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山のある世界

人生最低の研究に愛しき君の名前を冠す

作者: 亥口一人

 何年か、あるいは何十年かに一度、北山から気まぐれに極寒の風が吹き下ろすことがある。その度に、沢山の人間が死んだ。凍死する者は不幸だった。でも、殺される者はもっと不幸だった。

 反乱を起こし処された者は自業自得とも言えたが、その犯罪者と同じ特徴を持つ、というだけで弾圧された者の気持ちは、計り知れない。


 中でも、最も不幸なのは、希少で有用な力を待つ者達だ。

 ある時、そういった力を持つ者達が盗賊団を結成したことがある。彼らは、力を駆使し、限られた資源を奪って回った。

 彼らは、強かった。だが、数の力には勝てなかった。

 彼らはすぐに、只人達に殺された。只人達は、力ある者を皆殺しにすべきだと考えた。多くの人間が同意し、そうして、魔法使いと呼ばれる人間は、世界から姿を消した。

 でも、完全に絶滅したわけではない。

 今尚そこここに小賢しく潜み続ける魔法使いがいて、只人達は、彼らを見つける度に念入りに殺し続けていた。


 人々が望むのは、安全だった。物理的な安全と精神的な安心感。それを得るために、北山を遠ざけ、魔法使いを消し去ろうとしていた。

 だが、いつの時代も酔狂な者はいる。

 今、おろしを吹き止めた北山の斜面に、一人の男の姿がある。男の赤毛と、彼の背にある緑色のザックは、白銀の世界でこれ以上なく映えていた。


 男――アレン・リシェリアスは、自分が酔狂だとは思っていないが、酔狂と呼ばれていることは知っている。それから、そう呼ばれる者が自分だけではないことを知っている。

 そうした先達の酔狂が残した手記――いわゆる悪魔の手記を手に入れられたことは、彼にとっては幸甚だった。

 彼は今、その手記に記された隠れ家を目指し、揚々と歩を進めている。

 アレンは優れた人間だった。少なくとも彼自身は、そう思っていた。何の目印もない雪原で小さな小屋を見つけることは、容易ではない。だが、悪魔が残した確かな情報と、アレンの目測が揃えば何の問題もない。アレンはそう確信して街を出たし、実際何の迷いもなく目的地に到着した。


 古ぼけた小屋を目の当たりにしたアレンは、まずはあばら屋の掃除から始めないといけないな、と考えた。北山の小屋など、誰が手入れするわけでもないのだ。

 だが、どうだろう。鍵穴のない扉を開ければ、内部は決して綺麗とも言えないが、整然としていた。何より、明らかに人がいた気配がした。部屋が暖かい。暖を取った形跡がある。

 アレンは、慎重に足を踏み入れた。ポケットに手を伸ばし、コンバットナイフの感触を確かめる。これが下界の家宅であれば、強盗に押し入った男に見えるかもしれない。しかし、ここは忌み地で、とうの昔に死んだ悪魔の古巣だ。こんな場所に住み着いている人間は、まともであるはずもなく、アレンの行動は正当だった。

 

 アレンは一歩一歩踏みしめながら、部屋の中を見回した。

 小屋は狭い。人が隠れられるとしたら、たった一台の寝台の下か、あるいはワードローブらしき箱の中だろうか。

 アレンが寝台が見える位置で軽く屈みかけた時、後ろでドアが開く気配がした。咄嗟に、コンバットナイフを手にして振り返る。

 そこには、美しい銀髪の女がいた。アレンは、痩せぽっちの姿を網膜に映すと同時に、頭では勝ち筋を計算する。――小さなコンバットナイフで不足ないと思われた。

 とは言え、アレンが油断することはない。アレンは女に向かい、慎重な一歩を踏み出した。そうして、その足を静かに床に下ろした。――はずだった。

 その一歩はアレンの目算に反し、摩擦法則を無視したかのようにつるりと滑ると、空を走り、終いにアレンは尻から勢いよく床に落ちた。う、とくぐもった呻き声が漏れる。


「何しに来たのよ……! 出てって!」


 女は叫びながら、血走った目でアレンを見下ろしていた。アレンはその女をじっと見据える。

 一瞬狂気的な声と表情に見えたが、よく見れば、殺意の欠片もなかった。無様に尻もちをついた男を前に、ただわなわなと震えている。

 アレンは、ふっと鼻で嗤った。


「訳ありか?」


 女は、目を見開いて固まった。

 アレンはにやりと笑うと、不自然に凍てついた床を避けて、態勢を立て直した。


「ここは、君の家じゃないだろ。君こそ、ここから出ていくべきだと思うが。……ここで君を殺すという方法もあるが、家が鉄臭くなるのはできるだけ避けたいところだな」


 アレンはそう言って、コンバットナイフを振ってみせた。

 女が青ざめる。


「別の選択肢を考えた方が、互いのためになりそうだ。つまり、ここで共同生活を送る、ということだな」


 アレンは、さも良い提案のように言ったが、女の顔色は一層悪くなり、一歩退いた。


「おっと、勘違いしないでくれ。これは君が女だからした提案じゃない」

「……じゃあ、何?」

「それはもちろん……君は床を凍らせたり、ひょっとしたら火も起こせたり、便利な力を持っていそうだから。君の力を借りれば、俺は予定より長くここに滞在できそうだ」


 その答えを聞いた女は、恨みのようなものを顔に浮かべた。


「そう言って、用が済んだら殺すつもりなんでしょう?」

「なるほど。それで君は、寒波が過ぎ去った途端、ここへ追われたわけだ。……そう睨まないでくれ。俺からしたら、用が済んだら、君には文字通り用無しだ。殺す興味すら起きない」

「……用って何よ」

「学者としての好奇心を満たすことと、あわよくば功を立てること」

「学者……?」

「そう。アレン・リシェリアスといえば高名な学者として知られている。特に動物学の界隈ではね」


 朗々と語るアレンに、女は胡乱な目を向けた。女が信じないのも、無理はない。一般的に考えれば、身分ある者が、わざわざ忌み地へ来るはずもない。


「それで? 君はどの選択肢を選ぶ? 俺としては、共同生活が一番ありがたいけど」

「……それでいいわ。どいて」


 女はため息をついて、アレンを横へ押しのけると、奥まった場所にある暖炉に薪をくべ始めた。

 アレンは、そうか、それはありがたい、と言いながら、なるほど生き辛そうな女だ、と思った。

 魔力を使って、俺を追い出すなり殺すなりすれば良いものを。そうしたからって、誰に咎められるわけでもない。なのにそうしないのは、彼女の倫理観によるものなのか、それともそうすることで彼女自身が何らかの満足感を得られるからなのか。それもまた、アレンの興味を惹く一種の科学に見えた。

