第九話
「あんなこと言っていたけど本当に転校するのかな」
そんな事を呑気に呟いていた由布子だったが土曜の夜になると連絡が来た。
『わたしに似合う洋服を買いたいので一緒に探して下さいな』
新しい学校で悪目立ちしたくないという。
『でも、地味だと思われたくないの』
ちょうどいい感じの服装で新たなスタートを切りたいらしい。
ハイヤーで迎えに来た乙姫は銀座に向かおうとしたので由布子は止めた。
「ハイブランドはやめようよ」
「あら、どうしてですの?」
「乙姫さんのお母さん世代の人は似合うけど、高校生は似合わないと思う。もうちょい、カジュアルな服装にしたらいいんじゃない?」
「あなたは、どこで買い物なさいますの?」
「あたしはユニクロとかネット通販とかだね……。乙姫さんは試着して選ぶ方がいいと思うよ」
乙姫は体型が特殊である。分かり易く言うとミツバチ体型だ。普通のデブは胸も腰もケツもでかい。しかし、乙姫はギュッと腰がくびれているので、大きいサイズをチョイスすると洋服の腹回りがダボタボになり、ダサくなる。
とりあえず、二人で原宿のショップに入って店員さんに選んでもらったけれど、どれも、乙姫には似合わなかった。
ピンク色の髪のカリスマ店員とやらの目が泳いでいる。勘弁して下さいと言いたげだ。
原宿での買い物は諦めよう。
「やっぱり、わたしは既製品は駄目ですわ。オーダーメイドにするべきなのかもしれませんわね」
ロリターのお洋服は、すべてオーダーメイドだったというのである。
「乙姫さん、女の子っぽい服が好きなの?」
「お父様がヒラヒラした洋服が好きなんですの。わたしは好きなブランドはございませんわ。でも、直毛のカツラはわたしの憧れですのよ。でも、似合わないって言われたから、新しいカツラが欲しいですわね。あたしに似合うカツラは、どんなものかしら」
「乙姫さん、カツラをつけなくてもいいんじゃないのかな」
「嫌よ。地毛で出歩くなんて恥ずかしいわ」
「でも、その長さの髪を上にカツラを被るから頭の形が妙なことになると思うんだよね。ベリーショートに切ってからカツラを被れば収まりが良くなるかもしれないよ」
「美容院に行くのが嫌ですわ。きっと、美容師に笑われるもの」
「あたし、いい美容室を知ってるよ」
カリスマお姐のマリアンヌなら人様の髪を笑ったりしないだろう。
予約の電話をかけてみると、マリアンヌがホッとしたように言った。
「ちょうど良かったわぁ、予約していたお客さんがギックリ腰でキャンセルしたの。それで、午後から暇だったのよ」
という事で、ロリータファッションにお姫様カツラという異様な服装の乙姫を連れていき、剛毛の悩みを伝えるとマリアンヌが頷いた。
「これは手強いわね。無理にストレートパーマをかけようなんて思わないで。あなた、自分の魅力ってものが分かってないようね」
マリアンヌが優しい顔で囁いている。
「あなたは太陽のような女の子よ。こんな平安貴族みたいなカツラはおやめなさい! それに、乙女ちっくなフリルも似合わないわよ。あなたは、もっと、ソウルフルに逞しく生きるべきなのよ」
スマホを手にすると知り合いに電話をかけ始めた。
「それじゃ、店まで持ってきてね」
どうやら、乙姫の洋服を仕入れたらしい。
「さぁーて、やるわよ!」
メイドインジャパンの高価なハサミを手にするとチョキチョキと毛先を切り始めた。肩まで伸びていた乙姫の陰毛……、ではなくて剛毛に対して、どう立ち向かうつもりなんだろう。
それから数時間後。
「じゃじゃーん。出来たわよ」
黒人の女の子のような髪型に仕上がっている。これはドレッドヘアというものらしい。
