【断章】果織と希鳥
制作中の書道を扱った小説の断章を切り抜いた作品です。そのことを前提にお願いします。
登場人物は、果織、希鳥と、あと名前だけ登場する咲羽です。
少し雲伯方言の訛りが入っています。
部活が始まって今日が三日目。つまり、今日で新入生展示の作品を仕上げなくてはならない。
(今日で、作品を仕上げる!)
果織は気合が入っていた。
昨日までの二日間の部活の中で、新入生展示の作品の言葉を悩みに悩んだ末、自分に合っている、または自分の書きたい言葉が見つからなかった。
しかしながら、今日三日目にして、新入生展示の作品制作最終日にしてようやく書く言葉が決まった。
(勇往邁進!)
果織がこの言葉に決められたのは希鳥と咲羽のおかげだ。
『誰かのために書いてもいいと、私は思う』
希鳥の言葉がなければ、果織は咲羽のために彼女の座右の銘を書こうなどと思いもしなかっただろう。
果織は前の方に座って黙々と筆を走らせている希鳥を眺め、心の中で感謝した。
しかしながら、これで終わったわけではない。むしろここからが本番なのだ。言葉を決めるという初歩的なことでつまずいていたことの方がおかしかったと果織は思った。
(ひとまず、書いてみよう)
とにかくまずは自分の思うままに書いてみる。そこから直すべき箇所を押さえ、少しずつ修正しながら書いていく。
今回の新入生展示の場合、誰かからのアドバイスは一切受けることができない。その点、自分の一人の観点から見なければ行けないというのが難しいところだ。自分ではできていると思っていても、他人が見ればもう少し直すべきだと思われることもある。個人の主観によるところが出るのはしょうがないが、おそらく一人で制作することの目的は、他人の力を借りずとも自分の力だけで物事を進めることが出るのか、客観的に自分を見つめられるのかということだと果織は思っている。
(……でも、さすがにそこまで考えてちょらんかな……)
しかしながら、自主性くらいは問われているだろうと果織は考えている。
(私はいいけど、むしろ初心者の方が難しいよね~。何をどう変えたらいいか分からんだろうし。でも人に訊けんのんだけん、勘でやるしかないんかなあ)
ただ、とにかく今出せる最大限の丁寧さで書くこと以外は気にすることがないので、逆に初心者の方が気楽にかけるのかもとも思っていた。
脳内でさまざまな考えが交錯しつつも、果織は書道の態勢を整えた。
(よし!)
白い半紙に、黒い墨液が筆から染みる。
勇、往、邁、進。
縦横の文字同士の位置関係、バランスが整っていることは基本中の基本。一枚目ではあるものの、できる限りの注意ポイントに気を遣いつつ、一文字ずつ時間をかけて丁寧に書き上げていく。
(……できた!)
果織は筆を置いてまだ墨の乾ききっていない半紙を手に取る。書体は行書である。楷書でもよかったが、より難しい方に挑戦したいと思ったので、行書を選択した。
昨日以前に書いた違う言葉のときと同様、出来栄えは及第点である。ここからは、数か所ほど気になるところがあるので一か所ずつでも直していき、地道に完成形へと近づけていく。
(まずは『勇』から)
行書は楷書に比べて画のつながりを意識する必要がある。特に『勇』の場合、『田』から『力』の部分にかけて画のつながりを意識する必要がある。今のところそれぞれの部分ではできているが、『田』と『力』を合わせてみると少しつながりが甘い。最後の『力』は大きくなりすぎると一気に見栄えが悪くなるので、勢い余って膨らみすぎないようにする必要がある。
新たな半紙を敷き、その部分を意識しながら四回『勇』を練習する。回数を追うごとにつながりが見えてきて、行書らしい行書になっていっている。
(次は『往』)
『往』は、ほかの文字に比べて画数が少ない。『雲外蒼天』のときのように、画数が少ない文字ほど、画数が多い文字と同じ太さで書くと格好がつかず、かえって目立ってしまう。『雲外蒼天』の『外』と『天』ほ『往』は画数が少ないわけではないので極端に太くする必要はないが、今の出来だと少し細くなっている。それに加えて『ぎょうにんべん』は、一画目が比較的横向きなのに対し、二画目は比較的縦向きに書く。角度を同じにしてしまうと窮屈感が出てしまう。先ほどの核のつながりという観点で行くと『主』の運筆は特に重要なポイントで、それがないだけで行書には見えなくなってしまう。
『勇』と同じように一枚四回分『往』を練習する。『往』に関しては先ほどの注意点はある程度できていると果織は思ったので、ほかの字に注力することにした。
(そして一番難しい『邁』!)
