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第三話

『いいな。二度と心配かけるなよ。おまえの猫のことはオレも探すから一人で突っ走るな。おまえって、ほんと無鉄砲だよな。ハラハラさせんなよ』

 そういう優しい事を言われると、由布子も朱里に対する気持ちが以前とは大きく違ってくる。

(それなりに、御曹司はいい奴なのかもしれない)

 さすがに五日目となると同居生活にも慣れてきた。

 このところ、朱里は猫言葉を使っていない。つまり、まともな状態が続いている。このまま治癒してくれるといいのだが……。

「おはようございます。夏目さん、まだ寝ているんですか?」

 キッチンに入ると味噌汁の匂いがした。三井はキビキビとした動作で朝餉の仕度をしている。由布子に気付いた三井はおっとりと微笑んだ。

「そのようですわね。昨夜、坊ちゃまの部屋に来客があったものてすから、あまり眠れなかったのかもしれませんね」

「来客?」

 由布子も夜遅くまて起きていたが人が訪れた気配はなかった。一体、いつ来たのだろう。

(そんな夜遅くに来るものなの?)

 三井は柔和な顔つきをしている。

「いつもは、由布子様のお部屋のベッドを利用してもらうのですが、生憎、由布子様がいらしたので一緒に眠られたようでございます。お客様に寝覚めの水を持って行ってもらえますか? この時刻に起こすように申し付かっているのですよ」

 三井は、喋りながら生野菜を洗っている。サラダでも作るつもりだろうか。アボカドやレモンもまな板に置かれている。

「おそらく、お客様は裸に近い状態で寝ておられると思いますけど、驚かないで下さいな」

「はい、分かりました」

 兄と暮らしていたので男の裸は見慣れている。朱里の部屋のドアノックしてからを開いたのだが絶句した。そこに寝ていたのは全裸の若い女性だったからだ。

 ガッシャン。激しく動揺したせいで、うっかり、お盆を落としてしまった。

「やだっ、地震?」

 目覚めた彼女は地震でないと分かるとホッしたように欠伸をした。

「やたー。脅かさないでよ。あなた、新入りのメイドさん?」 

「いえ、あの、その……」

 ハーフっぽい顔立ちをしているが瞳の色や肌の色から察するに日本人のようだ。

(三井さん、なんで、女の人だってことを言わないのよ。ていうか、この人は何者なの?)

 どう考えても、単なるお友達には見えない。

「あたしはメイドではなくて……。あの、申し訳ありません。お二人の邪魔をするつもりはなくて……」

 美女は毛布で胸元を隠したままクスッと笑っている。

「誤解しないでね。肉体関係なんてないからね。ていうか、あたしの好みは歳上の包容力のあるイケメンよ。例えば、執事の坂元とかぁ~ 芸能人だと、そうねぇ、大沢たかおとかぁ~」

 気だるそうに長い前髪を掻きあげている。

「よろしくね。あたし、この子の継母の方子の姪のエリカよ。大学二年生なのよ」

「あたしは瀬戸由布子です。なんで、ここにいるのかと言いますと……」

 彼女は面白そうに言った。

「聞いてるわ。猫憑きになった朱里はあなたのこと気に入ってるらしいよね。だけど、残念ね。結婚は出来ないわね。朱里と結婚する女性は決まっているからね」

「もしかして、あなたですか?」

「いいえ。婚約者は方子おば様の親友の御令嬢よ。近いうちに、この家にも来ると思うわよ」

 それだけ言うと、エリカは背を向ける。そして、物憂げな動作で花模様のガウンを羽織った。

「昨日、終電に乗り遅れたから泊めてもらったのよ」

 言いながら、しだれかかるようにして長い腕を伸ばして朱里の肩に触れる。

「ねぇ、朱里、起きなさいよ。あらら、どうしたのかしら。全然、目を覚まさないのね」

 由布子は声を落としたまま言う。

「その人、多分、疲れているんですよ」

「ふうん。そうなんだ。それじゃ、このままにしておきましょうか」

 エリカは台所まで来ると三井に笑いかけた。

「おはよう。シャワーを浴びるわ。三井さん、いつものパンケーキをお願いね」

 キッチンの三井はミキサーを手にしたまま頷いている。

「分かっておりますよ」

「あーら、さすがね。はちみつも用意してね」

 そう言いながら、裸足の状態で浴室へと向かっている。

(それにしても綺麗な人だな)

 エレガントという言葉は、ああいう人の為にあるのかもしれない。


         ☆


 エリカはシャワーを浴びて野菜ジュースを飲むとゼミに行くと言い残して立ち去ったのだ。

 ここにはドイツ製の立派な食器乾燥機があるのに使おうとしない。そんな三井に尋ねずにはいられなかった。

「あのう、エリカさん、夏目さんと一緒に寝てましたよ。方子さんは許しているんですか?」

「構いません。エリカ様は男の子でございますからね」

「えっ?」

 なんてことだ。

「まだ性転換はなさっていません。本当の名前は伏見倉之助でございますよ。御家族からは女装をやめるように言われましたが、エリカ様は、頑として聞き入れず自分の道を貫いた結果、勘当されてしまい、バーで働きながら大学に通っておられます」

