生きること
私はケトラの名を妹に託し、天界を去りました。妹は目を覚さないし、誰も私が見えない。私はしばらく下界を放浪していました。飢えて死ぬこともない身。私は行くあてもなく風の向くままに放浪していました。
ある日異変に気付きました。天使としても能力が徐々に使えなくなって行ったのです。私は天界へ一度戻り、しばらく車庫で調べました。学術書にはこう書かれていました。
『下界へ降り立った天使の考察
天使が下界へ留まり続けると天使としての権能が失われていくらしい。地上に溢れる人間のエネルギーを徐々に吸収し、星に適応するため人間に近い存在となるようだ。しかし、魔力はそのままの状態になるらしく、人間でも無く、天使でもない、不安定な状態となるのだろう。その状態は、堕天使が1番近いと思われる。
人間のエネルギーを経口投与した場合、つまり食事をした場合、天使の権能が失われる速度が早まるようだ。いずれ、堕天の際、人間の食物を与える事で堕天させる、そのような形になるやもしれない』
私は下界を彷徨うように、飛び回っていました。私に残った権能はおそらくあと僅か。私は最後に妹の顔を見て、天界を去るつもりでした。しかし、予想外の事態が起きました。
『妾は下界を守りたい…どうか…妾を下界に下させてくれ!』
魔王が天界を訪れていました。下界に降りる事くらい、1人でも出来るでしょうに…。
『すまぬ…また来る』
とぼとぼと部屋を出てくる魔王。私は気になって声をかけました。
『あなた、下界に降りるだけなら簡単じゃないの?この前だって降りてたじゃない』
『なぬ…バレておったのか』
『なに、私だけよ』
『そうか…いやな、妾は降りるだけなら出来る。じゃが、魔力をほとんど持っていけない。妾が世界を守るためには力を示さねばならん。それには天界からゲートを開く必要があるんじゃ』
なるほど。ゲートを正式に通さなければ魔力はほとんど持っていけない。
『妾は魔王じゃからな。悪さを働くのでは、と思ってあるらしい…先祖様の行いがここで祟るとはの…カカ…』
苦笑する魔王。その姿は弱々しいにも程があった。
『いいわ』
『…む?』
『開けてあげる。私が。そのゲートを』
『…それは誠か…?』
『えぇ、誠よ』
『お主、どれほどの罪に問われるか分からんのじゃぞ…?』
『たかが天使1人、世界と比べたら小さすぎる代償よ。その代わり、もし私が地上に降りてきたら、その時は面倒見てくれる?』
『…!もちろんじゃ!ありがとう…!本当に…!』
魔王は泣いていた。たぶんここまで相当な苦労をしたのだろう。私は…果たして役に立てたのかな…。
天界のゲートを開く。誰も私が見えないから、ゲートが1人でに開いたと思うだろう。
『それじゃあ、頼むわね。世界を、星を救ってきて』
『当然じゃ。天界から降りてきたら、声をかけると良い。高待遇で迎えよう』
『楽しみにしておくわ』
こうして魔王は天界を去り、地上で戦争を止めにいったのだ。
それからしばらく私は魔界で時を過ごした。天界とは逆に魔界は時の流れが早い。一刻も早く平和な世界が見たかった。少し時を進めてみたら、戦争は無くなった。しかし、戦闘が絶える事は無かった。魔王は一所懸命に動いているというのに…。
私は林檎を一つ、地上から持ち出し、天界へ向かう。天界へ着くと、私は林檎を齧った。
私の中の天使の権能は完全に失われ、天界から弾かれた。堕天した天使はこうして天界から弾き出される。
そして魔王の元へ降ってきた。そこで貴方達と出会ったの。
※
「結局何故使い魔がベゴニアを襲ったんだ?」
「さぁ?私の事を良く思っていない輩でもいたんじゃないかしら?」
「さぁって…。結局ケトラはまだ目を覚ましていないのか?」
「えぇ、私はケトラの様子をずっと見てた。見えない時でも魔力でケトラが起きたかどうか分かるようにしていた。起きた事はないわ」
「そうか」
…何か引っかかる…記憶に齟齬が生じる…。
そうだ…おかしいじゃないか…。
「俺に能力を与えたのは大天使ケトラって名乗っていた…起きてないなんて事はあり得ないはずだ…!」
そうだ。ベゴニアが襲われた日は大天使就任の日。ケトラが気絶して目を覚さなくなった日もまた大天使就任の日。この状態で俺に能力を与える事は不可能なはずだ。
「さぁ?ま、いつか分かるんじゃない?分からなかったらそれまでよ。」
「…」
分からない、なぜここまで切り捨てられるのか。
「なぁ、なんでそこまで知ろうとしないんだ…」
「別に興味ないからよ。私の事が嫌いな人見つけ出して何をする?その人を虐める?しないしない。私が知りたいのはこの世界だけ。それ以外は興味ないのよ」
やっぱり俺には分からなかった。
「とりあえず、しばらくはここに滞在するようだし、私の事は気にしないで。大丈夫。私は天使だから。飲まず食わずでもどうって事ないの」
「…」
その目は平静を装っていたが、寂しさを、辛さを秘めている目だった。でも、俺にはどうする事も出来ない…。そのまま、時間は過ぎていった。ゆっくり、ゆっくりと…。
※
「お世話になりました」
アルテミスさんにお辞儀をする。
「いえいえ、またいつでもお越し下さい」
そうして俺は天界を後にする。
「なぁ、カトレア?」
「なんじゃ?」
「ベゴニアに何かしてやれる事はないかな」
「さぁの。妾には分からんよ。彼奴は強い。じゃから、弱さを見せない。補う部分が分からぬ」
「そっか…」
俺は立ち上がる。向かう先はキッチン。冷蔵庫を見て、手軽に出来そうなものを作る。
「よし、出来た」
フレンチトースト。卵と牛乳、砂糖とパンがあれば手軽に作れる。
「ベゴニア、今日はありがとうな」
ベゴニアへの差し入れ。彼女は言ったのだ。飲まず食わずでも平気と。
「…ありがとうございます。いただきますね」
昔、俺は一冊の哲学書を読んだ。
「…おいしい」
彼女の頬に涙が流れる。
「…とても…おいしいです…」
そうだ。生きるとは、食べること。食は人生を豊かにする。それは人でも、魔王でも、天使でも同じなのだ。
「私…ホントは辛かったです…何も食べれない事が…美味しいものを食べると、幸せになれます…平気なわけありませんよ…飲まず食わずとか、地獄のようです」
「当たり前だ。生きるとは食べることらしいからな」
「ふふ…なんですかそれ…」
こうして俺は戻った。みんなが待つ地上へ。
はてさて、これから何が待ち受けるのやら。
俺は為さなくてはならない。この天使も、魔王も、地上のみんなも、守るために。