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第六話

 猫パンチもシャッーと威嚇するも禁止。狭いところに潜るのも高いところに登るのも禁止。

 パーティー会場に向かうまで色々と言い聞かせたのだが……。

 ホテルの大広間に入った途端に由布子は眩暈を覚えた。

 これのどこか内輪のパーティーなんだ!

 国会中継で見た事のあるおっさん(自民党の大物議員)や、ボーイズグループのイケメン達や、経済界の大物が顔を揃えている。

 いわゆる立食パーティー形式である。 丸いテーブルが幾つかあり、料理や菓子を堪能しながら、着飾った紳士淑女が自由に交流するのだ。

 ビュッフェを前にしたジュリは子供のように目をキラキラさせている。

「由布子、おいら、牛を食べたいニャ☆ おいら、でっかい海老も好きだニャ☆」

「はいはい。お皿に取り分けてあげるから、ちょっと待ってて。いや、百合さんのスピーチが始まるまでは食べちゃ駄目なんだっけ」

 今日の主役は綾小路百合なのだ。

 さすがに、乙姫と違ってお友達役のサクラは雇っていない。

 ボーイズグループのメンバーもイケメン俳優も綾小路家に関連しているようである。彼等にとっては営業の一環だ。企業の社長達との繋がりを得られるとばかりに、マネージャーと共に愛想を振り撒いている。

 政治家達は、綾小路グループの企業献金を目当てにここに来ている。

 一応、女学校時代の友人と経済界の人達に関しては百合との深い繋がりがあるらしい。

「みなさん、今日は、わたしの為に集まっていただいてありがとうございます」

 百合のスピーチが終わると、今度は、娘の乙姫が母への手紙を読み出していた。タイトルは、『誰よりも美しく気高い、わたしのお母様』である。

 それは、百合をひたすら賛美するという偏った内容なのだ。

「お母様、お誕生日、おめでとうございます。お母様は天女のような人です。お母様が世界で一番綺麗なことは、ここにいる誰もが知っています」

 乙姫の作文など、バカバカしくて聞いていられないとばかりに、百合の同窓生と思われる三人の女達はワイン片手にコソコソと囁いている。

「しっかし、親子揃ってデブね。相変わらず、百合は自信に溢れてるわね。デブだけど、デブ専の坊ちゃま連中からはマドンナって言われてたものね」

「イタリアからの留学生のマッテオからは熱烈なアプローチを受けてたわね。後から分かったけど。オリーブ農園を営む大地主の息子で大富豪だったのよ」

「まぁ、百合は顔立ちが華やかなのは認めるわ。でも、娘は田舎臭い父親に似たのね。なぁに、あの強烈な顔! 笑えるわ」

 三人グループのリーダーらしき女の真島が忌々しげに言う。

「それにしても、謎だわ。大金持ちの百合と違って方子の家は没落してたのよ。父親の会社は地方の食品加工会社に過ぎないのよ、それなのに、なんで、そんな方子が夏目家に嫁げたのかしら」

「方子ってさぁ、地味で暗い女だから夏目家に嫁げたのかもしれないわね。夏目家は愛人を持つのが当たり前なんだもの。ちゃんとした家の女はそういうの我慢できないものね。あたし達には無理よ」

