犬と拳
最初に犬を叩いた瞬間、耳障りで甲高い「キャン」という声を上げたことに驚いた。そして、一層叩く手に力が入った。
最初は平手だった右手は次第に拳に変わり、手足から腹、顔面へと叩く場所も移動していった。ただ、その情けない鳴き声が気に食わないんだけれども、それを黙らせたいのか、もっと鳴かせたいのか分からなくなりながらも、拳に込められる力はいよいよ強くなっていった。
それから何分?何十分?もしかして1時間経ったのだろうか?
首輪を掴んでいた左手が、犬が暴れるせいで首輪と掌が擦れて痛くなってきた。思わず「痛っ」と小声で呟き、咄嗟に首輪を手放し見てみると、皮が捲れて血が滲んでいた。
そういえばと思い右手の甲も見てみると、こちらも皮膚が切れたのか、血が出ている。
駄犬め、まだ足りないか。
そう思って犬を見た時、その犬はぴくりとも動かなくなり、その四肢を無様に横たえていた。
あぁ死んだ。
そう思った瞬間、私は思い出した。
これ、預かってる犬だった。
「急遽、出張に行くことになったの、だから、数日だけ。お願い!」
そう姉に言われて、無理矢理押し付けられたのがこの犬だった。犬種はポメラニアン。ふかふかの毛はしっかり手入れがされているのか長さも整っており、ケージの中に入れられたそれは丸くてキラキラした目で私を見ては、しきりに尻尾を振っていた。
嫌だなぁ。
私はどうにかこの生物から逃れる理由はないかと、口をもごもごとさせていた。生まれてこのかた生き物を飼ったことはないし、特に犬が放つ“愛されて然るべし”と言わんばかりの笑顔と、見境なく振りまかれる愛嬌が気に食わなかった。
結局、断る特段の理由があるわけではないことを姉に見抜かれ、私はその犬が入ったケージと餌皿だとかペットシーツなどが一式入った大きなリュックサックをその場で預けられてしまった。
そのまま姉は仕事の愚痴だとかをべらべらとおしゃべりして、勝手に帰っていった。
一体、何日って言ってたっけ?
餌のやり方だとか、肝心なことを色々訊けていないはずなのに、私が一番気にしたのはそこだった。
何日、このけむくじゃらとの生活に耐えればいいのか?
私はやたらと重たい二つをぞんざいに持ち上げ、とぼとぼと帰路についた。
私がこの犬を部屋に放して知ったのは、ちゃんと躾けられていないということだった。
まず、吠える。餌をよこせだの、構えだの、何か自分の気に食わないことがあると小さな見た目から想像できない声量でギャンギャン吠えまくるのだ。
おまけに、お気に入りの靴下やクッションはズタボロに噛み切られ、何度教えてもあちこちで粗相をする。
いっそケージに閉じ込めてやろうとかと思ったが、ケージを見ると部屋中を逃げ回り、捕まえると腕や手を噛んで暴れる始末で、諦めざるをえなかった。
そんな中、私の我慢はたったの二日で限界を迎えた。
私の部屋の中心に据えられたテーブルはソファの座面と同じ高さだった。
今思えばあれほど動き回るあの犬の運動神経を甘く見ていた。気がついた時には地面からソファへ、そしてテーブルへと飛び乗り、私が大切にしていたティーカップをテーブルから落としていた。カシャンと華奢な音を立てて砕けたカップを、まるで悪びれもせずにその犬は僅かな間見つめ、テーブルの上に置かれた食べかけのケーキに興味を移した。
あれ、あの人が買ってくれたカップなのに!
一瞬で、照れ臭そうな顔でカップが入った紙の手提げ袋を私に差し出す恋人の姿が脳裏にフラッシュバックし、口の中がカラカラに乾いていく。
その瞬間には、私は既に犬の首輪を引っ掴んでいた。
「なんで、大人しくしないのよ」
「勝手ばっかする上に、思い出まで踏みにじるつもり?」
「そもそもアンタに何の権限があって、こんなことしてるのよ」
「私はアンタの家来じゃないし、アンタはお姫様でも何でもない」
「なのになんで、アンタの願いばっか聞かなきゃならないのよ」
「嫌で嫌で嫌で、それでも押し付けられてばかりいる私の気にもなってみなさいよ!」
私の腹の中に蟠った言葉達が口から飛び出していくその瞬間は、正直とても気分が良かった。
だから、止まらなかった。罵倒も、拳も。
そして後に残ったのは、砕けたカップと、左の掌と右手の甲から血を流す女、そして犬の死骸だけだった。
そんな様を見て、悲しくならない筈がなかった。目から涙が溢れて、鼻が止まらなくなった。
犬を死なせたことを姉に知らせるのが怖いのか。それとも大切なカップを粉々にされたことが悲しいのか。はたまた、溜まった鬱憤をこんな方法で晴らした自分がやましいのか。泣けば泣くほど、分からなくなっていった。
薄暗い部屋の中、ただ私が咽び泣く声だけが、小さな部屋の中でこだました。