三部
鮪はまた深くもぐってしまった。漁師たちはこの種類の魚のことをみんな鮪と呼んでいる。ただそれを売るときとか、餌ととりかえるときとかにだけ、わざとらしく区別していたのだ。鮪はもぐってしまった。陽はもう暑かった。老人は項に熱さを感じる。舟を漕いでいると、背中にじわりと汗がつたわる。
もう漕ぐのをやめてもいいな、老人は思う。ここらでひと眠りしよう。綱を足の指先に巻きつけておけば、獲物の気配ですぐ目がさめる。いや、しかしきょうは八十五日目だ。どうあっても大漁にしなければいけない。
そのとき、生木のひとつが、ぐっと傾くのが見えた。よし、よし、とかれはつぶやく。わかったよ、そう言って舟をぐらつかせないようにそっとオールをしまった。かれは綱のほうに手を伸ばし、右手の親指と人差し指でやわらかに押さえた。引きも重みも感じられずに、かれは軽く綱を押さえたままでいる。するとまた、ぐっとくる。今度のはまるでこちらの気をひいてみるような引きかただ。強さも激しさも感じられない。かれにはそれがどういうことか、はっきりと読み取れていた。いまこの舟の百尋下では一匹のマカジキが、小さな鮪の口から突き出ている例の鈴なりになった鰯の群れに食らいついているのだ。
老人は軽く綱をもったまま、左手でそっと枝からはずした。これで魚も老人の指のあいだから、突っかかることなくいくらでも綱をひきだすことができる。
この季節にこれだけ沖に出ているからには、やつめ、よほどの大物にちがいない、かれは思った。食いつけ、うんと食らいつけ、頼むから食ってくれ。新鮮なご馳走をつけてやったっていうのに、お前ってやつは六百フィートも下の暗く冷たい水のなかでうろついているだけなんて。そのままにしとくのは勿体ないだろう? もういちど戻ってこい、それから食いつくんだ。
かれは軽い、けれども無視することのできない引きを感じた。さらに、強い引きがつづいた。鰯の頭を鉤からはずすのに手間どっているらしい。だが、すぐ静かになる。
「さあ来い」老人は大声でどなった。「もういちどだ。ほら、匂いをかいでいるんだろう! どうだ、上モノだろう? 今度はしっかり食いつけよ、鮪もあるんだからな。身がしまってて冷たくて、とびっきりうまいぞ。遠慮するんじゃない。さあ、食うんだ!」
老人は親指と人差し指のあいだに綱をはさんだままじっと待ちかまえている。そうしておきながらほかの綱に目をくばることも忘れてはいなかった。そっちのほうに寄ってこないともかぎらない。すると、また前とおなじ、軽い引きが来た。
「今度こそ食いつくぞ」老人は大きな声でいった。「ほんとに頼むぜ」
けれども魚は食いつかなかった。逃げてしまったようでぜんぜん手応えもない。
「逃げちまうわけないさ」と老人はいった。「絶対に、そんなはずないんだ。ただそこらへんをひと回りしているだけだろう。もしかするとこのやろう、前に一度引っかかったことがあって、それを思いだしたのかもしれない」
思ったとおりかさだかではないが、すぐにかれは綱につたわるかすかな手応えを感じた。いい気持ちだった。
「ひと回りしただけなのさ」とかれはいった。「きっと食いつくとも」
かれはかすかな手応えだけでも満足気だった。だが次の瞬間、なにか手ごわいものを、かれは感じた。信じられないほどの重みが綱にのしかかったのだ。それは、たしかに魚の重みのようだった。老人は綱をどんどん伸ばしていった。結えつけておいた綱の一本がほぐれはじめる。そして指のあいだをするするとすべり落ちていく。指先にはほとんど抵抗もないものの、さきほどの巨大な重みが老人にははっきりと感じとれていた。
「畜生!」とかれはつぶやいた。「口の端にくわえこんだまま逃げようとしていやがる」
