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私の葬式で婚約者が愛人に求婚したので、棺の中から拍手しました~その棺を貸してくれた王弟殿下と帰ります~

作者: 右利きのおっさん
掲載日:2026/07/18

自分の葬式に参列するなら、棺の寝心地は確かめておいた方がいい。


そう学ぶ機会は、一生に一度で十分だと思う。


「少し硬いです」


私が感想を述べると、棺を覗き込んでいたレオンハルト殿下は、真剣な顔で頷いた。


「死者からの苦情は初めてです。敷布をもう一枚増やしましょう」


「まだ死者ではありません」


「今日の正午までは、その設定でお願いします」


王弟殿下と侯爵令嬢が、夜明け前の礼拝堂で棺の内装について相談している。


誰かに見られたら、王都で一年は語り継がれる光景だろう。


幸い、礼拝堂にいるのは私たち二人と、殿下が信頼する老司祭だけだった。


私は白い弔花に囲まれた棺の中で、両腕を胸の上に置いた。


「蓋を閉めても、空気は入りますか」


「側面に穴があります。合図は三回叩くこと。気分が悪くなったら、求婚の途中でも開けます」


「途中では困ります。最後まで聞いてから開けてください」


「あなたを谷底へ置き去りにした男の求婚を、そこまで楽しみにしている女性も珍しい」


十日前、私はディートリヒとともに北の領地から王都へ戻る途中だった。


豪雨で山道が崩れ、馬車が傾いた。扉が外れ、私は斜面へ投げ出された。


途中の木に引っかかり、辛うじて谷底への落下を免れた。


上を見れば、ディートリヒが崖の縁に立っていた。


私は何度も名を呼んだ。


彼と目が合った。


「縄を。お願い、まだ生きているわ」


確かに届く距離だった。


ディートリヒは一歩だけ前へ出た。直後、足元で小石が崩れた。


彼は後ずさった。


「これ以上は危険だ」


「救助隊を呼んで。私は待てるから」


「雨が強くなる。全員が巻き込まれる」


彼は御者たちへ振り返った。


「エレノアは落ちた。もう助からない。出発するぞ」


私は生きていた。


彼も、それを知っていた。


けれど私の声より、自分の靴の下で転がった小石を信じた。


私は枝が折れるまで二時間耐え、川岸の浅瀬へ落ちたところを、救援隊を率いるレオンハルト殿下に救われた。


三日後に目覚めると、ディートリヒは遺体もないまま捜索を二日で打ち切り、私を死亡したことにしていた。


昨日、王都へ戻った私を待っていたのは、街角に貼られた葬式の案内だった。


私の葬式は、今日の正午。


喪主は父。悲劇の婚約者代表はディートリヒ。


弔辞のあと、以前から噂のあったクラリスへ大切な話があるらしい。


それを教えてくれたレオンハルト殿下に、私は頼んだ。


葬式が終わるまで、私が生きていることを伏せてほしい。


そして、棺を一つ貸してほしい、と。


「今なら、普通に扉から入る選択もできます」


殿下が手を差し出した。


「棺から出るより、足は痺れません」


「いいえ。死者には聞こえないと思っている時、人は一番正直になります」


私はその手を取らず、自分で棺の中へ横たわった。


殿下は口元だけで笑った。


「では、生還者殿。よい葬式を」


「ええ。楽しんでまいります」


蓋が閉じた。


暗闇の中で、私は生まれて初めて、自分のためだけに笑った。





棺は葬式の一時間前に、ヴァレント侯爵家の大礼拝堂へ運ばれた。


やがて靴音と衣擦れ、抑えた囁きが満ち、空気穴から香が入り込む。


司祭の祈りが始まった。自分のために泣く人と、侯爵家の悲劇に泣く自分を見せたい人。棺の中からでは、涙の区別はつかない。


祈りが終わると、家族が一人ずつ棺のそばへ来た。


我が国では、最後の別れだけは死者へ小声で置いていく。


最初は父だった。


蓋の上へ、大きな手が置かれた。


「最後まで、手のかからない娘だった」


それだけだった。


褒め言葉なのだろう。


父は、泣かず、欲しがらず、妹へ譲り、決められた婚約に頷く私を褒めてきた。死ぬ時まで手をかけさせなかった娘を、誇りに思っている。


次は母だった。


「あなたは我慢のできる子だったもの。怖くはなかったでしょう」


危うく、蓋を叩きそうになった。


怖かった。


指が裂け、声が枯れても、誰も戻ってこない谷底は怖かった。


