第二話
居間のソファに座ると朱里が由布子の膝に頭を乗せてきた。
「おいら、由布子がいると落ち着くニャ……。おまえがいれば安心だニャ」
膝枕などしたくないので、さっさと、その頭をどかそうとすると三井に叱られた。
「そのまま寝かせて下さい」
「なんで病院からいなくなったんですか?」
「病院の防犯カメラを調べたところ、坊ちゃまは自分の意志で病室を出たようです。脚を引きずるようにして、あなたの家へと馳せ参じていたのでございます。一体、いつから、そのような深い仲になられたのですか?」
「ふ、深くありません。浅い仲です。ぼぼ初対面です」
色々と戸惑う由布子だったが、三井はどこか遠い眼差しのまま呟いている。
「もしかすると、坊ちゃまは、昔の記憶を思い出されたのかもしれませんわね」
「えっ……?」
やけに、三井が深刻な顔をしているので気になった。
「昔の記憶って何ですか……」
「いえいえ。ほんの独り言でございますよ」
声のトーンが翳っている。何だろう。今、いいように誤魔化されたような気がする。
「注意事項を言いますわね。本館で暮らす奥様、つまり、方子様は、坊ちゃまとは血の繋がりはございません。いわゆる継母でございます。本館には不用意に立ち入らないようにして下さいませ」
「継母と仲が悪いのですか?」
「ノーコメントでございます。お察し下さい」
「その奥様にお子様はいますか?」
「いいえ。方子様にはお子様がおられません。坊ちゃまが唯一の跡取り息子でござます」
「実は、あたしの飼い猫が三日前から行方不明なんです。街中にポスターを貼っているんです。だけど、まだ見付からなくて」
「猫は死ぬ時は姿を隠すと申しますからね。ちなみに、猫が道で死んだ場合は、清掃局や土木課が処理するそうですよ。問い合わせましたか?」
「聞きましたよ。それらしき猫はいないそうです。それに、あの子はどこも悪いところなんてありません。毎年も検診もしていて健康なんです」
「性別は?」
「雄です」
「さようでございますか。雄猫は恋の季節になると放浪することもございますからね」
「夏目さんは猫を助けようとして事故に遭ったそうですね。その猫、もしかしたら、うちの子かもしれません。防犯カメラとか見られたらいいのに」
「その画像ならございますよ。ネットに上げておりましたので、うちでデータを買い取りましたわ」
暗いので画像は粗いけれど、ヒョコッと脚を引きずって歩くキジトラの猫の後姿に見覚えがあった。飼い主なので分かる。あの猫はジュリで間違いない。
スマホで撮影している若者とその彼女の声が入っていた。
『あの猫、どこに行くつもりだ? 怪我してんじゃん。つーか、金玉、でけぇ猫だな』
『そうだね。あんたの金玉より大きいわ』
『うっせぇ、オレと比べるな』
『それにしても、倒れている人、マジ、イケメン……。ドラマの撮影かな?』
とまぁ、こんな会話の後、後ろにいた老人が彼等に言った。
『ばかもーん。君達、撮影などしておらんで救急車を呼びなさい』
『あっ、はい。すみません』
そこで動画は終わっている。行方不明のジュリは怪我をして、どこかに身を潜めている可能性が高くなってきた。由布子はハラハラしたように言う。
「ジュリを早く見つけなくちゃ」
「あらあら、坊ちゃまと同じ名前なんですね。ジュリというのは漢字ですか?」
「カタカナです。これが、うちの猫です」
お尻を向けたまま振り返るジュリ。スマホの待ち受けを見せると三井が微笑んだ。
「おやおや、本当に立派な金玉でございますわね」
三井もジュリの金玉に目を奪われている。
「去勢はしなかったのでございますね」
「何度かしようと思ったんですが、あの子が嫌がって出来ませんでした。あっ……」
その時、兄からのLINEのメッセージが届いた。
『由布子、ありがとな。オレ、今、北京ダックと小籠包を食ってる。まじ、うめぇ。それにしても、いつ、坊ちゃんのお友達になったんだ?』
苦笑いしながらも、由布子はスマホを伏せる。
