第一話
今振り返ると奇怪な出来事でした。世にも不思議な出会いでございます。
ある夜、 真夜中の静寂を破り、猫がバイクに轢かれて宙を舞ったのです。薄情な事に、バイクはそのまま走り去りました。悲鳴を上げる猫の声が夜空に響きました。
「まだ死にたくないニャーーーーー!」
猫の魂の叫びが炸裂しました。
なんと痛ましいことでしょう。地面に落下する瞬間、猫の後ろ脚がボキッと折れてしまいます。その時、事故を目撃した若いイケメンが血相を変えて駆け寄ってきたのでございます。彼の目には恐怖と決意が交錯しておりました。その直後、再び横断歩道に車のライトが輝いたのです。
猫の目が眩む中、彼は逃げようとしたが間に合わず、猫を抱えたまま白いバンに衝突してしまいます。必死で猫を守ろうとしたのでしょうね。彼は路肩へと吹っ飛び、地面に転がりました。
その後、野次馬が群がり、救急車が到着しました。
彼の名は夏目朱里。彼の腕の中にいたのはトラ猫のジュリ。
この瞬間を境に、猫と人間の魂が互いの身体を行き来することになるのでございます。
☆
それは、ジュリが行方不明になった三日後。
深夜、アパートの一階の部屋の玄関のドアを激しく叩く音が響いた。誰かが訪れる音に由布子は目を覚ます。もしかしたら、お隣さんの旦那さんが部屋を間違えているのかもしれない。心臓の鼓動が高まる中、恐る恐るドア越しに声をかける。
「あのう、高田さんですか?」
「違う。ジュリだニャ」
聞き覚えのない若い男の声が響き、由布子の心はざわめいた。
「ジュリ?」
三日前から帰ってこない飼い猫のジュリの名だ。ポスターを見た誰かが届けに来てくれたのかもしれない。ドアチェーンを外さずに少しだけ開けると、そこに立っていたのは長身でイケメンの夏目朱里だった。彼の姿を見た瞬間、由布子の息が止まる。
この界隈で猫好きで有名な大学生、夏目朱里がこんなボロっちぃアパートに来るなんて、信じられない。
(まさか、あの夏目さんが猫を届けに来るなんて……)
感動と戸惑いが入り混じる中、由布子はドアを開けた。しかし、目の前の夏目朱里はパジャマ姿で裸足、髪はボサボサ、頬には擦り傷がある。異様な姿に胸がざわつく。
「えっ、どういうこと?」
ジュリを抱えているはずの夏目朱里は、満面の笑みを浮かべながら由布子に飛び込んできた。
「由布子ーーー!おいら、おまえに会いたかったニャーーー」
「はぁ?」
いきなり抱きつかれ、驚きと混乱に包まれた。彼は涙を流しながら、自分の額を由布子の肩や腕にこすりつけている。
「ちょっと、何ですか。やめて下さい。ふざけているんですか」
スリスリ攻撃に恐怖を感じ、グイッと押し返すと、彼は、招き猫のように右手をクルンと曲げながら言った。
「ふざけてないニャ。おいら、おまえに会いたくて人間に生まれ変わったニャ」
それにしても、なぜ、この人は猫みたいな口調で喋っているのだろう。
「説明するニャ。おいら、三日前、女の子をナンパしようとして向日葵公園に行ったニャ。その帰り道、道を渡ろうとしたら、バイクと車と続けてガッチャンコしたニャ。その時、おいら、おまえのことを考えたニャ。神様に祈ったニャ。今度、生まれ変わったら、人間になって由布子と暮らすと誓ったニャ」
「はぁーー。そんなの信じられる訳がないでしょう」
酔っているのだろうか? けれども、アルコールのニオイはしない。しかし、これはどう見てもおかしい。
(もしかして、ハイになるドラッグでもやってる?)