その後、届けられた服を身につけると、黒人のニューヨーカーのような仕上がりになっていたのである。
「天使にラブソングを2のローリン・ヒルみたいに可愛いくしてあげたわよ。んふふ。あなたのタラコ唇にグロスを塗れば、もっと素敵になるわね」
乙姫のどんぐり眼や、べちょっとした愛嬌のある鼻。そして、分厚い唇。すべてが、いい感じにファンキーな服装や髪型とマッチしている。
マリアンヌは青みががったピンク色のグロスを塗りながら自慢している。
「乙姫ちゃんなんて楽勝よ。何しろ、本物の女の子なんだもの。あたし、普段は、平べったい顔のおっさんを相手にメイクしてるのよ。タイで行なわれたドラァッグクイーンの大会の時なんて、本当に大変だったわよ。ファンデーションで髭剃りのあとを隠したり、油っぽい額に粉をはたいたりしたものよ。その点、乙姫ちゃんの頬は桃のようにツヤツヤだし、目はパッチリしているし、トータルの素材はいいのよね。それに、豊満なバストもお尻も武器になるわ。コルセットをしたり、胸に詰め物しなくていいから助かるわ」
「でも、わたし、お尻が人より大きいのが嫌でしたのよ」
「あら、何を言うのよ。女のケツと度胸は、でかけりゃでかい程いいっていう格言を知らないの!」
そんな格言は聞いた事が無いけれど、新宿二丁目では常識なのかもしれない。
ローリン・ヒルの画像の検索をしてみたところ、可愛い黒人の少女の顔が出てきた。
何となく安室ちゃんっぽい雰囲気の美少女だ。歌姫として一世を風靡したらしい。
(正直、顔は、乙姫とは似ていないけど……。マリアンヌがプロデュースしようとしている方向性は分かったわ)
思った以上に乙姫のドレツドヘアが馴染んでいる。ゴスペルを歌いながらケツを振って陽気に踊り出しそうに見える。
由布子はマリアンヌの美的感覚に感心しながら褒め称えた。
「お世辞抜きでカッコいいと思うよ。乙姫さん、前よりも垢抜けてるね」
「嬉しいですわ。マリアンヌお姉様、ブラボーですわ。感謝感激ですわ」
「そう思うなら、あたしにいい男を紹介してくれないかしら~」
「お安い御用ですわ。わたしのお母様が経営している芸能事務所のボーイズ達を紹介しますわ。この店の常連にさせますわ」
「いやーーーん。それって、バットボーイズのことかしら。マリアンヌ、嬉しくて漏らしちゃうかもしれなーい」
「わたしの来年のお誕生日には、デビュー前の練習生のボーイズを呼びますのよ。その日は、あなも招待いたしますわね」
「いやーん。そんな嬉しい事を言わないで~ マリアンヌ、心臓がもたなーーーい」
ひとしきり喜んだ後、マリアンヌは由布子に向けて不思議そうに言った。
「ところで、どういう経緯で二人は友達になったのかしら?」
それに関しては乙姫が答えていく。
すると、陰毛女のくだりのところで、マリアンヌはハンカチを噛み締めてキーッと唸った。
「まぁ、酷い。許せないわ」
マリアンヌも中学時代、オカマと囃されて泣きながら下校した事がある。あの頃のマリアンヌは無力だった。内股で農道を走って逃げるしかなかった。
水田を潤す用水路の水音とマリアンヌの号泣が混ざり合っていたのだ。哀しい思い出だ。
「乙姫ちゃん、大変だったわね。マリアンヌ、あなたの悔しい気持ちは分かるわよ」
己の姿を鏡で眺めながら乙姫がしみじみと呟いている。
「ちょうど、あの場に由布子がいてくれて良かったですわ」
いつのまにか、乙姫は由布子のことを呼び捨てにしている。距離の詰め方が速い。まぁ、いいけど……。
「自分の髪をお天道様に晒して歩くのなんて何年ぶりかしら」