(友達じゃないよ。一方的に溺愛されているんだけど、そんなの言えないわ……)
この状況を正確に兄に説明する気にはなれない。今、御曹司は由布子の膝枕でスヤスヤと寝ている。
「それにしても、可愛らしい寝顔ですこと……。あんなに幼かった坊ちゃまが、よくぞここまで大きくなられて……」
丸い目を細めて慈母のような笑みを浮かべている。
三井のおっとりとしたペースに包まれ、いつの間にか、由布子は住み込みのバイトという名目で同居する契約を結んでいたのだ。
☆
その半時間後。由布子は悶々としていた。
(いつまで、こいつの膝枕をしなくちやいけないのよ。そろそろ、オシッコに行きたいんですけど……)
そっと、朱里の頭を膝から外してからトイレに向かい、すっきりした。喉が渇いたので冷蔵庫を覗き込んでいると、背後から低い声が響いた。
「おい、おまえ、そこで何をやってる?」
いつのまに目覚めたのだろう。
「あっ、こんにちは」
「なんでここにいる?」
語尾にニャをつけていないという事は、まともバージョンの夏目朱里のようだ。
「あたしは、三井さんに頼み込まれてここに来ました。あなた専用のヘルパーです」
「ふざけるな。部外者は帰れ。不愉快だ」
「しょうがないじゃないですか。もう一人のあなたが、あたしを溺愛しているんだもん。早く、まともになって下さいね」
「溺愛?」
気に食わないのか、さも嫌そうに顔を歪めている。
「記憶にないようだけど、ここに来るまでの間、車の中で、あたしのことが世界で一番好きだって連呼してましたよ。あなたの様子に驚いた運転手の柴田さんが、ハンドルきり損ねて事故りそうになったぐらいです」
「……まったく覚えてない」
ハーッと憂鬱そうに眉根を抑えている。
「頭を打ったせいかな。ひどく眠い。先刻、夢を見た……。夢の中で、オレは猫になっていたんだよな」
その時、由布子の携帯が鳴った。アパートのお隣の小雪さんは二十七歳のパート主婦だ。家にいる時は、いつもジャージ姿で長い髪をお団子にしている。そんな彼女が言った。
「もしもし、由布子ちゃん? 急にアパートからいなくなったから心配したのよ。留守電、聞いたよ。今、親戚の家にいるんだって?」
違うけど、そういう事にしておすた。すると、小雪がハスキーボイスで尋ねてきた。
「ところで、御宅のジュリちゃん、見付かったの?」
「いえ、それがまだなんです」
由布子は朱里に向けて言った。
「あなた、今のところまともなようだから、あたし、ジュリを探しに公園まで行くね。お留守番していて下さいね」
「好きにしろ。つーか、二度と帰ってくるな」
偉そうな態度にムッとしながらも由布子は外に出た。ジュリの縄張りである向日葵公園へと向かうことにしたのだが……。
☆
(あの子、何やってんのかな?)
ダンボールを抱えてオロオロしている小学生の男の子を見かけた。ダンボールには、期間限定で猫の里親募集と書かれている。
「坊や、どうしたの?」
「この子、僕の知り合いのおばぁちゃんの飼い猫なんだけど、おばぁちゃん、三日前に死んだの。僕、すぐに、この猫を飼いたいんだけど、僕の家はマンションだから無理なの。半年後、遠くの田舎に引っ越す予定なんだ。そしたら飼えるんだけど、それまで預かってくれる人を探してるんだ」
「どれどれ?」
覗きこんだ瞬間、ジュリだと思った。
「ジュリーーーー」
抱きかかえて涙ぐむ。しかし何か違う。まじまじと顔を見たところ、残念ながらジュリではなかった。しかも、金玉がない。
「そっか。この子、雌なんだね……」
男の子は自分は竜馬だと名乗ってから更に詳しく語り出したのだ。
「この子、エリザベスだよ。二歳になったばかりなんだ。僕、学校帰り、毎日、おばぁちゃんの家でエリザベスと遊んだの。僕達、仲良しだよ。すごくおとなしくて優しい子だよ。この子を誰かに預けたいんだけど、なかなか、いい人が見つからないんだ。学校の友達も、みんな、駄目だって言ったの」
猫を飼いたいという人はいるものの、期間限定というのが逆にネックになっているらしい。