「同じ布団で寝るなんて仲がいいんですね」

「ここに引き取られた当初の坊ちゃまは気持ちも沈んでおりました」

 しかし、エリカと、おままごとをするうちに笑顔を取り戻したのだという。

「お二人とも、小学生の頃は、この庭を駆けまわっておられましたわ」

 お互い、なくてはならない存在になったというのである。

「エリカ様の孤独や葛藤を理解してあげられるのは坊ちゃまぐらいなものですよ。LGビューティーでしたっけ? 女装家のエリカ様は孤独なのでございます」

 三井が言いたいのは、おそらく、LGBTQのことだろう。性自認というのはセンシティブな問題である。

「エリカ様の生き方を坊ちゃまは尊重しておられますが、方子様は、あまり快く思っていません。実家を継いだ方子様のお兄様の子供は、エリカ様とその弟だけなのです。エリカ様は家を継ぎたくないといつも言っておられますよ」

「ならば、エリカさんの弟さんが継げばいいのでは?」

「成績優秀な長男のエリカ様と違って、弟の鈴之助様は勉強嫌いの放蕩息子なのです。どうも企業のリーダーに相応しくないようでして……。しかしながら、エリカ様は女の人と結婚したくないとごねておられます。エリカ様が結婚したいのは大沢たかお似のイケメンだそうです」

「なるほど……」

 エリカの事情はよく分かった。


            ☆


 正午になると、別館の玄関に執事の坂元が来た。

「やっと頼んでいたものか届きましたわ」

 三井が中味を取り出していく。

「エリザベスのゲージとベッドと爪とぎの板とおトイレと砂と猫缶でございます。猫じゃらしと、またたびと猫用ブラシは午後に届くそうでございます」

「通販ですか」

「外商さんか届けに来たのですよ。電話をすれば、それこそ、大根一本からダイヤモンドまで持ってきますからね。欲しいものがあれば言って下さいまし」

「いえ……。欲しいものは自分で買います」

 由布子は、エリサベスに餌を与えながら溜め息を漏らす。

(それにしても、エリザベスってジュリに生き写しだな……。とりあえず、出産するまでは厳重に守ってあげないと駄目だよね)

 由布子はエリザベスの頭を撫でると、スマホで元気な姿を撮り竜馬に画像を送ると、すぐに返事が来た。

『エリザベスに子供が生まれるんだね! 楽しみだね』


          ☆


 

 ジュリを保護した岸辺老人は死にかけている。

 この家が建てたのは今から六十年前のこと。五年前までは妻がいたが、妻が死んでから、ここはゴミ屋敷になっている。

 壁の東側の屋根のいくつかが崩れ落ちている。鬱蒼とした庭木の枝が隣家まだ伸びている。まったく手入れされない庭は荒れ果てている。

 午前十時。ピーポーピーポーというサイレンの音と共に救急車が来た。

「いやぁね。岸辺さん、また、肺炎で倒れたみたいよ」

 近所の老婆達が囁き合う。

「人情に厚い町会長さんが様子を見に行かなかったら、今頃、死んでるところだわよ」

「町会長さんによると、相変わらず、家の中は物で溢れていたらしいわよ。汚い野良猫が住み着いていて臭いそうよ。今のうちに保健所を呼んで何とかしてもらいもんだわね」

「家の中にいる猫はどうにも出来ないわよ。飼い猫って事になるから、こっちが処分したら罪になるの。ほんと、野良猫って迷惑よね」

 岸辺老人は近所の人からは嫌われている。その時、ゴミ屋敷の隣人の工藤という中年男がガッツポーズをとっていた。

(あのじじぃ、ざまーみろだぜ)

 野良猫を放し飼いにするなと抗議しても岸辺は知らぬ顔。

 工藤の家の柴犬の桃太郎が、行儀良く家で寛いでいるというのに、岸辺の家の太ったのミケ猫が勝手に桃太郎の餌を食べに来るおかげて、工藤の愛する桃太郎はノミを移されてしまい悶絶していた。

 工藤が経営している駅前の眼鏡店は風前の灯。常連だった年寄りも大手の眼鏡店へと流れている。

(それなのに養育費を払えと催促しやがる)

 二人いる高校生の息子の学費と日々の生活費の捻出にも苦労している。パチンコも競艇も負け続けている。

(親戚のばぁさんの遺産が入れば何とかなる)

