エカチェリーナ編
世界史豆知識
今回の少し前、北方戦争は最初こそスウェーデンが優勢だったもののウクライナでの戦い、ポルタヴァの戦い(1706年)により戦況が一気に変動、これ以降はロシア有利になり、1718年にカール12世没、1721年に二スタット条約で講和。
…で、サンクト=ペテルブルクはピョートル一世が北方戦争中に奪ったスウェーデンの土地な訳で、ネヴァ川河口を工事して建設した訳です。
1703年で優勢じゃない時に何してんだお前。しかも現場に視察行ってるし。
一万人犠牲にして建っただけです。
鋼鉄の冷気が、馬車の隙間から容赦なく這い込んでくる。プロイセンの軍事都市シュチェチンを出発してから幾日、十四歳のソフィアが目にしたロシアの景色は、色彩を奪われた鉛色の世界だった。車輪が雪を噛み潰す鈍い音が、静寂を切り裂いて響く。膝の上に置いた手は、厚手の毛皮に包まれていながら、感覚を失いつつあった。指先を動かそうと試みるたび、関節が凍りついた木々のように軋む。隣に座る母、ヨハンナは、自らの野心が結実しようとしている喜びに頬を紅潮させていたが、その熱はソフィアには伝わらない。彼女が感じているのは、未知の巨大な帝国への畏怖でも、ましてや見ぬ婚約者への期待でもなかった。ただ、皮膚を刺すような物理的な低温と、背後に置き去りにしてきた故郷の、取るに足らない小国としての貧しさが、冷徹な対比となって脳裏に刻まれていた。
「見てごらんなさい、ソフィア。これら全てが、いずれお前のものになるかもしれないのよ!」
「そうですね、お母様。あまりに広大で、呼吸をすることさえ困難に感じられますわ。」
母の問いに応じるソフィアの声は、震えを隠して平坦だった。窓の外に広がるのは、見渡す限りの白。そこには、彼女を歓迎する温もりなど微塵も存在しない。ロシアという怪物は、ただそこに横たわり、異邦の少女がその喉元に呑み込まれるのを待っているように思えた。
サンクトペテルブルクの冬宮殿に足を踏み入れた瞬間、ソフィアを襲ったのは、眩暈を覚えるほどの金色の洪水だった。蜜蝋の燃える甘い香りと、無数の燭台が放つ暴力的なまでの光。プロイセンの簡素な城で育った彼女にとって、ロシア宮廷の贅を尽くした空間は、現実感を剥離させるに十分だった。
謁見の間で待ち構えていたのは、現女帝エリザヴェータ。圧倒的な威容を誇るその女性は、鋭い眼光でソフィアを頭の先からつま先まで舐めるように眺めた。その視線は、人間を吟味するものではなく、自らのコレクションに加える新たな美術品を鑑定するそれだった。
「アンハルト・・・ツェルプストの娘か。いかにも頼りなげだが、瞳に宿る光だけは悪くないわね。」
「身に余る光栄に存じます、陛下。」
ソフィアは完璧な礼を捧げた。その瞬間、彼女は理解した。ここでは、愛や慈しみといった感情は、装飾品に過ぎない。重要なのは、この広大な帝国の後継者を産むという機能であり、あるいは女帝の機嫌を損ねないという技術である。
そして、その「機能」の対となるはずの婚約者、大公ピョートルとの対面は、絶望を確定させる儀式に過ぎなかった。
ピョートルは、成人近い年齢でありながら、その瞳には幼子特有の残酷さと、周囲への怯えが混在していた。彼はソフィアを一瞥すると、すぐに興味を失ったかのように、手元のテーブルに並べられた玩具の兵隊へと視線を戻した。
「ドイツから来たのか。ならば、プロイセンの軍服がいかに優れているか知っているだろう? ここの連中は何も分かっていない。ロシアの制服など、重苦しいだけで美しくないのだ。」
「閣下のおっしゃる通り、機能美においてはプロイセンの右に出るものはないかもしれませんわ。」
「ほう、話が分かるではないか。だが、お前のような女に何が分かる。下がれ、私は今、重要な演習の最中なのだ。」
ピョートルは、ソフィアを人間として認識していなかった。彼にとって、婚約者とは自分の遊びを邪魔しない、あるいは自分の好みを肯定するためだけの舞台装置だった。