竜馬がボソッと吐露した。
「ママは飼いたくないみたいなんだ」
「君のママは猫が嫌いなの?」
「ううん。好きだよ。だけど、エリザベスを引き取った人はおばぁちゃんの遺産が四百万円、もらえるみたいなの。猫のお世話代なんだ。でも、それを聞いたおばぁちゃんの親戚の人が、僕のママを威嚇したの」
なんと、遺産を横取りするつもりなら、猫をぶっ殺すと喚いたという。
それで、すっかり引き取る事に関して怖気づいたというのだ。
竜馬は公務員の母親と二人暮らし。
「おばぁちゃん、遺言書に僕とママの名前を書いてるの。タダでも僕はエリザベスを飼うつもりなんだけど、それを変更するには、色々とややこしいらしいよ」
エリザベスの遺産を狙う男にエリザベスを渡したら、きっと猫は殺される。
「だから、僕がエリザベスを守るんだ。だけど、今は僕は飼えないし、どうしたらいいのか分からないんだ」
この三日間はペットホテルに預けていたが、もう、そんな余裕はないという。
由布子は考えるよりも先に告げていた。
「それなら、あたしが預かろうか?」
「ほんとにいいの?」
「うん。あたしが預かって守ってあげる。あっ、あたしの電話番号を教えるね」
すると、白い歯を見せながら竜馬は嬉しそうに笑ったのだ。
☆
エリザベスは生後二年の成猫でジュリと同じキジトラ猫である。
ダンボールを抱えて徒歩で夏目家に帰宅しながら由布子は思った。
(竜馬君、しっかりしているように見えるけど、やっぱり子供なんだな。もしも、あたしが悪い人だったらどうするの。エリザベスを横取りしたり、遺産目当ての悪い人に渡したりするって考えたりしないんだね……)
竜馬の無垢な瞳を思い返しながら由布子は胸がキュンとなっていた。
(エリザベスのことはあたしが守るわ)
夏目家の別館の居間に戻ると、さっそく、それは何なのだと眉根を寄せて問い詰めてきた。
「おい、これがジュリなのか?」
「違うよ。この子はエリザベスだよ。一時預かりを申し出たの」
由布子は簡単に説明したところ、朱里が呆れた様に言った。
「言っておくが、うちは猫厳禁なんでぞ」
だから、夏目家の跡取りの朱里ですら猫を飼えないという。
「それなら、あたしはアパートに戻るわ。本当は、こんなところにいたくないんだから。おお、よしよし、エリザベス、あんたも、こんなところにいたくないよね? ほんと、この子、うちのジュリによく似てる」
そう言いながら、膝の上にエリザベスを乗せたまま背中を撫でていたのだが……。
この時、朱里は、どこか遠い目をしていたのである。
「三日前、オレはおまえの猫を助けた。それは覚えてる」
朱里が抱えていなければ、ジュリはワゴン車に轢かれて死んでいただろう。目撃者によると、ジュリは脚を引きずって去ったらしい。
「まさかと思うが、もう、おまえの猫は死んでたりしないのか?」
「ジュリは生きてます」
由布子はムキになって言い返していた。どこかに隠れたまま迎えに来てくれるのを待っていると信じたい。想いを馳せるようにして呟いていく。
「子供の頃のジュリは小さかったの……」
モコモコとした優しい毛玉の妖精のような子猫で、まるで薄幸の美少女のようだった。
あの頃は、あの子に金玉かあるなんて思わなかった。
「あの子、生後二週間ぐらいの時、母猫とはぐれて道端でカラスに食べられそうになってたの。ミルクもこの手で与えたんだよ」
「子供の頃から大切に育てた猫って訳なのか。なんで飼い猫を放し飼いにしているんだ? 無責任だぞ」
「外に出さないと、ジュリは夜中に大声で泣き喚くのよ。八つ当たりして、うちのお兄ちゃんのクローゼットに入って服をビリビリに破くの。それで、仕方なく……」
兄が初任給で買ったスーツはズタボロに引き裂かれている。
『オーダーメイドなんだぞ。どうしてくれるんだ』
ジュリは極度の男嫌いである。子供の頃に若い男に苛められたトラウマでもあるのかもしれない。兄が呼んでもそっぽを向いているけれど、由布子が呼ぶ子犬のように駆け寄ってくる。