 

「それで、君のことは何と呼べば良い?」

 

 アレンが尋ねると、女の背中はぴたりと動きを止めた。

 

「ああ、俺は名前を聞いたわけではないからな。符号がなければ、いざと言う時に何と呼べば良いかわからない」

「……カティア」

 

 数秒の沈黙の後、ぽつりと答えが返ってきた。

 

「なるほど、純白の意味を持つ古語か。なかなか良い名をつけたな」

「……そうなの?」

 

 女――カティアが、アレンを振り返る。

 

「ああ、正直少し感心した。即席にしては良くできた名だ」

「そうじゃなくて、純白って意味なの?」

「なんだ、知らずにつけたのか。純白とか、純粋とか、そんな意味だったはずだ」

「そう……」

 

 カティアは、そう呟くと、暖炉に視線を戻した。

 暖炉の中に、ぽうっと明るい火が灯る。

 

「便利な力だな」

「そうね。ない方がずっと便利な生活ができたはずだけど」

「違いないな」

「それに、火があっても、焼くべき肉がない。あなたが来たせいで、獲物を捕り損ねたわ」

「なるほど、君は普段狩りをして生きているのか」

「狩りもするし、果実も食べるわ」

「へえ、この山には果実もあるのか……」

 

 アレンは興味深そうに目を輝かせた。

 

「しかし、まあ、そうだな。今から小屋を出て探しに行っても、日が暮れるまでに帰れないんだろう。日が暮れたら、確実に凍死しそうだ。今夜は、俺が持ってきた携帯食を食べることにしよう。君も、一緒に食べれば良い」

「私も?」

 

 カティアは、驚きの声と共に、再びアレンを振り返った。

 

「それが共同生活ってやつだ」

「そう……」

「代わりに君は明日、俺に動植物の場所を教えてくれれば良い。そしたら俺は、干し肉やドライフルーツの作り方を教えよう。そうすれば君は、今日みたいな日のために、非常食を蓄えておくことができる」

「そう……」

 

 言いながら、カティアは、わずかにうっとりとした表情を浮かべた。共同生活も悪くない、と思ったのかもしれない。実際には、アレンが口にした「共同生活」は全て、アレンが快適に過ごすためのものであったのだが。

 

「それから、家具だな。俺は寝袋を持っているから、寝台を増やす必要はない。だが、椅子と机くらいは欲しい。君程の力があれば、木を伐り出すくらいわけないだろ?」

「ええ」

「じゃあ、俺が設計図を描き出すから、君はその通りにパーツを用意して、組み立ててくれれば良い」

「わかったわ」

 

 かくして、彼らの共同生活は幕を開けた。

 

 ――出会いこそ不穏だったが、この共同生活は、存外に上手いこと運ぶこととなる。

 手付かずの山は、アレンの知的好奇心を存分に満たしていたし、カティアはそれを良く支えていた。アレンが何を要求しても、カティアは快諾する。それも、どこか楽しそうな表情を浮かべながら。そして、見返りを求めることもない。

 働き蜂みたいだと思った。だが、蜂はこんなに嬉々とはしていない。だからアレンの目には、カティアは変な生き物のように映った。そして、そんな彼女の姿を目にする時、妙な心地良さを感じた。それは、アレンが普段接している傲慢な男や不遜な女たちからは、微塵も感じられないものだった。

 

 二人は穏やかな日々を過ごした。それが幾日か続いた後に、アレンはついに、探し求めていたものと出会った。

 アレンが初めて実物を目にした時、その「もの」は少し離れたところにいて、ちょうどカティアに襲い掛かっているところだった。

 そいつは、随分と大きい。カティアの身の丈の三倍程はありそうだった。鼻は長く伸び、両の口の端から鋭い牙が伸びている。南部に生息するエレファス属とよく似ていたが、毛はそれよりも大分長い。まさに、悪魔の手記に書いてあった通りの風貌をしていた。

 カティアは必死の形相で、魔法を放っていた。

 氷系の魔法は、寒冷地で発動すると強力になるらしい。だが、このエレファスは土地柄を鑑みても氷に強そうだ。案の定、カティアの放った氷は梨のつぶてとなっていた。

 次に、火の魔法を放った。意外なことに、エレファスは炎にさえも全く動じなかった。火傷の一つも与えられていない。

 アレンはそれを興味深く見ていた。だが、もちろん単に観察していたわけではない。今やカティアはアレンにとって業務上大切なパートナーであったし、研究のためと言えども失うつもりは毛頭なかった。

 

「カティア! 氷の壁で身を守れ!」

 

 カティアは目だけで、こくこくと頷く。

 美しく輝く分厚い壁が、彼女の目の前に瞬時に築かれた。

 そこに、エレファスの太い牙がぐさりと刺さった。

 

 アレンは、一気に距離を詰め、エレファスの前脚に狙いを定めた。何分獲物の図体が大きいので、急所らしい急所を狙うのも難しい。足首の関節にねじ込むように、コンバットナイフを差し込んだ。

 手ごたえを感じる。それと共に、エレファスが咆哮した。

 まるで嫌がるかのように顔を横に振る。牙が、とっさに身を退いたアレンの腕をかすめた。

 

「アレン……!」

 

 叫ぶや否や、アレンの前にも透き通ったな壁が築かれる。

 まったく大した力だ、とアレンは笑った。こんな状況で笑えるのは、アレンの経験と自信と胆力の賜物ではあったが、カティアの力量を目の当たりにした弾みで思わず零れた笑みとも言えた。

 

「カティア、傷痕に魔力をぶちこめ!」

「わ、わかった!」

 

 傷痕に炎が上がる。

 その途端、先程までうんともすんとも言わなかったデカブツは、ブオオオオと凄まじい断末魔を上げた。転げまわりながらあちこちにぶつかり、辺りの木をなぎ倒す。氷の壁にヒビが入った時は、さすがのアレンも少しひやりとした。