 だから、便利屋にエリザベスを抹殺するように頼んだというのに、そいつは、エリザベスを見失っている。

 前金を返せと迫ると、そいつは電話に出ないようになってしまった。三万円も払ったのに、工藤はクソーーと顔を歪めていた。何もかも猫のせいである。

 工藤の生活は猫に脅かされている。こないだ、野良猫が勝手に工藤の家に入り、サンマを盗んだのだ。

 その黒猫はサンマをくわえたまま立ち去ったず、あれも、おそらく隣家の岸辺の飼い猫だ。

「じじぃが留守の間に小汚い猫どもを殺してやりたいもんだぜ」

 例えば、あのボロ屋敷に火をつけたらどうだろう。

 横目で隣家の塀を眺めながら邪な気持ちで決意していたのだが……。

 ピンポーン。工藤の家に訪問者が来た。

 夏目朱里に雇われたペット探偵の仁科という男である。細身の中年男だ。ペットを探し回るので、いつもスニーカーを履いている。

「あの、すみません。迷子の猫ちゃんを探しているんですけど、御宅の庭にカメラを接してもいいでしょうか?」

「駄目だ。そんなもの置くな。プライバシー侵害だ」

「いえ、縁の下に猫が入るかどうかを確認するだけなんです。安心して下さい。人間の顔は映りませんよ」

「どうしても置きたいのなら、設置料を払えよ。一日一万円だ」

 てっきり断ると思っていたというのに仁科がすんなりと頷いた。

「お支払いします。とりあえず、今日と明日の分を前払いしますね」

 いつもなら、そんなの払えないが、今回の依頼人は夏目家なのだ。ペット探偵は、その場でペイペイで入金したもんだから強欲な工藤の目か輝いた。

「ああ、それならカメラを何台でも置かせてやるぜ。何日でもいいぜ」 

 よし、この金でキャバクラにでも行こう。工藤はニヤッと笑うと現金を受け取ったのだった。


     ☆



 依然としてジュリは見つからない。由布子は桜が満開の向日葵公園へと足を伸ばした。

「ここ、うちのジュリのお気に入りの公園だけど、やっぱり、お花見シーズンだから人が多いな」

 最悪の場合、どこか行き倒れになっているかもしれない。この公園はもちろん、由布子のアパートの範囲を徹底的に捜索するつもりで歩き回っていた。

 この後は、神社の境内に向かうつもりである。

 散々、ジュリを探したのだが見つからない。

「由布子、何やってんの?」

 クラスメイトの舞子が公園のトイレから出てきて、ばったりと出くわしてしまった。

「あ、あたしは散歩。舞子は何やってんの?」

「卓球部のみんなとお花見だよ。良かったら、由布子も参加する? お花見って言っても、ジュース片手に桜を見てるだけなんだけどね」

 舞子の部活仲間の何人かは由布子とも顔見知りだ。花見をしたい気もするが、今は、そんな暇はない。

「ごめん……、今日は無理」

 うちの猫を探しているのと言いかけた時、舞子の表情が驚愕の色に変わった。というのも、遠くから素っ頓狂な声で叫ぶイケメンがいたからだ。

「由布子ーーーー。ここにいたんだニャーーー。やっと見つけたニャーーー」

 振り返ると、やはり、馬鹿面の朱里(中味はジュリ)がそこにいる。風情のある桜並木の向こうから猛然と駆けてくる。

「うそうそ、なんで、夏目さんがここに。えーーーっ、どういうことーーー」

 桜を凌駕する程の美形である。しかし、こいつの頭はお花畑。

(やばい。なんで、このタイミングで現れるのよ。ていうか、久しぶりの馬鹿面だわ)

