えなければならなくなったら、いったいどんなことが起こるだろう? だから、おれたちは幸せに生まれついているんだ、とかれは心のなかで思う。
すると、食うものもない大魚がふいに哀れに思えてきた。しかし、かれの、殺そうという決意は、決して憐憫の情には打ち負かされることがなかった。あれ一匹でずいぶん大勢の人間が腹を満たせるだろうな、とかれは思う。けれども、その人間たちにはあいつを食う値打ちがあるだろうか? あるものか。もちろんそんな値打ちなんてあるわけがない。あの堂々たる身のこなし、威厳。それらを兼ね備えたあいつを、食う値打ちがある人間なんて、ただの一人もいるはずがない。
そう考えてしまうと、おれはなにがなんだかわからなくなる。しかし、太陽や月や星を殺さなくてもいいってのは、ありがたいことだろうさ。海とより添いながら暮らし、おれたちのほんとうの兄弟だけを殺していれば、それでもう十分だ。
いや、おれはいま、魚のちからをそぐことだけ考えていればいいんだ。もちろん、それも一長一短なんだがな。もしオールを舟に縛りつけ舟足を落としたとして、やつが最後のふんばりを見せて突っ走っちまったら、綱をどんなにくりだしたって結局は逃げられちまうってことになりかねない。かといって、いまここで何もしないとなると、おたがいの苦痛を長びかせるようなものだ。おれにとってはそのほうが安全なんだがな、やつはまだまだ力を出しきっちゃいないしな。どちらにせよ、鱪は腐らないうちに料理して、すこしでも食っておくにかぎる。体力がなくなっちまったらおしまいだからな。
そうだ、もう一時間くらい、こうして休んでいよう。そしてやつが頑張って舟をひいているあいだ、その様子を見ておくことにしよう。船尾のほうへ行って仕事にかかるのはそのあとでいい。ゆっくり肚もきめよう。もうすぐだ。やつが行動を起こすか、なにか変化を見せるか、いずれにせよなにかしら起こる。オールを縛り付けるってのはいい手だ。だが、そろそろ慎重にいかないといけない。なにしろ相手は大物だ。鉤がやつの口に引っかかっているのを、おれはこの眼で見た。口はぴったり閉めていたかな。鉤が引っかかったって、やつには大したことじゃないさ。けれど腹がへったら話は別だ。それに、やつにとってなんだかわけのわからない事態にぶつかっているってことは、もうそれだけで大変なことなんだ。爺さん、いまのうちに休んでおくんだな。次のステップにうつるまで、やつにだけ働かせておけばいい。
老人はしばらく体を休ませていた。二時間くらいたったような気もする。その晩、月の出は遅かった。時間を知る手だてがなかったのだ。ほんとうのところ、かれは完全に体を休ませていたわけでもなかった。相変わらず魚の手応えを肩で感じるようにしながら、左手をへさきの舷にかけ、魚への力をなるべく舟全体に預けようとしていたのだった。
綱を縛っておければいいのだが、やつがちょっとひともぐりでもしようものなら、綱はいっぺんに切れてしまう。魚の引きをおれの体で調節してやって、いつでも両手で綱を繰り出せるようにしておかなければならない、そうかれは思った。
「きのうから一睡もできちゃいない」老人はじぶんに向かって大声でいった。「あれから半日、一晩、それにもう一日と、眠ることもできやしない。やつがあばれださないうちに、なんとか眠らないといけない。じゃないと、そのうち頭がぼうっとしてくるからな」
だが、いまのおれはとてもすっきりした気分だ。頭もすごく澄みきっている。兄弟分の、あの星くらい、澄んでいるんだ。それでも、やっぱり眠らないといけない。星だって眠るし、月だって太陽だって眠る。海だってときどき眠るんだ。潮流がおとなしくなって、鏡のように静かになってしまう日がある。
いいか、眠らなければだめだぞ、かれは自分にいいきかせる。綱のほうは、うまいこと調整できるように工夫しておいて、どうにか体を休めなければいけない。さあ、船尾に行って鱪を料理するんだ。眠るのであれば、オールを縛りつけておくのは危険だからやめておけ。
いや、眠らなくてもおれは平気だ、かれは自分にそう言い聞かせる。だが、このまま無理をするというのもすいぶん危険な話だった。
かれは魚に刺激を与えないよう気を配りながら、手と膝で舟板を這い、船尾のほうへ移動しはじめた。ひょっとすれば、やつも半分眠っているかもしれない、かれはふとそう思った。休ませるものか。お前は死ぬまでこの舟を引きつづけるんだ。