「そう言えば、夏目家の一人息子のイケメンは愛人の子だそうよ」

「噂によると、その子、事故でオツムがやられたそうなのよ」

「オツムがやられてるから、百合の娘と婚約できるのかもしれないわね。うちの息子だったら、あんなブスとの結婚なんて我慢できないわ。きゃはは」

「それにしても、夏目様の息子が事故に遭うなんて変ね。ボディカードは何をしていたのかしら」

「方子が愛人の子を暗殺しようとして、ああいう事故が起きたんじゃないの」

「確かに、陰気な方子ならありえる」

「いつも優等生ぶってて、うざい女だったもんね」

 背後にいた由布子は彼女達の声を聞きながらうんざりしていた。

 女学校時代の女の友情など、あってないようなものである。

 壇上での御挨拶を終えた百合は、集まってくれた人達に向けて個別に挨拶を始めたのだ。百合は女友達のところにやって来た。

 百合の隣には親友の方子も付き添っている。女達が微笑みながら言う。

「百合、お誕生日、おめでとう。相変わらずスタイルが良くて綺麗ね」

 先刻までデブと言っていた女達が口々に褒め称えている。

「ありがとう。皆さん、そうおっしゃるわ。自分でも鏡を見るのが楽しみなの」

 百合は、見え透いたお世辞をすべてガッツリと素直に受け取るタイプのようである。アンミカ以上にポジティブだ。

 しかし、方子は、彼女達の悪意には気付いているのか、顔が、いつもより硬い。三人の女達は、どこか意地悪な顔つきで方子に言う。

「方子、一年ぶりね。今年、あなたの息子さんがこのパーティーに来ているそうね。紹介してくれないかしら」

「えっ……」

 品のいい着物姿の方子は動揺しているのだが、それを嗅ぎ取った女達は舌なめずりをしている。

 女学校時代、最も派手だった真島が百合に笑いかけていく。

「ねぇ、百合、方子の息子は、あなたの娘と婚約しているんでしょう。あたし達に紹介してよ。すっごくハンサムだって噂だわ」

「そりゃそうよね。あの方の血を引いているんだもの」

 朱里の父親のイケメンぶりは、女学校でも有名で、朱里の父が電車通学をするとホームか女子で溢れて駅員が胃潰瘍を起こすとまで言われていたのである。

 夏目千里様は生きる伝説。みんなの王子様。

 それなのに、なぜ、こんな女が妻になるのか……。中年になった今も彼女達は納得がいかない。

 そんなドロドロとした私怨には無頓着な百合は、良かれと思って動き出している。

 百合が由布子達を指差した。

「朱里君なら、あなた達の後ろにいるわよ」

 その瞬間、由布子はギョッとなる。まずい。今、ジュリは一心不乱に苺大福を食べている真っ最中なのだ。頬がリスのようになっており、口の周りは粉だらけという有様だ。

「ジュリ、は、早く、飲み込みなさい」

 無理に急かしたのが悪かった。何と、喉に詰めてしまった。オー・マイ・ガッ。

 駄目だ。まずいぞ。ジュリが窒息してしまう。そう感じた由布子は豪胆に背中をバシンと叩いて吐かせようとする。

 もはや、プロレス技というぐらいの勢いで身体を叩きまくると、餅の塊がスコーンと口から飛び出したのだ。

「お、おいら、死ぬかと思ったニャ~」

「あたしも焦ったわ。ほら、ジュリ、お口を拭いて」

 世話に徹する由布子を見ていた中年の女達は思った。この小娘は何者? もしかして、もう愛人がいるのかしら。

 皆の視線を集めてしまい由布子はビビっていた。コソコソとジュリの耳元で囁いた。

「いいわね。ニャは禁止よ。普通に喋るのよ」

「わ、分かったニャ」

 あとは運を天に任せるしかない。

 フェンディのワンピースをお洒落に着こなす有閑マダムの真島が言った。

「初めまして。朱里君、わたし、むかーし、一度だけ、あなたと会ったことがあるのよ。覚えてるかしら」

  ちなみに、この女が朱里を見たのは、朱里が小学二年生の頃である。参観日の時、見たのだ。あの時、参観に来ていたのは方子ではなくて、ばぁやの三井だった。

「わたしは、あなたの同級生の母親なの」

 いきなり、知らない人に話しかけられたジュリはキョトンとしている。

 当たり前だ。ジュリにとっては興味のない人達である。いつもなら、シャッーと唸って追い払うところだが、今日はシャーを禁止されている。

 ジュリは不安そうに由布子を見つめる。由布子も、ヒヤヒヤしたまま様子を窺う。

 方子が朱里と距離を置いている事を知りながら嫌味のつもりで言ったのだ。

「お継母さんと一緒にパーティーに来るなんて仲良しなのね~」

「母ちゃん……」

 たちまちジュリの瞳が揺らいだ。

 母猫は痩せて小柄で貧相な白猫だった。ジュリが最後に母猫を見たのは雨の夜だった。食べ物を探しに出たきり二度と帰ってこなかった。

 幼少期の記憶が蘇り切なくなってきた。ジュリは今にも死にそうな妹と共に母の帰りを何日も待ち続けたのだ。

 子猫のジュリにとっては母猫だけが頼りである。

「お、おいらの母ちゃんはおいらを捨てた……。もういない」

 いきなりのカミングアウトに、みんな、ギョッとしたようにして聞き入っている。

 当時のジュリは空き家の縁の下をねぐらにしていた。

 野良犬やカラスから子供を守ろうとして母猫はここを選んだ。その頃、母乳を卒業して母猫が運んできた残飯を食べるようになっていた。泥水に濡れた食パンは不味かった。それでも、子猫達は文句を言わずに食べた。

『おまえ達、ここに隠れていなさい』

 母猫はそう言うと、塀の向こうへと去っていく。しかし、二度と帰って来なかった。

「おいら、腹ぺこで死にそうになった。何日も何日も母ちゃんを待ってたけど、帰って来なくて悲しかった。食べ物を探しに外に出たけど、大きい車に轢かれそうになって死ぬほど怖かった」

 言っているうちにジュリの感情が高ぶってきた。惨めで哀しい記憶。母に捨てられたなんて思いたくなくて、あの時、ニャーニャーと泣いた。

「おいら、もう死ぬと思った。優しい人間と遭遇した。おいら、その人に抱き締められていた。優しい匂いがした。おいら、正式に、その人と家族になって暮らし始めた。新しい母ちゃんだと思ってる。おいら、その人のことが誰よりも好きだ。でも、おいらが、くっつこうとすると、時々、怒る。おいら、それが寂しい」