乙姫は鏡に映る新しい自分の姿に対して微笑みながら宣言している。
「わたし、夏目さんに見切りを付けましたの。あの人、失礼なんですもの。わたしの頭が大きくて怖いと言いましたのよ」
「あら、彼、そんなデリカシーのない青年じゃないと思うわよ」
マリアンヌは少し意外そうにしている。
この時、由布子は焦っていた。
(やばいわ。言ったのは猫のジュリだよ。そうに決まってるわ。ああ、もう、ジュリの馬鹿。ほんと、猫って正直なんだから)
人間の朱里は女性にそのような暴言を吐くような人ではない。一応、由布子はフォローしておいた。
「な、夏目さんは頭を打ってるせいで、ちょっと言語感覚がズレてるみたいなんです。語尾にニャーニャーつけるのも、そのせいなんです」
「あの人の事はどうでもいいですわ。他にも花婿候の候補者はいますもの」
そう言って、スマホの画像を見せてきたのだが、そいつは気障なスーツ姿の三十路のおっさんだった。
(大手テレビ局の新人アナウンサーみたいな雰囲気のイケメンだな……)
礼馬の写真を見たマリアンヌが奇声を上げた。
「あらーー、駄目よーーーー。この男だけはやめなさいよ。礼馬はゴリゴリのゲイなのよぉーー。結婚しても不幸になるだけよ。あいつは極度の女嫌いなのよ。自分の母親のことさえも嫌ってるわよ」
「あら、本当にゲイですの?」
「もちろんよ、二丁目の常識よ。礼馬は計算高くてズルイ男なのよ。目的の為なら手段も選ばないわよ。乙姫ちゃん、あなたのこと愛しているフリをして利用するに決まってるわよ」
「あら、それは困りましたわね。そんな人とは結婚したくありませんわね」
マリアンヌは最後の仕上げとして、乙姫の頬に光沢のあるチークを乗せながら言う。
「普通に恋愛すればいいじゃないのよ。乙姫ちゃんみたいな子を好きな殿方は多いのよ。特に、ラテン系の男はそうよ」
しかし、残念そうに乙姫は呟いている。
「自由な恋など無理ですわ。わたしには綾小路家を繁栄させる義務がありますのよ。綾小路家に生まれたからには、自分の感情を後回しにして人生を歩まねばならないのですわ」
「だけど、乙姫ちゃんにはお兄さんがいるでしょう。お兄さんが家を背負えばいいんじゃないの?」
「ええ、そうですわね。兄ほどの重圧は感じておりませんのよ。だから、自由に転校することも出来るのですわ」
「その点、夏目家は跡取り息子が一人しかいないから大変よね。同じような家柄の娘としか結婚できないものね。選択肢は限られてるじゃない……。せっかく、イケメンに生まれてきたのに自由がないなんて可哀想ね。あっ、でも、愛人を作れるからいいのかしらね」
「夏目家は愛人がいて当たり前だと聞いていますけど、本妻さんが可哀想ですわ。母の親友の方子さんも苦労したみたいですものね」
「現代の大奥だもんね。つーか、後宮かしらね。お世継ぎを産めない女は肩身の狭い想いをするってことだものね。それに、お金持ちって、配下の従業員の生活にも責任を持たないといけないから、朱里さんも大変よね」
会話を聞いていた由布子は神妙な顔になる。
(夏目さんも方子さんも……。色々なものを背負ってんだな……)
☆
その頃、夏目朱里は深刻な顔で考えていた。
人間として、いや、夏目家の跡取りとして正気を保ち続けなければならなというのに、いつ、どんなタイミングで猫のジュリになるのか分からないというのは由々しき問題である。
日曜の夜。朱里はエリカがバイトをしているバーに向かった。
「エリカ、話って何なんだ?」
「いいから、よく聞いてね。すごく深刻で大切な話なの。昨日の映像よ」
見せてくれたのはビデオ通話の映像だ。