 焦げ臭いにおいが辺り一面に立ち込め、そのうちエレファスは動きを止めた。

 一見、ほとんど血を流していない綺麗な死体のように見える。しかし実際には生きたまま焼肉にされているのだから、なかなか惨い死体と言えるのかもしれない。

 だが、アレンにとっては死に様などどうでも良かった。

 

「これは、随分と興味深いな」

 

 アレンは他の一切に目をくれず、エレファスの前にしゃがみこみ、その前脚に触れていた。

 カティアが涙声で「ありがとう、アレンがいなかったら今頃私……」と呟いていることにさえも、気が付いていなかった。

 

「傷口から湯気が出ているのに、付近の皮は全く熱くない。剥いで実験すれば、さぞかし面白いだろうなあ」

 

 アレンは少年のような笑みを浮かべている。

 カティアは涙目のまま、そんなアレンをぼうっと眺めていた。

 

「肉の味はどうだろうな。中は丸焦げというより、蒸し焼きになってそうだ。骨と牙もとって置こう。そうだ、まずは体長を測定して、スケッチを残しておこかないと……ああ、こんな時に限って道具を小屋に置いてきたままだ」

 

 そこまで言ってから、ようやく立ち上がり、カティアの方を見た。

 

「どうした、呆けたような顔して」

「だって、殺されるかと……」

「思い切り返り討ちにしたくせに、何言ってるんだ」

「でも、私、アレンがいなかったら、確実に死んでいたわ」

「それもそうだな。ああ、そうだ、骨か牙で軽めの武器を作っておこう。それを携帯していれば、今度遭遇した時は君一人でも倒せるだろう。そうすれば、試料が増えて俺の研究も捗りそうだ。とにかく、一旦帰ろう」

 

 カティアが笑って頷いたのを確認すると、アレンはそそくさと小屋の方に足を向けた。

 

「待って、アレン」

 

 足早に去ろうとする背中に向かって、カティアが声を掛けた。

 

「帰ったら、先に腕の怪我を治療した方が良さそう」

「ん? 本当だ」

 

 アレンは、自身の腕を観察する。衣服を幾重にも重ねて着こんでいたが、エレファスの牙はそれらを貫通し、アレンの皮膚に小さな傷をつけていた。

 

「雪山だと、その場で脱いで手当てできないのが難儀だな」

 

 アレンは顔をしかめた。

 

 だが、そんな顔を浮かべてはいたものの、その後のアレンは終始ご機嫌だった。

 アレンは傷の手当てを終えた後、お望み通り、自身の興味の対象について事細かに記録し、夕飯は珍味に舌鼓を打った――特別美味というわけでは決してなかったが、そのことが一層興味を惹き、アレンは確かに舌鼓を打った。

 

「さほど臭くはない。草を食って生きてる獣の味だ。でも、美味くもない。エレファス属の味なのか、この種特有の味なのか……ああ、こんなことなら、南のエレファスも一度食べておくべきだったな。それとも、個体差もあるのだろうか……幼体ならもっと柔らかくて美味いのかもな。あとは、調理法が悪かったのか」

 

 調理法も何も、内部から蒸し殺して、そのまま放置された代物だった。アレンにじっくり観察された後、ようやく解体され、カティアの魔法で温め直された後、適当に切り分けられたものだ。

 

「でも、皮が先決だな。肉の調理法は……カティア、何か良い案を思いついたら教えてくれ」

「わかったわ」

「ああ、でもやっぱり、皮の方も手伝ってもらいたいな」

「私が?」

「ああ、俺の仮説では、あの皮は熱や魔力を通さない。俺は自分で、火を起こせるし狩りもできるが、さすがに魔力の放出はできないからな。カティアの助力が必要だ」

「そう……わかったわ」

 

 カティアは頬を染めて頷いた。彼女は多くを口にしないが、表情には喜びと満足を浮かんでいる。

 その氷の精霊のような女性を見ながら、アレンはぼんやりと口を開いた。

 

「まったく、馬鹿な時代に生まれてしまったよな」

 

 カティアが、どうしたのかしら? という顔でアレンを見上げる。

 

「君は魔力があるが故に優秀な助手だ。なのに、魔力があるが故に街の研究室まで連れて帰れない」

「……そうね」

「たとえ魔法が使えなくても、それなりに優秀な助手だ。せめてもう少し醜女だったらな……」

「……は?」

「俺は優秀な学者で、私の妻におさまろうとする女は多い。そこに、カティアのような若くて美しい女性を連れて行ったら、要らぬやっかみを生んであっという間に素性を暴かれるだろうな」

「そ、そう……」

「おい、顔が真っ赤だぞ。熱でもあるんじゃないだろうな?」

「ない! もう、冷めてもっと不味く前に早く食べましょう」

 

 カティアは怒ったような声を出した後、肉が盛られた皿に集中するかのように、顔を伏せた。

 アレンも同じように皿に目を落としながら、もし万が一熱病で助手を亡くしたりしたら最悪な事態だな、などと考えていた。

 ある程度の薬は持参している。腐りかけの肉を食べて腹を下した、とか、火傷した、とかならいくらでも対処できる。でも思い当たる節がないまま何らかの症状が出た時、その病名を言い当てられる程の診断道具は持ってきていない。こんな未開の地だから、この世の誰一人罹患していないような奇病を発症する可能性すらある。

 

 アレンはせっせと肉を口に運びながら、時折カティアを盗み見た。

 カティアの頬はまだ少し上気している。それは、見ようによっては、出会った頃の青白い頬より健康的ともとれた。

 だが、この世は予期せぬことばかり起こる。何事も、対策しておくに越したことはない。

 アレンは、食事を終えた後も淡々と考え続けていた。

 寝仕度をしながら、山で発熱した場合、その後どういった症状が起こり得るか、どういう処置が有効か、頭の中で埃を被った知識を掘り起こして回った。そのうち、だんだんと頭が重くなっていった。感情を示す比喩ではない。もちろん物理的な重さというわけでもなく、要するに、病の徴候としての頭痛に襲われた。

 実のところ、熱があったのは、アレンの方だった。

 

「どうしたものかな」

「何が?」

 

