第8話 知られざる正体
午後の光が、図書館の高い窓から棚を照らしていた。
埃と古書の香りが混ざった空気の中、リリアーナは貸出帳のページをめくりながら、静かな時間に身を委ねていた。
ここは、日常の喧騒を忘れられる彼女だけの避難所であり、本と向き合うことで心を落ち着けることができる場所だった。
そのとき、扉が静かに開く音がした。
銀灰色の髪と澄んだ蒼い瞳を持つ青年――レオニス――が、ゆっくりと足を踏み入れる。
リリアーナは自然に頭を下げる。まだ彼の立場や身分を知らない。
ただ、前回会った時の印象――静かで落ち着いた雰囲気――だけが胸に残る。
「また図書館にいらしたんですね」
声を落として言う。礼儀正しく、でも少し柔らかさを込めて。
レオニスは微かに笑みを浮かべ、軽く頷いた。
「ええ、ここは落ち着きますから……」
リリアーナは貸出帳に視線を戻しながら、心の中で小さくつぶやく。
(今日も静かでよかった……)
棚を整理する手を止めずに、胸の奥でほっとした感情を抱きしめる。
この静かな空間に、彼が自然に溶け込んでいるのを見るだけで、少しだけ安心できるのだ。
---
棚の間を行き来していると、扉の方から重厚な足音が響いた。
赤と金の刺繍が施された外套を纏う中年の男性――家紋が輝くその姿は、図書館の控えめな空間には不釣合いな豪華さだった。
男性は深く一礼し、低く整った声で告げる。
「館内におられるレオニス・アーデルハイト殿に、公爵家より公的書簡をお届けに参りました」
リリアーナは息を詰め、背筋がぴんと伸びる。
――公爵家……?
こんな高貴な身分の人間だったのか。
胸が高鳴り、手元の貸出帳を握りしめる。
男性は慎重に封蝋を解き、金箔の紋章が光る文書を差し出した。
「こちらは、近衛騎士団長、レオニス・アーデルハイト殿に直接お渡しするよう、宮廷より指示されています」
リリアーナは目を見張った。
青年の表情は変わらないが、その立ち居振る舞いから漂う気品に、言葉を失う。
「……近衛騎士団長……公爵家の三男……」
胸の奥でざわつく感情を、どう処理してよいか分からない。
レオニスは文書を受け取り、静かに頭を下げる。
その背筋には責任と誇りが滲み、しかしどこか距離を置こうとする慎重さも見えた。
心の中で葛藤している――
――君に迷惑をかけたくない。でも立場上、何も言えない……
リリアーナは貸出帳に目を落とす。
まだ言葉にはしないが、心の中でそっと思う。
“やっと、あの人のことが分かった…けれど遠い人だ”
図書館の静かな空間は、二人の間に微妙な距離を生み出していた。
レオニスはしばらく棚の間を歩き、気になる本に目を留める。
リリアーナもまた、仕事を続けながら、彼がいることで普段より少し心が躍るのを感じる。
会話は少なくとも、空気の中に互いの存在を確かめるような時間が流れる。
使者たちが礼を取り、立ち去ると、図書館には再び静寂が戻る。
しかし、リリアーナの胸にはまだざわつきが残る。
目の前の青年――あの穏やかな笑みの裏に、想像以上の重みと秘密があることを、直感で感じてしまったのだ。
ページをめくる手に力を込め、深呼吸を一つ。
今日の午後は、いつもと同じ静かな図書館でありながら、二人の間に微妙な変化が生まれた特別な時間だった。
 