真っ黒に日焼けをした一重まぶたの陰陽師。バッグパッカーの芦屋創汰は三十路である。そいつはオダギリジョーっぽい髪型をしている。昼間は観光三昧。深夜は、インドの小汚いホテルの一室いるという。
「あたし、昨日のバイト終わりに芦屋さんと話したのよ」
要約するとこういう事だった。エリカは猫憑きの朱里を治して欲しいと頼んだのだ。すると芦屋が言った。
『猫憑きの除霊? そりゃ出来るよ。ええーー。その猫、まだ生きてるのか。それはマズイな』
死んだ猫の霊が人間に憑いている場合は呪術で滅して天に上げてしまえばいいが、生霊はややこしいというのだ。
『よっぽど猫と人間の心がシンクロしたんだろうな。魂のレベルで繋がってしまってるから、簡単には元の形態には戻れないのさ』
そんなの困るわよとエリカが焦ると芦屋が肩をすくめた。
『そんなムキにならなくても、片方だけを守る方法ならあるぜ。猫を殺すのさ。けっこう簡単だろう。まっ、オレが帰国しても、結局は猫を殺す事しか出来ないぜ』
エリカは声を震わせた。猫を殺せと言うの? あたしは嫌よ。そんなの無理よ。可哀想じゃないと声を震わせる。
『だけどさぁ、猫の寿命って、確か、二十年ぐらいしかないんだよな。ちょうど、人間が猫の中にいる時、猫が死んだらどうなると思う? 人間の魂が消えちまうんだぞ』
エリカは絶句していた。
『その夏目朱里ってのは、おまえの大切な心の友なんだろう。猫が、交通事故でポックリと逝った時、その中身が人間だったりしたら、もう取り返しがつかないんだぜ。悪いことは言わないからさぁ、猫が猫として生きているタイミングを見計らって殺すんだ。じわじわと殺すと駄目だぞ。苦しくなってポーンと人間の身体に乗り移るかもしれないからな。元気に飯を食ってる猫のこめかみを拳銃で撃ち抜くのがお勧めだ』
そんなの無理よとエリカは思った。頭の中がグルグルとまわり目の前が暗くなる。エリカは、人間に憑いた状態のジュリと何度も話を交わしている。素直で天真爛漫なキャラクターだった。
『おいら、お肉大好き☆ おまえ、綺麗な人間のメスだな。いいニオイがするニャ』
ジュリはエリカを美人のメスとして認識してくれている。楽しそうにケンタッキーを食べる姿は可愛らしくて、エリカの母性が疼いた。自分に子供かいたら、こんなふうに御飯を食べさせるのだなと夢想したぐらいである。だから、殺すなんて出来ない。
エリカは、たまらなくなり泣き出したのだが……。
『夏目朱里には、この事を伝えておけ』
そう言うと、芦屋はインドからの通信を切ったというのである。
「まじかよ」
すべてを聞き終えた朱里は蒼褪める。
小洒落たバーのBGMやシェイカーの音さえも朱里の耳には入らない。頭の中が真っ白になって吐き気のようなものを感じる。こんなの最悪だ。
「究極の選択だよな」
「そうよ。難しい選択をしなければならないわね。由布子ちゃんの大好きなジュリを殺さなくてはならないのよ」
「誰が殺すと決めた? オレはそんなことはしない」
「猫好きなあなたが猫を殺すなんて無理だと分かってるわよ。だけど、そうしなくちゃいけないのよ。考えてみてよ。夏目家の跡取りはあなたしかいないのよ」
「別に、オレなんて……」
いつ死んでもいい。以前の自分ならそう言っていたかもしれない。しかし、今の朱里は、まだ死にたくないと感じている。
猫が、先に自然に死んでくれたら助かるのだが……。ジュリはまだ七歳だ。そう簡単には死にそうにない。
(オレのせいで猫が殺されたと知ったなら、由布子はオレを恨むだろうな。それならいいけど、号泣されたら、どうしたらいいんだ?)