 寝台の上から顔を覗かせたカティアは、アレンの上裸を認めて、ぎょっとしたように目を見張った。

 もっとも、カティアはアレンの裸には見慣れていた。アレンの着ぶくれ姿の下に、学者には似つかわしくない美しい筋肉が隠れていることは、一つ屋根の下で暮らすうちにカティアもよく良く知るところになっていた。

 だから、彼女が驚いたのは裸に対してではなく、その発達した上腕二頭筋の上で真っ赤に腫れあがった傷痕に対してだった。

 

「俺は今、熱がある。単に傷の炎症に続発したものなら良い。だが、人から人に感染するような類のものだとしたら、君とは別の部屋で寝るべきだ。でも、この山には部屋が一つしかない」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! 部屋以前に、看病できる人も一人しかいないのよ?」

 

 カティアは、怒声を上げた。

 

「看病するつもりなのか?」

 

 アレンがどこかぼんやりとした表情で返す。

 

「当たり前でしょう! だから、アレンは早く寝て!」

「寝て治るなら苦労しない」

「じゃあ、どうしたら治るか教えて」

「そう簡単に治るなら苦労しない……が、そうだな。ここに薬袋がある。薬は俺が好きなタイミングで飲むから、その時は水を用意してくれ」

「わかったわ。それから?」

「もし俺が粗相をした時は、吐瀉物や排泄物は凍らせて運んだ後、強火で燃やしてくれ」

「わかったわ。他には?」

「万が一俺が死んだ時も、強火で燃やしてくれ」

「馬鹿なこと言わないでよ! 他に何もないなら、さっさと寝てちょうだい!」

「馬鹿じゃない。本気だ。じゃあ、寝る。おやすみ」

「……おやすみ」

 

 アレンは、まるでいつも通りかのように、寝袋に入った。いつもの通り目を瞑り、入眠を目指しておぼろな思索に耽る。

 ――カティアは、終始怒っていた。それは、人の心を持たない、と揶揄される自分にもわかる。そこに、怒り以外の何かが混じっていたこともわかった。そういうものが存在することも、もちろん知っている。知っているけれども――。アレンの意識は次第に遠のいていった。

 そうして、いつもは日が昇るまで、じっくりと眠る。起きた後、その現実と夢の境目の思案は、大抵頭から抜け落ちている。

 

 だが、いくらアレンがいつも通り過ごそうとしても、体はそう上手く働いてはくれなかった。

 何かが体を侵している。それが細菌やウイルスの類か、寄生虫か、あるいは毒なのかはわからない。幸い咳はなかったが、とにかく熱が高い。それが彼の最も優れた場所である、頭脳をぼんやりと霞ませていた。

 アレンは夜中に目を覚ました。寝汗がひどい。解熱剤があったな……と思いつつ、それ以上のことが考えられない。

 と、ふいに、額がひやりと冷たくなった。

 わずかに視線を横に動かすと、そこに、床に座り込んだカティアの姿があった。彼女の細い腕が見える。でもその先は見えない。ああ、これは、カティアの掌の温度だったか、と思う。

 

「……大丈夫?」

「ああ。……で、何しているんだ?」

「寝苦しそうだったから、おでこを冷やしてる」

「……変な女だな。俺が死んでも、困らないだろうに」

 

 アレンが寝言のように呟くと、その場に沈黙が降りた。パチパチと木が爆ぜる音だけが聞こえる。

 数秒してから、カティアが口を開いた。

 

「……私は、多分、困る。あなたのことが、好きだから」

 

 カティアは暖炉の火を背にしていた。熱のせいか、逆光のせいか、アレンからは彼女の表情が良く見えなかった。

 

「好き、か……」

「あなたからしたら、理解不能なんでしょうけど。私は本気だから。あなたに死なれたら困る」

「いいや、理解できる」

 

 アレンの言葉は、尚も寝言のようで、どこか聞き取りづらかった。

 

「強い遺伝子を持つ異性に惹かれることは、動物として至極自然なことだ」

 

 カティアは、一瞬ぴたりと動きを止めた。

 

「……そう。それだけ頭が働いているなら、大丈夫そうね。でも、もう寝た方が良いわ」

「ああ……そうだな」

「おやすみ、アレン……」

 

 アレンが瞼を閉じても、カティアはじっと額を冷やし続けていた。

 それから、ようやくアレンが安らかな寝息を立て始めた頃、人知れず深い溜息を落とした。

 

「……本当に、馬鹿よね。私もあなたと同じくらい賢くて、あなたと同じ考え方ができたのなら、もっと楽だったでしょうに」

 

 カティアは泣きそうな笑顔を浮かべながら、ぽつりとつぶやいた。

 

 

 ■ ■ ■

 

 

「久しぶりだな、アレン」

 

 ダグラスがジョッキを掲げて乾杯のポーズを取っている。アレンはそのジョッキに、自分の手の中のジョッキをぶつけながら、「ああ」と答えた。

 二人のジョッキを満たす黄金色の液体は、慣れ親しんだ立ち飲み酒場の馴染みの酒だった。ただし、アレンはしばらく酒場から足が遠のいていた。ぐっとジョッキを煽れば、クセのある苦みが鬱陶しく舌に絡んでくる。

 二人の周りでは、言い飲みっぷりだな! と歓声が上がっている。ダグラスが連れてきた、顔見知りの男女の声だった。

 

「アレン、本当に北山に行って来たのか」

 

 じゃがいも顔の男が言う。男は、アレンの所属する大学の下級研究員の一人だった。

 アレンは、こいつの名前はなんだったかな、と考えた。だが、思い出せない。まあ良い、研究員Aでいいだろう、と頭の中で符号し、ああ、と答えた。

 

「ええ! 本当に!? すごぉい」

 

 甘ったるい声を出す女は、いつもダグラスが連れてくる女たちの一人だ。いや、もしかしたら違うかもしれない。どの女も似たような髪型と化粧をしていて、アレンにはもともと大した区別がついていなかった。アレンは、黒長髪Aと呼ぶことにした。


「それで、成果は得られたのか」

 

 酔って上気した顔で尋ねてきたのは、ダグラスだった。この酒場の中で、アレンが唯一本名を知っている男だった。アレンは、この男に直接誘われたからこそ、今この場で酒を飲んでいる。