自室に戻ったソフィアは、燃え盛る暖炉の前で一人、凍えた手をかざした。火の粉が爆ぜる音だけが室内に響く。彼女は鏡の中に映る、十四歳のいたいけな少女を見つめた。そこには、愛されることを望む無垢な期待の残滓があった。
ソフィアはその鏡像に向かって、静かに、そして残酷に微笑んだ。
(愛など、この凍土では何の役にも立たない。必要なのは、この国そのものになることだわ・・・。)
彼女は、故郷から持ってきた恋文や、幼い頃の思い出の品を、一つずつ暖炉の中へと投げ込んだ。紙が黒く丸まり、灰となって消えていく。それは、一個の人間としての「ソフィア」を廃棄する、静かな葬列だった。
翌日から、ソフィアの変貌は始まった。彼女は、深夜の宮殿が深い眠りに落ちる頃、たった一人の部屋で机に向かった。開かれているのは、ロシア語の文法書と、東方正教会の教義書だ。
ロシアの冬は、夜が長い。窓ガラスには幾何学模様の霜が張り付き、壁からは冷気が染み出してくる。ソフィアは、睡魔を払うために、ある行動を自らに課した。
彼女は靴を脱ぎ、裸足を冷たい石床に押し付けた。
悲鳴を上げたくなるほどの冷たさが、足裏から背筋を通って脳を直撃する。その激痛が、彼女の意識を鮮明に保たせた。一文字ずつ、慣れないキリル文字をなぞる。喉の奥がヒリヒリと痛み、肺が冷たい空気を拒絶するように咳き込むが、彼女はペンを置かなかった。
ロシア語を完璧に操ること。ロシアの神を信じること。ロシアの伝統を、誰よりも深く愛してみせること。それが、この異郷で権力を握るための、唯一かつ最短の論理であると彼女は確信していた。
「神よ、私に力を。いいえ、神すらも、私を飾るための法衣にしてみせるわ・・・。」
呟く言葉は、すでにロシアの響きを帯びていた。
数週間が過ぎた頃、ソフィアの身体は限界に達していた。極度の睡眠不足と、深夜の寒冷環境が、彼女の肺を蝕んだのだ。
ある朝、彼女は激しい悪寒と共に意識を失った。高熱が彼女の小さな身体を焼き、呼吸をするたびに胸に鋭い針で刺されたような痛みが走る。肺炎だった。
病床に伏したソフィアの周りには、医師たちの騒がしい声と、母ヨハンナの嘆きが渦巻いていた。ヨハンナは、娘の命よりも、この縁談が破談になることを恐れていた。
「なんてことなの! こんな時に病にかかるなんて、お前はどれだけ私を困らせれば気が済むの!」
母の罵声は、高熱に浮かされるソフィアの耳にも届いていた。しかし、彼女の心は驚くほど穏やかだった。死への恐怖よりも、この苦痛さえもが「物語の序章」として利用できるという計算が、意識の奥底で働いていた。
女帝エリザヴェータが見舞いに訪れた際、ソフィアは朦朧とする意識の中で、わざとロシア語で祈りの言葉を呟いた。
「主よ・・・、ロシアの民を・・・守りたまえ・・・。」
その瞬間、女帝の瞳に宿っていた猜疑心が、驚きと感銘へと塗り替えられるのを、ソフィアは閉じた瞼の裏で見逃さなかった。
医師たちは瀉血を勧めたが、ソフィアは弱々しく首を振った。
「血を流す必要はありません・・・。この病は、私がロシアの土になるための儀式なのですから・・・。」
その言葉は、宮廷中に広まった。ドイツから来た幼い姫君が、ロシアを愛するあまり、寒さを忘れて勉強に励み、命を落としかけている。この物語は、冷笑的なロシア貴族たちの心に、微かな、しかし消えない波紋を広げた。
生死の境を彷徨うこと一週間。ソフィアは奇跡的に回復した。
起き上がった彼女の顔からは、幼さが消え失せていた。頬はこけ、瞳は以前よりも鋭く、深い知性を湛えている。
彼女は鏡の前に立ち、自らの髪を整えた。
「今日から、私はエカチェリーナだわ。ソフィアという娘は、あの雪の中で死んだのよ。」
名前を変えることは、過去を捨てること。彼女はロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナという名を受け入れた。それは、夫ピョートルとの結婚という名の、終わりのない戦場への宣戦布告でもあった。