ジュリは由布子にとって何よりも大切な家族。
「エリカ、このことを由布子に言うつもりなのか?」
「馬鹿ね。そんなの言う訳がないでしょう。こんなの、墓場まで秘密にするべき事だわ。黙っていればいいのよ。幸い、猫のジュリは行方不明なのよ。由布子ちゃんよりも先にジュリを回収して密やかに葬ってしまえばいいのよ。夏目家の力を持ってすれば、猫の居場所ぐらいすぐに見付かるもの」
そう言うと、エリカはバーテンダーとして仕事に戻ったのだ。
朱里はバーから出ると夜の街を歩いた。
実は、ペット探偵の仁科は猫のジュリの居場所を特定している。
(もしも、エリカがジュリを見つけたなら殺してしまうかもしれない……。エリカは猫よりもオレを優先するに決まっている)
自分と猫。二つの魂のうち一つしか選べないとしたら、由布子の場合は、どちらを選ぶのだろう。多分、由布子にも決められないだろう。
正直、由布子との同居はエキサイティングで面白い。
入れ歯の攻撃なんて生まれて始めてだ。あの娘は何をしでかすか分からない。由布子は不思議な魅力に満ちている。
(別に、今のままでも楽しく暮らせるんじゃないのか?)
猫と自分が入れ替わり続ける人生も、そう悪くは無いとさえ思えてくる。世間の奴等から、馬鹿だと思われても自分は平気だ。
(いや、だけど、早く猫のジュリを確保しないとまずい事になるぞ)
朱里は、地下鉄へと続く薄暗い路地を進みながらペット探偵の仁科と連絡をとっていた。
「それで、どうなった?」
「夏目様、すみません。マダムには会えなくて困っています。屋敷にいるのに出てくれないのです。猫を救ったホームレスの話から察するに、必ず、トラ猫はあの屋敷にいます。粘り強く交渉してみるつもりです」
「いや、おまえは何もしなくていい。一旦、引き上げろ」
「了解しました」
ひとまず、マダムの自宅に猫を匿ってもらうしかないだろう。今の段階では、それが一番いい事のように思えるのだ。
☆
エリカは誰かに言うつもりなどない。だが、生憎、秘密というものは漏れるように出来ている。
バーのマスターは包み隠さずに坂元に報告したのである。そのせいで坂元は頭を抱えていた。
「入れ替わるだと? 君の名は。あのアニメじゃあるまいし。つーか、オレの世代だと転校生だな」
尾道の階段を転がって男女の魂が入れ替わるのというのを映画で見た事がある。
(猫と人間が入れ替わる? フン、馬鹿馬鹿しい)
エリカも朱里も妙なクスリをやっているのかもしれない。ファンタジーの世界でしか有り得ない事だ。しかし、もしも、本当なら……。この手で先に猫を殺さなければならない。
「猫憑き……」
仮に、その猫を殺すにしても、慎重に確かめてからでないと殺せやしない。猫の中に朱里がいる状態で殺したら、それこそ大変なことになる。
(まったく、どうしたものか……)
ということで、坂元は眠れぬ夜を迎えていた。とりあえず、猫のジュリが誰かの手に渡らないようにしなければならない。
「どこにいるのか……」
ハーッと溜め息をつくと、紺色のネクタイを外してからバーボンを煽った。夏目家の執事である坂元の悩みは尽きない。
☆
ほとんど眠れなかった朱里は暗く沈んだ顔をしている。
「おはよう。どうしたの? 夏目さん、体調が悪そうですね、無理しない方がいいですよ」
「なぁ、例えばの話だけど、もしも、タイタニック号が沈没して、おまえの猫とオレのどちらかしかボートに乗せられないとしたら、おまえはどっちを選ぶ?」
朝から何なのだ?