 ジュリは由布子のことを言っているのである。

 天麩羅をあげている時にスリスリすると由布子は激怒する。危ないから、あっちに行きなさいと注意する。

「おいらの新しい母ちゃんは、おいらが危険な目に遭わないように、いつも頑張ってくれる」

 アパートの庭先で蛇を見つけたりしたら、由布子はジュリが噛まれないように草刈鎌で蛇を成敗している。

 ジュリが他のオス猫と縄張り争いをした時なども、由布子は果敢に棒を振って敵を追い払う。

「おいらが、ちっちゃい頃、うっかり絨毯の上でウンコを落としたけど、おいらのこと叩いたりしなかった。おいらのウンコトレーニングに根気強く付き合ってくれた」

 猫の砂の上でウンコをしたジュリだったが、砂を脚で蹴った弾みでウンコが吹っ飛んだことがある。

 由布子の兄は大騒ぎしていたが、由布子はむしろ褒めたのだ。

 いい子。ジュリはいい子だね。ちゃんと砂の中に埋めようとしたんだね。ほんと、いい子。

「おいらの新しい母ちゃんは、おいらが子供っぽいことしても笑って包み込んでくれる」

 ジュリの言う子供っぽい事というのは、あれだ。踏み踏み。いわゆる子猫が母猫に甘える行為である。ジュリは無心に布団を踏み続ける。

 猫の踏み踏みは、この世で最もいじらしい光景だと由布子は腹の底から思っている。

「おいら、新しい母ちゃんが大好きだニャ」

 由布子を熱く見つめるジュリだが由布子の隣に方子がいたのだ。そう、だから誤解が生じたのである。

 感激屋の百合はウルウルと大きな瞳を揺らして感動している。

「あら、朱里君……。方子のこと、そんなふうに思ってたなんて知らなかったわ」

 みんなも、朱里の生みの母親が育児放棄していた事は知っている。方子の事を馬鹿にしていた女達も方子を尊敬の眼差しで見つめ始めている。

 見直したわよ。方子。いつもは方子に意地悪な真島も目を潤ませている。

 女同士、いがみ合っていようとも、それぞれの胸には溢れんばかりの母性がある。

「方子、あなた、朱里君に愛されてるのね」

 そんなことを言われた方子は魂が抜けたように呆然としている。由布子はホッとしていた。

 ジュリは由布子への熱い想いを語っていたのだが、継母を慕っていると勘違いしたようだ。

「……ごめんなさい。あたし、コンタクトがズレたみたいだわ」

 方子は、そう言うと洗面所へと駆け出していった。気のせいだろうか。方子の目に光るものが見えたような気がしたのだが……。

 百合は次のグループへと移動して挨拶している。そして、真島達、おばさんグループも美味しそうなケーキのバイキングに夢中になっている。

 由布子は、ふうっと安堵の溜め息を漏らす。

「ジュリ、よく出来ました。偉かったね」

 よしよしとばかりに頭を撫でる。

「おいら、賢い猫だニャ☆ お寿司が食べたいニャ」

 会場には寿司カウンターもある。ちなみに、ジュリの好きなお寿司はサーモンだ。

 その間、遠くからジュリの振る舞いを観察する者がいた。

 そのおっさんは、このパーティーを取材しにきたゴシップ専門の芸能記者である。彼は、朱里の悪行をスッパ抜いてやるつもりで見ていたのだ。しかし、『ジュリ』は記者が予想したような高慢な坊ちゃんではなかった。

 実は、パーティーが始まってすぐに、こんな事があった。

 慈善活動が趣味の百合は、毎年、孤児の中学生をパーティーに招いていおり、今年も六人来た。その子達は制服姿なので目立っている。御馳走のバイキングに夢中になっていた。伊勢海老にかじりついた後、坊主頭の男の子が、そこにあったフィンガーボールの水を飲んでしまった。

 それは海老を素手で剥いたことで汚れた指を洗うための水である。

 そんなものを美味しそうに一気に飲むなんて……。

 周囲の人達はクスクスと笑う。馬鹿にしている者もいれば、その失敗が微笑ましくて笑った者もいたのだが……。

 貧しい中学生の男の子は、自分のやらかした事に真っ赤になっていた。すると、そこに現れたジュリが、平然と、同じように手を洗う水を飲み干して満足そうにゲップをしたのである。

 周囲の者はシーンとなった。

 それを見ていた記者はピンきた。

『あの坊ちゃん、いたいけな中学生に恥をかかせまいとして飲んだんだな。わざと粗野に振舞ってるんだな』

 いや、違う、猫のジュリには綺麗な水に見えただけのことである。

 そして、ゲップは自然現象。

 誰かを救う意図などなかったのだ。その後、ジュリは由布子に叱られている。

『ジュリ、その水は飲んじゃ駄目なんだってばーーー。ああ、もう! ほんとに悪い子だね』

『綺麗な水だぞ』

『そんなに飲みたいなら、このジュースを飲みなさい』

 記者は、その後も朱里の行動を遠くから見つめていたのである。

 由布子がトイレに入っている間、ジュリは女子トイレの前で待っていた。すると、観光から戻って来た酔っ払いの欧米人が手にしていたペットボトルの水をこぼしたまま立ち去った。それを見たジュリが、しゃがみ込み、タキシードの袖で拭き出したのだった。ペロペロ。まるで猫が床を舐めるように丁寧に拭く。

 由布子に言われた事を守っていた。お掃除をすると由布子に褒めてもらえる。

 おいら、いい子だよ。

 頭を撫でてもらいたくて、そうしているが、記者は、そうとは知らずに感心していた。

『我侭放題に育てられたのかと思ったが、案外、ちゃんとしてるんだな』

 適当な記事を書いて貶めてやろうとと思っていたけれど、記者は、それを辞めたのだ。

 その後は、会場にいたボーイズ・アイドルグループのSに張り付き始める。Sは、麻薬に手を出しているという噂がある。

『スクープしてやるぜ』

 とまぁ、こんなふうにして、意外にも平和に時が流れていたのだが、中盤に事件が起きた。

「あら、ごきげんよう」

 その声は着飾った乙姫である。迫力満点の乙姫の登場に由布子はたじろいで後ずさる。

 乙姫は微笑みを絶やさないまま由布子に飲み物を差し出している。

「瀬戸さん、いつも、わたしの婚約者のお世話をして下さってありがとうございます。どうぞ、特性ジュースをお飲みになって」

「えっ……」

 何だろう。亀の甲羅を煮詰めたような妙な匂いがする。乙姫の目力に気圧されて受け取るしかなかった。

(あたしにこれを飲めと言うの? まさか、毒など入ってないよね?)