 ニャーニャーと言いながら、満面の笑みを溢れさせて、由布子に近付こうとしている。

 穢れを知らぬ少年のようにイノセントでありながらも痛々しい。由布子は問いかけた。

「夏目さん、何でここに?」

「そんなの決まってるニャ。おまえに会いたいから探しに来たニャ。おまえのことが大好きだニャ」

 ゴロニャンと言いたげに由布子の肩や頬に顔を寄せてスリスリしている。それを目にした舞子はアタフタしている。

「ええーー。もしかして付き合ってるの? あの、夏目さんと恋人同士になるなんて……。いつの間に……」

「いやいや、違うの。あたしは何ていうか……、ええーっと、そのう」

「由布子って顔が可愛いからモテるのは分かるよ。うん。お似合いだね。お花見デートなんだね」

 舞子には彼氏がいるし、細身のイケメンには興味はないので、由布子に対する嫉妬心も湧かないのだろう。祝福モードで笑っている、

「それじゃ、あたし行くね」

 気を利かせた舞子が桜並木の向こうへと立ち去っている。

 世間は花見に浮かれており桜を見つめているので、今のところ、トロピカルなイケメンの存在も目立っていない。そんな中、由布子は一喝していた。

「あたしにスリスリしないで。スリスリ禁止ですよ!」

 キッと睨むると、シュンと肩を落とした。由布子は気付いていないが中味は猫のジュリである。

 スリスリ禁止と言われると落ち込まずにはいられない。

 ジュリは由布子に叱られると前足をペロペロと舐める癖がある。

 人間になったジュリは、頬を膨らませながら右手の爪をぺロペロしている。

「おいらのこと怒るなんてひどいや。おいら、おまえのことが世界で一番好きなんだぞ。意地悪なこと言うニャーー」

 愛情表現なのにスリスリが駄目だなんて酷すぎるじゃないか。

 そんなジュリの心のうちなど知る吉もない由布子が尋ねた。

「まさかと思うけど、夏目さん、一人でここまで来たの? ボディガードや運転手さんはどうしたの?」

「公園の入り口のところに車を停めているニャ」

 それならば帰ろうと腕を掴んだ時、ポッテリと太った女の子がスーッと背後から迫ってきたのである。

「あら、ごきげんよう」

 その声に振り向いた由布子は、かぐや姫のような髪型に度肝を抜かれた。

 ヘアスタイルは平安時代なのに洋服はロリータである。頭に結ばれた、でっかいリボンが風にたなびく様子が痛々しい。

 イスラム美女のような太い眉に、アンジェリーナ・ジョリーのようなタラコ唇。ギョロッとデカイ目。なかなかの濃いキャラである。ブスてはないが顔が濃すぎてクラクラする。

「夏目様、こんなところで会うなんて奇遇ですわね」

 話しかけているにも関わらず、ジュリは、彼女を無視して通り過ぎようとしてる。

 当たり前だ。いつだって、ジュリは飼い主の由布子以外には興味はないのだ。しかし、彼女は、そんな朱里の上着の裾を引いている。

 彼女の名は乙姫。

「ねぇ、夏目様、なんで無視するのですか。こないだから、何回もメッセを送ってますのよ。それに、家に電話をかけても、まだ療養中って言っておられたのに、なんで、こんなところにいるのかしら」

 相変わらず、ジュリに憑依されている朱里はノーリアクションである。

 すると、乙姫は、ドンッと由布子の胸を突き飛ばした。

「ちょっと、あなた。誰ですの。なんで、あたしの婚約者と一緒にいるのかしら」

 由布子はビックリしたように目を見開く。

(えーーーーっ。この人が婚約者なの……?)

 予想していたのとは違う。白石麻衣さんとか、中条あやみさんみたいな人を思い浮かべていたのだが、乙姫は色んな意味で強烈だ。

「明日は、あたしのお誕生日なのですよ。三井さんからは、お誕生日会には来られないほど体調が悪化しているとお聞きしましたのよ。おかしいですわね。あれは嘘だったのかしら」

 上目使いの大きな目の奥には複雑な乙心が滲んでいる。

 気まずい展開に由布子は焦った。

(あちゃーーー。夏目さん、見た目は元気そうに見えるだけに、そりゃ、ムカつくよね。だけど、この人はマジで、オツムが危ない状態なんですよーーー)

 乙姫の顔つきが剣呑なものになっている。

「ていうか、この娘は何者ですの?」

 よく見ると、乙姫の背後には地味な女性が付き添っている。その中年女性は、さぁ存じませんと囁いている。乙姫が由布子を睨んだ。

「そこのあなた、名乗りなさい。なぜ。夏目様の傍にいるのですか?」

 乙姫の追及は厳しい。

「えっと……」

 猫憑き現象に関しては何も言えない。どうしたらいいのだろう。

 すると、この現場のカオスをフォローする人間が現れたのである。

「あーら、ごめんなさいね」

 この声はエリカである。セリーヌのコートに身を包む姿はパリコレモデルのように華やかだ。

 そんなエリカが微笑みながら告げている。

「この娘はヘルパーさんなのよ。実は、朱里ったらプチ記憶喪失状態なの。それで、あなたのことも思い出せないの。リハビリも兼ねて、向日葵公園を歩いて記憶を思い出そうとしているところなの。んふふ」

 エリカの言葉に乙姫も納得しているようである。

「あら、そうですの。事故のせいで頭を強く打ってるとは聞いたけれど、婚約者のわたしのことが分からないなんて……。お可哀想だわ」

 乙姫が朱里の頬に手を添えようとしている。

 しかし、その時、ジュリの本能から繰り出される猫パンチが炸裂していた。

「おまえ、勝手に触るニャーー」

 シャーーーッ。猫と同じように前歯をむき出しにしている。ジュリは由布子以外の人間には心を開こうとしない。由布子の友達が遊びに来た時も隅っこに隠れている。金玉はデカイけれどもジュリは内弁慶なのだ。

「やだ。何ですの」

 たじろぐ乙姫に対してエリカが呟く。

「おほほほ。だから、言ったじゃなの。事故の後遺症なのよ。しばらく、このままだと思うわよ。だから、会わない方がいいのよ」

「いいえ。こんな時だからこそ、わたしの愛が必ですわ。来週のお誕生日のパーティーには、絶対に来てもらいますわ。ぜひ、エリカさんも来て下さいませ」

 だが、エリカは行きたくないのか微妙な顔をしている。

「あら、あたしも招待して下さるなんて光栄だわ。だけど、あたし、用事があるから無理かもしれないわ」

「用事って何ですの?」

「アルバイトよ。マスターにお世話になってるの」

「そんなものより、わたしの誕生日の方が大切に決まってますわよ。あなたバイト先の店長に話をつけておきますね。あなたの代理のバーテンを派遣しますわよ。ですから、絶対に来てくださいますわよね」