「選ぶも何も、ボートを漕ぐ船頭さんは猫より人間を選ぶと思うわ。あたしの意志なんて無視されるってば」
「仮に、無視されないとしたら……?」
「そんなの実際にその場にいないと決めらないわ。どちら命も平等に尊いから、選ぶのは無理だな」
「そうだよな……」
朱里は深刻な顔で溜め息をついている。由布子は違和感を抱いた。
(何だろう。変だな……)
首をかしげながら、玄関へと向かおうとしていた時、スーツ姿の坂元が訪れた。
こんな朝から別館に姿を現すなんて珍しいと思っていると由布子に対して坂元が言った。
「大変です。どういう訳か、乙姫様が由布子様をお迎えに来ています」
「なぬ?」
それを聞いていた朱里はコーヒーカップを片手にポカンとしている。
由布子は立ち上がりながら言った。
「あっ、ごめん、言ってなかったけど、乙姫さん、あたしの学校に転校するの」
「なぜ、乙姫様があなたを迎えに来るのですか」
坂元の問いに由布子はテキトーに誤魔化した。
「えーっと、あたし達、パーティーで意気投合したの」
それを聞いた三井はニコニコしている。
「さすが、由布子様でございますわね。ささっ、乙姫様をお待たせしてはいけませんよ」
「はーい」
軽快な足取りで玄関を出る由布子。三井も坂元も朱里も物珍しげに屋敷の外へ出て来た。
ベンツの中から出てきた乙姫は満面の笑みを浮かべていた。トロピカルなドレッドヘア。朱里は、まず、それに坂元と朱里は驚いて絶句した。
お洒落なパーカー。ピチピチのピンク色のレギンスとスニーカーという服装も、今までと違う。
「あらあら、いつにも増して華やかですわね」
三井は呑気に感心している。
それにしても、相変わらず、でかいケツだなと坂元はシンプルに思った。
由布子はスタスタと軽快に近寄っていく。
「おはよう。乙姫。カッコいいね」
スクールバッグとしてリュックを背負っている乙姫が、どこか恥しそうに足元を見つめながら言った。
「わたし、体育の時間以外でスニーカーを履いたのは初めてですわ」
ちなみに、由布子は学校では制服を着ているのだが、その理由は服選びに迷いたくないからである。
「おはようございます。由布子様」
送り迎えの時も西川は同行しているらしい。助手席から降りて来ると、親しげに由布子に微笑んだ。
漢方薬入りのテキーラを製造した過去など、西川の記憶からは消し去られている。西川は由布子のフォロワーだ。というか、もはや、由布子は西川の推しだ。
「あらあら、今日も由布子様は可愛らしいですね。さぁ、お乗りくださいませ。学校までお送りしますよ」
「えっ、まさか、これから毎日、送迎するつもりじゃないですよね?」
「由布子様がお望みならば、我々は構いませんよ」
「そ、それは結構です」
「そうおっしゃると思いましたわ。今日は登校初日ですから、特別に乙姫様に付き添っていただきたいのでございます。どうか、お嬢様をお願いいたします」
「そうですわ。お願いよ、由布子。わたしと手を繋いで門を潜りましょうね」
「うん……。それじゃ、今日だけだよ」
由布子は乙姫と友にベンツの後部座席に乗り込んでいく。
寝不足のせいで頬がこけている坂元は、しばし呆然としていた。
(どうなっているんだ。何が起きたんだ……、乙姫様と小娘は反目していたのではないのか?)
☆
その時、本館の二階から方子が不思議そうに去り行くベンツを見つめていたのである。
朱里との婚約を解消したかと思えば由布子という小娘との親友宣言……。
方子はベランダの手すりを強く握りしめたまま歯ぎしりする。
(まったく訳が分からないわ。しかも、あの西川が由布子という小娘を気に入るなんて……。瀬戸由布子、あなたは何者なのよ!)