ニャーニャー。お喋りで天真爛漫。 その無邪気な瞳の奥が愛らしい。構って欲しい気持ちが溢れかえり、焦れた様子でアオーンと鳴くその声は、まるで夜空に響く犬の遠吠えのようだった。
スリスリスリスリ。ゴロゴロ。由布子が勉強していると、その膝に頬を寄せて喉を鳴らす。その仕草はまるで、最高の安心感を求めるかのよう。
由布子は微笑みながら思った。
「天麩羅やトンカツを揚げてる時、危ないから来たら駄目って言うと、ちゃんと聞き分けるの。人間の言葉が分かってるみたいなの。賢い子なんだ。あたし、ジュリの好きなように外出させていたの」
「あれ、いつのまにか消える……」
ダンボールから抜け出したエリザベスはどこに消えたのか、居間のどこにも姿がない。ドアの隙間から廊下へ出たのかもしれない。由布子は焦りながら思った。
「まさか、窓の隙間から外に出たのか?」
由布子の心に走った不安は、夏目家の高価な家具を思い出させた。
「エリザベスが家具を傷つけたら……!」
焦る心を抱えて隣の部屋へ駆け込むと、予感は的中した。窓の網戸が少し開いていた。
「どうしよう。エリザベスが消えたわ! 外に出たかもしれないわ」
朱里が冷静に答える。
「この屋敷は高い塀で囲まれている。例え猫でも容易に上がれない。センサーもある」
しかし、どこにもエリザベスの姿は見当たらない。心の中で緊迫が増していく。
「きゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。こんなところに猫がいるわよ。坂本、早く、殺してちょうだい!」
その叫び声が由布子の耳に届いた瞬間、凍りついた。
「エリザベスが本館に迷い込んだのか?」
焦りながら本館の裏口へと向かう彼女と朱里。エリザベスの無事を祈りつつ、急いで扉を開けた。
そこには、お洒落で癒しを感じさせる方子のリビングが広がっていた。そして、その中央にエリザベスがいた。
「坊ちゃま、この猫は何ですか?」
そう告げたのは、逃げ回るエリザベスを捕獲した坂元だ。朱里はエリサベスの首根っこをつかんでいる坂元に言う。
「坂元、この猫に無礼は許さないぞ。その子を放せ」
しかし、ダンディな魅力に満ちた執事の坂元は渋い顔で釘を刺している。
「坊ちゃま、しかし、ここは奥様の住居ですよ。奥様が猫アレルギーなのは御存知ですよね。今すぐに始末せねばなりません」
「生き物を殺すのはダメだ」
「いいえ。こんな汚い猫、あたくしが殺してやりますわ。この場で成敗するしかないのよ」
キンキンと耳障りな声音。おおっ、これが継母の方子なのかと由布子は盗み見る。
この人は、スリムというよりも貧相に湯せている。それに、お雛様の晩年といった感じの和風顔だ。そんな方子が鬼の形相でゴルフクラブを振り上げているというのにエリザベスは方子に威嚇されても動こうとしない。
エリザベスの様子がおかしい。由布子はハッとなった。背中を丸めて、顎を突き出したままウグッウグッとえずいている。
(やばいわ。嘔吐するするつもりなんだわ。お願い。こんな革張りのソファの上で吐かないでーーー)
しかし、エリザベスはブシャッと盛大に吐き散らした。
オーマイガッ。ソファとペルシャ絨毯がこんなことに……。
「ゆ、許しませんよーーー」
激怒した方子がエリザベスを本格的に成敗しようとしている。危ない。由布子がエリザベスを庇ってトラ模様の背中に覆い被る。
「やめて下さい。この子に罪はないんです。あたしが悪いのてす」
殴られると覚悟するが、朱里が方子の振り上げたゴルフクラブを強引に奪っている。朱里はホワンと微笑んでいるけれども、その手は力強く継母の暴力を封じ込めている。
そんな朱里だったが、急にヘナッと馬鹿面になったのだ。
「お母様、乱暴な真似はやめて欲しいニャン。この子は僕の妻だニャン。もうすぐ、子供も生まれるニャン」
「な、なんですって」
何を言い出すんだと、由布子は青褪める。ていうか、いきなり、馬鹿バージョンに豹変している事に驚いた。