 由布子の疑念は正しかった。それには怪しい薬が入っている。

「あら、どうなさったの? ううちの西川が作ったのよ。身体に良いものが入っておりますのよ」

「うっ……」

 絶体絶命。飲むのが怖い。その時、エリカが現われた。

「あら、遅くなってごめんなさいね。バイトの子が遅刻したもんだから……」

 今夜のエリカの真っ赤なドレス姿はハリウッド女優のように美しい。エリカにジュリを託すべきだろう。

「そ、ぞれでは、エリカさん、夏目さんのこと、よろしくお願いします」

 そう言うと、由布子は黒い謎の飲み物を飲み干していく。その直後、喉が焼け付くような感覚に襲われた。エリカが叫ぶ。

「やだーー。それ、アルコールよ。ちょっと、乙姫ちゃん、駄目じゃないの。由布子ちゃんは未成年なのよ」

「あら、そうでしたの? 西川ったら、うっかりさんね」

 乙姫が用意した謎の液体は漢方薬入りのテキーラである。乙姫が言った。

「急性アルコール中毒にならぬように医師を連れて行きますわね。西川、あなたの落ち度よ。由布子さんをホテルの寝室に連れて行って看病をしてさし上げなさい」

「はい。かしこまりました。乙姫様。お任せ下さい」

 これは由布子と朱里を離間させる為の作戦である。

 エリカは乙姫の悪巧みに気付いて顔をしかめる。一方、被害者の由布子は漢方薬の苦味に顔をしかめている。

「別に医者なんて必要ないんですけど」

 お酒なんて飲んだのは初めてだが、別に、病気ではないのだから、そんなに大袈裟にしなくてもいいですと言おうとしたのだが、西川に襟首の辺りを叩かれて由布子は失神していた。

「由布子!」

 ジュリの悲痛な声が響く。

 目の前で由布子が気絶したものだから、ジュリとしても黙っていられない。自分もついていくと騒ぐジュリに対してエリカが告げる。

「ジュリちゃん、駄目よ。静かにしてね。由布子ちゃんは眠いのよ。ちょっと横になるだけなんだからね。あなたはここにいなさい」

 エリカには考えがあった。人間の朱里と違って猫のジュリは遠慮を知らない。きっと、乙姫に対して拒否反応を起こしてくれる。

『こんな婚約、早く解消すればいいのよ』

 さぁ、自由に暴れなさいとばかりにジュリを乙姫に差し出していく。その数分後。乙姫とジュリはホテルのスイートルームで向き合うのだ。


    ☆


「なぁ、由布子はどこにいるのかニャ。ここにはいないニャ」

 ジュリは由布子に会いたくてたまらない。ここで待つように言われたので来たものの、知らない太った女と二人でいてもつまらない。せめてエリカという女がいれば良かったのに。

 エリカは乙姫の側にいればいいのよと言って笑っていたのである。

 乙姫は、綺麗な夜景の見えるホテルの一室で良からぬ事を企んでいた。

「ねぇ、夏目様……。あたしのこと、どう思っていらっしゃるの?」

「……」

 どうもこうも、ジュリにとっては見ず知らずの変な女に過ぎない。

 ジュリも大人だ。公園を散歩していて知らない人間に頭を撫でられる事もある。

 可愛い。そう言われるとジュリも悪い気はしないが、中には危害を加えるつもりで近寄る奴もいる。

 勝手に金玉を取る謎の集団がいる。(地域猫を見守る獣医たちのことだが、ジュリにとって、彼等は悪魔だ)

 それに、小さな子猫の首ねっこをつかんで、その猫を噴水に投げ込んで笑う酔っ払いもいた。そいつの顔と声は忘れない。だいたい、猫は、邪悪な人間に関してはニオイで分かる。

「ねぇ、夏目様」

 ベッドの縁に座るジュリの肩に手を添えようとした乙姫にゾクッとなる。

 こいつは良からぬことを企んでいる。

(おいらは賢いぞ。この人間は悪いニオイがするぞ)