由布子は顔をしかめる
「何ですか? ああ、分かりましたよ。今日はエイプリルフールですね。こんな夜中に迷惑なんですよ。出て行って下さい」
タチの悪い冗談に違いない。昔から、夏目朱里の私生活は謎に満ちており様々な噂が飛び交っていたのだ。
彼は、裕子より二歳年上。由布子の通う進学校の卒業生で世界的に有名な夏目グループの御曹司である。彼の父親は、総合商社、不動産開発、製造業、小売り、出版社なども経営している。噂で聞いたことだが、朱里が小学六年生の時、サッカーの試合中、朱里の顔面にわざとボールをぶつけた子供がいて大騒ぎになり、その子の父親はミャンマーに左遷されたという。
ちなみに、裕子の兄は夏目グループの末端の会社で働いている。
御曹司の機嫌を損ねて兄が左遷されると困るのだ。
「ここから出て下さい」
追い払おうとすると、身長百八十センチはあると思われる朱里が涙目になって訴えてきた。
「ひどいぞ。おいらのことを捨てるのか? おいらのこと、うちの子って呼んで、赤い革の首輪をつけてくれたのに。おいら、足が痛いのを我慢してここまで来たんだぞ。哀しいニャ」
なぜか、彼は、中腰の姿勢になり冷蔵庫の角に額をこすりつけている。
「おいらのニオイがするから落ち着くニャ。さぁ、由布子、いつものように、おまえの腹の上で寝るニャ」
さも、当たり前のようにそんな事を言われて唖然となる。通報しようとしていると、彼は、四つん這いになっておねだりしてきた。
「三日ぶりにお尻トントンして欲しいニャ☆ メロメロに愛して欲しいニャ☆ 由布子ーーー。おいらのお尻、叩いておくれよ」
やめろ。尻を高く上げるな。おまえは馬鹿なのかと言いたいが我慢する。
「それじゃ、叩いたら帰って下さいよ」
仕方あるまい。もうヤケクソだ。振りかぶって朱里のお尻を連打する。
「あうあう。いいぞ。その調子だニャ。もっと強く叩いて欲しいニャ。右じゃないニャ。左側を叩くニャ。あうあう。効くニャーーーーー」
警察に訴えるのは簡単だが、金持ち相手に変な禍根を残したくない。
(それにしても、まさか、あの夏目さんが非常識な変態野郎だったなんて……)
由布子は、きっちり百まで数えて叩き終えると、彼は、恍惚とした表情でパタンと顔を伏せた。まるで電池が切れたかのようにおとなしくなった。由布子は唖然となる。
「いきなり、寝落ちですか……?」
何なのだ?
「ものすごく迷惑なんですけど。ここ、あたしの家ですよ」
行方不明のジュリのことで頭が一杯なのに、こんな奴の面倒まで見ていられない。キッチンで眠っている朱里を横目で見つめながら溜め息を漏らす。
「と、とりあえず、朝日が昇ってから考えよう……」
そっと、兄の部屋の毛布をかけると、そのままキッチンの床に放置することにした。
(やっぱ、夏目さん、変なクスリとかやってんのかなぁ?)
自分も仲間だと思われて警察に連れて行かれたら困るので警察に通報するのも憚れる。
由布子は自室の部屋のベッドに横たわって嘆息した。
(あたしを襲うつもりはなさそうだしね……。金持ちだから、強盗とかする訳がないしね……)
肝が据わっているので、異常事態だというのに眠るという選択をしたのだ。
朝になれば、あの男も素面に戻るかもしれない。そう想っていたのだが、もっとエスカレートするなんて思いもしなかった。
☆
朝。午前七時。誰かの吐息によって目覚めた。
「おい、てめぇ、何やってる?」
驚いたことにベッドの中に全裸の朱里がいた。彼は、涅槃像のような体勢でねそべったまま由布子を凝視しているのだが、ピリッと鋭い視線に射抜かれて戸惑った。
「えっ?」
それはこっちの台詞だ。マジで有り得ない。由布子は、ぎゃーーーと悲鳴をあげながらベッドから飛び降りる。
「なんで裸なんですかーーー。ふざけるのもいい加減にして下さい。勝手にベッドに入らないでください。マジで警察を呼びますよ」
「てめぇこそ、ふざけるな。おまえが妙な薬を飲ませてオレを襲ったんだろう。誘拐罪で訴えるぞ」
「はぁーーー。言っていい事と悪い事がありますよ。被害者はあたしの方ですよ」
「ああ、分かったぞ。レイプされたとか嘘を言って、うちの親父から慰謝料をせしめるつもりなんだな。おい。おまえの仲間は誰なんだ。おまえ一人で、オレをここまで運べる訳がないからな」
「えっーと、意味、わかんないんですけど……」
ていうか、いつまで、スッポンポンでいるつもりなんだろう?