ある日の午後、回復を祝う小規模な茶会が開かれた。ピョートルは相変わらず不機嫌そうに、部屋の隅で犬を虐めて遊んでいた。
「エカチェリーナ、お前は運が良い。死にかけて同情を買うとは、なかなかの策士ではないか。」
ピョートルの嘲笑に、エカチェリーナは静かに微笑んで返した。
「運もまた、実力のうちでございますわ、閣下。ロシアの神が私を生かしたのは、きっと意味があるのでしょう。」
「ふん、宗教か。退屈極まりない。私はフリードリヒ大王のような、理性的で力強い王になるのだ。ロシアのような野蛮な国を、プロイセンの型に嵌めてやるつもりだ。」
「それは、素晴らしい志ですこと。」
エカチェリーナの瞳の奥で、冷徹な計算が火花を散らす。
(この男は何も分かっていない。ロシアを型に嵌めるのではない。自分がロシアという型そのものにならなければ、この怪物は従わないということを・・・。)
彼女は、ピョートルが玩具を動かす手つきを眺めながら、確信した。
目の前の男は、いずれ自滅する。彼の持つ権力という名の空白を、誰が、いつ、どのように埋めるべきか。その答えは、すでに彼女の胸の内にあった。
エカチェリーナは、窓の外に広がる広大な雪原を見つめた。
風が唸りを上げ、宮殿の壁を叩く。かつては恐怖の対象だったその音も、今では自分を鼓舞する軍歌のように聞こえた。
彼女は、自分の人生を一つの巨大な「手段」として定義し直した。
愛されないことは、自由であることを意味する。
軽んじられることは、影で牙を研ぐ時間があることを意味する。
絶望とは、可能性というリソースが最大限に凝縮された状態である。
エカチェリーナの手が、窓枠に触れる。石の冷たさは、もう彼女を震わせることはなかった。むしろ、その冷徹な感触こそが、自分の理性を研ぎ澄ませてくれる親密な友のように思えた。
「さあ、始めましょうか。この凍てついた国を、私の熱で溶かし、再構築する物語を・・・。」
少女は、誰にも聞こえない声で独白した。
冬宮殿の深奥で、一輪の毒花が、静かに、しかし力強く根を張り始めた。その花の名は、野心。ロシアの全土を覆い尽くすまで、その成長が止まることはない。
重く湿った鐘の音が、サンクトペテルブルクの冬の空に低く垂れ込めた。女帝エリザヴェータの崩御を告げるその響きは、帝国の心臓が一度止まり、異質な拍動を始めた合図でもあった。
棺の中に横たわる先帝の遺体は、贅を尽くした黄金の装飾に埋もれ、静寂を保っている。その傍らで、新皇帝ピョートル三世は、嘆きの表情一つ見せることなく、軍服の袖口を気にする仕草を繰り返していた。彼が纏っているのは、ロシアの伝統的な緑の制服ではない。敵国プロイセンの、鋭利で無機質な青い制服だった。
「見ていろ。これからは、この野蛮な国を文明化してやる。フリードリヒ大王のような規律こそが、ロシアには必要なのだ。」
棺の前で膝をつき、祈りを捧げるふりをするエカチェリーナの耳に、夫の乾いた声が届く。彼女は顔を上げず、黒い喪服の裾を握りしめた。彼女の周囲には、先帝を悼み、同時に新皇帝の異様な振る舞いに戸惑う近衛兵たちの視線が集中していた。エカチェリーナは、あえてゆっくりと立ち上がり、溢れそうになる涙を指先で拭う仕草を見せた。それは悲しみの発露ではなく、観衆という名の「リソース」を掌握するための、計算された演技だった。
「陛下、今は先帝の御霊を安らげることが第一かと存じます。兵たちも、陛下の御慈悲を待っておりますわ。」
「慈悲だと? そんなものは無能の言い訳だ。おい、そこの兵士! その姿勢は何だ。プロイセン式に立てと言ったはずだぞ!」
ピョートルの罵声が聖堂に響き渡り、跪いていた将校たちの背筋に冷たい緊張が走る。彼らにとって、七年戦争で血を流して勝ち取った勝利を、新皇帝がプロイセンへの一方的な講和と領土返還で無に帰した事実は、飲み込みがたい屈辱だった。
エカチェリーナは、夫の背後で静かに兵士たちの顔を見渡した。怒り、困惑、そして行き場のない忠誠心。それらが混ざり合い、発火を待つ火薬のように宮殿の空気の中に充満している。彼女はその火薬の香りを、上質な香水よりも深く吸い込んだ。