 ジュリは猫パンチを繰り出していく。

「おまえ、図々しいニャ。おいらに触るニャーー」

 ガリッ。乙姫の丸い頬に蚯蚓腫れが走った。

「何をなさいますの!」

「由布子に会いたいニャ。由布子に早く会わせろ。おいらの由布子はどこにいるニャ」

 いつもなら、この時間は代好きな由布子と二人っきりで過ごしている。

「おいら、由布子のところに行くニャ」

「いけませんわ。あなたは、わたしの婚約者なのよ。あんな女ことは忘れて下さいませ」

 乙姫はジュリに抱きつく。すると、ジュリが叫んだ。

「放せーーー。由布子以外の抱っこなんて、お断りだニャ」

「なんで、そんなに、あの女を求めるのですか」

「好きだからに決まってるニャ。いつも一緒に寝る仲だぞ」

 寝る。つまり、肉体関係にあるのですね。そう解釈した乙姫の胸が嫉妬の炎で燃え上がる。

「夏目様の家系が不倫を肯定しているという事は前々から聞いておりますわよ。でも、今夜は、わたしと寝てもらいます」

「何を言うニャ。おまえは他人だニャ」

「いいえ。わたしは未来の妻なのです。あなたの子供を産むのは由布子さんではありません。そのことをハッキリさせたいのです」

「子供……」

 ジュリは首を傾げながら言う。

「……由布子は、おいらの子供なんて産まないぞ」

 それを聞いた乙姫は頬を緩めていく。

「良かったですわ。子を産むのは、わたしだけだと思っていらっしゃるのね」

 愛人は火遊びの相手と割り切ってくれているようである。だが、ジュリは真顔で言い切っている。

「馬鹿なことを言うニャ。おいらの子供を産むのは盛りのついたメス猫だけニャ!」

「はぁ?」

 乙姫は不意を突かれたように目を開いている。

「由布子は、おいらの家族だニャ。交尾なんてする訳がないニャ」

 交尾? 夏目家では愛の営みをそう呼ぶらしい。乙姫は直接的なワードに度肝を抜かれた。

 一方、ジュリは非常識な乙姫の言葉に憤慨していた。猫と人間の性行為などジュリには想像を絶するものである。

「では、わたしのことはどう思っているのですか」

「……よく知らないけど、身体の大きな女だニャ。おまえ、由布子に比べると頭がでっかいから、ちょっと怖いニャ」

 ジュリにはこれっぽっちも悪気はないが、乙姫はプライドを砕かれて絶句する。頭が人より大きい事は知っている。街を歩いている時、見知らぬ奴等に、そのことでからかわれて傷付いている。

「ひどいわ。あなたまで馬鹿にするんですの」

 みんな意地悪だわ。

 えいやー。怒りが頂点に達した乙姫は、ジュリの顔をめがけて皮のハンドバッグを投げつけていたのだ。

「むぐっ……」

 至近距離からの攻撃はかわせない。こめかみのところにグッチの鞄の角がヒットしていた。その弾みでジュリは気を失う。

「えっ、やだ。死にましたの……」

 乙姫はジュリの脈を測る。大丈夫。まだ生きている。

 でも、この数時間後、打ち所が悪くて死ぬかもしれない。どうしよう。殺人犯になるのは嫌なのだ。

「西川、緊急事態発生よ。あの女を今すぐにここに連れて来なさい」

 乙姫が命令すると、西川は、すぐに失神している由布子を連れてきた。運んできたのは、綾小路家の若い男達だ。彼等は、用事を済ますとここから立ち去った。

 うつ伏せで眠る由布子を見下ろしたまま西川が言う。

「お嬢様、このスイートルームは、お嬢様と朱里様の為に用意したものですよ。よろしいのですか。こんなところに、この二人を寝かせたりして」

「今更、どうってことないわよ。この二人は、毎晩、一緒に寝ているんだもの」

「んまぁーーー。破廉恥な!」

 目を引ん剥くようにして叫んだ後、西川が心配そうに朱里の額を覗き込む。

「あら、嫌だ。たんこぶが出来ていますよ」

「そうなのよ。わたしのせいなの。万が一のことがあったら、綾小路家が訴えられてしまうわ。だから、この娘をここに残すのよ」

「なるほど、そういう事でございますのね。未成年なのに飲酒して倒れた小娘に罪を押し付けるのですね。自分はやってないと言ったところで世間は信じませんものね」

 都合の悪いことは由布子に押し付けてやろうと考えたのだ。


    ☆


 そんな訳で、気絶している由布子とジュリは一つのベッドに寝かされたのである。乙姫達がスイートルームを出た五分後。

 人間の朱里が覚醒していた。

「何だ……?」

 今日が何日でここがどこなのか……。目覚めたばかりの朱里にはサッパリ分からない。

 隣には着飾った由布子が眠っている。

「おい、由布子……。おまえ、こんなところで何をしてやがる?」

 朱里は由布子のハンドバックの中にいる携帯を勝手に取り出すと、日付けを確認した。

「今日は、百合さんの誕生日だよな? やっべぇ!」

 ガバッと起き上がろうとすると、頭に痛みが走った。なぜだ。額がズキズキする。

 それにしても、妙だ。由布子は死んだように眠っている。クンクンと顔を寄せて臭いを嗅いだところ。アルコールの匂いが鼻についた。

「……どういうことなんだ?」

 よく分からないが、こんな場所に由布子一人を残して立ち去る訳にもいかない。

 そう思い、しばらく添い寝をするような恰好で朱里は由布子を見つめ続ける。

(肌が綺麗だな。改めて見ると、こいつ、かなり可愛いな……)