 

「そりゃ、もちろん」

「論文は書けそうなのか?」

「近日中に書き上げて、発表する予定だ。この論文には、教授も唸るだろう」

「へえ、相変わらず大した自信だな。どんな内容なんだ?」

「発表する前に、口外するわけないだろ」

 

 アレンが呆れたように言うと、隣から研究員Aが「一緒に酒を飲む仲間だってのに、相変わらず冷たい男だな」と茶化すように言った。アレンは、無視を決め込んだ。

 

「発表する時って、人を沢山集めて発表するんですかぁ?」

 

 黒長髪Aが言った。

 

「いや、印刷物になって配布されるだけだよ」

 

 ダグラスが苦笑しながら答える。

 

「えぇ、残念。パーティーみたいなのがあると思ったのに」

「じゃあ、私たちでやりましょうよぉ。ここじゃなくって、もっと良いお店に人集めて!」

「それ、いい!」

 

 黒長髪Aと茶長髪Aが、勝手に盛り上がっていた。

 いや、女たちだけではない。ダグラスや研究員Aも笑顔で同調していた。

 

「ね、アレンも、良い考えだと思うでしょぉ?」

 

 黒長髪Aは上目使いをしながら、アレンの腕に、自分の腕を絡ませていた。慣れた手つきだった。

 アレンは「どうだろうな」と答えながら、妙な気持ちになっていた。女というものは、少なくとも俺に群がる女たちは、こうして体を擦り寄せてくることがままある。別に嫌ではない。時々においが鼻につくが、そういう生き物だと思えば耐えられなくもない。

 だが、嫌ではないが、どうしても比べてしまう。北のエレファスを見て、南のエレファスとの違いを書き出してしまうように、下界の女を見ると、山上の女を思い出してしまう。あの、雪のような透明なにおいと、無造作に下ろされた銀の絹糸のような髪を。淡泊で透き通った声を。

 

 アレンは黙り込んだ。だが、アレンが研究以外に興味がないことも、興味がない話題においては口数が少ないことも、周知の事実だった。ダグラス達は、沈黙したアレンそっちのけで、アレンの祝賀会をどうするか、ああでもない、こうでもないと楽しそうに議論していた。

 資金源の話は出ていない。大方、アレンがその功績で得るであろう金を当てにしているのだろう。

 皆、頬を上気させている。それを興味なさそうに眺めるアレンの頬もわずかに赤い。しばらく禁酒生活を続けていたせいで、アルコールへの耐性が落ちているようだった。

 平時と比べて、明らかに体温も高い。そうすると今度は、熱を出した夜のことが思い出される。

 結局のところ、あの発熱の根本原因はわからず終いだった。何が功を奏して完治したのかもわからない。カティアの献身的な看病のおかげかもしれないし、そうでないのかもしれない。もしかしたら今も体の中に病原体が潜んでいる可能性もあったが、アレンとしてはもはやどうでも良かった。例えば、アレンの飲みかけのジョッキを勝手に煽っているこの黒長髪Aに感染したところで、どうでも良かった。

 

「もう、アレン、いつまで黙ってるのぉ」

「……俺はもう帰る」

 

 アレンが素っ気なく返すと、黒長髪Aは焦ったようにアレンに腕を伸ばした。

 

「ちょっと、帰るって……え、だって」

 

 しかしその腕はあっけなく避けられ、そして黒長髪Aはその勢いのまま転倒した。転倒する時に、給仕の女のスカートの裾を掴んだ。その女がきゃあ、と驚きの声を上げ、手から盆を取り落した。幸いにも盆には何も乗っていなかった。だが、盆を落とした手からは、火花のようなものが飛び散り、その空間だけが蜃気楼のように歪んで見えた。

 はっ、とアレンが息を止めた。その場にいた誰もが、息を呑んでいたように見えた。

 

「魔女よ!」

 

 誰かが叫んだ。

 女は青ざめて、逃げ惑う。でも、どこにも逃げ場所なんてなかった。

 この場、いや、この世界のどこにも彼女を助ける者などいなかった。彼女はすぐに誰とも知らない男たちに取り押さえられた。

 

「いや! 私は何もしていない!」

 

 泣き叫ぶ彼女は、髪を鷲掴みにされて、店の外へとずるずると引きずられて行った。

 

「最悪だな。酒が不味くなった」

 

 ダグラスが舌打ちした。

 

「ああ……」

 

 アレンは、すっかり赤みの消え去った顔で答えた。

 本当に、最悪な気分だった。

 黒長髪Aを見て、カティアのことを思い出すのだって、決して良い気分ではない。だが、摘発された魔女を見てカティアを思い出すこととよりは、ずっとましな気分だったと、アレンは思い知った。

 カティアは優れた魔法使いだ。驚いたからといって、不意に魔法を暴発させてしまうことなど決してない。だが、誰しも最初は拙いものだ。カティアにだって、そういう時期があったはずだ。彼女は今まで幾度、そういう死線を乗り越えてきたのだろうか。考えれば考える程、陰鬱な気分になった。

 

 アレンは結局、その場の一切を放棄して、そのまま帰路についた。誰も、文句は言わなかった。場が白けてしまった為かもしれない。あるいは、アレンが酒場の支払いを済ませたことに安堵したのかもしれなかった。

 でも、アレンにはどうでも良かった。俺が興味があるのは研究だけ、と思った。思い込もうとした。

 帰って、書斎机の上に書きかけの論文を広げた。

 ペンを手に取り、仕事を進めようと思った。でも、どうしても筆が進まない。気分が悪い。気持ち悪い。悪酔いしたのかもしれない。こんなことは初めてだ。でも、こんなこともあるのかもしれない。そう思って、その日はすぐに布団に入った。

 

 アレンは酒に弱い方ではなかった。だが今回に限っては、二日酔いが、二日、と言わず、三日、四日……と長らく続いた。明らかに顔色が悪く、大学に出入りする度に研究員達やダグラスが、訝し気な目を向けてきていた。

 

「アレン、今から飲みに来ないか」

 

 一週間程経った頃だった。ついに見兼ねたダグラスがアレンに声を掛けた。

 

「……いや、酒はもういい」

 

 アレンは、顔を顰めて答えた。

 酒場のことを思い出しただけで、吐き気がぶり返しそうだった。

 