数日後、帝都の片隅にある「赤い居酒屋」は、独特の熱気に包まれていた。安酒の鼻を突く匂いと、男たちの汗、そして荒い呼吸。近衛連隊の兵士たちが集うその場所は、皇帝の目が届かない唯一の聖域だった。
その薄暗い店内の奥に、一人の女性が座っていた。深いフードで顔を隠しているが、その立ち振る舞いには、酒場の喧騒にそぐわない鋭い理知が漂っている。
「大公妃様、このような場所へ・・・。万が一のことがあれば、我らの首が飛びますぞ。」
大きな身体を揺らしながら、グリゴリー・オルロフが彼女の前に座った。彼は近衛連隊の将校であり、その武勇と放蕩ぶりで兵たちの英雄として知られていた。彼の腕には、幾多の戦場を潜り抜けた証である傷跡が、筋肉の隆起に沿って刻まれている。
「首を心配するなら、まずその酒杯を置きなさい、グリゴリー。私は、貴方の首ではなく、貴方の『力』を買いに来たのよ。」
エカチェリーナはフードを払い、真っ直ぐに彼の瞳を見据えた。彼女の瞳は、酒場の薄灯りの中で、凍土の奥底に眠る宝石のような冷たい光を放っている。
「陛下は近衛制服を廃止し、我らをプロイセンの模造品に変えようとしている。それは、貴方たちの誇りを、玩具のように扱うということよ。」
「・・・分かっております。連中の中には、陛下のやり方に反吐を出す者が少なくない。だが、相手は皇帝だ。我らに何ができる。」
「皇帝とは、その椅子に座る者が相応しい振る舞いをするからこそ皇帝なのよ。もし、その椅子が空位であると定義されたなら、誰がそこを埋めるべきかしら?」
エカチェリーナの声は低く、しかし驚くほど明瞭に響いた。彼女はテーブルの上に、一枚の金貨を置いた。それは単なる通貨ではなく、彼女と兵士たちを繋ぐ「血の契約」の象徴だった。
「私は、ロシアの娘としてここに立っている。ドイツの血を引く者が、ロシアを売り渡そうとするのを黙って見てはいられない。グリゴリー、貴方の兄弟たち、そして連隊の仲間たちに伝えなさい。私には、彼らが守るに値する『国』があるのだと。」
グリゴリーは、目の前の女性を初めて見るかのように注視した。そこには、宮殿の装飾品としての妃ではなく、一軍を率いる将軍のような意志が宿っている。彼は無言で金貨を手に取り、それを力強く握りしめた。
「・・・面白い。あんたのような女なら、命を預ける価値があるかもしれないな。俺の兄弟も、酒場の兵公どもも、皆あんたの『緑の服』を待っている。」
宮殿に戻ったエカチェリーナを待ち受けていたのは、さらなる屈辱の光景だった。皇帝の居室からは、ドイツ軍歌の騒々しい調べと、女の嬌声が漏れ聞こえてくる。
ピョートルは、愛人エリザヴェータ・ヴォロンツォヴァを膝に乗せ、プロイセン風の演習を模したチェス盤を囲んでいた。彼はエカチェリーナが部屋に入ると、忌々しげに顔を歪めた。
「またその黒い服か。いつまで死人の真似をしている。私のエリザヴェータを見ろ、これこそが新しいロシアの美しさだ。」
ヴォロンツォヴァは、不格好な体躯を派手なドレスに押し込み、エカチェリーナに向かって勝ち誇ったような笑みを浮かべた。彼女は教養もなく、ただ皇帝の幼稚な嗜好に迎合することで、その地位を築いていた。
「エカチェリーナ様、陛下はもうすぐ、古い習慣を全て廃止なさるそうですわ。修道院の規律なども、研究しておかれた方がよろしいのでは?」
「ご忠告ありがとう、エリザヴェータ。ですが、私はまだ、この宮殿で学ぶべきことが山ほどありますの。」
エカチェリーナは、相手の無礼を柳に風と受け流した。彼女にとって、ヴォロンツォヴァの挑発は、自身の計画を加速させるための心地よい刺激に過ぎない。
彼女は自室に戻ると、すぐさまペンを取り、信頼できる協力者たちへの手紙を書き始めた。そこには、感情的な泣き言は一切ない。どの部隊がどの地点に配置されているか、どの貴族がどれだけの債務を抱えているか、そして皇帝の決定に誰が最も強く憤慨しているか。全てが数値化され、論理的な配置図へと落とし込まれていく。