「ま、まさか、あなたは学生の身の上で結婚もせずに妊娠させただなんて。ああ、汚らわしい。やはり、あなたは、あの女の穢れた血が入っているのね。だから、あなたは、母親と同じようにふしだらな娘に惹かれるのですね」
「わっかんなーい。何を言ってるのかニャーン。僕のお母様はチンチクリンの由布子だニャーン」
甘えるように由布子の肩に頬を寄せている。スリスリ。スリスリ。由布子は眩暈を感じていた。
(いつ、あたしがあんたの母親になったって言うんだよ)
すると、方子は顔を引き攣らせながら詰問してきた。
「あなた、瀬戸由布子さんでしたかしら。あなたの妊娠を家族はとう思っておられるのかしら」
これには陽気な顔つきで朱里が答えている、
「違うニャン。由布子は妊娠してないニャン」
「あら、あなた、先刻、この娘を妻だと言ったじゃないの?」
「僕の妻はこにいるニャン。尻尾が長い優雅な美女だニャン☆」
朱里は座り込み、猫のエリザベスに視線を合わせてて、その耳を撫でている。
「おうおう、いい子だニャン、僕の妻のゲロを拭いてあげるニャン。おお、よしよし。おまえは妊婦さんだ。もうすぐママになるニャン。僕の子を生むニャン」
由布子は、まさかという思い出でエリザベスの腹部をさする。
「うっそー。この猫が妊娠してるってこと?」
何てことなのだ。どうして気づかなかったんだろう。
もしかしたら、妊娠初期なのかもしれない。さすが猫王子。気付くとはアッパレだ。しかし、方子は怒り心頭でワナワナと震えている。
「な、な、なんですって。孕んでいたなんて、おおっ、いやだ。猫を処分するのよ。坂本、さぁ、早くなさい。あたしは、孕んだ猫なんて見たくないのよ」
方子の憤怒の形相は凄まじい。坂元が冷静な顔で言った。
「しかしながら、奥様、こちらの小汚い猫は朱里様の私物でございます。勝手に処分する事など出来ません。ドバイに出張しておられる旦那様は、御乱心中の坊ちゃまを刺激するなと申されております。夏目家の大切な跡取り息子なのですよ」
「フンッ。何か坊ちゃまよ。こんな子、夏目家の次期当主にふさわしくないわ。見なさいよ。この馬鹿面を……」
「奥様、どうか口を謹んで下さいませ」
坂元がコソッと囁くが、興奮気味の方子は少しも気にしていない。
「構うもんですか。どうせ、寝て起きたら、全部、忘れてしまうのよ。この際だから言わせてもらうわ。あなたを息子だなんて思ってないのよ。汚らしい女が産み捨てた子なのよ。人前でお継母さんと呼ぶのもやめて欲しいわ。なんで、あなたはこの世に生まれてきたかしら。ほんと、苛々するわね」
そんなふうにして赤裸々に毒を吐きながらも目に涙を浮かべている。
「嫌いよ。あなたなんて顔も見たくないわ。その猫も、あたしに対する嫌味なのね。猫だって簡単に赤ん坊を産めるのに、あたしは産めないものね。あなたは、あたしを辱めて喜んでいるのね。きっとそうよね」
方子の声は小刻みに震えているが、朱里は無邪気にエリザベスを抱っこして高い高いをしてはしゃいでいる。
猫憑き男子そのものである。何かに呪われているように見える。こんな状態の朱里を相手にするだけ無駄だと悟ったのだろう。焦れたように方子が叫んだ。
「……坂元! もういいわ。この馬鹿息子と猫を早くここから追い出すのよ」
振り返ると、いつのまに来たのか三井が恐縮したように猫のゲロを拭いていた。
坂元は、ヒステリックな方子の肩をさするようにして宥めている。執事と奥様にしては、そのスキンシップは一線を越えているようにも見えるのだが……。
三井も朱里もそのことは少しも気にしていなかった。方子が吼える。
「三井! そのカーペット高かったのよ」
「奥様、申し訳ございません。どうか、お気を静めてくださいませ。わたくしの不手際でございます」
老齢の三井が土下座をして詫びていると坂元が方子をとりなした。
「奥様、明日、カーペットを取り替えるように業者に連絡します」
「頼んだわよ」