「そ、そうね」

 エリカは困ったように苦笑いしているが、乙姫はまるで気付いていないようだ。


       ☆


 夏目家のベンツが公園の東出口のところで待っていた。

 由布子は後部座席の真ん中に座った。そして、右にいる馬鹿面の朱里(中身は猫)のシートベルトを締めてあげながらエリカに呟く。

「何だか、乙姫さんってキャラが濃いですね」

 それを聞いたエリカは顔の半分を崩すようにして苦笑している。

「あの子、ちやほやされて育ったから、マイペースなのよ。毎年、盛大にお誕生日会をするの。レンタル彼氏とレンタル彼女の会社にお金を払って、毎年、人を集めてるのよね」

「はぁ、そうですか……」

「由布子、おいら、眠いニャ~」

 ちなみに、ジュリは由布子の腕に頬を寄せて目を閉じて幸せそうに微睡んでいる。

 夏目家の運転手の柴田は雰囲気イケメンだった。

 ハンドルを握る柴田は、いつものように淡々と運転をしていると言いたいが、しっかりと聞き耳を立てているようである。

 ご機嫌な顔で由布子に肩に顔を寄せている朱里のことはうざいけれど好きなようにさせるしかない。そんな朱里に視線を落としたエリカが言った。

「これが猫に憑依された時の朱里なのね。この子、目覚めた瞬間、由布子って泣きながら絶叫してたのよ。宥めるのが大変だったわよ」

 たまたま、そこにエリカがいたのである。

『由布子に会いたいニャーーーーー。どこにいるニャー』

 朱里は大騒ぎして三井さんを困らせていたらしい。

「自分はあなたの飼い猫だと言い続けていたわよ。大親友のあたしの事が少しも分からないなんて変よ。だけど、由布子ちゃんの事は詳しく知っているの」

「何て言ってました?」

「由布子が修学旅行に行った時、あなたの兄さんが間違えて買ってきた犬の餌を無理に食べさせたと言ってたの。そういう事があった?」

「ありますよ。どうてし夏目さんが知ってたのかな」

 他に食べるものがないので、ジュリは仕方なく我慢して食べたようなのだ。

 あの時、由布子は兄に対して怒っている。

『お兄ちゃん、猫の栄養と犬の栄養は違うんだよ。それと、塩分の強いウインナーを与えないでよ。ジュリが腎臓病になったらどうすんのよ!』

 ジュリの身体について由布子はいつも心配している。少しでも長く一緒にいたい。そんな由布子に対してエリカが言う。

「あなたが、道端で猫のジュリと出会った時、隣にもう一匹、白い子猫がいたのよね。その子は、ひどい目脂を出して衰弱していたそうね」

「はい、そうなんです。病院に連れて行ったけれど残念ながら死にました」

「あなたは、死んだ猫を祖母の家の庭に埋めた。その時、子猫のジュリを連れて行ったのよね。だけど、そこで、ジュりが逃げ出して行方不明になって探し回ったんでしょう。あの時、ジュリはイタチを追いかけて迷子になったらしいわよ」