船尾に戻ってから、かれは肩ごしに網を左手にもちかえ、右手でナイフをとりだした。いつしか空一面に星が輝いていた。鱪の形がはっきりと見える。かれはその頭にナイフの刃を突きたて、舟陰から引きずりだした。それから、片足でしっかりとおさえ、肛門から下顎の先にかけて、さっとナイフを走らせる。ナイフを下におくと、右手で腸をつかみだして中をきれいにし、鰓を抜きとる。胃がばかに重く、右手からすべり落ちそうになる。かれはそれを裂いてみた。なかから飛魚が二匹出てきた。まだ鮮度も良く身がしまっている。ひとまずそれを脇に並べておき、鱪の臓物と鰓を舷から投げすてた。それは燐光を発しながら、尾を引くように水のなかへ沈んでいった。鱪は冷たくなり、星の光に照らされて醜い灰白色のかたまりに見える。老人は右足で魚の頭をおさえ、今度は片側の皮を剥がした。さらに、裏返しにして反対側の皮を剥がし、両側を頭から尾まで二つに切り分けた。
かれは骨を水中に投げこむと、渦巻きができるかどうかながめてみた。しかしただ微かな光を発しながらゆっくりと沈んでいくのが見えるだけだ。かれは鱪の二枚の肉片のあいだに飛魚をはさみ、ナイフをさやにおさめて、のろのろとへさきのほうへ戻っていく。綱の重みで背が曲がっている。右手には魚があった。
老人はへさきにたどり着くと板の上に鱪の肉片を並べ、そばに飛魚を置いた。それから肩の綱の位置を整え、舷に置いた左手でしっかりと握りしめる。かれは舷から乗りだして飛魚を洗いながら、手に残る水の手応えをたしかめていた。鱪の皮を剥いだ手から光の粒がこぼれていく。からみつく水の流れをただただ見つめる。いくらか勢いが落ちてきたようだ。舷の外板に手をこすりつけると、鱗がはげ落ちて水面に浮かび、船尾にむかってゆっくりと流れていく。
「あいつめ、疲れちまったのか、それともひと休みしているだけかな」と老人はつぶやいた。「さて、おれも鱪でも食ってひと寝入りするかな」
星空の下でだんだんと集まってくる夜の冷気を肌に感じながら、かれは鱪の薄い肉片を半分ほど食べ、さらに飛魚をさばいて一匹だけ食べた。
「ちゃんと料理して食えば、鱪もうまい魚なんだがな」とかれはいう。「だが、生だとこりゃあ食えたものじゃない。これから沖に出るときは塩かライムを持ってこないとな」
すこし知恵を働かせれば、舟板に海水をまいて乾かすって方法もあったんだ。そうすりゃ塩がとれたのに、とかれは思う。どちらにせよ、おれが鱪を釣りあげたのはほとんど日が落ちてからだった。そんなことを思いついたところで、塩はどうせとれなかっただろう。とはいえ、用意がたりなかった。まあ、いいんだ、とにかく鱪は腹におさまったし、べつに吐き気もこないからな。
東の空が曇りはじめる。かれの知っている星がひとつ、またひとつと消えていった。まるで雲の大渓谷に向かって漕ぎ入ろうとしているようだ。風はすっかり飲み込まれてしまった。
「こりゃあ、三、四日もすれば天気が悪くなるぞ」とかれはいった。「今晩は大丈夫だろう、明日もな。さあ、爺さん、寝る準備だ。魚が静かで大人しくしているうちに、ひと眠りしておくんだ」
かれは右手で綱をしっかりと握りしめ、その上に腿をのせると、全体重をへさきに押しつけるようにした。そして肩の綱をすこしずらし、左手をかける。
こうしているかぎり、おれの右手は綱を離しはしないだろう、かれはそう思った。万が一眠っているあいだに右手の力がゆるんだとしても、綱が引っ張られればすぐ左手につたわり、目がさめるはずだ。腿の下においた右手がすこし苦しい。しかし、右手は酷使され慣れている。二十分や三十分そこらなら平気だ。かれはそうして右手に全体重をのせ、自身が綱の重しになるようにして身をかがめ、やっとのことでまどろみはじめた。
夢のなかにライオンは現れなかった。そのかわりに海豚の大群が八マイルから十マイルにかけて海面を蔽っていた。交尾の時期にあたるらしい。海豚たちは水面高く跳ねあがり、みな飛び出してきたのとおなじ穴に潜りこんでいく。
老人は村の夢も見た。いつものように古い新聞をしいた自分のベッドに寝ていた。北風が吹いて、とても寒い。腕枕をしていたので、右腕がしびれている。
広々とした黄色い砂浜が現れる。そこへライオンが出てきた。先頭の一匹が姿を現し、たそがれの薄暮れをおりてきた。そのあとに何匹かがつづく。かれはへさきに顎をのせてそれをながめていた。舟は錨をおろしたまま、沖にむかって吹く夕暮れのそよ風に撫でられている。かれはもっとライオンが出てきやしないかと期待しながら、その状況を大いに楽しんでいた。
月が昇ってからしばらくたっていたが、老人はまだ眠っていた。魚は相も変わらず悠々と泳いでいる。そして舟は雲のトンネルのなかへと滑りこんでいく。