窓の外では、雪が止み、鋭い風がサンクトペテルブルクの街を吹き抜けていた。
ピョートルがプロイセンの幻想に溺れている間に、エカチェリーナは目に見えない糸を張り巡らせ、帝国の神経系を掌握しつつあった。
兵士たちの靴音、酒場の喧騒、貴族たちの囁き。それら全てが、彼女という指揮者のタクトを待つオーケストラのように整い始めている。
彼女は、かつて裸足で踏みつけた冷たい床の感覚を思い出した。あの時の激痛が、今の彼女の冷徹な判断の基盤となっている。
「愛が廃棄された場所には、純粋な意志だけが残るわ・・・。」
エカチェリーナは、書き終えた手紙に蝋を垂らし、自らの紋章を押し付けた。
影の軍団は、静かに、しかし確実に膨れ上がっている。夫が玩具の兵隊に熱中している間に、彼女は本物の鉄と血、そして怒りという名の、最強の武力を手に入れようとしていた。
北方の凍土が、微かに揺れ始めていた。それは、新たな支配者の誕生を予感させる、帝国の胎動だった。
祝宴の会場となった大広間には、不協和音が満ちていた。プロイセンとの講和を祝うという名目のもと、食卓には豪奢な料理が並んでいるが、漂う空気は腐敗した肉のように重苦しい。給仕たちが運ぶ銀器の触れ合う音が、静寂の中で過剰に鋭く響く。
主賓席に座る皇帝ピョートル三世は、すでに酩酊していた。彼の纏うプロイセン式の青い軍服は、極端に細められた腰回りが呼吸を妨げているのか、その顔色は土気色に変色している。彼は隣に座る愛人ヴォロンツォヴァの肩に馴れ馴れしく手を回し、大声で笑い声を上げた。その笑いは、広間の壁に跳ね返り、列席する貴族たちの背筋を凍らせる。
「見ろ、この素晴らしい講和条約を! ロシアの無能な将軍たちが無駄にした血を、私が知恵一つで拭ってやったのだ。フリードリヒ大王も、私のこの決断に拍手を送ってくださるだろう。」
ピョートルが掲げたワイングラスから、赤い液体が滴り落ち、真っ白なテーブルクロスに血痕のような汚れを作った。
エカチェリーナは、夫から数席離れた場所で、彫像のように動かず座っていた。彼女の瞳は、目の前の皿に盛られた野鳥のローストを冷徹に観察している。その皮の焼け具合、滴る脂の光沢。彼女は、自らの感情がこの脂のように熱を帯びて溶け出さないよう、精神の深奥で冷たい鎖を巻き付けていた。
その時、ピョートルが突然、エカチェリーナの方を向いた。彼の瞳には、酔いだけではない、剥き出しの敵意が宿っている。
「おい、エカチェリーナ。お前はなぜ祝杯を挙げない。この偉大な勝利が、お前のようなドイツの田舎娘には理解できないのか?」
広間から、一切の物音が消えた。貴族たちは息を潜め、この公開処刑のようなやり取りの行方を見守る。エカチェリーナは、ゆっくりと顔を上げた。彼女の表情には、一分の揺らぎもない。
「陛下、私はただ、この国の将来を深く案じているだけでございます。講和の喜びは、民の安寧に繋がってこそ完成するものかと存じますわ。」
「黙れ、ドゥーラ(馬鹿)!」
ピョートルの罵声が、物理的な衝撃となってエカチェリーナの頬を打った。
「ドゥーラだ! お前は何も分かっていない。ただの装飾品、いや、古臭いロシアの残骸だ。私は決めたぞ。お前のような女は、今すぐ修道院へ送り込んでやる。そこにこそ、お前に相応しいカビの生えた静寂があるだろうからな!」
ヴォロンツォヴァが、扇子で口元を隠しながら、勝ち誇ったような笑い声を漏らす。エカチェリーナの周囲に座る貴族たちは、一斉に視線を逸らした。憐れみ、蔑み、そして巻き添えを食うことへの恐怖。それらが入り混じった沈黙が、彼女を孤立させる。
しかし、エカチェリーナの脳内では、驚くほど静かな思考が回転していた。
(驚いたわ。ここまで公然と、自らの「空白」を晒すなんて・・・。陛下、貴方は今、この広間にいる全員に、誰が次なる支配者に相応しいかを教えてくださったのね・・・。)