『邁』は画数が多い分、横画が少し窮屈そうに見えてしまっていた。さらに『しんにょう』が下に入ってくる影響もあって、ほんのわずかなずれでも大きくバランスを崩しやすい。『しんにょう』自体そもそも難しく、書道を経験していなくても見るからに難しい見た目をしている。おまけ程度に、『くさかんむり』の筆順が、行書では変わる場合があり、果織の通っていた習字教室の会派ではそちらの場合が多い。そのため今回も果織はこちらを採用している。そのため筆順が変わってしまう。
果織は『邁』が一番不安だったので、半紙に枚分八文字練習してから次の字へと進んだ。
(最後、『進』)
『進』も『しんにょう』があるが、『邁』ほど詰まり気味になることはない。ただ『しんにょう』の中の『ふるとり(隹)』の部分もまた筆順が楷書と筆順が変わる。筆順が変わる理由としては、楷書の筆順をそのまま行書に採用するよりもスムーズに運筆できて筆を流れやすくするためというのが主である。『ふるとり』はその典型例である。少し分かりにくいかもしれないが、筆順が変わった行書だと上の点画と縦画がつながって一つの画となり、その縦画から最後横画三本につながる意識で書くという流れになる。注意すべき点は、その際に横画同士の間隔を等しくするということだ。果織の書いた『進』ではそれができている。書道を長く続けていればおのずとできるようになるものではあるものの、ほかの個所に脳内リソースを割いていれば怠ってしまう可能性もあるので、侮るわけにはいかない。
果織は、『進』は一枚分四文字練習した。最初からできていた点ができなくなることもある。それをなくすためには、できている点から目をそらさず、常に意識し続けることが大切だ。
(……よし! 一通り練習できた。あとは作品を書いて都度直していこう)
行書の中でも崩しの度合いはさまざまだが、今回果織が採用したのは比較的楷書に近い行書だ。あまり崩しすぎると、新入生展示ということもあるので変に目立ちすぎるような気がしたので、比較的おとなしい行書に仕上げようと果織は思った。とはいえ行書は行書なので、楷書とは別のアプローチで意識すべき点がある。先ほどの通りこの四文字も意識すべき点は多くある。細かく述べればこれでは足りないくらいかもしれない。ただ部活の活動時間の上限がある以上、すべて意識するなどという欲張りはできないので、果織が特に意識すべきと思った点だけを掻い摘んで徹底して直すことにした。
(……よし、いい感じ!)
練習してから三枚目にして、かなりできのいい作品が仕上がった。
(まだ一時間あるけん書けるけど、ひとまずこれは今んとこの第一候補かな)
書いた作品を新聞紙の上に移す。
(もう少しこだわるとここだわってもいいけど、時間足りんくて中途半端になってもなあ……)
しかしそうなれば今の暫定作品を提出すればいいのだが、やるとこまでやった挙句にあと少しというところで終わって活かしきれなくなるのが嫌というのが果織だ。
(まあ、やろうかな)
そう思って新たな半紙に文鎮を載せたとき、誰かが果織に声をかけた。
「何書くか、決まったんだ」
この落ち着いた平坦な口調は希鳥だ。果織が振り返ってみると、やはり彼女がそこにいた。
「あ、決まりました」
「そうなんだ」
「あの、先輩のアドバイスのおかげで決まったんです。なので、ありがとうございます!」
礼をした果織が頭を上げるまで希鳥は黙っていた。
「そう。ならよかった」
希鳥はただそれだけ言う。やはり起伏のない淡々とした声。
希鳥は車いすを転がして果織の作品の前へ来る。希鳥が少し体をのめり出して見つめた。
「やっぱり上手。新入生の中で一番うまいと思う。ほかの人の作品まだ見てないから分からないけど。書道部全員の中でもトップスリーくらいに入っててもおかしくない」
あまりの絶賛に、果織は応える言葉が見つからない。
「コンクール、期待してる」
希鳥が体勢を戻す。
「あ、ありがとうございます。頑張ります……」
それだけ聞くと、希鳥は何も言わずに定位置へと戻っていった。
(澁谷先輩、いっつもほめてくれる……)
来てはほめの繰り返しの希鳥。そんな希鳥に対して少し不思議な感覚を抱いていながらも、やはり優しい先輩だなと思った。ただ同時に、ほかの生徒と会話しているところを果織は見かけない。果織自信、周りを気にしなさすぎだからなのかと思ったが、見てみるとやはりほかの生徒とはあまり話していない様子だ。話すことがあったとしても自分からということはなく、誰に用があるときのみ話しかけられているだけだった。
(なんで私だけに声かけるんだろう?)