「はい、そういう事もありましたね……」

 祖母の家の周囲には農地が広がっている。田植えを控えた水田で泥だらけになったジュリを井戸水で洗ってあげたのだ。

「全身に水をかけられて寒かったって文句を言ってたわよ。その帰り道、あなたのお兄さんの車のタイヤがパンクをしたらしいわね。すごい音がして怖かったそうよ」

「ぜんぶ、合ってます」

 夏目家でも、さすがに、そこまでは調査できない。という事は……。

 由布子の心を見透かすようにエリカが言った。

「やっぱり、これは、あなたの猫と魂が入れ替わっていると考えるべきなんじゃないかしら?」

「えっ?」

 いやいや、そんなまさかと首を振るが、絶対にないとも言い切れない気もする。

「もしも、あなたの猫の霊魂が憑いているのだとしたら、お祓いをしてもらった方がいいと思うのよね」

「えっ」

 由布子は、まだまだ半信半疑だったのだが……。

「バイト先に、陰陽師の芦屋道満の子孫ってのがいるから、必要なら、いつでも言ってね。それじゃ、あたし、バイトに行くわね」 

 そして、エリカは途中で降りたのだ。


      ☆


 一難去って、また一難である。ジュリと共に夏目邸の別館へと戻った由布子は目を疑った。

「な、何これ……」

 キッチンがグチャグャになっている。小麦粉やバン粉などの袋がひきちぎられており、四方八方が白い粉まみれになっている。

 トイレはトイレットペーパーが散乱しているし風呂場の脱衣所も水浸しである。

 これは酷い。

 割烹着姿の三井が言った。

「いつもの発作ですわ。エリカ様がいらしたので、坊ちゃまをなだめすかして下さったのです。わたし一人ではどうにもなりませんでした」

 三井は濡れたキッチンで転倒して足首を捻挫したという。そんな状態で部屋を片付けようとしているなんて、あまりにも気の毒だ。

「それなら、あたしを電話で呼び戻してくれたら良かったのに」

「いえ、電源が入ってないようでしたので、エリカ様にお願いして迎えに行っていただいたのでございます」

 行き先は告げていたので迎えに来てくれたようである。

「あっ……、わざわざすみません」

 それは申し訳ない事をした。とにかく、ここを片付けなければならない。

「あたしはリビングを片付けますね。三井さんは台所をお願いします」

 今、目の前にいる夏目朱里の中味が猫のジュリだとするならば、人様の家で自分の猫が迷惑をかけた事になる。

 惨状を目の当たりにして胸が痛むというのに、ジュリは無邪気に由布子にまとわりついている。

「なーなー、由布子、遊んでおくれよ。鼠の玩具はどこにあのるかニャ?」

 期待に満ちた顔でこっちを見ている。

「おいら、おまえがいなくて寂しかったんだぞ」

 由布子が無視してゴミを拾っていると、ジュリが爪で引っ掻くようにして由布子の服の裾を引っ張った。

「由布子、遊んでおくれよ。おいら、おまえの可愛いジュリだぞ。世界で一番可愛い猫だぞ。おいら、おまえの家族だよニャ? あーそーぼー」

 媚びたような声にイラッとなった。ヒョイヒョイと由布子を引っぱり続ける様子はジュリそのものだ。

(中身は夏目さんじゃなくて、うちのジュリなのね)

 由布子は間違いないと確信していた。そうと分かったら、もう容赦しない。

「おだまり!」

 由布子はパーンと頬をひっぱたいていた。

 キッチンから様子を見ていた三井は、ひぇーーーっと顔を引き攣らせている。三井の血圧が上がって眩暈かしているのだが、由布子はお構いなしで説教する。

「ジュリ、いいから、そこに座りなさい」

 由布子の鼻息が荒い。前々からジュリに対して言いたかったのだ。

「我侭は許さないよ」

 猫のジュリは由布子に構ってもらえないと拗ねる。

 学校から帰っとてくると、ティッシュペーパーとトイレットペーパーが全滅していた事もある。

 お腹が空いている訳でもないのに生ごみの入った箱を引っくり返されて、うんざりした事もある。

 こんな子に育ててしまったのは自分である。

 由布子は飼い主としてジュリを強く見据える。

「ジュリ、なんで、こういう事をするの?」

「だって、おまえがいないのか悪いんだぞ。おいら、一人ぼっちは嫌だニャ。母ちゃんみたいに、おいらを捨てるんじゃないかって不安になるニャ」

「そんなことする訳ないでしょう。なんで、あたしのこと信じられないの? あんたのことを信じて外に出してあげてるでしょう? 小さな子供じゃないんだよ。いつまでも、駄々っ子みたいなことしないでよ。今度、こんなことしたら、一生、愛してあげないからね!」

 ジュリは口元をへの字にして涙ぐむ。

「うえーーーん。おいらのこと嫌いにならないでよ。おいら、いい子だよ。そこらへんの野良猫みたいに魚泥棒とか野糞はしないよ。おいら、お手も出来る賢い猫だぞ」

 そうなのだ。ジュリはお手をするし、ちゃんとお座りも理解している。

 由布子は我が子同然のジュリに言った。

「それなら、お部屋の掃除するのよ。いいわね」

「おいら、掃除なんてしたことないぞ」

「身体をペロペロするみたいに床を雑巾でペロペロするのよ。さっさとやらないと、マジで家から追い出すよ! 二度とチャオちゅーるあげないよ」

「分かったニャ……。ペロペロするニャ☆」

 部屋を片付けるジュリは生き生きとしている。由布子は丁寧に教えた。

「こうやって布でペロペロするんだよ。ここを拭き終えたらゴミを集めてね。いい子にしてたら、頭と耳を撫で撫でしてあげるからね」

「分かったニャ。早く、おいらを撫でて欲しいニャ」

 この時の由布子は三井の存在を忘れていた。

 三井はよく働くジュリの様子を見守りながら感心していたのである。

(由布子様は惚けてている坊ちゃまを躾けるのがお上手でございますわね。アッパレでございますわ)