「僕のエリザベスは可愛いニャン☆ 僕のお嫁さんは可愛いニャン☆ ニャン~ ニャニャン~」
朱里はエリザベスを抱きかかえたまま、へんな鼻歌を歌い続けている。とんでもないカオスだ。
「それでは、坊ちゃま、もう、こんな時刻ですし、どうか、お帰り下さい」
坂元が朱里を部屋から追い出している。
何ともシュールな光景に由布子は息を飲む。
(何なの。この気まずい空気は……。この家は、とっても変だわ……)
☆
由布子と連れ立って本館を出た後、朱里がボソッと呟いた。
「ふう、やれやれ、疲れた」
「えっ、また元に戻ったの? あなた、途中から馬鹿になってたの覚えてる?」
「いや、あれは馬鹿のフリしただけだ」
「何なのよ。もしかして、今までのことも芝居だったの?」
「違う。先刻だけ、わざと馬鹿のフリしたんだよ。方子さんに妊娠のこと話すのは、この家では御法度だ。でも、あの場合、言わなきゃいけなかったから、仕方なく違う人格を装ったんだよ」
「なんで言っちゃダメなの?」
「あの人、流産して二度と産めない身体になったからだ」
何だか深い事情がありそうだ。
「それにしても、エリザベスが妊娠しているって、よく分かったね」
「腹がボッテリしているだろう。それに、乳首が微妙に出っ張ってるからな」
ふむふむ。なるほど。確かに乳房が膨らんでいる。
「そっか。エリザベスをここに連れてきて正解だったわ」
エリザベスの体調そのものは良さそうに見える。由布子は、エリザベスの背中を撫でながら、チラリと朱里の横顔を盗み見る。
「夏目さん、継母と仲が悪そうだね」
「オレは別に嫌ってないけどな」
「えーーー、あんなに憎たらしい顔で嫌味を言ってるのに腹が立たないの?」
「少なくとも、オレを産んだ女よりはマシだよ」
その言葉には奇妙な哀しみが滲んでいた。
「……それ、どういうこと?」
「オレを産んだ女は幼い子を家に置いたまま遊びまわっているようなやばい女だったんだよ。幼いオレは一人で遊んでた。五歳の頃、いつも腹を空かせてた。どうようもなく惨めだった。みんなには優しい母さんがいるのに、なんで、自分は愛されないんだろうって思ったよ」
そこまで言うと、疲れたようにこめかみの辺りを押さえたのである。
「なんか、眠いな。まだ九時だけど、もう寝るわ。エリザベスのことは心配ないさ。ここに置いておけば、遺産目当ての奴から守れる」
「だけど、方子さんが、こっそり殴り殺しに来るかも……」
「あの人は、そこまで悪いことはしねぇよ」
朱里はどこか寂しそうな顔で尋ねてきた。
「三井から聞いたが、おまえは七歳年上のサラリーマンの兄と二人暮らしだそうだな。親はどうした?」
「お母さん、一年前に亡くなったの」
「父親はいないのか?」
「子供の頃に死んだわ。母さん、働き詰めだったの」
この時、由布子は自分の母について思い出していた。
小さい頃は、よく絵本を読んでくれた。ごんぎつねや、モチモチの木の話をよく覚えている。
「あたし、冬の寒い日とか、お母さんに抱きついて一緒に寝てたよ。あの感覚は猫をだっこしている時の気持ちに似てるかもしれないね。猫は哀しい気持ちを吸い取ってくれる生き物だよ。母さんが死んだ時も、ずっとジュリを抱きしめてた」
「そうだよな。猫ってさ、あったかくて柔らかいよな」
それだけ言うと、彼は、もう寝ると言って自室へと向かった。すると、由布子のSNSのフォロワーさんからメールが届いた。
『迷い猫のジュリによく似た猫が公園のベンチのところて倒れています』
大変だ。すぐに駆けつけなければならない。
夜も遅いが、由布子は、そっと夏目家から出たのだ。
赤信号がもどかしい。すぐ目の前は大きな公園だ。早く、確かめたい。逸る気持ちが由布子を揺らし続ける。
☆
午後十時。深夜の公園のベンチの周囲に数名の大人達が集まっていた。彼等は地域猫に餌を与えている人達である。その中に獣医の女性がいる。定期的に地域猫の検診をしているのだが、獣医は猫の首筋にそっと手を当てながら言う。