 子供の頃、朱里は飼っていた黒猫の頭を撫でるのが好きだった。スリスリ。スリスリ。猫は撫でられると、ありがとうと言うように額をこすりつけてくる。

 朱里は、その頃の事を思い出しながら由布子の頬のまわりを撫で回していく。すると、急に、由布子が目覚めた。

 一瞬、朱里ばバツが悪くなって言い訳しようとしたが、なぜか、由布子は、ものすごく切羽詰った顔をしている。

「おまえ、どうした?」

「そこ、どいて!」

 由布子は必死になって朱里を突き飛ばそうとするけれど、朱里は由布子を抱きとめる。

「おい、おまえ、何があったんだよ」

「うぐっ……」

「おい、やめろ」

 由布子は朱里の顔面や胸に向けて派手に嘔吐した。

 アルコールのせいである。いや、それにしても、嘔吐物の色がグロテスクだ。

「な、何だ。おまえ、悪いものでも食ったのか。ゲロが黒いぞ」

「うぐ……」

 またしても嘔吐の波が込み上げてきた。さすがに何度もゲロを浴びたくない。朱里は、由布子を支えるようにしてトイレへと誘導していく。

 うげーーーーー。由布子は何度も吐く。朱里か背中をさする。

「……ご。ごめん。あたし、乙姫に変なものを飲まされたわ」

「乙姫の仕業なのか……」

 でも、それなら、なぜ、自分と由布子がホテルのベッドに横たわっていたのだろう。まったくもって謎である。

 よく分からないまま朱里は由布子の介抱を続ける。

「医者でも呼ぼうか」

「いいよ。吐いたらスッキリしたよ。多分、これ、アルコールのせいだと思うよ。倒れる前に聞いたわ。あたし、テキーラを飲まされたみたいなんだ」

「……テキーラ?」

「おかしいな。あたし、西川さんの腕の中で失神したところまては覚えてるんだけど、なんで、ここにいるのかな」

 キングサイズのベッドの周囲には薔薇の花ビラが撒かれている。由布子は首をかしげる。何これ? 新婚夫婦の初夜みたいな部屋だな。

 由布子は尋ねる。

「もしかして、ジュリ、あたしのことか心配で添い寝してたの?」

 由布子が高熱を出して寝ていると心配して額をペロペロしてくれていた事を思い出す。しかし、今、目の前にいるのは……。

 顔つきが猫のジュリとは違う。

「あーーーーー。人間の夏目さんだよね! 良かった。久しぶりに魂が戻ってきたんだね。あのね、ジュリは生きてるよ。マダムっていう人の御宅で保護されてるらしいの。ペツト探偵さんに知らせて」

「マダム……。本名は?」

「うーん、それは分からないな。でも、お金持ちの家みたい。そこには美人の青い目の猫がいるらしいよ」

「おい、おまえ、もっと詳しく聞いておけよ!」

「ごめん、ごめん。今度、ジュリと入れ替わったら聞いとくわ」

「また、猫と入れ替わらせるつもりか! オレは、まっぴら御免だぞ」

「そうだよね」

「それで、オレが魂を乗っ取られている間、何があったんだ?」

「あのさ、最近、居間で川の字になって三井さんと一緒に寝てるんだよ。三井さん、入れ歯を外してるのを見て、うちのジュリが悲鳴をあげてたわ。ふふっ。笑っちゃったわ。目覚まし時計の横に入れ歯を置いてんだよ」

 カラッと明るい由布子を見ているうちに朱里はブッと吹き出していた。

「おまえ、前から思ってたんだけど、おもしれー女だな」

 なぜか、スッと立ち上がると服を脱ぎ始めた。由布子は慌てる。

「ちょっと、いきなり、何なのよ」

「オレ、おまえのゲロを浴びて気持ちわりぃから、シャワー、浴びるてくるわ。おまえの黒いゲロは、ひでぇ臭いだぞ。正露丸みたいな臭いがする」

「確かに、これは酷いよね。シーツも汚しちゃってる」

「別にいいさ。ていうか、ここは乙姫の曽祖父が創業したホテルだよ」

 以前、何度か、朱里は綾小路グループのホテルを利用した事がある。

 窓から見える夜景から察するに、ここは港区だ。

「お金持ちが泊まるホテルなんだね」

 由布子は顔をしかめせた。目の前でパンツ一枚になられては困る。

「ちょっと、あたしの前で裸にならないでよ」

「今更、何を言ってる。おまえ、初対面でオレの全裸を見てるだろう。猫のトイレのところで、おしっこした姿を見たことを忘れたのか」

「……はは。そんなこともあったね」

 朱里は簡単にシャワーを浴びると、ガウンを羽織った姿で戻ってきたのだが……。

「それで、夏目さん、これから、どうするの? そろそろ、百合さんのパーティーが終わる頃だよ」

「オレとおまえの体調が悪いってことにして、ここにいればいいんじゃねぇの? このパーティーに行きたかった訳でもないしな」

「……夏目さん、方子さんに気を使って婚約の話を断れないでいるんだよね」

 由布子は言わずにはいられなかった。

「あたし、エリカさんから聞いたよ。方子さんが流産したのは夏目さんのせいじゃないよ」

「黙れ」

 そのことには触れられたくないらしい。

 それでも、おせっかいな由布子は踏み込まずにはいられない。

「幼い夏目さんのこと逆恨みするなんて、方子さんも大人げないよね」

 もちろん、由布子も方子さんが極悪人だとは思わない。

「あたしも女だから、旦那さんに隠し子がいるのが、どんなにショックか分かるよ。だけど、夏目さんを恨むのは筋違いだよ」

「煩い。黙れ。おばちゃんのことを悪く言うな」

 朱里の瞳には涙の膜が膨れ上がっている。今にも、決壊してしまいそうになっている。

「オレと出会わなければ、今頃、自分の子供と幸せに暮らしてたんだ! オレが生まれてきたのが悪かったんだ」

「何を言ってんの! 夏目さんは悪くないよ。お父さんは、どうしても愛する人との子供を作りたくて代理出産に踏み切ったんだと思うよ」

「親父は勝手なんだよ。息子のことを愛していると言いながら、子育ては他の奴に任せっきりで、ほとんど家にいないじゃねぇか。オレは、一体、何の為に生まれてきたんだよ!」

 いきなり深い問いをぶつけられて、由布子は怯みそうになる。

「オレは親から愛されずに育ってきた。こんなオレは、この先、どうやって人を愛せばいいのかも分からないんだよ」

 ドンッ。

 悔しさと惨めさを滲ませたまま壁を叩いている。由布子はハラハラしながら伝えようとする。

「……そんなことないよ」

 由布子は熱心に朱里を見つめながら言う。

「夏目家に引き取られる前、夏目さんは、めちゃくちゃ愛されてたんだよ! なんで、そのことに気付かないの!」

「誰が、オレを愛したっていうんだよ」

「代理母のフーさんは、ずっと夏目さんと暮らしたいって願っていたの。だけど、執事の坂元が指示したの。わざと、育児放棄するようにってね」

 もう、真実を隠す必要はない。どうか知って欲しい。

「あの頃、どんなことが起きていたのか、あなたは知るべきなのよ。あなたの代理母のフーって人は、あなたとずっと一緒にいたいと願ったていたの。だけど、許されなかったから、心が壊れたんだよ」