やつはもうひと回りしてから飲み込むはずだ。かれはそう思った。だがその予感を口には出さない。運のツキが逃げてしまうような気がしたからだ。けれど獲物はとんでもない大魚であることにちがいはない。鮪を横にくわえたまま暗い海のなかを逃げのびようとしている相手の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。瞬間、魚がぴたりと止まったように思えた。重みはなおも手に残ったままだ。そして、すぐにべつの重みがくわわってきた。老人は綱をどんどんくりだしていった。親指と人差し指の圧力をちょっと強めてみようものなら、重みがすぐ手にひびく。かれは綱をゆるめた。
「やつめ、とうとう食いつきやがったな」とかれはいった。「たっぷり食わせてやる」
老人は綱を指のあいだからすべり落ちていくにまかせながら左手を伸ばし、つないである二本の予備の綱はしを、べつの綱のために持ってきた二本の予備の綱はしの輪に結びつける。準備は万端だ。これで、いますべり落ちている綱のほかに、四十尋の綱が三本もあるわけだ。
「もうすこし奥まで、がっぷり食らいつけ」
鉤の先がおまえの心臓までとどめをさすようにな。遠慮せずにあがってこい。銛でひと突きにしてやる。おれのほうは準備ができているぞ。そっちも準備はできたか? もうたっぷり腹におさめたはずだろう?
「さあ来い!」かれは大声でそう叫ぶと、両手に力をこめて綱を引いた。一ヤードばかり手元にくる。さらに全身の重みを軸にしながら綱に肘を引っ掛け、腕を開くように右へ左へ振りながら、ぐいっぐいっと綱を引いてみる。
だが、なにも起きはしない。魚がゆっくりと遠ざかっていくだけだ。一インチも引き寄せることができなかった。ただ老人の綱は丈夫だった。もともと大きな魚をとるためにできているのだ。老人はそれを背中に回し、ぐっと支える。綱がぴんと張りきって、水が玉になって跳ねとぶ。やがて綱は水のなかで、しゅうっ、しゅうっ、と落ち着いた音をたてはじめた。老人は舟の横木にもたれかかってぎゅっと綱を握りしめている。引きがくるとかれはぐっとうしろに反った。いつのまにか舟は北西に向かってゆるやかに流れていく。
魚はすこしの乱れも見せずにしっかりと泳ぎつづける。老人と魚は、静かな海をのどかにすべっていく。ほかの餌はまだ水中にあるのだが、どうにも手のだしようがない。
「あの子がいたらなぁ」と老人は大声でいった。「おれはいま、魚に舟を曳かれちまってる。しかもおれが繋柱になってやがる。綱を舟に縛りつけられないこともないが、そしたら魚のやつは綱を切って逃げちまうだろう。なんとしてもやつの調子にあわせてやらなきゃならない。引っ張られりゃあいくらでも綱をくれてやらんと。ありがたいことに、やつは動くには動くんだが、深くもぐる気はないらしい」
だがもし、やつがもぐる気になったらどうする。底へもぐって死んじまったらどうする。それは困る。しかしそんときゃそんときだ。なんとかなろう。おれにだっていろいろ手はある。
かれは背中で綱を支え、水面に斜めに突き刺さるそれをじっとながめていた。小舟は北西に向かってじりじりと動いている。
そろそろやつも参るころだろう、老人はそう思ってみた。この調子がいつまでも持つわけがないからな。けれど四時間がたっても、魚は相も変わらず小舟を曳きながら沖に向かって悠々と泳いでいた。老人は相も変わらず背中に回した綱にぎゅっと体を締めつけられたままだ。
「やつを引っかけたのはちょうど正午ごろだったか」とかれはつぶやいた。「それなのにおれはやつの正体をまだ拝んですらいない」