 ジュリの知能は三歳児と同じ。だからこそ、無邪気な顔で言う。 

「おいら、いい子だニャ? 世界で一番いい子たニャ?」

 褒めてくれと顔に書いてある。由布子は、いつものように背中や頭を丁寧に撫でてあげる。

「そうだよ。ジュリは世界で一番いい子だよ。よしよし。その調子で頑張ろうね」


               ☆


 午後九時。ようやく、ジュリが散らかしたキッチンや浴室やトイレが片付いた

「さてと、夏目さんの寝室も綺麗にしないとね……」

 朱里のベッドの辺りの物が散乱している。それを片付けながら由布子が言う。

「ねぇ、ジュリ。あんた、どうやって人間の身体に入り込んだの?」

「そんな難しいこと、おいらに聞くニャよ。おいらにも分かんないニャ」

 それでも、猫は猫なりに一生懸命に答えようとしている。

「おいら、車にぶつかって左の後ろ脚が折れちまったニャ。頑張って家に帰ろうとしたけど無理だったニャ。気絶してたニャ、気付いたら、猫じぃの家にいたニャ。猫じぃが手当てをしてくれたニャ。おいら、熱を出して死にそうだったニャ」

「ん? 猫じいって誰よ? その人に名前はないの?」

「猫じぃは猫じぃだニャ。みんながそう呼んでるニャ。猫じぃは、倒れて救急車っていう白い車で運ばれて帰って来ないニャ」

 もっと詳しく調べようとして由布子は尋ねる。

「あんたの他にも猫はいるんだね」

「雄の三毛猫のホームズと白猫のタマがいるニャ。たまに、黒猫の親子も遊びに来てるニャ。餌のおこぼれを食べてるニャ。おいらは、ゲージの中にいるニャ。おいら、足に木の札みたいなものを付けられているニャ」

「きっと、それは添え木だね……。ちゃんと治療してくれているんだね。それなら、安心……。いや、違う」

 由布子はハッとなる。

「その猫じぃさんはどうなったの?」

「ずっと帰って来ないニャ」

「それじゃ、猫のごはんはどうするのよ!」

 出歩ける猫は近所の餌場に行けばいいが、ゲージの中にいるジュリの場合はそうもいかない。

「困ったニャ。おいらのゲージの中には水しかないニャ」

 由布子は焦燥感を募らせていた。ゆゆしき事態である。しかし、ペット探偵とやらに猫じぃの事を話せば場所を特定できるかもしれない。

 公園の近くに住む一人暮らしの老人。最近、救急車に運ばれた人を探せばいいのだ。

(ふっ、夏目家の力を活用すればこんなのチョロイわよ)

 朱里のベッドの布団カバーをかけ直していると、エリザベスが由布子にスリスリしてきた。それを見たジュリが言った。

「なんで、ここにおいらの娘のエリザベスがいるニャ? エリカっていう人間の女に聞いたら、由布子がエリザベスを連れてきたって言ったニャ」

「うっそーーー。ジュリの娘なの?」

「エリザベスは二年前の春先に生まれたおいらの娘だニャ。毛並みがソックリだニャ。おいらの子供は他にもいるニャ。可愛い女の子は、みんな、おいらに夢中になって、いい子を生んでくれるニャ」

 不思議なものだ。外見は夏目朱里なのだが、その横顔は父親の表情になっている。

(なるほど。エリザベスとジュリが親子だから顔がそっくりなんだね)

