αの血族の闇①
夜の闇の中、控えた照明の明かりがぼんやりと老人と青年を照らし出す。
杉本家の当主は腐っている。
一槻は不快さに眉をひそめた。
逢う魔が時に妖怪にでも出会ったらこんな奴なんじゃねえ?と目を細める。こんなのが同じ人間だとは思いたくない、と一槻は口元を歪めた。
杉本家の一族はαの血族だ。しかし、一族に今いる杉本家の血を引く者に「子ども」が一人もいない。「αの純血を継ぐ子ども」は。
ただ一人、彼らの希望の光が分家筋にいるというΩの娘。
彼女は数年前、杉本本家当主の子どもを身籠ったけれど流産してしまったらしい。その時から彼女は臥せっているらしいけど……。
子どもと呼ばれる相手の年齢を考えればもう醜聞としか言えないそんな出来事。それをさも得意気に話す狂った男が今一槻の目の前にいる人物で、杉本本家当主本人だという。
はっきり言って七十代には足を突っ込んでいてもおかしくない老人だ。上等な結城紬を着て程良く枯れた様子を取り繕っているようだけれど、下衆な笑みを浮かべる時点で底が知れている。
このどこか未だに脂ぎった様子を見せる老人が、Ωの少女を身籠らせた、らしい。
吐き気がする、と一槻は無言で目を細める。
この一族は同じαの種ならたとえ老人であっても本家の正当な血の方が良いと判断したらしい。
──誰が?
多分、この老人が。
そして今ふてぶてしい笑みを浮かべながらこの男は言う。
「どうだね? 養子縁組の件、そろそろ色よい答えが聞きたいものだが」
今度は一槻をαの血族へと取りこむつもりらしい。
身寄りもないからと舐めてかかっているんだろう。確かにこうして監禁されてしまえば一槻には抗う手段はほとんど残されていない。
だから一槻は黙り込む。
その強情なまでの意思を見て、老人は表情をさらに一段醜くした。権力をかさにきて驕り高ぶるその男は口元を喜悦に歪める。
「なぁ、渋澤先生のお孫さんの一槻君。ちょっと本音の話をしようじゃないか」
「──僕を解放して下さい」
間髪入れず、切って捨てるような一槻の返しに杉本家の当主はニヤリと笑った。それは自分の有利を確信するかのような厭らしい笑みだった。
「君は朔子に儂の子を産ませてやろうとしたことに随分とご立腹のようだがね」
「十六になったばかりの子にヒートを起こさせて妊娠させるなんて、鬼、畜生のすることですよね? その程度の常識が分からないなら、この情報を女性週刊誌にでも流してやったらどうですか? 世間一般のありがたーいご意見を頂けますよ?」
流石にこの一槻の言葉には杉本老人も気分を害したらしく、口をひん曲げるようにしてぎろりと睨みつけた。
「──知らぬとは、良い気なものよな? そういう御高説を垂れ流すお前には、二代に渡って強姦魔の血が入っているというに、偉そうなことだ!」
一槻の顔から表情が抜けた。ガラス玉の目でこちらを見返す一槻に、してやったりの気分なのだろう。杉本は更に言い募る。
「渋澤先生と持ち上げてやってはいたがな、お前の祖父の人間国宝だった彫刻家『渋澤洋二郎』が、そもそもの犯罪者だ。この杉本家本家の娘、美鈴はお前の祖父に犯されて孕まされたのさ。Ωだった美鈴は隠されて育てられていたんだがね、それでも美鈴には惚れた男がいたそうで、結婚の約束もしていたらしい。だがお前の祖父のせいで全部台なしだ。朔子と違って美鈴は子どもを産んだが、その子はまたしてもΩで、男に犯されて子を産んだ。出来たのがお前だよ、一槻。まぁ、お前だけがαで生まれたが、所詮雑種と放っておいたんだがね。お前のご立派な祖父がしゃしゃり出て、祖母に死なれて独りになったお前を養子縁組した時は、なんの冗談かと思ったが。お前が祖母と慕っていた人は君とは全く血縁は無かったが、あの犯罪者はお前の本当の祖父だ。あいつのやったことを思えばとんだ偽善者だがな!」