魚を引っ掛ける前にかれは麦わら帽を深くかぶりなおしたのだが、ずっとそのままでいたのでいいかげん額が痛くなってくる。それに、喉のかわきがひどい。老人はひとまず膝をついた。綱を引っ張らないように気をつけながらへさきのほうへ這えるだけ這っていき、片手をのばして水のはいった瓶を引き寄せた。蓋をとって水をほんのすこし口に入れる。飲み終えるとへさきに体をやすめた。かれは船底に寝かせてあったマストと帆の上に腰をおろしながら、いまはただ耐えぬくしかあるまいと考えていたのだった。
ふと、うしろを振り向く。もう陸地は見えてこない。それがどうしたっていうんだ、かれは心にそう問いかける。おれはハバナの空の明かりさえあれば、いつだって帰ることができる。日が沈むまでまだ二時間もあるじゃないか。きっとそれまでにはやつも浮かびあがってくるだろう。もしそれまでに浮いてこなければ、月が出るのと一緒になってあがってくるさ。おれの体はどこも弱音なんかはいちゃいない。元気いっぱいだ。それに引っかかったのはやつのほうだ。それにしても、こんな強引なのははじめてだぞ。やつめ、鉤素のところまでばっくりやっちまったにちがいない。ちょっと見てみたいもんだな。おれの敵がいったいどんなやつか、ただそれだけでも知っておきたいもんだ。
星の位置から察するに、魚はその晩中というもの、進路をぜんぜん変えなかったようだった。陽が沈んでからはかなり冷えこんだ。老人の汗はかわき、背中や腕、そして老いた脚までもがひどく冷えこんでくる。かれは昼のあいだに、餌箱の蔽いの袋をひろげて日なたに干しておいた。日が落ちるとそれを首に結えつけ、背中のほうに垂らし、やっとのことで肩にかかっている綱の下にすべりこませた。袋を肩当てがわりにしたのだ。さらにかれは、へさきにもたれかかるようにして座ってみた。悪い心地もしない。実のところ、まえよりいくらかマシになった程度にすぎなかったのだが、それでも老人はずいぶん楽になったつもりでいた。
おれには打てる手もないが、やつもそれはおなじだ。やつがこの調子で押しまくるかぎりにはどうしようもあるまい。かれはそう思う。
かれは立ち上がって、舷側から小便をした。そして星をながめて進路をたしかめた。手にした綱はまるで老人の肩からほとばしるひとすじの燐光のように、くっきりと見える。舟足はすこし遅くなったようだ。ハバナの空の明かりはぼんやりとしている。舟が潮流に流されていくぶんか東にすすんでいるらしい。もしもハバナの空の照りかえしが見えなくなりでもしたら、舟はもっと東よりに進んでいることになる。魚がちゃんとまっすぐに進んでいきさえすれば、まだしばらくのあいだは照りかえしが見えるはずだからな。きょうの野球の試合はどうなったかな。ラジオがあれば最高なんだが。しかしかれはすぐに、いまはひとつのことに集中しなければならないと思いなおした。目の前の魚のことだけ考えるんだ。よけいなことを考えるんじゃない。
突然かれは声を張りあげていった。「あの子がいればなぁ。手伝いもしてくれるし、見張りもやってくれるだろうにな」
年寄りが独りでいるのは良くない、かれはつくづくそう思った。しかし今更どうしようもないことだ。あの鮪が傷まないうちに食って元気をつけておかなければならない。いいか、食いたくなくてもいいんだ、とにかく朝のうちに食っておくんだぞ。いいか、忘れるんじゃないぞ。老人は心のなかでそう自分にいいきかせた。
夜中に二匹の海豚が小舟の近くにあらわれ、寝がえりをうつようにくるくると泳ぎまわったり、音をあげて息を吐きだしたりした。老人には、雄の吐き出すような息吹と雌の溜息のような息づかいとのちがいが、はっきりとつたわっていた。