 ジュリは人間がするようにエリザベスの背中を撫でながら目を細めている。

「おいらの娘はおいらに似て美人だニャ。だけど、人間になったおいらとは話せなくて残念だニャ」

「その代わり、あたしと話せているよ」

 ちょうどいいから聞いてみよう。

「あのさ、前から聞きたかったんだけど、ジュリって、なんで、うちのお兄ちゃんにシャッーって怒るの? もう七年も一緒に暮らしているんだから、いい加減、懐いてよ」

「あいつは、おいらが子供の頃に、おいらの頭に臭いゲロを吐いたニャ。それなのに、ヘラヘラしてたニャ。許せないニャ」

「懐かしいな。そんなこともあったね」

 兄は帰宅してすぐに吐いたのだが、たまたま、そこにジュリがいたのだ。悪気はない。

「それに、あいつ、おいらの顔の前で、わざとおならをするニャ」

「いや、あんたが、お兄ちゃんのお尻の側にいるのが悪いのよ」

「他にも嫌なところは一杯あるニャ。あいつ、おまえか留守の時、ごはんを出すのを忘れた事があるニャ」

「お兄ちゃん、営業職で接待して酔っぱらってるの。それで忘れるのよ」

 そんな事を言っても、ジュリには理解できないらしい。

「一番、許せないのは、あいつ、おいらの金玉を取ろうとしたことだニャ。病院に連れて行かれた時、おいらは絶望したニャ」

 由布子に内緒で兄が連れて行った事がある。ジュリは危険を察知したのか動物病院から逃げ出して家に戻ったのだが、あれ以後、ジュリは警戒している。

「そうか、やっぱり、あのことを根に持ってるんだね」

 それにしても不思議だ。

「ジュリの魂、はこの体の中にいるんだね……」

「おいら、人間に生まれ変わったニャ」

「違うよ。今、一時的に身体を乗っ取ってるだけだと思うよ。いいわね。これからは散らかしたら駄目だよ。御片づけが、どんなに大変か分かったよね」

「うん。分かったニャ」

「分かったのなら、さぁ、もう寝なさい。ねんねの時間だよ」

「寝る前に、いつものお尻ペンペンして欲しいニャ☆」

 その瞳がキラキラしている。もう待ちきれないという顔で由布子を見つめている。

「はいはい。やったげるってば」

 もはや、由布子にとってはお尻ペンペンは一日の終わりのルーティーンだ。

 パンパンッ。バンバンバンッ。

 女豹のポーズをとっているイケメンを叩く。

 打楽器でも叩くかのように軽快に連打するが、深く考えると叩けなくなるので心を無にしないと出来ない。

 猫への奉仕は飼い主の義務。

「おうおう。気持ちいいニャ。嬉しいな。由布子の手は最高だニャ。由布子はおいらの女神だニャ」

 なるほど。猫が喉を鳴らすゴロゴロを言語化するとこうなるらしい。

 正直、いくらジュリの為といっても面倒臭い。猫は、なぜ、お尻ペンペンされると嬉しいのだろう。

(夏目さんに憑依した時、服を脱がないように言い聞かせないとね)

 ジュリは何かあるとすぐにお尻を見せてくる。御主人を信用している証ですよと獣医は言っていたのだが……。本音を言うと、いくら愛していても猫の肛門は見たくない。

 人間に憑依しているジュリは喉をゴロゴロと鳴らす代わりに呟き続けている。

「あああ、いいニャーーーー。効くニャーーーーーーーー☆」

 嬉しさの余り絶叫していたのだが、その瞬間、居眠りしていた三井が跳ね起きたのだ。


    ☆



(あらまぁ、坊ちゃま……。そのような癖があったのでございますね……)

 その時、三井は監視カメラの画像を覗き見しながらも妙に納得していたのである。

 家政婦は各家庭の知らされる秘密を見る機会が多い。しかし、守秘義務があるので外には漏らしたことなど一度もない。

(旦那様はノーマルな方でしたわ。しかしながら、大旦那様は、愛人の芸者の菊丸に足蹴にされて喜んでおられましたわね。これは、いわゆる隔世遺伝でございますわね……)

 酸いも甘いも知り尽くしている三井は遠い目になりながら回想していく。

 以前、うっかり、奥様の留守中に大旦那様の醜態を見てしまったことがある。そう、あれは、大旦那様が四十五歳の夏のことである。

『儒三郎、おまえのような馬鹿な男はおしおきしなくちゃなりません。そこに正座しなさい』

『おおっ、もっと叱って下されませ。ウグッ』

 夏目儒三郎は妻が留守の間、芸者の菊丸を呼び寄せた。ホテルや旅館に行けばいいというのに、二人は自宅で不倫を満喫していたのである。そこは、普段、大奥様が生け花や書道をたしなる部屋だった。

 生粋のドSの菊丸は無表情のまま儒三郎の顔を踏みつける。

 儒三郎は、切れ長の瞳か美しい芸者の菊丸にひれ伏す事を至上の喜びにしていたのである。

(社長になると、誰も叱ってくれる人がいなくなるものでございます。誰からも叱られないというのは寂しいものなのですわ) 

 寂しい……。

 そのフレーズと共に三井の脳内で走馬灯のように朱里の幼少期の泣き顔が浮かんだ。

 キキー。どこにいるの? あの日、朱里は涙で顔をグシャグシャにして不安そうにしていた。

(昔、朱里様は、急にいなくなった黒猫を探そうとして、ほんの二時間ほどの小さな家出をなさった事がありましたわね)

 誘拐かと身構えて、全員がピリピリしたのだ。

 結局、すぐに見つかったのだが……。あの時、誰も朱里を叱らなかった。その代わり、黒猫の管理を任されていた若いメイドがクビになっている。

(きっと、忽然と黒猫が消えたのは奥様の仕業でしょうね。あのメイドは坊ちゃまと仲が良かったので、猫を口実にクビにしたのかもしれませんわね)

 子供の頃から、朱里は継母の方子の顔色を窺がうようにして生きてきたのだ。

 しかし、意外にも、方子はハッキリと朱里を叱ったことがない。陰でコソコソと嫌味を言う程度である。

 要するに、真正面からぶつかったりする事が出来るのは本当に絆を持っている者同士だけである。三井も、かつて我が子が火遊びをして田んぼの畦を燃やしてしまった時には、死ぬほど尻を叩いて叱っている。

(坊ちゃまは、叱られるという形で甘えておられるのですね。ばぁやは、いつも際限なく甘やかしておりました。こんなばぁやでは役不足だったのですね……)

 ジュリと由布子のお尻ペンペンを見守りながらも三井は、そっとドアを閉じる。

(あのように尻を叩いてくれる素敵な愛人がいて心強い限りでございます。ソウルメイトなのかもしれません)

 人にはそれぞれ運命の人がいる。

(由布子様がいれば、坊ちゃまは満たされるのてすね)

 三井は自室に戻りながらも、ふと眉を顰めていた。

(けれど、プライドの高い乙姫様が愛人の存在をお許しになるのでしょうか?)







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