老人はスキャンダルを得意そうにぶちまけたが、一槻が表情を消したままで動揺を見せないことにイライラした表情を見せた。
「何だお前、知っていたのか」
「……オレがこの『家』の血を引いてることぐらいは」
そう言って一槻が視線を向けた先にあるアルバムをちらっと見た、その目の動きで老人は察したのだろう。
一槻が見つけた古いアルバムには、ある集合写真があった。家族らが大きな木の下に集まって来ている写真だ。そこに一槻を女にしたかのような美少女と祖父を若くしたような懐かしい顔立ちの青年が混じって写っていた。
憎々しげにこちらを睨みつけながら杉本は言う。
「ふん。美鈴の写真を見たか。こんなことが無ければ、犯罪者の血なんぞ誰が入れるか! 我らの温情に感謝してもらいたいものだ」
ぎり、と歯を軋ませた一槻は、すうっと目を細めて杉本に言い返した。
「じーちゃんとお前らを一緒にするな。じーちゃんと美鈴って人との間に何があったかは分からない。だけど、オレはオレの中にある血を信じる。あんたの言う通りなら、じーちゃんは、美鈴さんにひどいことをしたんだろう。だけど、じーちゃんがオレを手塩にかけて育ててくれたことも事実だ。何が事実か分からないけど、例えあんたがいうようにじーちゃんが罪を犯していたとしても、それとあんたが今オレにやってる監禁は全然別物だ。一緒にすんな、卑怯者の癖に」
遠慮の消えた一槻の言葉に、当主である老人は顔色を変えて激高した。
「小僧、何様のつもりだ!」
わなわなと怒りに震える老人を真っ向から見返し、一槻は座った目のまま、静かに言った。
「例えオレがこの家の血を引いていたとしても、オレはあんたらと養子縁組をする気はない。お前ら一族はこのまま腐って滅びればいい。オレのじーちゃんを犯罪者と言うあんたは、現在進行形で犯罪者だ。いずれ、落とし前はつけてもらう」
「落とし前をつけるだと!? 小童め、お前に何が出来る!」
怒りで我を忘れる老人を前にした一槻の顔に、冷笑が浮かび上がる。
「…外からさぁ、音が聞こえるんだよねー? 慌てた人間の走り回る音だ。大方あんたの部下が、オレの監禁が世間様にでもバレたことに慌てて、どうにか誤魔化そうとしてんだろ。無駄だと思うけどねー」
素に戻った口調の一槻は嘲りを隠さない。
そんな一槻をぎょっとしたように見る杉本に、もう遅い、と呟く。
整った顔立ちを冷たく凍らせて笑う一槻は、さながら夜叉のように冴え冴えとした美貌をさらす鬼に見えた。彼にしては低い声が、呪詛のように部屋に低く響く。
「…あんたは祖父を馬鹿にしたけど、そんな祖父を死んだ今も慕うお弟子さん達はさー、どの人も色々優秀でねー。オレを可愛がってくれた筆頭があんたが繋ぎに使った梅田サンだよ? 一番他人に厳しくて祖父の恩に律義なあの人が、オレと不自然に連絡が取れなくなって動かないはずがないよなあ? 今頃あんたの何から何までしっかり調べ上げて、公権力も突っ込んで、何が何でもオレを助けにかかるよ。……おめでとう。もうすぐ、あんたはチェックメイトだ」
わなわなと怒りに震えていたはずの老人は、梅田の名を聞いた瞬間、硬直した。
自分が犯罪を犯していることを、今の今まで自覚していなかったかのように。
ほとんど人の物音も聞こえなかったこの屋敷は今、屋敷中から複数の足音や怒号が聞こえる。だが、何かが少しおかしかった。怒号の中に、恐怖に怯える声が混じるのだ。