「いいじゃないか。どっちもふざけながらいちゃついてやがる。おまえらもおれたちの兄弟だな。飛魚とおんなじでよ」
急に、自分の引っかけた大魚がかわいそうになってきた。やつは大物だ、めったにお目にかかれる代物じゃない。いったいどのくらい年くってやがるんだろうな。おれも今日という今日まで、こんな強い魚にぶちあたったことはない。それにやつのやりかたも一風変わっていやがるじゃないか。よっぽど利口なやつなんだろう。跳ねまわったら損だと思っているにちがいない。もっとも、やつが跳ねまわってあばれだしたら、おれはひとたまりもないだろう。ただ、きっと前に何度も引っかかったことがあって、勝負ならこの手にかぎるとでも思いこんじまっているんだろう。だがあいつは知らないのさ。相手がたったひとりで、しかも年寄りだってことをな。とにかく、すごいでかい魚だ。肉さえ上モノなら、市場へ持っていけばとんでもない値がつくぞ。やつは男らしく餌に食らいついた。それに男らしく食いさがりやがる。ちっとも騒ぎやしない。なにかを狙っていやがるのだろうか、それともこっちとおんなじで必死になっているのだろうか。
老人はかつて番いのまかじきを一匹釣りあげたときのことを思いだした。餌を見つければ、雄はかならず雌に先にそれを食わせる。そのときかかったやつももちろん雌のほうだったが、めちゃくちゃにあばれまわり、おびえきって死にものぐるいの戦いをいどんできた。だからすぐにへばってしまったのだが、そのあいだじゅう雄は雌のそばを離れることもなく、綱を横切ったり、雌と一緒にあたりの海面を旋回したりしていた。あまりそばに寄ってくるものだから、そのうち綱を切ってしまいやしないかと老人は心配した。なにしろマカジキの尾は大鎌のように鋭く、形や大きさまでも大鎌そっくりなのだ。老人は雌のほうを魚鉤で引き寄せ、棍棒でなぐりつけた。さらに剣のように鋭いくちばしの、ぎざぎざしたところを鷲づかみにし、棍棒で脳天をつづけさまになぐりつけてやると、魚の体はみるみるうちに色が変わり、鏡の裏のような色になってしまった。それからは少年の手を借りて舟に引きずりあげたのだが、そのあいだも雄は小舟のそばを離れることはなかった。すかさず老人は綱をかたづけて銛を手にした。すると雄はいきなり舷側近くに跳ねあがり、雌の姿をたしかめるようなそぶりを見せたかと思うと、つぎの瞬間には水中深くもぐってしまっていた。老人の目には、翼のような胸びれが薄紫色の縞模様を見せながら大きく広がるさまが焼きついた。きれいなやつだった、老人はそう思った。あいつは最後まで逃げようともしなかったな。
おれの記憶のなかで一番悲しい事件だ。あの子も悲しそうにしていた。おれたちは雌にあやまって、すぐ解してしまったっけ。
「あの子がいればなぁ」老人は大声でどなると、丸みをおびたへさきの舟板に背をゆだねた。綱を通して、自分の選んだ道を迷わず進んでいく大魚の力が、肩ごしにひしひしと感じられる。
いったんおれの罠に引っかかった以上は、どのみち賭をしなくてはならなくなったわけだ、と老人は心のなかで思った。
やつの賭とはつまり、罠や落とし穴や奸策からのがれて、あくまでもあの暗い海のなかにとどまりつづけることだ。おれにとっての賭は、だれよりも先に、世界中の人間をさしおいて、どこまでもやつを追いかけていくことだ。おれたちは、こうしていま一緒にいる。陽の暑かった昼から、ずっと一緒にいる。おたがいに独りぼっちで、だれひとり助けてくれるものもありはしない。
漁師なんかにならなければよかった、老人はそう思う。いや、ちがうんだ、おれは漁師に生まれついちまったんだ。いいか、明るくなったら絶対に鮪を食うんだぞ。
