私の葬式で婚約者が愛人に求婚したので、棺の中から拍手しました~その棺を貸してくれた王弟殿下と帰ります~
自分の葬式に参列するなら、棺の寝心地は確かめておいた方がいい。
そう学ぶ機会は、一生に一度で十分だと思う。
「少し硬いです」
私が感想を述べると、棺を覗き込んでいたレオンハルト殿下は、真剣な顔で頷いた。
「死者からの苦情は初めてです。敷布をもう一枚増やしましょう」
「まだ死者ではありません」
「今日の正午までは、その設定でお願いします」
王弟殿下と侯爵令嬢が、夜明け前の礼拝堂で棺の内装について相談している。
誰かに見られたら、王都で一年は語り継がれる光景だろう。
幸い、礼拝堂にいるのは私たち二人と、殿下が信頼する老司祭だけだった。
私は白い弔花に囲まれた棺の中で、両腕を胸の上に置いた。
「蓋を閉めても、空気は入りますか」
「側面に穴があります。合図は三回叩くこと。気分が悪くなったら、求婚の途中でも開けます」
「途中では困ります。最後まで聞いてから開けてください」
「あなたを谷底へ置き去りにした男の求婚を、そこまで楽しみにしている女性も珍しい」
十日前、私はディートリヒとともに北の領地から王都へ戻る途中だった。
豪雨で山道が崩れ、馬車が傾いた。扉が外れ、私は斜面へ投げ出された。
途中の木に引っかかり、辛うじて谷底への落下を免れた。
上を見れば、ディートリヒが崖の縁に立っていた。
私は何度も名を呼んだ。
彼と目が合った。
「縄を。お願い、まだ生きているわ」
確かに届く距離だった。
ディートリヒは一歩だけ前へ出た。直後、足元で小石が崩れた。
彼は後ずさった。
「これ以上は危険だ」
「救助隊を呼んで。私は待てるから」
「雨が強くなる。全員が巻き込まれる」
彼は御者たちへ振り返った。
「エレノアは落ちた。もう助からない。出発するぞ」
私は生きていた。
彼も、それを知っていた。
けれど私の声より、自分の靴の下で転がった小石を信じた。
私は枝が折れるまで二時間耐え、川岸の浅瀬へ落ちたところを、救援隊を率いるレオンハルト殿下に救われた。
三日後に目覚めると、ディートリヒは遺体もないまま捜索を二日で打ち切り、私を死亡したことにしていた。
昨日、王都へ戻った私を待っていたのは、街角に貼られた葬式の案内だった。
私の葬式は、今日の正午。
喪主は父。悲劇の婚約者代表はディートリヒ。
弔辞のあと、以前から噂のあったクラリスへ大切な話があるらしい。
それを教えてくれたレオンハルト殿下に、私は頼んだ。
葬式が終わるまで、私が生きていることを伏せてほしい。
そして、棺を一つ貸してほしい、と。
「今なら、普通に扉から入る選択もできます」
殿下が手を差し出した。
「棺から出るより、足は痺れません」
「いいえ。死者には聞こえないと思っている時、人は一番正直になります」
私はその手を取らず、自分で棺の中へ横たわった。
殿下は口元だけで笑った。
「では、生還者殿。よい葬式を」
「ええ。楽しんでまいります」
蓋が閉じた。
暗闇の中で、私は生まれて初めて、自分のためだけに笑った。
◇
棺は葬式の一時間前に、ヴァレント侯爵家の大礼拝堂へ運ばれた。
やがて靴音と衣擦れ、抑えた囁きが満ち、空気穴から香が入り込む。
司祭の祈りが始まった。自分のために泣く人と、侯爵家の悲劇に泣く自分を見せたい人。棺の中からでは、涙の区別はつかない。
祈りが終わると、家族が一人ずつ棺のそばへ来た。
我が国では、最後の別れだけは死者へ小声で置いていく。
最初は父だった。
蓋の上へ、大きな手が置かれた。
「最後まで、手のかからない娘だった」
それだけだった。
褒め言葉なのだろう。
父は、泣かず、欲しがらず、妹へ譲り、決められた婚約に頷く私を褒めてきた。死ぬ時まで手をかけさせなかった娘を、誇りに思っている。
次は母だった。
「あなたは我慢のできる子だったもの。怖くはなかったでしょう」
危うく、蓋を叩きそうになった。
怖かった。
指が裂け、声が枯れても、誰も戻ってこない谷底は怖かった。
けれど母の中の私は、死ぬ時まで聞き分けがよい。