「この猫は、かなり衰弱しているね。何があったんだい?」
「繁みの奥で血を吐いて倒れていたんです」
丸顔の優しそうな若い女性が泣き出しそうな顔でキジトラで胸元が白い毛という成猫を見下ろしている
「これ、きっと迷い猫のジュリちゃんですよ。あたし、先刻、飼い主に知らせたから、すぐに来ると思います」
由布子にメールをくれたのは会社帰りの中年の女性の谷野である。彼女も猫好きで、インスタに自分の猫の写真をたくさんあげている。
獣医と谷野が話しこんでいると由布子が慌てて駆けつけた。
「ジュリが見付かったんですか……?」
だが、その猫はグッタリとしている。うつ伏せなの体勢なので顔は見えないが、これは朱里ではない。
「似ているけど、うちの子じゃありません。うちの子は赤い首輪をしていますし、もう少し身体が大きいです」
「そうなのか。この猫、毒団子のようなものを食べて死にかけているよ。他の猫もフラフラしているみたいだよ」
「そんな、ひどい……」
ぐったりしているのは毒のせいなのか……。
獣医は弱った猫を抱えたまま残念そうに告げた。
「この子は、もうじき死ぬだろうね。あたしがクリニックに連れて帰って看取るよ」
わざわざ親切に通報してくれた谷野が申し訳無さそうに言った。
「ジュリちゃんの飼い主さんですか。すみません。あたし、間違えたみたいですね。こんな夜中に若い女の子を呼び出してしまってごめんなさいね」
「いいんです。だって、本当に、うちの子と似ているもの。あたしも、パッと見た時、ジュリかと思っちゃいました」
きっと飼い主でないと見分けが付かないだろう。
「そういえば、夕方、これに似た猫がバイクに轢き逃げされて道端で死にかけていたな。立て続けに似たような猫が危害を加えられてるみたいなんだ。そいつらを捕まえて牢屋にぶち込んでやりたいよ」
獣医が凛々しい顔で憤っている。由布子も猫への虐待に対して拳を握り締めて考え込んでいた。
相変わらずジュリの消息は不明なままである。
猫を苛める奴等もいるから心配だ。早く、ジュリを見つけたいと思い、近隣の駐車場や。ゴミ捨て場といった場所を懐中電灯で照らしながら歩き回っていく。
不安な気持ちが心由布子を揺らす。泣き出したくなる気持ちを抱えたまま、あてもなく歩き回っていく。
「ジュリ、どこにいるの? 返事をして。ねぇ、どこなの?」
街灯が少ない裏路地。小さな工場の空き地。狭くて細い道に沿った区域は空き家が多くなってきた。開発予定地なので、住人の大多数が立ち退きをしている。
築五十年の空き家の庭の生け垣を覗き込む由布子に対して二人の若者が忍び寄っていたのだ。それには気付けないまま、由布子は猫がいないか目を凝らす。
「よう、何をしてんだ?」
急に後ろから低い声で呼ばれてビクッとなる。
「あの、怪しい者ではありません。迷子の猫を探してます」
振り返ると、首にお洒落なタトゥーを入れた若い男と、眉毛のないスキンヘッドの若い男が立っていた。彼らの目つきは澱んでおり、吐く息からは酒の臭いが漂ってくる。
「あの、実は、キジトラの雄猫を探してます。見かけませんでしたか?」
タトゥー男がヘラッと笑みを浮かべた。
「ああ、それなら見たかもな」
由布子の肩に触れようとするその手に、悪寒が走り、咄嗟に振り払った。
「やめて下さい」
「いいじゃないか。カラオケに行こうぜ~ 君、可愛いね。お兄さん達と遊ぼうよ」
タトゥー男が由布子を逃がすまいと顔を覗き込むと、眉なし男も手を握ってきた。
「いやいや、そんなところより、ホテルに行こうぜ。三人で楽しもうぜ」
「ちょっと、放して下さい」
由布子よりも少し年上の不良達は酒に酔っている。タトゥー男が、由布子を肩に担いで無理やり連れ去ろうとする。
「やだーーーー」
このままだと、何をされるか分からない。暗闇の中、由布子はゾッとした。すると、そこに救世主が現れた。
「おい、おまえ等、何をしてる!」
夏目朱里だった。電光石火の勢いで朱里が走ってきたかと思うと、タトゥー男の背中に回し蹴りを入れたのだ。
