第9話(後半) もう来ないかもしれない日々
図書館の扉を押し開けると、いつも通りの静かな空間が広がっていた。
木の香りと古い紙の匂い、柔らかい日差しが棚の木目に反射する。
何度も来た場所なのに、今日の空気はどこか違って感じられる。
それは、先日知ったあの青年、レオニスの身分のせいだ――公爵家の三男で近衛騎士団長。
そのことを思い出すたび、胸がぎゅっと締め付けられる。
彼がこの図書館に気軽に来られるはずがないことは、理性では理解している。
だが、心の奥はまだ、あの静かで穏やかな午後を忘れられない。
彼の蒼い瞳、銀灰色の髪、そして本棚の間で静かに微笑む姿――
その一瞬の記憶が、胸の奥で温かく、そして切なく広がっていく。
リリアーナは貸出帳を開き、ページをめくる手を止めて窓の外を見る。
窓の外には、石畳の小道や遠くの屋根が朝の光に照らされ、通りを行き交う人々の姿がちらりと見える。
小鳥が窓辺に止まり、かすかにさえずる声が聞こえた。
外の世界は華やかで美しいけれど、心の中にぽっかり空いた場所は埋められない。
(もう、来ないのかもしれない……)
小さく心の中で呟き、胸の奥でわずかに痛みを感じる。
高貴な身分の人が、庶民や下級貴族が通うこの図書館に気軽に来ることは、まずありえない。
でも、理屈ではわかっていても、心は正直だ。
あの午後の穏やかで静かな時間を、もう一度だけでも味わいたいと願ってしまう。
手元の本を整えながら、リリアーナは目を閉じ、あの時のことを思い出す。
彼が棚から慎重に本を取り出し、軽く微笑んだ瞬間。
その仕草の一つ一つが、今も心に刻まれている。
本を選ぶ指先の動き、背筋の伸びた立ち姿、そして、ふとこちらを見た蒼い瞳。
何気ない動作なのに、どうしてこんなにも胸を打つのだろう。
貸出帳に視線を戻すと、手元の文字を追う速度が少し遅くなる。
目の前の仕事に集中しようとしても、心の奥に小さな影が潜んでいる。
彼が無事に任務をこなしているか、元気でいるのか――
思いを巡らせるたびに、胸がざわつく。
静かに本を棚に戻す。
棚の間を歩きながら、柔らかく差し込む光に目を細める。
その光の中で、彼がほんの少しでもこの場所を思い出してくれたらいいのに、と思わずにはいられない。
けれども、現実は簡単ではない。任務や立場、身分――全てが、この穏やかな午後を遠ざけているのだ。
時間はゆっくりと流れ、図書館の空気は静寂に満ちる。
リリアーナは手元の整理を続けながらも、視線の端で入口を何度も確認する。
もしかしたら、あの人が現れるかもしれないという淡い期待を胸に抱きながら、心の奥でわずかな不安を感じる。
(任務や立場で、きっと忙しくしているんだろう……)
そう思いながらも、胸の奥で願わずにはいられない。
――どうか、無事でいてほしい。
そして、いつかまた、あの静かで落ち着いた時間を共に過ごせますように、と。
日が傾き、棚の影が長く伸びる。
窓から差し込む光が揺れ、本の表紙を照らす。
リリアーナは表向きは淡々と業務をこなすが、心の中では、彼のことをそっと気にかけ続けていた。
静寂の中、胸の奥には、まだ遠くにいるあの公爵家の騎士団長の影が、温かく残っている。
来ないかもしれないという不安と、来てほしいという淡い期待――
その入り混じる気持ちを抱えながら、リリアーナは静かに今日の業務を終えていく。
 