「今回は、俺とお前、二人きりだ。酒が嫌なら水でも何でも良い」

「俺は、論文を書くので忙しい」

「その論文を書いている気配がないから、誘っているんだ。すぐに発表する気がないのなら、俺の家に飲みに来い」

「……はあ、わかったよ。今からお前の家に行けば良いんだな」

 

 アレンは、諦めたようにため息をついた。

 だが、そういう仕草を見せてはいるものの、実のところ、心の底ではあの酩酊した感覚を求めていた。常に頭の片隅で渦巻いている何某かを、一時でも靄に包んで忘れたいと思っていた。とはいえ、あの忌々しい酒場には二度と足を踏み入れる気になれない。かといって、一人で家で飲むのも、荒廃した人間のようで嫌だった。

 だから、今のアレンにとって、ダグラスの誘いは渡りに船だった。

 

 そういう気持ちも手伝ってだろうか。ダグラスの家で飲み始めてから、存外に早く酔いが回った。

 椅子にもたれ掛かってちびちびと酒を啜るアレンは、どこか焦点の合わない目をしている。

 ダグラスは、そんなアレンを見て、満足そうに頷いた。

 

「それで? 一体何がそんなにお前の頭を悩ませているんだ?」

「……」

「俺とお前の仲だろう? この際、何でも話してくれ」

「……」

 

 酩酊による靄は、確かに忘れたい何某かをぼやかしてくれている。だが、当たり前のことながら、その靄は頭全体を薄ぼんやりと覆っていた。

 アレンは、ヒック、と一つ吃逆しゃっくりをしてから、おもむろに口を開いた。

 

「個体数の少ない動物……そうだな、仮に、ノーザン・エレファスと名付けよう。例えばその希少な牙が恋人の不治の病……労咳ろうがいの特効薬だとわかったとする。ただし、それは毎日飲み続けなければ、効き目が切れていずれ死ぬ。このことを論文にまとめれば俺は相当な富と名誉を得られるだろうが、その獣は乱獲されて、いずれ俺でも手に入らなくなるかもしれない」

「……ほう?」

「おかしな話だが、そう考えると、手が震えて論文がうまく書けなくなってしまう」

 

 アレンの例え話は、全くの出鱈目だった。酔っていて、その例え話が、今の自分の心情を表す妥当な話なのかも判別できない。

 それでも、最後の一言だけは、確かに彼の本心だった。

 

「たしかに、お前の口から聞くと、おかしな話のように聞こえる。でも、一人間の話として考えれば、どこもおかしくはない」

「……ふん。じゃあ、普段からそういうことにいちいち悩んでいる凡人達は、どうやってやり過ごしているんだ」

 

 アレンは、ダグラスに胡乱な目を向けた。

 ダグラスは、アレンをじっとりと眺めた後、重々しく口を開いた。

 

「天秤にかけて、どちらかを選び取るしかない。お前は違うんだろうけど、俺たち凡人はそうやって色んなものを捨ててここまでやってきた」

「お前も何か捨てたのか?」

「……色々捨てたさ」

「例えば?」

「……プライドとかかな」

「プライド? お前に捨てるプライドなんてあったのか?」

「捨てた結果が、今の俺だ。ま、何にせよ、お前が人を愛せる人間で良かったよ。まさかお前に恋人がいたなんてな」

「ただの、例え話だ」

「そうか。……彼女の健康状態は、あまり良くないのか?」

「……さあな……」

 

 アレンは、最後に見たカティアの姿を思い出す。

 彼女は明らかに元気がなかった。憂鬱そうな表情を浮かべていた。とは言えそれは、健康状態の不調からきたものではないのだろう。彼女は健康だった。だが、それ以降の経過など知る由もない。熱病に罹患した自分と同じ部屋で過ごし続けたことが、気がかりだった。潜伏期間を経て、俺が去った後に発症したりしていなければ良いが……。

 黙りこくったアレンを見て、ダグラスは、ふ、と息をついた。

 

「……彼女が心配なんだな。とりあえず、今夜は帰って沢山寝ろ。それからじっくり考えろ。なんなら、しばらく大学を休んだって良いんじゃないか」

「ああ……。……大学は休むつもりはないが」

「まあ、お前ならそう言うか」

 

 ダグラスは、ははっと笑って、アレンのグラスにドボドボと酒を注いだ。

 

「帰って寝ろ、と言わなかったか」

「まあ、最後に一杯景気よく飲み干してから帰れ」

 

 アレンは眠たげな半眼でグラスを睨んだ後、ごくごくとそれを飲み干した。

 

 ――アレンが次にはっきりと意識を取り戻したのは、翌日だった。

 完全に記憶を失ったというわかではない。ただ、うつらうつらとしながら帰り、惰性で布団に入ったものだから、曖昧にしか覚えていない。

 その代わり、久しぶりに良く眠れた。

 目が覚めて、二日酔いに陥っていることに気が付いたが、それほど気分は悪くなかった。

 なんだかんだ言っても、アレンも人並みに悩む人間だった。人間である以上、悩みを口にするだけで、ある程度気持ちが晴れる。

 何も解決していないが、少なくとも、解決に対して僅かに前向きになれる気がする。

 

 ――そう思っていたのも、大学へ着くまでのわずかな間だったが。

 

 アレンは大学へ着いて、その話を耳にし、愕然とした。一瞬の後はっと我を取り戻し、こんなことで自失するなんて平和ボケしたものだ、と自嘲した。

 アレンは、すぐさまダグラスを探した。だが、すぐには見つからなかった。ダグラスは今や時の人となっている。そして、それはアレンも同じだった。衆目が煩わしい。こういうものからは、逃げたくなるものだろう。

 アレンは、チッと舌打ちした。そのまま、人目につかない屋外の倉庫へと向かった。

 そこは、喫煙者御用達の場所だった。近付いてみれば、今日も、建物の向こう側で細くくゆる煙が見える。休憩を取るには、まだ大分早い時間だというのに。

 

「なんでノーザン・エレファスの研究概要がお前の名で発表されているんだ? ダグ?」

 

 倉庫裏に回り込んだアレンが、剣呑な声で尋ねた。対するダグラスは、ふうっと煙を息を吐いて笑みを浮かべる。余裕の笑みだった。ダグラスは、アレンがここに現れることを予想していたようだった。