妹は泣きながら、白い花を置いた。
「お姉様の青いドレス、形見にもらっていい?」
思わず笑いそうになった。
あのドレスは妹の方が似合う。生き返ったあとで、改めて譲ろう。
少なくとも妹は、生きていた私と同じ調子で話している。
やがて、足音が一つ近づいた。
磨き上げられた靴の踵が、石床を二度鳴らす。
五年間、隣を歩いてきた音だった。
ディートリヒの手が、棺の蓋に触れた。
「エレノア。君を守れなかった私を、どうか許してほしい」
「私は最後まで手を伸ばした。だが、君は私に逃げろと言った。自分より皆を助けてほしい、と」
そんなことは言っていない。
縄を持ってきて、と叫んだ。
生きたい、と何度も言った。
「あの気高い微笑みを、私は生涯忘れない」
私は泥と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
棺の中で、怒りより先に感心した。
人は十日もあれば、卑怯な退却を美しい悲恋へ作り替えられるらしい。
蓋の上の手が離れた。
ディートリヒは参列者へ向き直り、よく通る声で語り始めた。
◇
ディートリヒの弔辞は長かった。
私がいかに慎ましく、彼を支え、未来の妻として尽くしたか。
どれも間違ってはいない。
けれど彼の話の中に、私が好きだったものは一つも出てこなかった。
雨上がりの庭を歩くこと。
苦いお茶に蜂蜜を二杯入れること。
喜劇を見て、上品ではない声で笑うこと。
彼が愛したというエレノアは、彼にとって都合のよい動作だけを集めた人形だった。
「私は今日、彼女の遺志を胸に、新しい一歩を踏み出したい」
いよいよらしい。
衣擦れの音がして、誰かが息を呑んだ。
「クラリス」
「ディートリヒ様、まさか、この場で」
「この場だからこそだ。エレノアは生前、君の幸せを願っていた」
願った覚えはない。
嫌ってもいなかったが、婚約者と隠れて会っている遠縁の幸せまで面倒を見るほど、私は親切ではない。
「彼女は最期に、私へ言った。クラリスを頼む、と」
話が増えていた。
「私たちが結ばれることこそ、彼女への何よりの手向けになる」
「でも、まだ十日ですわ」
「愛する人を失った今だから分かる。人生は短い。私はもう、大切な人の手を離したくない」
谷底で離した手は、最初から数えていないらしい。
「クラリス・メイフィールド。どうか私の妻になってほしい」
礼拝堂が静まり返った。
私は右手を上げ、左の手のひらを叩いた。
ぱちん。
棺の中では、思ったより大きく響いた。
もう一度。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
外で誰かが悲鳴を上げた。
「棺から音が」
「まさか」
私は内側の留め金を外し、両手で蓋を押し上げた。
白い花が崩れ、光が差し込む。
数十人の参列者が、揃って口を開けていた。
片膝をついたディートリヒと、顔を青くしたクラリス。
その向こう、最前列の端に座ったレオンハルト殿下だけが、退屈そうに顎へ手を添えている。
私は棺の縁に手をかけ、上半身を起こした。
「どうぞ、お続けになって」
ディートリヒの手から、指輪が落ちた。
「ちょうど面白くなってきたところです」
母が気を失い、父が受け止め損ねた。
妹は泣きながら笑っていた。
クラリスは数歩後ずさり、ディートリヒを見下ろした。
「エレ、ノア」
彼が私の名を呼んだ。
谷底では、最後まで呼ばなかった名だった。
「お久しぶりです、ディートリヒ様。私の最期のお言葉を、ずいぶん詳しく覚えていらっしゃるのですね」
「なぜ、生きて」
「その質問は、葬式を始める前になさるべきでした」
私は棺から立ち上がろうとして、足が痺れていることに気づいた。
危うく花の上へ倒れかける。
すぐに黒い袖の腕が伸びてきた。
レオンハルト殿下が私を抱き止める。
「だから、敷布だけでなく足置きも入れましょうと言ったのです」
「葬式の最中に寝返りを打つ死者はいません」
「次回へ生かしましょう」
「次回は結構です」
小声で交わしたあと、私は殿下の腕を借りて棺の外へ降りた。