けれど母の中の私は、死ぬ時まで聞き分けがよい。


妹は泣きながら、白い花を置いた。


「お姉様の青いドレス、形見にもらっていい?」


思わず笑いそうになった。


あのドレスは妹の方が似合う。生き返ったあとで、改めて譲ろう。


少なくとも妹は、生きていた私と同じ調子で話している。


やがて、足音が一つ近づいた。


磨き上げられた靴の踵が、石床を二度鳴らす。


五年間、隣を歩いてきた音だった。


ディートリヒの手が、棺の蓋に触れた。


「エレノア。君を守れなかった私を、どうか許してほしい」


「私は最後まで手を伸ばした。だが、君は私に逃げろと言った。自分より皆を助けてほしい、と」


そんなことは言っていない。


縄を持ってきて、と叫んだ。


生きたい、と何度も言った。


「あの気高い微笑みを、私は生涯忘れない」


私は泥と鼻水でぐしゃぐしゃだった。


棺の中で、怒りより先に感心した。


人は十日もあれば、卑怯な退却を美しい悲恋へ作り替えられるらしい。


蓋の上の手が離れた。


ディートリヒは参列者へ向き直り、よく通る声で語り始めた。





ディートリヒの弔辞は長かった。


私がいかに慎ましく、彼を支え、未来の妻として尽くしたか。


どれも間違ってはいない。


けれど彼の話の中に、私が好きだったものは一つも出てこなかった。


雨上がりの庭を歩くこと。


苦いお茶に蜂蜜を二杯入れること。


喜劇を見て、上品ではない声で笑うこと。


彼が愛したというエレノアは、彼にとって都合のよい動作だけを集めた人形だった。


「私は今日、彼女の遺志を胸に、新しい一歩を踏み出したい」


いよいよらしい。


衣擦れの音がして、誰かが息を呑んだ。


「クラリス」


「ディートリヒ様、まさか、この場で」


「この場だからこそだ。エレノアは生前、君の幸せを願っていた」


願った覚えはない。


嫌ってもいなかったが、婚約者と隠れて会っている遠縁の幸せまで面倒を見るほど、私は親切ではない。


「彼女は最期に、私へ言った。クラリスを頼む、と」


話が増えていた。


「私たちが結ばれることこそ、彼女への何よりの手向けになる」


「でも、まだ十日ですわ」


「愛する人を失った今だから分かる。人生は短い。私はもう、大切な人の手を離したくない」


谷底で離した手は、最初から数えていないらしい。


「クラリス・メイフィールド。どうか私の妻になってほしい」


礼拝堂が静まり返った。


私は右手を上げ、左の手のひらを叩いた。


ぱちん。


棺の中では、思ったより大きく響いた。


もう一度。


ぱちん、ぱちん、ぱちん。


外で誰かが悲鳴を上げた。


「棺から音が」


「まさか」


私は内側の留め金を外し、両手で蓋を押し上げた。


白い花が崩れ、光が差し込む。


数十人の参列者が、揃って口を開けていた。


片膝をついたディートリヒと、顔を青くしたクラリス。


その向こう、最前列の端に座ったレオンハルト殿下だけが、退屈そうに顎へ手を添えている。


私は棺の縁に手をかけ、上半身を起こした。


「どうぞ、お続けになって」


ディートリヒの手から、指輪が落ちた。


「ちょうど面白くなってきたところです」


母が気を失い、父が受け止め損ねた。


妹は泣きながら笑っていた。


クラリスは数歩後ずさり、ディートリヒを見下ろした。


「エレ、ノア」


彼が私の名を呼んだ。


谷底では、最後まで呼ばなかった名だった。


「お久しぶりです、ディートリヒ様。私の最期のお言葉を、ずいぶん詳しく覚えていらっしゃるのですね」


「なぜ、生きて」


「その質問は、葬式を始める前になさるべきでした」


私は棺から立ち上がろうとして、足が痺れていることに気づいた。


危うく花の上へ倒れかける。


すぐに黒い袖の腕が伸びてきた。


レオンハルト殿下が私を抱き止める。


「だから、敷布だけでなく足置きも入れましょうと言ったのです」


「葬式の最中に寝返りを打つ死者はいません」


「次回へ生かしましょう」


「次回は結構です」


小声で交わしたあと、私は殿下の腕を借りて棺の外へ降りた。


今日、最初に私へ差し出された手だった。





「これは何かの間違いだ」


ディートリヒが立ち上がった。


「エレノアが生きているはずがない」


「生きていて申し訳ありません」