方子は拗ねたように呟いたのだった。
「百合から何も聞いてないわよ……」
☆
実は、百合も、『陰毛事件』のことは何も聞かされていない。そんなの乙姫の口から言える訳が無い。
しかし、母親の百合も、このところ、乙姫の元気がない事は把握していたのだ。
苛々したり、哀しげに溜め息をついたり情緒がおかしいが、思春期だから仕方ないと感じていたのである。
今朝、百合は娘の為にコーヒーを淹れながら思ったのだ。
最近の乙姫は朗らかだ。
(あの子共学の学校に行きたかったのね……。そうよね。女子高なんて退屈だものね)
今朝、百合は学校に向かう娘を見送りながら微笑んでいたのである。
「うちの乙姫ちゃんは何を着ても可愛いわ……。んふふ。私に似たのね」
夏目朱里との婚約は白紙にするらしい。それもいいだろう。
(そうね、婚約や結婚なんて高校で恋愛をしてからでいいわよね。うちの乙姫ちゃんが自分で探せばいいのよ)
百合としては娘が楽しそうなら細かい事はどうでもいいのだ。
☆
「は、初めまして。わたし、綾小路乙姫と申します。わたしの特技はクラッシックバレェでございます」
その体型でバレエなのかと由布子は思ったりもしたが、誰もクスクスと笑ったりはしなかった。
それなりに緊張しているのか、乙姫は余計な事を語っている。
「わたし、家がお金持ちなので別荘がたくさんあります。父がリゾートホテルを経営しておりますので、子供の頃から海外旅行をよくしておりまして、語学には自信があります。わたしの母は慈善事業に命をかけております。わたしの母はとても美しくて各国の殿方を魅了しております。わたしも、美しい母のように世の中の役に立ちたいと思っております」
色々と自慢してるが、乙姫としては、ただのシンプルな自己紹介だ。このクラスの生徒達は優秀だし、国際感覚が身についているので、乙姫の挨拶に関しても素直に拍手している。
日頃から、オレは天才だと豪語するクラスメイトもいる。海外では、あからさまな自己アピールは、むしろ美徳とされている。
ということで、悪目立ちすることなく、すんなりとクラスの一員になったのだ。
お昼休み、乙姫は由布子達とお弁当を食べたのだが、予想したとおり、豪華絢爛なお弁当だった。
「乙姫、こんなにたくさん食べられないでしょう?」
由布子がそう言うと乙姫が頷いた。
「いつも、友達の分も作ってもらっていたのでございます。家政婦さんは、いつも通りに作ったのでございますわ」
「明日からは自分の分だけにしときなよ。もう、あいつらいないんだしさ」
由布子の親友の舞子は、色々と好奇心をくすぐられたらしい。
「乙姫ちゃん、もしかしてハーフなの? 顔立ちが華やかだね」
舞子の問いに乙姫は鷹揚に笑った。
「あら、よく気付きましたね。お母様は日本で生まれ育っていますけど台湾人ですのよ」
「えっ、そうなんだ~」
舞子は呑気に頷いているが由布子は驚いていた。どちらかというと、ポリネシアとか、そっち方向のルーツなのかと思っていたのだが……。
(それにしても、乙姫さん、楽しそうにしてるよ)
どうなる事かと思っていたが、乙姫は転校して良かった。苛められることもないころか、体育のダンスの時間、思いがけない能力を発揮していたのだ。
由布子のクラスメイトの女子がどよめいていた。
「まじか……。乙姫、ダンスのスキルやばいわ~」
「キレキレじゃね?」
クラッシックバレエの基礎があるおかげなのか、体幹がしっかりしている。
余りにも、乙姫のダンスが素晴らしかったので、放課後、ギャル達が乙姫にリクエストした。
「ねぇ、乙姫、この曲でこのダンスやってみてよ」
「あら、これ、聞いたことがありますわ」
しかし、踊ったことはないという。動画を視聴した後、音楽に合わせて踊り出していく。
渡り廊下でブロ並みのダンスを披露する乙姫。まさしく躍動という言葉が相応しかった。
その時、渡り廊下の向こう側からキラキラとした美少年がやってきた。
この学校で最もイケメンと言われているイタリアからの留学生のレオナルドである。
「あの女性は……」
故郷にいた頃から絶世の美少年と謳われてきたレオナルド。その名の通り、レナルド・ディカプリオの隠し子じゃないかとまで言われてきたのだ。