夜明け前のことだ。老人のうしろに垂らしてあった餌のどれかに、なにかが食いついた。枝の折れる音がきこえ、綱が舷をかすって外へ流れだした。老人は暗闇のなかでナイフをとりだし、へさきに寄りかかっている左肩で魚の力をまとめて受けとめるようにしながら、すべり落ちる綱を舷に押しつけて断ち切った。ついでに自分の一番近くにある綱も切り落とすと、舟に残ったあまりの綱はしを暗闇のなかで固く結びあわせた。かれは片手だけでその作業を手際よくやってのけた。結び目をきつく締めるには巻綱をおさえておく必要があったが、かれは足をつかってなんとかした。これであわせて六本の予備綱ができたわけだ。切り落とした餌についていたのがそれぞれ二本ずつ、いま魚が食いついている綱の分が二本。すべてが継ぎあわされていた。
明るくなったらどうにかして残りの四十尋の綱も切り離し、残った綱をこっちへもらおう。けっきょく二百尋分のコルデル(訳注 スペイン語=綱)と鉤と鉤素をなくした計算になる。しかしそんなものはいつでも取り返しがきく。いまおれはなにか魚を引っかけた。けれどもしその魚のせいで大事な獲物を逃してしまったら、そいつはだれが取り返してくれるっていうんだ? いま食いついた魚がなんなのか、おれは知りようもない。マカジキかもしれないし、ヘラツノザメかもしれない。ほかの鮫だったかもしれない。けれどおれは引くこともしなかった。とにかく一刻も早く切りすてなきゃならなかったんだ。
かれはまた大声をあげて叫んだ。「あの子がついていてくれたらなぁ」
なにをいうんだ、いまお前には少年なんかついていない、とかれは思いなおす。ここにはお前ひとりだけだ。なんとしてでもやりきるんだ。さあ、いますぐに、明るいかどうかなんて関係ない、残りの綱を切りすてるにこしたことはない。断ち切って、予備の綱を二本つないだほうがいいんだ。
かれは作業をこなしてみせた。けれど暗闇では思うようにいかなかった。それから魚が大波のようなうねりを見せたかとおもうと、老人を強引に引き倒した。目の下が切れ、血が頬をつたって流れる。だがすぐにかたまり、顎までとどかないうちにかわいてしまった。やっとのことで老人はへさきのほうにもどり、舟べりにもたれて体をやすめた。袋の位置をかえて、綱を肩のべつのところにそっとあてがう。それから肩を支えにして綱を握りしめたまま注意ぶかく魚の引きぐあいをたしかめ、片手を水に浸して舟の速度を計った。
やつめ、どうしてこんな無茶なまねをしやがるんだ、とかれは思った。鉤素がやつのでかい背中をこすったにちがいない。といってもおれの背中にくらべれば、たいした痛みでもあるまい。しかしやつがいくら大物だからって、この舟をずっと引っ張っていられるものでもない。もうやるだけのことはやったのだから心配はないさ。綱もたっぷりあるしな。これだけあれば文句もないだろう。
「おい」老人は魚に向かって大声で、けれどもやさしく語りかける。「おれは死ぬまでお前につきあってやるぞ」
やつもおれにつきあう気だ、そうにちがいない、と老人は思う。かれは明け方をいまかいまかと待ちこがれていた。夜明け前のいまごろがとくに寒いのだ。かれはへさきの板に体を押しつけて暖をとろうとした。やつがその気ならおれだってその気になってやる、かれは心のなかでそうつぶやく。あたりがほんのり白んできた。綱は水底にむかってまっすぐ伸びている。舟は相変わらずしっかりと海面をすべっていた。太陽が水平線にきらりとてっぺんをのぞかせる。真新しい光の筋が、老人の右肩にさっとあたった。
「やつめ、北に向かっていやがる」と老人はいった。潮流のおかげでおれたちはだいぶ東のほうへ押し流されるだろう。魚のやつが潮流に乗ってくれればいいんだがな。それがへばったなによりの証拠ってやつになるからな。