由布子は、改めて朱里の裸体を見ていて気付いた。
「全身、打撲してますよ。事故にでも遭ったみたいに見えますよ。一体、何があったんですか?」
朱里は自分の身体を見下ろしたまま呟いている。
「何で、こんな痣だらけなんだ? オレに何をした?」
「何もしてません。あなたが一人で勝手に来たんですよ。それを証明しますからね」
いわゆるペットを見守る監視カメラがの画像があり、ちょうど、キッチンの半分と玄関先の光景はカメラの視界に入っている。由布子の兄の私服を着せた後、録画したものを見せながらいう。
「これが証拠です。あなたが玄関の外側からドアを叩いて入ってきたんですよ」
「なんで、オレが、こんなところに来るんだ。ていうか、オレは誰なんだ?」
「まさかの記憶喪失ですか? しっかりして下さいよ」
「冗談だ。自分が誰なのかぐらいは分かっている。夏目朱里だ。ところで、おまえは誰なんだ?」
「これまでに、あなたと会話した事はありませんが、あなたが卒業した高校の後輩で高校三年生です。あなたは女子高校生にとんでもない要求をしてきたんですよ」
昨夜の変態ぶりを細かく説明すると、朱里は鬼の形相になって否定した。
「オレが尻を叩いてくれなんて言う訳がねぇだろう。猫じゃあるまいし」
「だけど、深夜三時に、あなた、猫の砂に向かってオシッコしてますよ。女の子座りの体勢で、ジャーーーっとやっちゃってますよね」
もどかしそうに服を脱いでからオシッコをしており、実に間抜けな恰好だ。
「み、見るな。何かの間違いだ」
羞恥に追い詰められて身悶えしているが、由布子のダメ出しは続く。
「それに、キッチンの引き出しにしまっていた猫缶を勝手に取り出してるじゃないですか。しかも、三個、素手で食べてます。ほんと、行儀が悪いな」
油まみれの手をペロペロと舐める様子は、まるで妖怪……。
食後、満腹になって満足したのか四つん這いになり、背筋をピーンと伸ばしている。大きく欠伸をしてから、由布子の部屋のある方向へいそいそと歩き出している。
「やだ。マジでキモイです」
「……てめぇ、それ以上、何か言ったら殺すからな」
さすがに恥しいのか、朱里は赤面して目を逸らしている。
「と、とにかく、迷惑をかけたようだから、それは謝る。だが、おまえに対する疑惑が晴れた訳じゃないぞ。オレが、こんなふうになったのは、深い理由があるに違いない。いいな。オレは変態ではない。あの画像はすぐに消せ」
事故の後遺症か何かのせいでおかしくなったのだろう。それは由布子にも分かる。
(この人って口が悪いんだな。完全無欠の王子様だと思っていたのに、こんなややこしい奴だったとは……)
どうしたものかと頭を抱えていた。
「何か、よく分からないけど、とりあえず、さっさと帰ってもらえますか」
「ああ、そうだな、運転手の柴田を呼んでくれ」
「えーっと、電話番号は?」
「そんなもん、いちいち覚えてないさ」
「それじゃ、自宅の電話は?」
「知らない」
「御家族の携帯の番号はどうなんですか」
「親父は海外にいる。親父の奥さんの番号は聞いてない」
「他に頼れる人はいないんですか?」
「ばぁやの番号なら暗記している」
由布子が、ばぁやの携帯に電話すると、朱里の世話係の三井が悲痛な声で叫んだ。スピーカーにしているので由布子にも聞える。
「坊ちゃまーーーー。御無事でしたか。一体、どこに行かれていたのですか。もしや、誘拐されたのですか?」
「分からないんだ。気づいたらここにいた」
「今、どこにおられるのでございますか?」
「おい、ここはどこだ? おまえの住所を教えろ」
裕子は自宅の住所を告げてからこう言った。