果織は普段の口調や態度から、おそらく希鳥は寡黙で少し人見知りな性格をしているのだろうと思った。そんな希鳥が下級生をからかったりデタラメに『うまいね』などと言ってくるとは思えなかった。
(単に書道経験者だけんかな? だったらあの男子もそうじゃない?)
果織は右前方に座っている例の一年男子を一瞥した。
(澁谷先輩の引っ込み思案な性格上、男子に話しかけるのはハードル高いんかな……)
きっとそういうことだろうと無理遣り気味に納得した果織は再び気合を入れ、筆を執った。
最終的に、果織の納得のいく作品が完成した。
希鳥に上手と言われたあの作品の出来に加え、線の長短や絶妙な力の入れ具合など、細かな筆遣いによる躍動感の違いを生み出すことができた。それを見たときに意識的に感じ取れるのは書道にそれなりに詳しい人に限るかもしれないが、素人でも無意識的にその違いを感じ取っているので、大事なこだわりポイントであることには変わりないのだ。
(だいぶいい作品ができたなあ。思い切って攻めてよかった~)
伸びをしてから片付けに取り掛かる。
すると、また希鳥が果織の元へ来て作品を見た。
「これ、展示用?」
「あ、はい。かなりいい感じに書けました」
「うん。結構いいと思う」
希鳥は果織の作品をそっと机に置いた。
「あの!」
果織はまた無言で去っていこうとする希鳥を呼び止めた。
「なんで、そんなに私をほめてくれるんですか?」
果織は純粋な疑問を希鳥にぶつけた。
「なんでって、上手だから」
悩む間もなく、希鳥は当たり前のように答える。そんな希鳥に果織はおじおじしてしまう。
「それは嬉しいですけど、ほかにうまい人だっているだろうし、なんで私にだけ声かけてくれるのかなって思って。先輩、ほかの人には話しかけてるところ見たことないですから……」
言い過ぎたかな? と果織は思って希鳥に目を向けたが、希鳥はいつもの無表情ながらも優しさを感じさせる顔でいた。
「……ダメだった?」
希鳥はあくまで否定しなかった。
希鳥の声のトーンもいつもと同じ淡々とした口調なのに、不思議にも果織には不安そうに感じられた。
「ああ、いや、嬉しいのは本当に嬉しくて、でもなんて言うか、その~……、私を気にかけてくれてるんですか?」
珍しく、と果織は思った。希鳥が少し悩んでいる。その様子が顕著に困ったような表情に出ている。
「気にかけてるというか、応援してる。見てたら分かる。ほかの人よりも字を書くのに本気で、情熱が違うから」
「熱、ですか……」
「そう。ほかの人も頑張ってる人はいる。だけど、これくらい字を書くことに本気で向き合ってる人、初めて見た」
希鳥は果織の作品に目をやる。
「先輩は、本気なんですか?」
果織は気になって訊いてみたが、少しデリカシーに欠けるかもと思った。しかし希鳥は気にせず答える。
「もちろん本気。だけど、見てると負けてるなって思っちゃう。本気度が足りないって。だから応援したくなる。同時に、尊敬してる」
実際に希鳥がどの程度本気なのかは果織は見たことがない。いつも見ようと思えば見える位置にいるのだが、周りを気にすることがない果織の性格上希鳥を見ることがほとんどないので、それが本当なのかはよく分からなかった。しかし、本人がわざわざ後輩に向けて言うのであればそういうことなんだろうと果織は思うことにした。
果織は何を言ったらいいのか分からなくなった。最近こんな状況が多い気がするな、とも頭の片隅で思った。
「果織ちゃんなら、字を書くことに嘘はない。そう思う。だから、話しかけてる」
果織はどこかむず痒さを感じた。それはなぜなのかと思ったときに、ようやく気づいた。
(そういえば、今まで希鳥先輩に名前呼ばれたことなかったかも)
果織は入部以降の希鳥との会話を思い出す。
果織は悟ったように希鳥に向かってほほ笑む。
「ありがとうございます。私も、希鳥先輩尊敬してます」
希鳥は果織のことを認めてくれた。先輩後輩関係なく、単に書道に対する向き合い方を見て、本気度を見て、その実力を見て認めてくれた。希鳥自身、書道に対して本気だからこそ、希鳥はそういう見方をしている。果織はそう思った。
希鳥は少し意表を突かれたような間合いのあとに、少し口角を上げた。その清楚で無駄のないほほ笑みは、果織の脳裏に強く焼き付いた。
読んでいただき、ありがとうございます。
断章ということで関係や状況が分かりにくかったかと思います。申し訳ございません。