 

「お前がうじうじしていたから、友人として背中を押してやったんだ」

「……へえ?」

「そう怒るな。ちゃんと共著者にお前の名前も入れてやったぞ。試料を採取した者、としてな」

「……お前は学者じゃねえな。人の研究を盗んで発表して、何が楽しいんだか」

 

 アレンは、ダグラスを睨みつけた。

 アレンには、心底理解ができなかった。学者を学者たらしめるのは、知への飽くなき欲求だ。論文だけ発表したところで、その欲求が満たされることなどない。少なくとも、アレンにとってはそうだった。

 

「昨日も言っただろう。俺はプライドを捨てたんだ。凡人ってのは、成果を上げ続けなければ、学者でいつづけることすらできない。研究費を切られてしまう。学者のプライドなんかに縋りついていたら、大成する機会を逃す」

 

 アレンは何かを返そうと口を開いた。しかし、言葉を発するよりも早く、ダグラスが「ああ、でも」と何かを思いついたような声を出した。

 

「プライドを捨てることには慣れていた。なんせ、長いこと、お前の友人という道化を演じ続けてきたんだからな」

 

 ダグラスは嘲るような笑みを浮かべた。アレンの悔しがる姿を見て、長年澱のように積もっていた溜飲を下げたかったのかもしれない。

 だが、ダグラスの思惑は外れた。アレンは無表情で口を開いた。

 

「お前は、道化を演じていたわけじゃない。お前は、今も道化そのものだ」

 

 ダグラスの瞼がぴくりと動く。

 

「牙が不治の病の薬? そんなの大嘘だ。早計で馬鹿な発表をしたものだ」

 

 ダグラスは笑みをおさめた。

 しかし、すぐに口の端を持ち上げ、「……だったらどうするんだ?」と言った。


「ダグラスの研究は嘘です、って発表するのか? そしたらまあ、俺の立場は悪くなるかもしれないな。でも、お前に偽の試料を渡された、と主張するのもいいな。何せ、お前は嫌われ者だからな。傲慢不遜で、誰もがお前を疎んでいる。うまくいけば、これでお前を蹴落とせるかもしれない」

 

 話しながら、ダグラスはだんだんと早口になっていった。

 アレンは、そんなダグラスを見て、は、と鼻で嗤った。アレンの目に映るダグラスは、今や余裕をなくし、自分の目的さえ見失っているかのようだった。もはや学者ではない。友人でもない。ただの、愚かで醜悪な男にしか見えなかった。

 

「お前は、凡人以下の馬鹿だな。何故、俺がお前に偽の試料を渡す必要がある? 俺は既に論文を書き上げてある。お前が発表した陳腐な感想文じゃない。しっかりデータを組み込んで、論文の形にしたものだ。……お前の学者としての最後の仕事は、俺の背中を押してくれたことだな。ようやく教授に提出する決心がついたよ」

 

 アレンはそれだけ言い残し、その場を去った。何かを喚くダグラスを残し、ゆったりと歩を進めた。それからダグラスの視界から出た辺りで、速足になり、どんどん速度を増し、やがて駆け足になった。

 頭が重かった。胸が苦しかった。吐き気が抑えられない。

 一体何がそんなに自分を苦しめているか、アレン自身にもよくわからなかった。いや、わかりたくなかった。

 ダグラスなど、取るに足りない存在だった。有象無象に何と思われようと、構わないと思っていた。だが、ダグラスの言葉はじっとりと、アレンの心に重く沈んでいった。

 きっと俺は紛うことなき屑なのだろう。俺の周りに人間が群がるのは、単に、俺に地位や金があるからだ。そうやって群がる人間にとっても、そうでない人間にとっても、俺は嫌われ者なのだ、と。

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 白銀の斜面、切れ切れの霧の中で、赤と緑が揺れていた。そこに聞こえる音は、男の苦しそうな喘鳴と時折吹く風の金切り声ばかり。

 男は急いでいた。山の日暮は早い。太陽が水平線に沈み切るよりも先に、木々や霧が日の光を遮ってしまう。そうなれば、とても冷え込む。心身に堪える。

 

 アレンはもう、その冷え冷えとしたものに耐えられそうになかった。思いつくがままに家を出て、無我夢中で山を登っていた。

 幾度か足を滑らせ、ひやりとした。このまま滑落したら、あるいは猛獣に出会ったら――いっそのこと、それでも良いかもしれないな、とアレンは自嘲した。それでも、その瞬間までは、と必死に足を動かした。

 

 そうして、辺りが銀灰色に沈んだ頃、アレンはようやく小屋の前へと辿り着いた。

 一度、大きく息を吐く。肺が凍てついたように痛かった。最初にここに来た時でさえ、こんな風ではなかった。

 かじかむ手で戸を叩けば、耳馴染みのない音がする。思えば、アレンがこの小屋の戸を叩くのは初めてだった。

 返事が返って来るはずもないとわかっていたが、そうせずにいられなかった。

 アレンは、もう一度息を吐いた後、「俺だ、アレンだ……」と固い声で言った。

 すると、先程までしんと静まり返っていた屋内に、わずかに人の気配を感じた。衣擦れのような音だった。すぐに、懐かしさを感じる足音が聞こえ、ドアが薄く開いた。そこにカティアの美しい藍色の瞳が覗いている。

 不安に満ちていた目はやがて見開かれ、それに呼応するかのようにドアも大きく開かれた。


「アレン……? どうしたの!?」

 

 カティアが驚いたように声を上げた。

 

「……少し、話があって」


 アレンが、白い息を吐きながら答える。唇が凍り付いたように、抑揚のない声だった。顔も冷え切って、どことなく青白い。

 カティアはそんなアレンを、怪訝そうに、そして心配そうに見つめた。


「とにかく、入って。そろそろ日が暮れるから。えっと……今日は泊まるんでしょ?」


 アレンはその時初めて、その可能性に思い至った。ただカティアに会いたい一心で、その先のことを考えていなかった。

 アレンは暖かい小屋に足を踏み入れながら、どこか覚束ない表情を浮かべていた。それは、カティアには見慣れない表情だった。


「えっと……どうしたの? 忘れ物?」

「……いや、論文を書き終えたから、報告しにきた」


 アレンは目的遂行の報告には相応しくなさそうな、静かな声音で答えた。


「そう……良い論文が書けたの?」

「ああ、これ以上ないくらいにな。俺の、最後の論文に相応しい」

「最後……? な、なんで?」

 