「善意の第三者の瀬戸と申します。何ていうか……、詳しいことは、こちらに来た後で話しますね」
それから、僅か十分後。大家さんの自宅の前でエンジン音がしたかと思うと、高級なスーツ姿のガタイのいい男二人が、2DKのアパートに踏み込んできた。すごい圧だ。サングラスの男Aが声高に叫ぶ。
「クリアーー。異常なし」
「こちらもクリアー」
奴等はあちこちを探り始めた。なんと、そいつらは由布子のベッドの下まで覗き込んでいる。
「あのーー、うちは土足厳禁ですよ……」
だが、男Aは由布子の戸惑いなどお構いなしで携帯で報告している。
「三井さん。坊ちゃまはここにおります。ええ、御無事です。室内にいるのは日本人と思われる貧相な小娘一人です。どうぞ、お入り下さい」
ベンツの後部座席で控えていた七十歳ぐらいの優しそうな老女が現れた。
「お邪魔致します。三井と申します
黒服の男達とは違って小柄で丸顔の三井は礼儀正しかった。一礼してからはパンプスを脱いでいる。
家政婦としては高齢だ。どう見ても七十歳は越えている。
「坊ちゃま、どうして、このような場所におられるのですか。誘拐犯はどこにいるのですか?」
それに関して男Aが言う。
「誘拐とは関係無さそうですな。拘束具などは見当たりません」
そもそも、なぜ、御曹司の身体に腐ったバナナのような打撲の痕があるのだろう。
「何が起きたんですか?」
すると、三井が溜息まじりに答えた。
「それは、こっちが知りたいですわ。三日前の深夜に車に跳ねられて意識を失ったのでございます。全身打撲という事でしたが、骨折はしていません。怪我は、それほどでもないにもかかわらず、一度も、目を覚まさなかったのです。わたしは病室で付き添っておりました。昨夜、目を覚ますと、病室から消えていたのでございます」
「三日前に事故ですか……」
「車を運転していたのは、新見貴三郎。八十三歳。明らかに、白内障も進み、反射神経も衰えているのに運転をしていたんですよ。横断歩道にしゃがみこんでいる坊ちゃまに気付かずに進んだのでございます」
三井は老人の運転は老害だと言いたげに顔をしかめている。
(だけど、夜中に横断歩道に座り込むのが悪いんじゃない?)
白髪をきっちりとお団子頭にしてまとめている三井が真剣な面持ちのまま言い継いている。
「深夜、坊ちゃまは、公園にいる地域猫のお世話をしています。坊ちゃまは、猫と戯れるのがお好きなのです。しかし、そのせいで、このような事に……」
三井はズズッと木綿のハンカチで洟をすすっている。
「たまたま、そこを歩いていたアベックの話によりますと、雑巾みたいに小汚いトラ猫が轢かれそうになったのを見て、咄嗟に助けようとして猫と一緒に高く跳ね上がったそうでございます」
「アベック……?」
すると、由布子の疑問を見透かしたように男Aが淡々と告げた。
「カップルの事だよ。大学生の男女が坊ちゃんの為に救急車を呼んでくれたのさ。せっかく坊ちゃんが助けたっていうのに雑巾みたいな猫は、坊ちゃんの腕の中から這い出してどこかに消えたらしい。その猫は脚を引きずっていたらしいぜ」
「雑巾みたいな猫……」
ザワッと気持ちが揺れ動き、嫌な予感のようなものが疼き始める。由布子の猫のジュリは顔は可愛いけれど、色味が使い古した雑巾に似ている。
「とにかく、坊ちゃまが見つかって安心しましたわ」
「あの、それがですね。事故の後遺症なのか何なのか分からないんですけど、この人、オツムがちょっと……。論より証拠です。この映像を……」
例の映像を三井達にも見せようとすると、朱里が、由布子にの背後から腕をまわして引き止めた。そして、耳元でボソリと囁いた。
「おまえ、余計な事を言ったら殺すぞ」