「そういう意味ではない。君は、確かに谷へ落ちた」


「ええ。そして二時間、助けを呼びました」


参列者の視線が、彼へ集まる。


ディートリヒの顔から血の気が引いた。


「聞こえなかった」


「目が合いました」


「混乱していた。あの場に残れば、ほかの者まで危険だった」


「だから、救助を呼んでほしいとお願いしました」


「呼んだ。捜したが、見つからなかった」


「二日で打ち切った捜索のことでしょうか」


彼は唇を開いたが、声が出なかった。


私は責める言葉を、十日間いくつも考えていた。


臆病者。


人殺し。


嘘つき。


けれど今、棺の前で震える彼を見ても、叫びたいとは思わなかった。


「怖かったのでしょう」


「……そうだ。私は君まで失うと思って」


「違います。ご自分が落ちるのが怖かった」


ディートリヒの肩が揺れた。


「怖いこと自体を、私は責めません。私も怖かった。けれどあなたは、私が生きていると知りながら、死んだことにした」


「侯爵家も、皆も、区切りを必要としていた」


「そして十日で、次の結婚を必要とした」


クラリスが、足元の指輪を見た。


ディートリヒは慌てて彼女へ手を伸ばした。


「クラリス、聞いてくれ。これは悲しみで判断を誤っただけだ」


「どの判断ですの」


彼女の声は静かだった。


「エレノアを置いてきたこと? 死んだと決めたこと? それとも、その棺の前で私へ求婚したこと?」


「私は君を守りたかった」


「先ほどは、エレノアの遺志だとおっしゃいましたわ」


クラリスは私を見た。


「あなたは本当に、私を頼むと?」


「いいえ」


「でしょうね」


彼女は参列者たちへ向き直った。


「ディートリヒ様に婚約者がいると知りながら会っていた私にも、責任があります。エレノアに謝って許されるとは思いません」


私は答えなかった。許すとも、許さないとも。


「それでも、これ以上あなたの嘘へ加担することはできません」


彼女は指から、ディートリヒにもらったらしい小さな指輪を外した。


「あなたは私を愛しているのではなく、逆らわない女を隣へ置きたいだけです」


「そんなことはない」


「エレノアが死んだことにされたから、私の番が来ただけ」


指輪が、求婚用の指輪の隣へ落ちた。


「お断りします。次に崖から落ちた時、弔辞を美しくしていただいても困りますもの」


参列者の間から、耐えきれない笑いが一つ漏れた。


それをきっかけに、礼拝堂はざわめきに包まれた。


ディートリヒは私の手首を掴もうとした。


その前に、私は一歩下がった。


レオンハルト殿下は動かなかった。


私が避けられると信じて、ただ後ろに立っていた。


「エレノア。私たちの婚約はまだ有効だ。二人で話し合おう」


「私の死亡届へ署名した方が、何をおっしゃるのです」


「取り消せばいい」


「いいえ。あの書類だけは、あなたの判断を尊重します」


私は棺を振り返った。


「あなたの婚約者だったエレノアは、本日ここで埋葬します」





葬式は中止になるはずだった。


だが、料理人たちはすでに百人分の食事を用意している。


私は父へ、会食だけは予定どおり開いてほしいと頼んだ。


「何を考えている。これ以上、家の恥を広げるつもりか」


「お父様は先ほど、私は最後まで手のかからない娘だったと褒めてくださいました」


父の目が泳いだ。


「今日はじめて、少し手をかけていただきます」


大食堂には、黒い服の参列者が気まずそうに並んだ。


中央には私の肖像画。その周囲には白い花。壁には私の名前と、生没年が金文字で掲げられている。


没年だけが間違っている。


私は本来、肖像画になる予定だった席へ座った。


レオンハルト殿下は隣に腰掛けた。


「自分の葬式の料理を食べる感想は?」


「塩気が足りません」


「料理人へ伝えますか」


「死者の好みですから、今さらでしょう」


殿下が笑った。


谷底から救われたあと、私が初めて笑った時も、彼は同じ顔をした。


憐れむのでも、驚くのでもない。


面白いものを見つけたような、まっすぐな笑顔だった。


食事の途中、私は立ち上がった。


銀杯を手に取る。


「皆様。本日は私のためにお集まりくださり、ありがとうございます」


誰も、どう答えればよいか分からない顔をしている。


「せっかくですから、故人を送らせてください」