「きゃっ」
その弾みで由布子は地面に投げ出される。
眉なし男が怒り狂って襲いかかるが、朱里の鋭い蹴りが彼の顔面に炸裂する。タトゥー男は完全に失神し、眉なし男はビビッて逃げ去る。
「おまえ、なんで一人で出歩くんだよ!」
朱里の荒っぽい口調の中にも、由布子への深い思いやりが感じられる
「だって、ジュリが行方不明なんだもの。あの子を見つけてあげたいの」
「だからって、こんな暗い場所に来るなよ。馬鹿野朗!オレがここに来なかったら、どうなっていたと思うんだよ」
朱里は由布子をお姫様抱っこした。夏目家のベンツに乗って帰ると言う。由布子は感謝しつつも、歩けるから降ろしてと頼む。
「あなたのおかげで助かったわ」
「そう思うなら、この後、僕のお尻を叩いて欲しいニャン☆」
「はぁ?」
朱里は可笑しそうにブハッと吹き出した。
「冗談だよ。もう、オレは、もう、ああいう馬鹿っぽい状態にはならないような気がするんだ。いやぁ、治って良かったわ」
「そ、そうなんだ」
その時、二人は、今にも崩れそうな廃屋の前を歩いていたのだが、遠くでニャーというか細い声が聞こえたような気がしてハッとなり、足を止める。
この近くにジュリがいるのだろうか。おや、ゴミ捨て場で何が動いている。
「あっ……」
目が光っていたので由布子が近寄ろうとすると黒い塊が動いた。猫だ。朱里と由布子の目の前を黒猫の親子が走り去っていく。朱里が呆けたような顔で言う。
「……キキ?」
黒猫は、子猫を咥えたままサーッと廃屋の門柱の奥へと駆け込んでいる。
「馬鹿だな、キキが生きてる訳がないよな……。生きていたとしたら、キキは十六歳だな」
そう言いながらも、後ろ髪を引かれるようにして、黒猫が消えた廃屋の奥を見つめている。
「もしかして、昔、飼ってた黒猫に似てたの?」
「ああ、でも、黒猫ってどれも同じ顔をしているからな」
朱里は苦笑しているけれども、その顔は悲しげだ。
(よっぽど、キキのことが好きだったんだね)
由布子と朱里は細い道を並んで歩く。すると、その脇の家からは妙な臭いがしたのだ。
「何だ、今にも崩れそうな古い家だな」
朱里の言葉に由布子も頷く。
「ほんとだね。お化け屋敷みたい」
その先の空き地にベンツが待っている。早く帰ろうぜと朱里に促されて足早に進んだのだった。
☆
ニャニャ。
偶然にも、荒れ果てたゴミ屋敷の奥深い場所で、猫のジュリはうずくまっていた。しかし、由布子はその存在にまだ気付いていない。
「ジュリ、どこにいるの?」
由布子の声が風に乗って聞こえる。猫はその鋭敏な耳で、ゴキブリやカメムシの足音さえも聞き分けることができる。そして、愛しい由布子の声が聞こえると、ジュリの胸は高鳴る。
(由布子……会いたいニャ……)
しかし、由布子の足音は次第に遠ざかっていく。
(おいら、人間になってお前にスリスリしたいニャ……それが夢でも……)
ジュリの心には、由布子に会いたい気持ちが溢れている。この家にはエアコンもなく、隙間風が吹き込む底冷えのする場所だ。
『由布子、愛してるニャーーー』
ジュリの叫びは声にならない。体力の限界で、ゲージの中で弱々しく声を上げるしかない。
廊下では、一人暮らしの痩せ細った老人が倒れている。彼は行き倒れていたジュリを拾ってくれた恩人だ。そんな老人を心配そうに見つめる先住猫たち。
『猫じぃ、息が苦しそうだニャ』
オスの三毛猫が言う。それに対して、彼の母親である白猫が心細げに鳴いた。
『目覚めておくれよ。猫じぃ、おなかがすいたよ。ごはん、ちょうだいニャ』
カリカリの残りを食べ尽くしてしまった先住猫たちも、不安を隠せない。
(まずいニャ……みんな不安そうにしてるニャ……)
ジュリは焦る。この四日間、ずっとここにいる。時折吹く強風の音だけが響く。
『由布子ーーー。おいら、ここにいるニャーーー。猫じぃが死にそうだニャ。何とかしておくれよーーー』
しかし、その心の叫びは由布子に届くことはないのだ。