 カティアは、戸惑ったように尋ねた。

 

「……北山で見た生き物は、肉はまずいし、皮も固くて伸縮性に乏しくで有用性がない。牙には熱病を引き起こす毒が含まれている。狩るのは苦労するのに、狩ってもうまみが全くない。北山で、人類のためになるようなものは何一つ見つけることができなかった。そう発表したからな。今頃、口ほどにもないポンコツ学者だったと大いに揶揄されているはずだ」

「ええと……つまり嘘の発表をしたってことよね。どうしてそんなことを……?」

「……そうするしかなかったんだ。仕方なかった……でも、俺の意思でもある……」

 

 アレンは眉を顰めて絞り出すように言った後、口を閉ざした。

 それから、ややあって、カティアの目ををじっと見た。

 

「……カティア、君は、意図せず魔法を放出してしまったことはあるか? 例えば、驚いた時、とか」

「ええ……あったわ」


 カティアは顔を曇らせた。その質問は、カティアに苦い思い出を想起させたのだろう。

 それを見るアレンも、胸に小さな痛みを覚えた。


「そういう時に、魔力を通さない手袋をしていたら、人間に正体を暴かれることもなかっただろう」

「そうね……」

「だから俺は今後は、そういう手袋を作る。作って、魔力持ちに提供しようと思う。だが、この皮の特徴が人々の知るところになってしまったら、まるで意味がない。手袋が、魔力持ちの象徴になりかねないからな。それから、エレファスが乱獲されて数を減らすことも避けたい。だから、嘘の発表をしたんだ」


 カティアは、ぽかんとした顔になった。その一瞬後に、ふわりと、花を咲かせたような笑顔になった。


「すごく、良いと思う。あなたってやっぱり、すごいのね。すごい学者よ。すごい研究よ」

 

 その明るい声に救われたように、アレンも口元にうっすらとした笑みを浮かべた。

 

「だろう? だから、そのすごい生き物には、ノーザン・カティア・エレファスという名をつけて発表した」

「え……? 私の……?」

「研究成果に自分の名や近しい者の名前をつけることはよくある。世間にとってはゴミのような研究だとしても、俺にとっては最高の研究成果だから、君の名前を拝借した。俺みたいな屑の名前をつけるのはもったいない」

「…………アレンは屑じゃないわよ。屑は、そんな顔しない」

 

 カティアの声は真剣で、温かった。そのせいで、アレンは一層泣きそうになった。

 

「……屑だよ。俺はちゃんと自覚がある。だから、カティアが俺のことを好きだと言った時、それを信じる気にはなれなかった。そういうところが、また、屑なんだろうな。俺は、データ以外信じられない馬鹿なんだ」

「……いいじゃない、別に。私はアレンのそういうところが好きなのよ。噂とか、評判とかを気にせず、ありのままの私を見て、ありのままの私を評価をしてくれた。私はそれがすごく、嬉しかった」

 

 カティアの穏やかな顔を見て、アレンの表情はますます崩れて行った。

 アレンは俯くと、くしゃくしゃと赤毛を掻きまわした。

 

「ずっと、カティアに会いたかった。なのに、会うのが怖くて、研究を言い訳に逃げていた。俺は本当に意気地なしで、足りない男だ」

「足りなくたっていいじゃない。足りないところを補い合うための、共同生活でしょ?」

 

 カティアは腕を伸ばすと、まるで慰めるかのように、アレンの乱れた髪を撫で整えた。

 

「また、俺と共同生活してくれるのか?」

 

 おずおずと顔をあげたアレンに、カティアは笑顔で応える。

 

「もちろんよ。アレンと一緒に過ごすの、楽しいもの」

「俺にはもう、地位も名誉も金もないとしても?」

「ええ、そんなの、関係ないわ」

「……俺が、約束を破って、カティアのことを女として見ていると言っても?」

「それは、えっと、普通に嬉しいと思う」

 

 カティアは赤面しながらも、アレンの不安げな視線を受け止めて、答えた。

 

「俺が、カティアに会いたい一心で慌てて家を出て来てしまったから、寝袋を家に忘れてきてしまったと言っても?」

「え!? ど、同衾は早い!」

 

 カティアは狼狽して、ぱっと手を引いた。それから、あわあわと「いえ、アレンのことは好きよ? だからこそ、まずは、別の方法でもう少し仲を……」と取り繕い始める。

 その様子を見て、アレンはようやく、くすりと、心からの笑みを零した。

 

「じゃあせめて、本当の名前を教えてくれ」

「……」

「……駄目か?」

 

 アレンが眉尻を下げるのを見て、カティアは気まずそうな顔をした。

 

「……カティアよ」

 

 カティアが、小さな声で答えた。

 

「カティアが、本当の名前よ」

 

 アレンはあっけにとられた顔になった後、また、くすくすと笑った。

 

「……そんなに笑わないで」

「いいや、君らしいと思っただけだ。本当に、君らしい素敵な名前だ」

「う……アレン、ずるい。私はアレンのそういうところに弱い、というか、好きなのに……」

 

 カティアがもごもごと口籠る。

 

「なら良かった。俺はどうやら、君の全てが愛おしいらしい」

 

 アレンがにこりと笑ってカティアの手を握ると、カティアは真っ赤な顔をして、「ずるい……」とこぼした。

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 二人は、片や学者として、片や魔法使いとして、並外れた能力を持っていた。

 にもかかわらず、いずれの秀才も名声を得ることはなく、雪山でひっそりと生涯を終えた。

 世間は、彼らのことを不遇だと憐れむかもしれない。でも、彼らは確かに幸せだった。定型の幸せはなくとも、自分たちにとっての幸せが何であるかを知っていた。

 二人は歴史に名を残さなかった。だが、ある者達の記憶にしかと残った。――素晴らしき恩人として。そして、誰よりも仲睦まじい夫婦として。

この話は、好色男爵となんたら~という作品とほんの少し繋がりがある物語です。


思っていた三倍長くなってしまったのですが、ここまで読んでいただき深謝です。

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