母が青ざめた。


私は壁の肖像画を見上げた。


画家の指示どおり、慎ましく微笑む私。


欲しいものを言わず、怒らず、家族にも婚約者にも手をかけさせない娘。


「さようなら、聞き分けのよいエレノア。あなたのおかげで、私は誰にも嫌われずに生きてこられました」


銀杯を掲げる。


「でも、あなたのままでは、誰にも本当の私を好きになってもらえない」


最初に杯を上げたのは、妹だった。


「さようなら、お姉様。青いドレスは、生きているお姉様に直接お願いします」


私は笑った。


次にクラリスが立った。


「私はあなたの死を利用する側にいました。許しは求めません。それでも、都合のよいクラリスを本日でやめます」


参列者たちが、少しずつ杯を掲げる。


最後にレオンハルト殿下が立った。


「知らなかったあなたへは、別れを。今日棺から出てきたあなたへは、歓迎を」


杯が鳴った。


私の葬式で初めて、私の胸が熱くなった。


「乾杯」


今度の涙は、誰にも見せるためではなかった。





会食が終わると、父は私を執務室へ呼んだ。


母も同席し、扉が閉じるなり言った。


「しばらく領地で静養しなさい。今日のことは、混乱のせいにできます」


「何を混乱したことにするのですか」


「棺へ入ったことも、あのような話をしたこともよ。婚約の件は、お父様たちが穏便に処理します」


穏便。


これまで私の人生を決める時、両親が最も好んだ言葉だった。


「家へ戻れば、また聞き分けのよい娘に戻ることを求めますか」


「あなたは侯爵家の娘です」


「今日、埋葬しました」


「ふざけている場合ではない」


父が机を叩いた。


私は肩をすくめたが、以前のように謝らなかった。


「家名を捨てるつもりか」


「家名ではなく、家名のために黙ることを捨てます」


扉が叩かれ、レオンハルト殿下が入ってきた。


父の顔が安堵に変わる。


王弟が私を説得してくれると思ったのだろう。


「殿下からも、この娘へお言葉を」


「もちろんです」


レオンハルト殿下は、私の前へ四枚の紙を並べた。


「王都の保護邸、北の伯母君の領地、王家が管理する海辺の離宮、それからヴァレント侯爵家。好きな場所を選べます」


父が眉を吊り上げた。


「なぜ、我が家と同列に」


「エレノア嬢の行き先だからです。侯爵の行き先ではない」


殿下は私を見た。


「今、決めなくても構いません。今夜だけ王宮へ泊まり、明日選ぶこともできます」


「殿下のお勧めは?」


「聞きたいですか」


少し考えた。


かつての私なら、きっと勧められた場所を選んだ。


「いいえ。まず自分で考えます」


殿下は嬉しそうに、四枚の紙を私へ渡した。


私は海辺の離宮を選んだ。


子供の頃から、一度も海を見たことがなかったからだ。


両親は反対した。


私はそれを聞き、やはり海へ行くことにした。


屋敷を出る前、レオンハルト殿下が馬車の扉を開けてくれた。


「助けてくださって、ありがとうございました」


「谷底からですか。棺からですか」


「どちらも。でも一番は、ここで私の代わりに怒らなかったことです」


殿下は私の手を取らず、乗り込むための取っ手を示した。


「あなたが怒れると知っていましたから」


私は自分の力で馬車へ乗った。


それから、窓の外の彼へ手を差し出した。


「海辺まで、送ってくださいますか」


「それは命令ですか」


「お願いです」


ようやく殿下が、私の手を取った。


「喜んで」





出発の前に、私は墓地へ立ち寄った。


私のために掘られた墓穴へ、中身のない棺を埋めるよう墓守に頼んだ。


白い花を一輪、蓋の上へ落とす。


背後から足音がした。


「本当に、行くのか」


ディートリヒは葬式の礼服のままだった。


「やり直したい。今度こそ、君を大切にする」


「崖から離れたことだけなら、いつか許せたかもしれません」


彼が顔を上げた。


「でもあなたは、安全な場所へ戻ったあとも助けを求めず、私の死を便利に使った」


捜索をやめる理由。悲劇の婚約者として同情される理由。クラリスと結ばれる理由。


私は彼へ背を向けた。


「あなたが愛していたエレノアは、あの棺の中です」


墓守が土をかける。


乾いた音がした。


一度目は胸が痛んだ。


二度目は、少し軽くなった。


