溢れ出す気持ち
目が覚める。午前7時。規則正しい生活は何よりもの健康の証。
ふと両隣を見る。既にそこに2人の姿は無かった。
「あら、おはようございます」
アセロラさんは憑依するついでにサラッと挨拶をする。
「…逃げたりしませんし、何もそんなに急がなくても」
「だって、楽しみなんですもん」
ウキウキとした張りのある声。
そのままキッチンへと歩みを進める。
カシャカシャ…トントントン
既に誰かが料理をしていた。
手際の良い黒猫と、見ていて危なっかしいアーチュだった。
「あぁ、おはよ。今日は昨日のお礼がしたいんだ。リビングでゆっくり待っているといい」
黒猫がこちらを見て声をかける。アーチュはそれどころではない、といった顔だ。
「あら、そう?なら、今日はお任せしましょうかしら」
もう口調にはツッコまない。
リビングの椅子に座る。
「どうしたのでしょう、2人とも」
アセロラさんは聞いてくる。
「さぁ、分かりませんね。ま、良いじゃないですか、2人ともどれだけ成長したか見る良い機会でしょう?」
思いつく限りの言葉を吐く。
「そうですね」
軽いノリで、アセロラさんは答えた。
食卓に彩りが並ぶ。普段の黒いモヤのかかったものとは大違いだった。
「さ、食べようか」
「うむ、私も作ったのだ、間違いない」
謎の自信に満ち溢れたアーチュの声。逆にそれを聞くと不安になることは言わないでおこう。
アセロラさんはサンドイッチに手を伸ばす。
「…美味しい」
中身は正直意味の分からない組み合わせだった。胃が受け付ける許容範囲ギリギリを滑り込む、そんな感じ。
「…久しぶりに食べましたね、アンスールの料理」
あぁ、そうか。きっとこれは、アセロラさんの舌に合わせた料理なのだ。感情が体を通して伝わってくる。
今日はとても楽しい朝食の時間を過ごした。
午前中はアーチュによる街案内。最近できた場所だったり、改装された場所を案内してくれた。アセロラさんは目新しいものが好きなようだ。
「あれはなんですか!?」
見るもの見るもの、ほとんど全てに反応していた。さすがに聞く量が多すぎたのか、アーチュは少し苦笑した。
昼はちょっとお高めのランチになった。大丈夫、金ならある。…まぁ、今後しばらく少し節約しようかな…。そう思えるくらいの値段ではあった。
午後からは黒猫による隠れスポットの案内。高台に登った景色だったり、路地裏の猫の集会所みたいな場所の案内が主だ。
「さて、少しここらで休憩したら帰るとしよう」
黒猫はそう言った。場所は見晴らしのいい、芝生の敷かれた高台。
夕焼けが目に眩しい。
みんなが並んで寝転ぶ。
「…」
沈黙。誰も何も話し出すことは無い。カラスの鳴き声だけ、時間を告げるように響く。
「なぁ…」
黒猫は声を絞り出す。
「今日は…楽しかったかい?」
声は、震えていた。
「えぇ、とっても…」
名残惜しそうにアセロラさんは口を開く。
「そっか…」
アーチュは未だに口を開かない。被っていた帽子で顔を隠している。
「ならもう、満足したって…ことかい…?」
その声は未だに震えている。
「なぁ…アセロラお姉様…」
やっぱりバレてましたか、とでも言いたげにアセロラさんも帽子で顔を隠す。
「えぇ…とても…」
あぁ、そうか。それはそうだ。これだけ濃密な3日を過ごしたんだ。満足しないはずもない。これだけ満ち足りていた。
もう他に何を望むというのだろうか。
それなら…
「満足…出来るはず…無いじゃないですか…」
なんなのだろうか、この気持ちは。
「もっと一緒に過ごしたかったんですよ!前にも…言ったはずです…!私には3日なんてとてもとても足りたものじゃない!出来ることならもっと一緒に!同じ時間を過ごしたかった!」
嗚咽と共に気持ちが溢れだしてくる。
「楽しくなかった訳じゃない!楽しくなかったなんて嘘でも言えない!楽しかったんですよ!私は!だから…もっと一緒に!楽しい時間を過ごしたいだけなんですよ!」
アーチュの帽子の隙間から涙が零れる。
黒猫は必死になって耐ようとしているが、涙は止まることがない。
「…ホント…楽しかったんです…えぇ…」
一呼吸置き、声を整える。
「2人とも、大きくなりましたね」
アセロラさんはそう言うと、長い、長い沈黙が訪れた。