彼女は、屈辱に震える代わりに、自らの指先が微かに熱を帯びるのを感じた。それは、長年待ち望んだ「転換点」が、ついに訪れたという確信の体温だった。
深夜、月明かりが石造りの廊下に青白い影を落とす中、エカチェリーナの私室を訪れる影があった。
その人物は、ヴォロンツォヴァの妹でありながら、姉とは対照的な知性と気品を備えた少女、エカチェリーナ・ダシュコワ夫人だった。彼女は皇帝の愛人の身内という立場にありながら、密かにエカチェリーナの博識と意志に心酔し、禁書を分かち合う仲となっていた。
「皇后陛下、一刻を争います。姉と皇帝は、明朝にも貴女様を逮捕し、シュリッセリブルク要塞へ移送する準備を整えておりますわ。」
ダシュコワの瞳には、死を覚悟したような鋭い光が宿っている。彼女は懐から、一通の密書を取り出した。
「これは姉の机から盗み出した、修道院への幽閉命令書です。皇帝は、貴女様を廃し、姉を皇后に据えるつもりです。ロシアの法も、正教の戒律も、今の彼にとっては玩具に過ぎませんわ。」
エカチェリーナはその命令書を受け取り、蝋燭の火に翳した。紙が茶色く変色し、焦げた匂いが立ち込める。
「ダシュコワ、貴女は自らの血筋を裏切り、私という『負け犬』に賭けるつもりなの?」
「負け犬などではありません。貴女様こそが、私たちがヴォルテールやマキァヴェッリから学んだ、真の『啓蒙君主』の器ですわ。姉のような無教養な女が皇后の座に座るなど、ロシアへの冒涜に他なりません。」
ダシュコワは、エカチェリーナの前に跪き、その冷たい手を握りしめた。
「近衛連隊のオルロフ兄弟も動いております。ですが、皇帝側の密偵にも動きがあり、計画の一部が漏洩したとの報が入りました。パセク大尉が逮捕されたのです。」
その言葉に、エカチェリーナの眉が微かに動いた。パセク大尉は、クーデター計画の核心を担う一人だ。彼の逮捕は、計画の破綻を意味するか、あるいは、猶予のない決行を意味する。
「パセクが捕まった・・・。ならば、夜明けを待つ時間は残されていないわね。」
エカチェリーナは、立ち上がった。彼女は重苦しいドレスを脱ぎ捨て、簡素ながらも動きやすい旅装へと着替え始めた。鏡の中に映る自分を見つめる。そこには、数時間前に罵倒された「ドゥーラ」の面影はどこにもない。
「ダシュコワ、オルロフに伝えなさい。予定は全て切り捨てる。今この瞬間から、私たちは『計画』ではなく『現実』を動かすのだと。」
午前六時、サンクトペテルブルクから数マイル離れた離宮、ペテルホフ。
夜霧が立ち込める庭園を、一台の簡素な馬車が疾走していた。御者台に座るのは、変装したアレクセイ・オルロフ。彼は荒々しく馬を操り、宮殿の裏門へと滑り込んだ。
寝間着の上に毛皮のコートを羽織っただけのエカチェリーナが、霧の中から現れた。彼女の足元は朝露に濡れ、泥に汚れながらも、その歩調には軍隊のような規則正しいリズムがあった。
「陛下、お迎えに上がりました。都では兵たちが、貴女様の到着を今か今かと待ちわびておりますぞ!」
アレクセイの声が、低い唸りのように霧を切り裂く。
「状況は?」
「パセクの逮捕で、連隊はパニック寸前です。ですが、グリゴリーが抑えています。今、貴女様が姿を見せれば、彼らは一気に皇帝への忠誠を捨て、貴女様のために剣を抜くでしょう。」
エカチェリーナは、馬車のステップに足をかけた。振り返ると、豪奢なペテルホフの宮殿が、眠る怪物のように背後にそびえている。そこには、かつて自分が捧げた忍耐と、廃棄した愛の記憶が詰まっている。
(さようなら、ソフィア。貴方の物語はここで完全に幕を閉じるわ・・・。)
彼女は迷いなく馬車の中に身を投じた。車輪が激しく回転し、砂利を跳ね上げる。
サンクトペテルブルクへと向かう道中、エカチェリーナは窓の外を流れる暗い森を見つめていた。胸の奥で、かつて裸足で踏みつけた冷たい石床の感覚が蘇る。あの時の寒さが、今の彼女の血管を流れる血液を、凍ることのない不凍液へと変えていた。
