第2話:再び訪れた人
あれから、ひと月が経った。
王都の秋は早く、図書館の外の並木はすでに黄金色に染まっていた。
季節が変わっても、リリアーナの毎日は大きく変わらない。
朝早く出勤し、埃を払い、本を整理し、来館者の応対をする――そんな穏やかな日々。
けれど、心のどこかにはいつもひとりの来館者の面影があった。
あの銀灰の髪の男性。
静かで、けれど目の奥に強い意志を秘めていた人。
名前も知らず、ただ「高貴な方に違いない」と感じただけの人。
それ以来、彼は一度も現れなかった。
初めからほんの偶然だったのかもしれない。
そう分かっているのに、リリアーナはふとした瞬間に入口へ視線を向けてしまう。
「……もう来ないのよね」
自分に言い聞かせるように小さく呟き、古書の山に指を滑らせた。
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その日の午後。
空はどんよりと曇り、やがて雨が降り出した。
図書館の天窓を叩く音が、静かに響く。
来館者はほとんどおらず、リリアーナは帳簿の整理をしていた。
ペン先が紙の上を走る――その単調な音に混じって、
「……失礼します」と、低く落ち着いた声がした。
ペンが止まり、リリアーナは顔を上げた。
その瞬間、息が止まる。
扉の前に立っていたのは、あの男性――。
変わらず上質な服に身を包み、肩に雨の雫を少しだけ残していた。
前に会ったときと同じ、穏やかで静かな眼差し。
彼はリリアーナに気づくと、ほのかに微笑んだ。
「……また来てしまいました。静かな場所が、恋しくなって」
リリアーナの胸の奥が、音を立てて震えた。
「お帰りなさいませ」と言いそうになり、慌てて口を閉じる。
「……ようこそ。お探しの本はありますか?」
「前回、あなたに教えてもらった“王国古典詩集”がとても良くてね。今日はそれに似たものを探しています」
その声は優しく、低く、雨音に溶けて響いた。
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二人は並んで書棚を歩いた。
リリアーナは数冊の本を取り出しながら、
「詩以外でもよければ、“星の伝承”などもおすすめです」と提案する。
「星?」
「はい。古くからの神話や民話を集めたものです。
同じ空を見上げて願う人々の話……なんだか、身分も立場も関係なく心が寄り添う気がして」
言ってから、リリアーナは自分の言葉に少し顔を赤らめた。
高貴な人に“身分を越える”なんて話をするなんて――。
けれど、彼は穏やかに微笑んだ。
「……いいですね。星は、誰にでも平等ですから」
その一言に、リリアーナの心がふっと軽くなった。
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彼はテーブルに腰かけ、薦められた本を静かに開く。
ページをめくるたびに、長い指が淡く光を受けて動く。
その姿を見ていると、不思議と時間がゆるやかに流れていく気がした。
「……あなたは、本が本当に好きなのですね」
「え?」
「話し方が、まるで登場人物を知っているかのようで。
言葉の中に、彼らへの想いがある」
不意に向けられた言葉に、リリアーナの頬が熱くなる。
「そ、そんな……ただ、本を読んでいるだけで」
「それが素敵なんですよ」
彼の瞳が優しく細められる。
どこか、心の奥を見透かされるような光。
それが嫌ではなく、むしろ安らぎに似たものを感じてしまう。
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やがて日が傾き、外の雨がやむ頃、彼は本を閉じて立ち上がった。
「今日も、いい本を教えてもらえた。ありがとう」
「また……来てくださるのですか?」
言葉がこぼれた瞬間、リリアーナははっと息を呑んだ。
彼は少しだけ驚いたように目を見開き、それから柔らかく笑った。
「……ええ。図書館は静かで、あなたはその静けさの一部のようだ」
その言葉の意味を理解する前に、彼は扉へと歩いていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
しかし今度は、孤独ではなかった。
胸の奥が、温かく満たされていた。
リリアーナは知らなかった。
その穏やかな男性が――
王国の名門、アーデン公爵家の三男にして、近衛騎士団長レオニス・アーデンであることを。
 