今日、最初に私へ差し出された手だった。
◇
「これは何かの間違いだ」
ディートリヒが立ち上がった。
「エレノアが生きているはずがない」
「生きていて申し訳ありません」
「そういう意味ではない。君は、確かに谷へ落ちた」
「ええ。そして二時間、助けを呼びました」
参列者の視線が、彼へ集まる。
ディートリヒの顔から血の気が引いた。
「聞こえなかった」
「目が合いました」
「混乱していた。あの場に残れば、ほかの者まで危険だった」
「だから、救助を呼んでほしいとお願いしました」
「呼んだ。捜したが、見つからなかった」
「二日で打ち切った捜索のことでしょうか」
彼は唇を開いたが、声が出なかった。
私は責める言葉を、十日間いくつも考えていた。
臆病者。
人殺し。
嘘つき。
けれど今、棺の前で震える彼を見ても、叫びたいとは思わなかった。
「怖かったのでしょう」
「……そうだ。私は君まで失うと思って」
「違います。ご自分が落ちるのが怖かった」
ディートリヒの肩が揺れた。
「怖いこと自体を、私は責めません。私も怖かった。けれどあなたは、私が生きていると知りながら、死んだことにした」
「侯爵家も、皆も、区切りを必要としていた」
「そして十日で、次の結婚を必要とした」
クラリスが、足元の指輪を見た。
ディートリヒは慌てて彼女へ手を伸ばした。
「クラリス、聞いてくれ。これは悲しみで判断を誤っただけだ」
「どの判断ですの」
彼女の声は静かだった。
「エレノアを置いてきたこと? 死んだと決めたこと? それとも、その棺の前で私へ求婚したこと?」
「私は君を守りたかった」
「先ほどは、エレノアの遺志だとおっしゃいましたわ」
クラリスは私を見た。
「あなたは本当に、私を頼むと?」
「いいえ」
「でしょうね」
彼女は参列者たちへ向き直った。
「ディートリヒ様に婚約者がいると知りながら会っていた私にも、責任があります。エレノアに謝って許されるとは思いません」
私は答えなかった。許すとも、許さないとも。
「それでも、これ以上あなたの嘘へ加担することはできません」
彼女は指から、ディートリヒにもらったらしい小さな指輪を外した。
「あなたは私を愛しているのではなく、逆らわない女を隣へ置きたいだけです」
「そんなことはない」
「エレノアが死んだことにされたから、私の番が来ただけ」
指輪が、求婚用の指輪の隣へ落ちた。
「お断りします。次に崖から落ちた時、弔辞を美しくしていただいても困りますもの」
参列者の間から、耐えきれない笑いが一つ漏れた。
それをきっかけに、礼拝堂はざわめきに包まれた。
ディートリヒは私の手首を掴もうとした。
その前に、私は一歩下がった。
レオンハルト殿下は動かなかった。
私が避けられると信じて、ただ後ろに立っていた。
「エレノア。私たちの婚約はまだ有効だ。二人で話し合おう」
「私の死亡届へ署名した方が、何をおっしゃるのです」
「取り消せばいい」
「いいえ。あの書類だけは、あなたの判断を尊重します」
私は棺を振り返った。
「あなたの婚約者だったエレノアは、本日ここで埋葬します」
◇
葬式は中止になるはずだった。
だが、料理人たちはすでに百人分の食事を用意している。
私は父へ、会食だけは予定どおり開いてほしいと頼んだ。
「何を考えている。これ以上、家の恥を広げるつもりか」
「お父様は先ほど、私は最後まで手のかからない娘だったと褒めてくださいました」
父の目が泳いだ。
「今日はじめて、少し手をかけていただきます」
大食堂には、黒い服の参列者が気まずそうに並んだ。
中央には私の肖像画。その周囲には白い花。壁には私の名前と、生没年が金文字で掲げられている。
没年だけが間違っている。
私は本来、肖像画になる予定だった席へ座った。
レオンハルト殿下は隣に腰掛けた。
「自分の葬式の料理を食べる感想は?」
「塩気が足りません」
「料理人へ伝えますか」
「死者の好みですから、今さらでしょう」
殿下が笑った。
谷底から救われたあと、私が初めて笑った時も、彼は同じ顔をした。