「ドゥーラと呼ばれた女が、帝国の冠を戴く。その皮肉こそが、最高のカタルシスだとは思わないかしら?」
彼女の呟きは、馬車の震動にかき消された。
都の入り口が見えてくる。そこには、カザン大聖堂の金色のドームが、昇り始めた朝日に照らされて輝いていた。エカチェリーナは、自らの髪を指で整え、完璧な微笑を顔に張り付けた。
これから始まるのは、単なる権力の簒奪ではない。
論理に基づき、緻密に積み上げられた屈辱のリターン。
彼女を軽んじた全ての者たちへの、最も美しく、最も残酷な「反撃のギフト」の開封だった。
大聖堂の前には、すでに数千の近衛兵が、抜身の剣を掲げて待ち構えていた。彼らの咆哮が、地平線を揺らす。エカチェリーナは馬車の扉を開き、光の中へと足を踏み出した。
カザン大聖堂の重厚な扉が開かれた瞬間、エカチェリーナの鼓膜を震わせたのは、数千の近衛兵が放つ地鳴りのような咆哮だった。
朝の冷気を含んだサンクトペテルブルクの空気に、抜身の軍刀が放つ銀色の光が乱反射している。彼女はその光の渦の中へ、一段ずつ、確かな足取りで階段を下りていった。身に纏っているのは、数時間前までの喪服ではない。プレオブラジェンスキー近衛連隊の、深く鮮やかな緑色の将校制服だった。男性用の仕立てゆえに肩幅は広く、腰回りは革ベルトで固く締め上げられている。その窮屈な圧迫感こそが、今、彼女が帝国の全責任を背負ったという物理的な証左だった。
「エカチェリーナ・アレクセーエヴナ万歳! 我らが母、ロシアの女帝万歳!」
グリゴリー・オルロフが最前列で剣を突き上げ、その叫びに呼応して大地が揺れた。兵士たちの瞳に宿っているのは、単なる忠誠心ではない。プロイセンの影に怯え、自らの誇りを土足で踏みにじられてきた男たちの、狂気にも似た解放感だった。
エカチェリーナは、その熱狂の源泉を冷徹な眼差しで見つめた。彼女にとって、この咆哮は音楽ではなく、緻密に計算された「力」の奔流だった。
「諸君、言葉はいらない。行動で示す時が来たわ。我々の進む先に、屈辱という名の過去を置き去りにしてきましょう。」
彼女が白馬に跨り、手綱を握り直すと、近衛連隊は巨大な鉄の塊となって動き出した。目指すは、皇帝ピョートル三世が立て籠もるオラニエンバウム、そしてペテルホフ。
進軍の途上、霧に包まれた街道沿いに佇む「赤い居酒屋」が見えてきた。
エカチェリーナは全軍に一時停止を命じると、自ら馬を降りてその粗末な店へと足を踏み入れた。店内には、戦場へと向かう前の静寂と、安酒の残り香が漂っている。彼女はカウンターに置かれた大きな木杯を手に取り、兵士たちが飲むのと同じ安価なウォッカを注がせた。
「陛下、このような泥水を口になさる必要は・・・。」
傍らに控えるポチョムキンが、懸念の声を漏らす。彼はまだ若く、制服の襟元を整える手つきには貴族的な繊細さが残っていた。エカチェリーナは、彼の差し出した手から視線を逸らさず、一気に杯を飲み干した。喉を焼くような安酒の刺激。それが、自分がもはや宮殿の籠の鳥ではなく、この泥塗れの兵士たちと運命を共にする指揮官であることを脳細胞に刻み込む。
「ポチョムキン、私が必要としているのは絹のハンカチではなく、この焦げるような熱さよ。兵たちが見ているのは、私の家柄ではなく、私の中に流れる『ロシアの血』なのだから。」
彼女は空になった杯を叩きつけるように置くと、返り血を浴びる覚悟を固めた兵士たちに向かって、小さく、しかし不敵に口角を上げた。その微笑みは、酒場の薄暗い光の中で、獲物を追い詰めた猛禽類のような凄みを帯びていた。
一方、オラニエンバウムの宮殿では、ピョートル三世が錯乱の極致にいた。
彼はまだ、プロイセン式の青い制服に固執し、玩具の兵隊を配置した地図を狂ったように指先で叩いていた。
「なぜだ! なぜ奴らが来ない! クロンシュタットの要塞は、私の命令に従うはずだろう?」
彼の問いに答える者はいない。側近たちは一人、また一人と闇に紛れて姿を消し、残されたのは震える愛人ヴォロンツォヴァと、現実を拒絶し続ける皇帝自身だけだった。