ふがふがっ。もがいていると、朱里は由布子の口を塞いだまま告げた。
「みんな、心配かけてすまなかった。オレはここで監禁された訳ではない。事故の記憶ならある。どういう理由で病院から抜け出したのかは今も思い出せないが、こいつはオレの特別な友人だ。こいつの顔を見たくてここまで来た!」
「坊ちゃま、本当でございますかーー。でも、今まで、そのようなこと、おっしゃっておりませんが……」
「……うぐっ」
違いますと伝えたいのに、朱里がテキトーなことを言い出した。
「同じ高校の後輩だ。公園で猫に餌を与えると言いながら、こいつと秘かに会ってたんだよ。黙っていてすまなかった」
「確かに、公園からここまで直線距離で五百メートルですものね。秘密のランデブーですか。アオハルですわね」
三井はどことなくフアフアとした顔つきで呟いている。男Aが渋い声で言った。
「とにかく、一旦、戻りましょうか」
「そうですわね。まだまだ安静にしていないといけませんわね。病院の医師が言うには、もう点滴の必要もないので自宅で療養しても良いそうですわ。ささっ、坊ちゃま、参りますわよ」
三井が皆に目配せをすると、マッチョな男Bが朱里をお姫様だっこをして歩き出そうとしたのだが……。
「やめろ」
不満げでありながらも顔つきは凛としている。改めて見ると、華やかなイケメンだ。いかにも、やんごとなき御曹司という感じだ。
「オレは、この通り、元気だ」
「頭を強く打っておりますからね。無理はなさらないで下さいね。さぁさぁ、参りましょう」
こうして朱里達は立ち去ったのだが。
「……それで、結局、あれは何だったのよ?」
朱里が、どういう理由でここに辿り着いたのかは謎である。
(何にせよ。とっとと帰ってくれて良かったわ)
男二人が土足で踏み込んだせいで床が汚れている。ムッとしながら雑巾で床を拭いていると、由布子のスマホが鳴った。知らない番号だが。もしかしたら、ジュリを見つけた人からの連絡かもしれない。
胸を弾ませて期待したが、そうではなかった。
「もしもし。そちら瀬戸由布子さんで合っていますか?」
そうですと答えると相手が低い声で呟いた。
「突然、申し訳ございません。執事の坂元隆二でございます。先ほど、三井さんから聞きました。坊ちゃまが御迷惑をかけたようなので、お詫び申し上げます。瀬戸様の銀行口座に振り込ませていただきます」
「いえ、お金なんてそんな……」
遠慮していると、冷え冷えとした声が聞こえてきた。
「手切れ金でございます。坊ちゃまは、あなたのような庶民とは身分が違います。どうか、身を引いていただきたいのでございます」
「失礼ですね。お金なんていりませんよ。好きでも何でもありませんよ。どういう理由かは分かりませんが、あんなふうに深夜に来られて迷惑なんです」
「それなら、なおさら、お支払いせねばなりません。後日、わたくしが伺います」
「いいえ。誰も来なくて結構ですから!」
由布子はムカつきながら通話を切る。
(何なのよ。夜中に勝手にやってきて人の生活を乱しておきながら、挙句の果てに手切れ金とか言っちゃって、ふざけんなーーーー。ああ、ムカムカするわ)
絶叫せずにはいられない。
「誰が、あんなドM男と付き合うかーーーー」
キッチンの片隅には母の遺影と子供の頃の猫のジュリの写真が飾られている。
一年前、由布子の母が亡くなった。心筋梗塞だった。それ以後、兄と二人で力を合わせて暮らしている。
(一人で家にいても、ジュリがいるから寂しくなかったんだよ……)
由布子はグラリと揺れる気持ちを推しとどめるようにして胸を押さえる。
(それにしても、ジュリはどこにいっちゃったの?)