憐れむのでも、驚くのでもない。
面白いものを見つけたような、まっすぐな笑顔だった。
食事の途中、私は立ち上がった。
銀杯を手に取る。
「皆様。本日は私のためにお集まりくださり、ありがとうございます」
誰も、どう答えればよいか分からない顔をしている。
「せっかくですから、故人を送らせてください」
母が青ざめた。
私は壁の肖像画を見上げた。
画家の指示どおり、慎ましく微笑む私。
欲しいものを言わず、怒らず、家族にも婚約者にも手をかけさせない娘。
「さようなら、聞き分けのよいエレノア。あなたのおかげで、私は誰にも嫌われずに生きてこられました」
銀杯を掲げる。
「でも、あなたのままでは、誰にも本当の私を好きになってもらえない」
最初に杯を上げたのは、妹だった。
「さようなら、お姉様。青いドレスは、生きているお姉様に直接お願いします」
私は笑った。
次にクラリスが立った。
「私はあなたの死を利用する側にいました。許しは求めません。それでも、都合のよいクラリスを本日でやめます」
参列者たちが、少しずつ杯を掲げる。
最後にレオンハルト殿下が立った。
「知らなかったあなたへは、別れを。今日棺から出てきたあなたへは、歓迎を」
杯が鳴った。
私の葬式で初めて、私の胸が熱くなった。
「乾杯」
今度の涙は、誰にも見せるためではなかった。
◇
会食が終わると、父は私を執務室へ呼んだ。
母も同席し、扉が閉じるなり言った。
「しばらく領地で静養しなさい。今日のことは、混乱のせいにできます」
「何を混乱したことにするのですか」
「棺へ入ったことも、あのような話をしたこともよ。婚約の件は、お父様たちが穏便に処理します」
穏便。
これまで私の人生を決める時、両親が最も好んだ言葉だった。
「家へ戻れば、また聞き分けのよい娘に戻ることを求めますか」
「あなたは侯爵家の娘です」
「今日、埋葬しました」
「ふざけている場合ではない」
父が机を叩いた。
私は肩をすくめたが、以前のように謝らなかった。
「家名を捨てるつもりか」
「家名ではなく、家名のために黙ることを捨てます」
扉が叩かれ、レオンハルト殿下が入ってきた。
父の顔が安堵に変わる。
王弟が私を説得してくれると思ったのだろう。
「殿下からも、この娘へお言葉を」
「もちろんです」
レオンハルト殿下は、私の前へ四枚の紙を並べた。
「王都の保護邸、北の伯母君の領地、王家が管理する海辺の離宮、それからヴァレント侯爵家。好きな場所を選べます」
父が眉を吊り上げた。
「なぜ、我が家と同列に」
「エレノア嬢の行き先だからです。侯爵の行き先ではない」
殿下は私を見た。
「今、決めなくても構いません。今夜だけ王宮へ泊まり、明日選ぶこともできます」
「殿下のお勧めは?」
「聞きたいですか」
少し考えた。
かつての私なら、きっと勧められた場所を選んだ。
「いいえ。まず自分で考えます」
殿下は嬉しそうに、四枚の紙を私へ渡した。
私は海辺の離宮を選んだ。
子供の頃から、一度も海を見たことがなかったからだ。
両親は反対した。
私はそれを聞き、やはり海へ行くことにした。
屋敷を出る前、レオンハルト殿下が馬車の扉を開けてくれた。
「助けてくださって、ありがとうございました」
「谷底からですか。棺からですか」
「どちらも。でも一番は、ここで私の代わりに怒らなかったことです」
殿下は私の手を取らず、乗り込むための取っ手を示した。
「あなたが怒れると知っていましたから」
私は自分の力で馬車へ乗った。
それから、窓の外の彼へ手を差し出した。
「海辺まで、送ってくださいますか」
「それは命令ですか」
「お願いです」
ようやく殿下が、私の手を取った。
「喜んで」
◇
出発の前に、私は墓地へ立ち寄った。
私のために掘られた墓穴へ、中身のない棺を埋めるよう墓守に頼んだ。
白い花を一輪、蓋の上へ落とす。
背後から足音がした。
「本当に、行くのか」
ディートリヒは葬式の礼服のままだった。
「やり直したい。今度こそ、君を大切にする」
「崖から離れたことだけなら、いつか許せたかもしれません」
彼が顔を上げた。