そこへ、エカチェリーナの使者が、一通の文書を携えて現れた。それは、帝位放棄の署名を求める最後通告だった。
「馬鹿な・・・、ドゥーラが、あの馬鹿な女がこれほどの大軍を動かせるはずがない! これは何かの間違いだ! フリードリヒ大王に手紙を書け! 助けを呼ぶのだ!」
ピョートルは叫びながら、窓の外を見た。そこには、朝日に輝く緑色の軍勢が、地平線を埋め尽くすように迫っていた。
彼が愛した「青」はどこにもない。視界を支配しているのは、彼が軽蔑し、野蛮だと切り捨てたロシアの「緑」だった。
ピョートルは膝から崩れ落ちた。その瞬間、彼の手元から滑り落ちた玩具の兵隊が、大理石の床に当たって虚しい音を立てて砕けた。
ペテルホフの入り口で、エカチェリーナは降伏した夫と対峙した。
馬車から引きずり出されたピョートルは、かつての傲慢さを失い、泥に汚れた青い制服のまま、幼子のように泣きじゃくっていた。
「エカチェリーナ、頼む・・・、命だけは助けてくれ。イタリアへ行かせてくれれば、二度とロシアの土は踏まない。お前の好きなようにすればいい、何もかもお前にやるから!」
その無様な姿を、エカチェリーナは馬の上から見下ろした。彼女の瞳には、怒りも、悲しみも、ましてや憐れみもなかった。ただ、壊れた機械を廃棄するかのような、絶対的な無関心があった。
「陛下、貴方が捨てたのは私ではなく、この国そのものだったのです。ロシアは、玩具を愛でる子供ではなく、厳格な母を必要としていますの。」
彼女は短く告げると、オルロフ兄弟に目配せをした。彼らがピョートルの腕を掴み、ロプシャの別荘へと連行していく。その際、ヴォロンツォヴァがエカチェリーナの足元に縋り付こうとしたが、近衛兵の銃床によって冷酷に押し戻された。
「お母様、お許しください! 私はただ、陛下の仰る通りに・・・!」
「貴女の『理解』の及ばぬ場所に、今の私は立っているの。エリザヴェータ、修道院の壁は貴女が望んだ静寂を、過不足なく与えてくれるはずよ。」
エカチェリーナは一度も振り返ることなく、再び馬を進めた。
夕刻、サンクトペテルブルクへと凱旋する軍列の先頭で、彼女は冬宮殿のバルコニーに立った。
眼下には、見渡す限りの民衆と兵士が、新たな太陽を仰ぎ見るかのように自分を見上げている。
彼女の指先は、まだ馬の手綱の感触を覚えていた。そして、制服の生地越しに伝わる自らの心音は、かつて裸足で床に触れた時のあの冷徹なリズムを刻んでいた。
愛されないことが自由を産み、屈辱が論理を研ぎ澄ませ、絶望が権力へと昇華した。
エカチェリーナは、自らの頭上に掲げられた帝国の王冠を視界に捉えた。そのダイヤモンドの輝きは、もはや彼女を惑わす装飾品ではなく、自分が統治すべき巨大な氷の結晶のように見えた。
彼女は大きく息を吸い込み、冷たく澄んだロシアの空気を肺の奥深くまで満たした。
「私はここに、ロシアの、ロシアによる、ロシアのための支配を宣言するわ。」
その声は、かつてドイツの小国で夢見ていた少女のそれではない。
一個の人間としての感情を焼き尽くし、国家という名の巨大な機構へと変貌を遂げた、一人の女帝の宣戦布告だった。
足元に広がる帝国は、もう二度と、彼女を震えさせることはない。
なぜなら、彼女自身が、この凍てついた大地を動かす、唯一の「熱源」となったのだから。
エカチェリーナは、夕闇に染まり始めたサンクトペテルブルクの街並みを、静かに、そして誰よりも深く愛おしむような冷徹な眼差しで見つめ続けた。
世界史豆知識
日本史の大黒屋幸太夫はこの辺の時代です。
世界史のテストなら1762年から96年、大体30年位支配、ロシア=トルコ戦争とその講和条約キュチュク=カイナルジャ条約あたりを中心に、治世の前にベーリングによるアラスカ探索、治世の終わり(92年)にラスクマンを使節として送る…という感じで覚えると楽。
73-75年にプガチョフの反乱とかあるけど。
さらばポーランド(ポーランド分割-72年)