☆
夕方の五時になろうとしていた。御飯を食べ終えたら、また、ジュリを探そうと思いながらお米を研いでいたのだが……。
玄関のドアを激しく叩く音が響いた。
(嫌な予感がするわ。この叩き方は宅配じゃないわ)
ドアスコープを覗くと、ハイブランドの洋服を着こなした朱里がいた。バクンッ。由布子の心臓が嫌な音を奏でる。
(やめてよ。何しに来たのよ)
無視しようと思うのに、涙を浮かべたまま全身を震わせるようにしてアピールしている。
「由布子ーーー。おいらはここにいるニャ☆」
ドンドン。ドンドンッ。
「由布子ーーー。愛してるニャ。おまえのいない世界に生きていてもしょうがないニャ。おまえの膝に乗りたいニャ!」
無邪気に叫ばないで欲しい。幸い、この時刻はどの住人も帰宅していない。無視しようとしていたのだが、そうもいかなかった。
「瀬戸様、お願いでございます。坊ちゃまのお顔を見てあげて下さいませ」
その声は家政婦の三井で間違いない。仕方なく、ドアチェーンをかけた状態で少し開く。
「何の用ですか?」
「帰宅後、坊ちゃまは仮眠を取ったのですが、目覚めた後、坊ちゃまが御乱心の状態になったのでございます。あなた様に会いたくてたまらないようなのです」
「えっ?」
ドアの隙間から由布子は怪訝な顔で見つめ返す。
「医師の話によると、一時的に錯乱しているようなのでございます。坊ちゃまの容態が安定するまで、どうか、坊ちゃまの側にいて欲しいのでございます」
由布子に会いたいと泣き喚いて、箪笥の中の物を全部引っ張り出し、トイレットペーパーを撒き散らしたりたという。
「はぁ……。そうですか」
「おいら、おまえと一緒じゃないと眠れないニャ~。おいらは、おまえのことが世界で一番好きだニャ。どんな美人の牝猫よりも、おまえが愛しいニャ」
「坊ちゃま……。ううっ」
三井がハンカチで鼻を押さえている。坊ちゃまの馬鹿っぷりが情けなくて泣いているらしい。
「どうか、人助けだと思って、今だけ、坊ちゃまに付き添っていただけませんか……」
老人を困らせるのは由布子としても本意ではないが駄目なものは駄目なのだ。
「関わりたくないんですよ」
「あなたの兄様は、旦那様の会社の下部組織の従業員のようでございますわね。お兄様の瑠偉様からの許可は得ております」
上海からの帰りの飛行機をエコノミーからビジネスに変更。滞在しているホテルも二つ星から五つ星に格上げするというので兄は喜んでいたらしい。
「経費で中国のディズニーランドに行っていただいても構いません。来年、本社に呼び寄せて課長にするとお約束しました。お給料は倍になります」
由布子は兄の給料で生活している身の上だ。由布子は今後の学費も必要だ。長いものには巻かれるべし。兄の出世の為に我慢するしかない。
「わ、分かりました」
覚悟を決めて全面的にドアを開くと朱里が飛び込んできた。
「由布子ーーー。会いたかったニャーーー☆」
由布子の足元で腹を見せた状態でのたうちまわる光景はあれに酷似している。
漫画、『ゴールデンカムイ』の軍人達が中尉に愛されたいと悶えてジタバタする姿にソックリだ。
(キモッ)
頭がお花畑の男とは関わりたくないのだが……。今は我慢だと言い聞かせてから由布子は荷物をまとめるとベンツで移動する。
白い手袋をはめた運転手の男は三十代前半の雰囲気イケメンだった。ちなみに、ベンツは一番高級なクラスだ。
(なんで、あたしが、こんな目に……)
朱里は由布子の腕に頬を押し付けたままウットリしており、猫言葉で喋り続けている。
「おいら、神様に願ったニャ。人間のオスとして暮らすニャ。人間の食べ物は美味いニャ」
突き放したいが彼は頭を打っている。この人は気の毒な病人なのだ。夏目朱里のオツムが元に戻るまでの辛抱だと言い聞かせる。
(ここが、夏目家か。まるで森の中に迷い込んだような広大な空間だ。まさに圧巻だわ)
広がる敷地の広大さに圧倒される。手入れの行き届いた芝生が広がり、一面に緑が広がっている。その敷地内には、本館と離れの別館の二棟が佇んでいる。
本館はモダンな三階建て。ガラス窓が煌めき、洗練されたデザインが目を引く。別館は、一見普通の一軒家のように見えるが、その静謐な佇まいには威厳が漂っている。
数歩、由布子の前を歩きながら、三井がゆったりと語り始めた。
「元々、こちらの別館は、亡くなった大奥様の居室でございました。今、ここにいるのは、わたしと坊ちゃまだけでございます。どうか、お寛ぎ下さいな」
その時、別館へと続く小道を進む由布子たちを冷たく見下ろす人がいた。本館の二階のベランダに佇む女性は、夏目朱里の継母である夏目方子だ。最近、医師から更年期障害と診断されたばかりの彼女は、ますます苛立ちを募らせていた。
「あんな小娘を引きずり込むなんて……。下品な女の息子は、やはり下品な行動を取るのね」
能面のような薄い顔。その冷たい怒りが宿った眼光は、鋭く由布子を見据えている。
(その娘は何者なのかしら……)
これが波乱の幕開けとなるのである。