 由布子は、自分が調べたことをぶちまけていく。

 すると、雷に打たれた様に朱里は椅子の背にもたれた。

 天を仰ぐようにして呻いている。

「まさか……。そんな裏があったなんて……」

 けれど、今、思い返すと、あの頃の代理母の行動は妙だった。ママと呼んでも無視をする。 それなのに、朱里が転んで泣いているとハラハラしたような顔を見せる。

「……そうだったのか」

 何で、今まで、彼女との日々を忘れていたのだろう。自分は無残に捨てられたと思い込んでいた。だから、楽しかった記憶さえも心から消していた。

 海の底から深海魚が浮上するように思い出がめきめきと蘇っていく。

『朱里ちゃんは可愛いね。アタシの宝物だよ』

 ひどく蒸し暑い夜、フーの腕に抱かれて安心して眠った。

 愛しげに頬に何度もキスをしてくれる。確かに自分を慈しんでくれた。スープを飲ませる時も熱くないか温度計で測っていた。

 朱里が、おねしょをした時も、うっかり、陶器を壊してしまった時も優しく笑っていたのだ。

 眠たげな顔で朱里のマフラーをせっせと編んでいたこともある。

(あの人は、親父から養育費としてたくさんもらっていたっていうのに贅沢をしようとはしなかった。多分、あの人の実家がお金に困っていたのだろう。もちろん、オレを産んだのも金目当てだ。だけど、オレの世話をするママは生き生きしていた)

 子供の頃、一心に注がれていた愛情を思い出しながら朱里は泣いている。

 なんて無防備な顔をしているのだろう。由布子は胸を打たれた。

「夏目さん……」

 幼い子供のような瞳が物悲しくて胸が痛くなる。その涙を由布子はハンカチで拭いてあげる。

「あの人は、今、どこにいるのかな……。オレのせいで哀しい思いをさせて申し訳なかったな。オレ、何も知らずに恨んでたことを謝りたい」

 しかし、もう二度と会えない……。

「もう一度、あの人のことをママって呼びたいよ。心から、ありがとうって言いたい。ほんと、馬鹿だよな。オレは何も分かっていなかった」

 由布子も、たまらなくなって朱里を抱き締める。

「そんなことないよ。夏目さんも被害者なんだよ。悪いのは坂元なんだよ」

「……そうかもしれないが、坂元も、もしかしたら祖父に指示されてやったのかもしれない。祖父は高慢で独善的な男だったからな」

 言いながら朱里は鼻を啜っている。

「由布子、本当の事を教えてくれてありがとう。ちゃんと愛されて育ったんだ。生きる希望が湧いてきた。まじで、ありがとな」

 朱里は、そう言うと由布子の背中に腕を回すと由布子の頬にキスをした。

 意外な行動に由布子の鼓動は揺れる。

「な、な、何をするのよーーーー」

「ただのハグとキスだよ。何か文句あるのかよ」

「あるわよ! うちのジュリにも顔の甘噛みは禁止してるんだからね」

「はぁーーー? 顔の甘噛みって何だよ」

「ジュリが、あたしのほっぺたをハムッと噛んだの。ジュリが言うには、甘噛みって猫のチューなんだって」

「へーえ、面白そうだな。僕、これから、毎日、由布子に甘噛みするニャン☆」

 ふざけて、朱里が由布子を押し倒して頬に唇を寄せようとする。

 見つめ合う二人。朱里の瞳に吸い込まれそうになる。

 由布子はマジでドキッとなる。

 すると、その時、まるで、二人を引き離すかのようにして、唐突に、ホテルの部屋の電話が鳴ったのだ。

「はい、もしもし」

 どこか不機嫌そうに朱里が呟くと、スイートルーム専用のコンシェルジュが呟いた。

「あの……。この度は、当ホテルをご利用いただきまして、まことにありがとうございます。ところで、夏目様、体調は、いかがなものでしょうか」

「特に問題ない」

「そ、それは何よりでございます」

 ホテルのコンシェルジュは、乙姫や西川に頼まれて夏目が生きているのかどうかを、わざわざ確認しているのである。

 隣にいる西川はホテルのコンシェルジュに命じた。

『呼び出しなさい』

 元気になったからには由布子と二人でスイートルームに置いておく必要もない。

「あの、そろそろ、百合様のパーティーが終わる時刻なのですが……」

「分かった。すぐ行く。実は、うっかりしていて服を汚してしまったんだ。この部屋に服を届けてくれ」

「かしこまりました」

 その後、すぐにタキシードが届けられたので素早く着替える。

「サイズ、ピッタリだね」

「そりゃそうだ。オレが事前に用意してクロークに預けているものだからな。何かあったら着替えられるようにしてるのさ」

「さすが、御曹司」

「おまえのワンピースも用意しとけば良かったな。ワンピースの襟元にゲロがついてるから、売店でコサージュでも買って隠しとけ」

「うん、そうする」

 そして、由布子と朱里は、またパーティー会場へと戻っていったのだが……。


  ☆


 芸能記者は、おやっと目を見張るようにして朱里を目で追っていた。

(金持ちはパーティーの途中で着替えるのか……。前よりもイケメンになってるぜ)