『いいか、日本にはとんでもない美女がいるぞ』
留学前に父から聞かされてきた。元々、レオナルドは日本のアニメが大好きだった。日本語学びたくてここに来ている。
『日本の美人に心を奪われないようにしとけよ』
しかし、父が言うような美女なんて日本にいなかった。クラスの奴等は、三年の瀬戸由布子が美人だと騒いでいたが、日本の女なんて、みんな同じ顔に見える。所詮、平たい顔族。シチリアから来たレオナルドは古代ローマ人の末裔であるが故に、そんなふうに思っていたのだが……。
その認識は間違っていた。今、レオナルドの目の前に華麗な女神がいる。地中海の風が吹いた。乙姫に一目惚れしたのだ。
実は、レオナルドは、留学中に百合に一目惚れしたマッテオの息子である。
という事で、遺伝子レベルで乙姫に惹かれている。
君は僕の太陽だ。この言葉を今すぐに彼女に奉げたい。
『あの美しい人をいつまでも瞳の奥に閉じ込めておきたい。ああ、胸が震える。初めてジュリエットに出会った時のロミオの気持ちが僕には分かる』
由布子の知らないところで壮大なラブストーリーが始まっていたのだ。
『彼女の美しいお尻のなんと艶かしいことか。眩しすぎる。ハートを焼き尽くされそうだ。いつか、僕のお嫁さんにしてみせるぞ』
レオナルドの熱い眼差しに気付く事無く、乙姫は、リズムに乗りながらエネルギッシュに踊り続けていたのだった。
☆
乙姫が、渡り廊下で情熱的に尻を振りながら踊っている頃。
坂元は、夏目家の塀際をうろうろしている怪しい男を尋問していた。貧相な男だ。どうやら、そいつは、工藤という男に頼まれてエリザベスという猫を殺しに来たらしい。
たった二十万円の為に夏目家に侵入しようなんて愚かである。
その男の名前は安井良太。
こいつを警察に突き出すのは簡単だが、もっといい使い道がある。
「エリザベスのことは諦めろ。あれは妊婦だ。むやみに殺すと罰が当たるぞ」
安井は風呂無しのアパートで暮らしているピン芸人だ。半年に一度だけ地下の小汚いホールで単独ライブとやらをしている。
「おまえにチャンスをやる。四日以内にジュリという猫を捕まえろ。殺すなよ。生きたまま捕まえて、ここまで運んできたなら百万払う。いいな、このことは誰にも言うなよ」
坂元は、由布子が配布した迷い猫のチラシと一緒に十万円をポンと置いた。
「成功すれば、残りの九十万を支払う。そう悪い話ではないだろう。本当の飼い主よりも先に見つけてくれ」
「なんで、その猫を探すんですか。小汚い猫じゃないですか」
変に隠すと勘ぐられるかもしれない。そう感じた坂元は淡々と告げる。
「うちの坊ちゃんが、この猫を描いたがっている。金玉のデカイ猫は幸運を招くとされているのだよ」
そういう事にしておこう。坂元はポーカーフェイスを保っていた、
「はぁ……。物好きな人もいるんですね」
安井は思った。もしかしたら、風水的に、金玉のデカイ猫は縁起がいいのかもしれない。かつて、漫才の相方だった男は、オーデションに落ちた時、玄関にマットを置かないから運が逃げるんだとか何とかわめいていたっけ。
その後、そいつは実家の定食屋を継ぐと言って辞めてしまった。コンビ解散。それから食うのにも困る毎日だ。安井は情けない顔で首を振る。
「無理ですよ。エリザベスでさえ見つけるのに何日もかかったんですよ」
「心配するな。もう居場所は特定している」
ペッ探偵事務所の所長の仁科は決して朱里を裏切らないが、その部下は金次第で何とでもなる。
猫のジュリは、謎めいた占い師の『マダム』の邸宅にいることは分かっている。
マダムと呼ばれている年齢不詳の美女は歴代の総理とも近しい間柄だ。経団連の大物もマダムに心酔している。マダムの占いが日本経済を動かしているとさえ言われている。マダムの自宅に夏目家の者を侵入させる訳にはいかない。
(こいつに猫を盗ませるしかない)
坂元は、安井にマダムの豪邸の見取り図を渡しておいた。
隠遁生活を送るマダムも、たまには外出するだろう。その時に侵入すればいい。
(あんな汚い猫を、わざわざ盗むように、こんな輩に指示する日が来るなんて……。オレもどうかしている)
自己嫌悪に陥りながらも坂元は安井に念を押していた。
「いいな。決して猫を傷付けるなよ。大切に扱うんだぞ」
「