「でもあなたは、安全な場所へ戻ったあとも助けを求めず、私の死を便利に使った」
捜索をやめる理由。悲劇の婚約者として同情される理由。クラリスと結ばれる理由。
私は彼へ背を向けた。
「あなたが愛していたエレノアは、あの棺の中です」
墓守が土をかける。
乾いた音がした。
一度目は胸が痛んだ。
二度目は、少し軽くなった。
三度目には、前を向けた。
墓地の門で、レオンハルト殿下が待っていた。
「お待たせしました」
「忘れ物は?」
「棺へ置いてきました」
殿下は二頭の馬を用意していた。私は自分で鐙へ足をかける。
「落ちたら、助けてくださいますか」
「あなたが助けを求める前に」
「それでは駄目です」
殿下が目を瞬いた。
「私が助けてと言ってから、手を出してください」
やがて、彼は笑った。
「承知しました」
私はもう、墓穴を振り返らなかった。
◇
海辺の離宮で暮らし始めて、半年が過ぎた。
私は朝、好きなだけ砂浜を歩き、苦いお茶へ蜂蜜を二杯入れた。
町の劇場で喜劇を見て、周囲が振り返るほど笑った。
侯爵家とは手紙を交わしている。
父は以前より長い文章を書くようになり、母は質問を一つ添えるようになった。
妹へ青いドレスを譲った代わりに、私は海色のドレスを仕立ててもらった。
クラリスは自ら関係を公に認めて王都を離れ、南の学校で子供たちへ語学を教えているという。
ディートリヒとの婚約は、私の生存確認と同時に正式に解消された。
救援隊の記録とレオンハルト殿下の証言により、彼の虚偽報告と捜索打ち切りは王家の調査を受けた。
ディートリヒは任されていた役職を解かれ、社交界からも姿を消したという。
彼がどこでどう暮らしているかは知らない。
知らないままで困らなかった。
レオンハルト殿下は、月に一度ほど離宮を訪れた。
災害地へ向かう途中だったり、帰りだったり、まったく逆方向だったりした。
その日、殿下は海岸へ大きな木箱を運ばせてきた。
形はどう見ても、棺だった。
「お帰りください」
「まだ何も説明していません」
「半年ぶり二度目は、さすがに結構です」
殿下は笑い、木箱の蓋を開けた。
中には酒と焼き菓子、それから白い花が詰まっている。
「離宮の料理人から、海辺では食事の塩気が足りていると聞きました」
「棺で運ぶ必要はありません」
「あなたと初めて食事をした日の容器ですから」
「食事をしたのは大食堂です」
「出会いを細かく訂正するのは、ロマンがありません」
私たちは砂浜へ布を敷き、棺から取り出した酒を飲んだ。
夕日が海へ沈む頃、殿下は小さな箱を差し出した。
今度は棺の形をしていない。
中には指輪があった。
「エレノア。次にあなたが棺へ入る時は、私も隣へ入れてください」
「それは求婚ですか」
「できれば、六十年ほど有効な」
私は指輪ではなく、彼の顔を見た。
谷底から引き上げてくれた人。
棺を貸してくれた人。
けれど何より、私が助けを求めるまで待ち、私が選ぶ時間をくれた人。
「一つ、条件があります」
「棺の敷布なら増やします」
「結婚式の言葉も、料理も、招待する人も、二人で決めること」
「もちろん」
「私が嫌だと言ったら、聞くこと」
「必ず」
「私も、殿下が嫌だと言ったら聞きます」
「それは助かります」
私は自分で指輪を取り、左手へはめた。
「では、六十年ほど。よろしくお願いいたします」
半年後、私たちは結婚した。
式場は、あの大礼拝堂ではなく、海の見える小さな聖堂を選んだ。
父も母も妹も来た。クラリスからは、名を記さない白い花が届いた。
私は受け取ったが、返事はしなかった。
誓いの言葉を述べる前、レオンハルト殿下が私へ小声で尋ねた。
「逃げたくなったら、裏に馬があります」
「殿下は?」
「あなたが逃げるなら、行き先を聞いてから追います」
私は上品ではない声で笑った。
「今日は、ここにいたいです」
「私もです」
一度目の式では、私は棺の中にいた。
二度目の式では、自分の足で立ち、自分の口で誓った。
死んだことにされた私は、もういない。
生きている私は、今日も自分で選んでいる。