三度目には、前を向けた。


墓地の門で、レオンハルト殿下が待っていた。


「お待たせしました」


「忘れ物は?」


「棺へ置いてきました」


殿下は二頭の馬を用意していた。私は自分で鐙へ足をかける。


「落ちたら、助けてくださいますか」


「あなたが助けを求める前に」


「それでは駄目です」


殿下が目を瞬いた。


「私が助けてと言ってから、手を出してください」


やがて、彼は笑った。


「承知しました」


私はもう、墓穴を振り返らなかった。





海辺の離宮で暮らし始めて、半年が過ぎた。


私は朝、好きなだけ砂浜を歩き、苦いお茶へ蜂蜜を二杯入れた。


町の劇場で喜劇を見て、周囲が振り返るほど笑った。


侯爵家とは手紙を交わしている。


父は以前より長い文章を書くようになり、母は質問を一つ添えるようになった。


妹へ青いドレスを譲った代わりに、私は海色のドレスを仕立ててもらった。


クラリスは自ら関係を公に認めて王都を離れ、南の学校で子供たちへ語学を教えているという。


ディートリヒとの婚約は、私の生存確認と同時に正式に解消された。


救援隊の記録とレオンハルト殿下の証言により、彼の虚偽報告と捜索打ち切りは王家の調査を受けた。


ディートリヒは任されていた役職を解かれ、社交界からも姿を消したという。


彼がどこでどう暮らしているかは知らない。


知らないままで困らなかった。


レオンハルト殿下は、月に一度ほど離宮を訪れた。


災害地へ向かう途中だったり、帰りだったり、まったく逆方向だったりした。


その日、殿下は海岸へ大きな木箱を運ばせてきた。


形はどう見ても、棺だった。


「お帰りください」


「まだ何も説明していません」


「半年ぶり二度目は、さすがに結構です」


殿下は笑い、木箱の蓋を開けた。


中には酒と焼き菓子、それから白い花が詰まっている。


「離宮の料理人から、海辺では食事の塩気が足りていると聞きました」


「棺で運ぶ必要はありません」


「あなたと初めて食事をした日の容器ですから」


「食事をしたのは大食堂です」


「出会いを細かく訂正するのは、ロマンがありません」


私たちは砂浜へ布を敷き、棺から取り出した酒を飲んだ。


夕日が海へ沈む頃、殿下は小さな箱を差し出した。


今度は棺の形をしていない。


中には指輪があった。


「エレノア。次にあなたが棺へ入る時は、私も隣へ入れてください」


「それは求婚ですか」


「できれば、六十年ほど有効な」


私は指輪ではなく、彼の顔を見た。


谷底から引き上げてくれた人。


棺を貸してくれた人。


けれど何より、私が助けを求めるまで待ち、私が選ぶ時間をくれた人。


「一つ、条件があります」


「棺の敷布なら増やします」


「結婚式の言葉も、料理も、招待する人も、二人で決めること」


「もちろん」


「私が嫌だと言ったら、聞くこと」


「必ず」


「私も、殿下が嫌だと言ったら聞きます」


「それは助かります」


私は自分で指輪を取り、左手へはめた。


「では、六十年ほど。よろしくお願いいたします」


半年後、私たちは結婚した。


式場は、あの大礼拝堂ではなく、海の見える小さな聖堂を選んだ。


父も母も妹も来た。クラリスからは、名を記さない白い花が届いた。


私は受け取ったが、返事はしなかった。


誓いの言葉を述べる前、レオンハルト殿下が私へ小声で尋ねた。


「逃げたくなったら、裏に馬があります」


「殿下は?」


「あなたが逃げるなら、行き先を聞いてから追います」


私は上品ではない声で笑った。


「今日は、ここにいたいです」


「私もです」


一度目の式では、私は棺の中にいた。


二度目の式では、自分の足で立ち、自分の口で誓った。


死んだことにされた私は、もういない。


生きている私は、今日も自分で選んでいる。


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― 新着の感想 ―
妹とクラリス良いなw それに引き換えディートリヒは当然として両親の情けない事よ キチンと見ている人と見たいようにしか見ていない人との違いが出ましたね
妹のブレなさがとても面白かったです
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