 ボーイズグループの奴等も嫉妬するぐらいの二枚目だ。背も高いし脚も長い。

 それにしても、隣にいる若い娘は何だろう。

(秘書なのかねぇ。まぁ、何にせよ、あいつは夏目家の次期当主になることは間違いないと言いたいところだが……)

 芸能記者は知っている。

 夏目朱里の祖父は死ぬまでお盛んだった。そんな彼には、晩年、お気に入りの芸者に産ませた隠し子がいる。五年前、朱里の祖父が亡くなった際に礼馬は夏目グループの株の七パーセントを受取っている。

 吉田礼馬。三十二歳、独身。ハーバードを卒業しているエリートである。

(つまり、礼馬は夏目朱里の叔父ってことだ。優秀な礼馬に夏目クループを託したいっていう一派もいるんだよなぁ。さてさて、どうなることやら)

 夏目グループの幹部達は、事故でオツムかおかしくなったと噂の朱里の様子を窺っているようである。

 芸能記者は気付いている。

(オレの他にも、夏目朱里の動向を探るスパイがいるようだな。礼馬の一派だろうよ)

 礼馬の部下が朱里を観察していたのである。

『やはり、夏目朱里は頭の中がお花畑のようです。先程は、大きな大福を喉に詰めて悶絶していましたし、なぜか、いきなり、廊下を袖口で拭いていました。もはや、再起不能かもしれません』

 そこまで文字を打った時、朱里が彼の横を通り過ぎたのだが、その時、彼は目を疑った。まるで別人のような神々しさを放っていたからだ。しかも、朱里は、まるで、お風呂上りのようにいい匂いがする。実際に風呂上りなのだが……。スパイは知らない。


    ☆



 いよいよ、パーティーもフィナーレを迎えようとしていた。今夜の主役の百合は愛する娘と共に金屏風の前に立っている。

 百合と方子は、毎年、パーティーの最後に募金を呼びかけているのだが、今年は朱里も参加している。百合は壇上に朱里を招くと誇らしげに告げた。

「では、こちらの夏目朱里さんから皆様にお話があります」

 朱里は出席者を見回した後、厳かにスピーチを始めた。

 親のいない子供達に対する世界中の支援を呼びかけている。キリリとした顔つきに由布子は見入っていた。

 猫憑きの時とはまるで別人のようだ。(いや、別人なんだけど、とにかく、ギャップが凄い)

 いや、高校時代の朱里はこんな感じだった。クールで完璧な優等生で近寄り難いオーラを放っていた。そうだ。これが本来の彼なのだ。

「紛争や災害。事故や事件。病気。様々な理由によって親と別れる子供がいます。孤独で心が壊れそうになる事もあるでしょう。もう生きるのをやめたいと嘆く日もあるでしょう。でも、忘れて欲しくない。みんな、愛されて、この世に生まれてきたのです」

 やけに言葉に熱がこもっており、みんなの心を揺さぶっている。

「何の為に生きているのか。迷う日もあると思います。誰からも必要とされていないと感じて落ち込む日があるかもしれません。しかし、自分の行動が自分の人生を変えていきます」

 その時、朱里は壇上から方子を見つめていた。

「僕は、こうして生まれてきたからには、この世界の一員として精一杯生きていきます。愛する人達を守り、幸せになりたいと思っています。今、悩んでいる人達は自分をもっと愛して下さい。自分のことを誇りに思ってください」

 由布子は、しんみりとした気持ちで聞き入る。彼の真摯な言葉が染み渡るかのようだ。

(多分、夏目さんは、色々と悩み続けてきたんだろうな)

 だが、朱里の中で気持ちが変わったのかもしれない。その瞳の奥が輝いている。

「子供達の未来の為に募金をよろしくお願いします。お帰りの際には、どうか、募金箱にあなたの気持ちを入れていただけると幸いです」

 集まった義援金は孤児達の奨学金に当てられる。

 凛とした顔の朱里を見つめているうちに、距離を感じ始めていた。自分と朱里では住む世界が違う。朱里は夏目家の御曹司で自分は庶民なのだ。

 胸の奥でツンと何かが染みたような気がする。

 朱里のスピーチの後、感嘆の拍手が沸きあがる。この時、百合の隣に立って作り笑いを浮かべる乙姫の中では殺意に似た感情が芽生えていた。

(許せない……。わたしのことを馬鹿にする奴等なんて、みんな、一人残らず死んでしまえばいいのよ)

 頭が大きくて怖い。そんなことを言われて心はズタズタに引き裂かれている。

 乙姫は崩れ落ちそうな気持ちを必死で押さえ込む。

 みんなの前で泣くものか。

 乙姫も自分の容姿がどの程度のものかはちゃんと自覚している。でも、いつも考えないようにしてきた。

 自分はお金持ちで何でも手に入る。そう信じたかった。けれども、夏目朱里は、決して自分を愛してくれない。

 そんな男との婚約に何の意味があるというのだろう。

 乙姫に求婚する男は他にもいると西川は言っていた。

(そうよ。ハンサムで有能な殿方とラブラブになってやりますわ。高慢な夏目朱里を悔しがらせてやりますわよ)

 この時、乙姫の脳裏には夏目朱里の叔父だと噂されている吉田礼馬という男の顔が浮かんだ。

(婚約者をチェンジするといいんだわ)








 

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