日はさらに高くあがった。だが、魚はちっともへばっていなかった。それでもひとつだけ良い兆候が見られた。綱の傾斜で魚が上に上がってきていることがわかったのだ。まだ跳ね上がるとはかぎらない。しかし、跳ね上がるかもしれないのだ。
「どうか跳ねてくれるように」と老人はいった。「綱はたっぷりある。いくらあばれたって平気さ」
もしおれがここでちょっと強く引きでもすれば、やつは痛みにたえかねて跳ねあがるだろう。もうすっかり明るい。ひとつ跳ね上がらせてやろうか。やろう、きっと浮き袋を空気でいっぱいにして跳ね上がってくるだろうさ。そうすりゃ深くもぐって死んでしまうなんてことは、まずないだろう。
かれは綱を引っ張ろうとした。しかし綱はいまにも切れそうなくらいに伸びていて、張りをくわえる余地もない。獲物が引っかかってからというもの、ずっとそうだったのだ。からだをうしろへ反らせて力をくわえると強い手応えを感じた。もうこれ以上強く引けはしない。ちょっとでも引いてはいけないんだ、とかれは思った。うっかり引いてしまえば鉤のかかっている傷を大きくしてしまうだろう。それだと魚が跳ね上がったときに鉤がはずれてしまうかもしれない。とにかく日は昇ってからおれは元気が出てきた。もたれかかることもない。これでもう太陽をまともに見ないですむぞ。
綱には黄色い海藻がくっついていた。魚にはこれが重荷になるだけであろうことを老人は知っていた。かれは、ありがたい、と思った。前の晩に燐光を発していたのはこの黄色い海藻だったのだ。
「おい」とかれは魚に向かって呼びかけた。「おれはお前が気に入ったぞ。なかなか見上げたもんだ。だが、おれはかならずお前を殺してやるぞ、きょうという日が終わるまでにな」
そうしたいものだ、とかれは思う。
そのとき、小さな鳥が舟をめがけて北のほうから飛んできた。鳴禽類の一種だ。水面を低く飛んでいる。疲れているようだ。老人には一目でわかった。
小鳥は船首にとまった。だがすぐに飛び立って老人の頭の上を旋回し、今度は綱にとまった。どうやらそこのほうが居心地がいいようだ。
「歳はいくつだい?」老人は鳥にきいてみた。「旅行ははじめてかい?」
小鳥は老人のほうを見ている。あんまり疲れているので綱をたしかめる余裕もないらしく、かぼそい足指で軽く綱を握りしめながらゆらゆらと上下に揺れていた。
「その綱は大丈夫だ」と老人は小鳥に向かっていった。「しっかりしたもんだよ。ゆうべは風邪もなかったのに、そんなにくたびれてしょうがないやつだな。おまえってやつは」
こいつらをねらってあの鷹たちが海上に姿を現すっていうのに、と老人は思った。だが言葉の通じない相手にそんなことをいってもしかたがない。それに鷹のこともいずれはわかるだろう、と思う。
「たっぷり休んでいきな」と老人はいった。「そしたら陸のほうへ飛んでいきな。あとは好きなようにすればいいさ。人間だって鳥だって魚だって、みんな似たようなもんなんだからな」
夜のうちに背中がすっかり硬くなってしまい、いまになってひどく痛みだしてきたので、老人はこうやって鳥に話しかけて気をまぎらわしている。
「よかったらあがっていってもらいたいのだがな」とかれはいった。「いま帆はあげられないんだ。ちょうど風も出てきたからお前さんを釣れていってやりたいとこなんだがね。すまないな。連れがいるからそうもいかないんだ」
ちょうどそのときだった。魚は一気に海底深くもぐりこんだ。老人は不覚にもまたへさきに引き倒されてしまった。とっさに身を引いて綱をくりだしたので助かったが、もうすこしで海のなかに引っ張りこまれるところだった。