ダダダダダという足音と共に、三人の銃を持ったSPらしき男たちが部屋へと飛び込んできて、扉を閉める。すかさずSPの一人が引き戸の扉の側にいき、どこかにあった仕掛けを作動させ扉をロックしたようだった。
一槻は彼らが入ってくるのと同時に立ち上がると、座っていたソファーを盾にするように飛び退く。しかしSP達はちらりと一槻を横目で見ただけで、すぐに関心を捨てたようだった。
SP二人が守るべき対象者の杉本老人の元へと駆け寄り、転ばさないように主人を立たせた。残り一人が銃片手に扉付近で退路の確保をしている。
青ざめた表情に焦りをありありと浮かべ、SPの一人が老人に早口で報告する。
「御前! 屋敷に化け物がッ」
SPの報告がおかしい。
現実主義で動くはずのSPが血相を変えて話す「化け物」の言葉に一槻は首を傾げた。
「く、黒い巨大な犬が屋敷に侵入してきたのですがっ、銃器が効きません!」
最初の報告に被せるように別の男も言いつのる。彼の顔は恐怖に引き攣り、銃を持つその手もガクガクと震えていた。
「奴は暗がりに溶け込むように動きッ暗視ゴーグルも効きませんッ。動きが速すぎて捕捉も困難です!」
「脱出を最優先に動きま」
SPが最後まで告げるより早くドアが弾け飛び、風を撒くようにして巨大な何かが部屋を飲み込んだ。いや、飲み込んだ訳ではない。その巨体が、部屋の半分を一気に塞いだのだ。
ドア付近にいたSPはオモチャみたいに巨体の衝撃で吹っ飛んでいき、鈍い音を立てて壁にぶち当たった。老人を守る為に後退し銃を撃ち込むSPらの動きを低い恫喝の唸り声一つで止めさせ、一槻を守るかのように小山のような巨体が立ち塞がると男たちに飛び掛かれるよう態勢を低くした。
巨大な黒い犬の姿をしたそれを、一槻は知っていた。
あの獣だった。
一槻を灰色の世界から引き戻してくれたあの巨大な獣が彼に背を向けて、老人たちに低い低い唸り声を上げている。黒犬の身体中の筋肉が引き絞られ、全身から怒りが溢れんばかりだ。一匹で部屋の半分以上を占める大きさはそれだけで恐怖そのものだと言うのに、その口元から漏れ出る何かは灼熱の炎に見えたし、その目も地獄の炎か何かのように爛々と燃え盛っている。
獣は老人とSP達を部屋の隅へと追い詰めるように身動きすると、ガッと巨大な口を開き、全身の力を振り絞るかのような呼気を彼らにぶつけた。
獣の口から容赦なく吐き出された灼熱が男たちを襲うと、彼らは絶叫を上げやがて糸の切れた人形のように頽れた。
不思議なことに、あれだけの熱が放たれたと感じたのに、彼らは何の代わりも無い姿でただ倒れていた。
獣の前足一本だけでも自分と同じくらいの太さがある体を小さくするようにして、獣が腰を落としてうつ伏せになると、さっきまでの怒気はどこへやら、一槻を怖がるかのようにそうっと振り返った。
迫力満点でどう贔屓目に見ても地獄の使者のようにしか見えない黒犬の顔を、一槻はしかし歓喜で迎えた。
「なぁ、お前、あん時オレを助けてくれた奴だろ!?」
ちらり、と獣の視線が上がって一槻を見た。大きな身体を遠慮がちに屈めて小さく首を縦に振る姿に、一槻は今の状況もすっ飛ばして晴れ晴れと笑った。
「オレ、助けに来てくれるんだったら、じーさんのお弟子さんたちの関係かなって思ってたんだけど、まさかずっと会いたかったお前に会えるなんてなあ! お前、オレの守護天使かな? ピンチの時にいつも助けてくれる奴がいるなんて、ほんとどんな贅沢だ」
晴れ晴れとしたその笑顔のまま躊躇いも無く、一槻は自分と変わらない大きさの巨大な犬の口元に腕を広げて抱きついた。
「ありがとな、黒いの」
ずっとお前にお礼を言いたかったんだ、と囁いた一槻に、大きな獣が体を折り曲げて甘えるように鼻づらを寄せてくる。生き物のどこか生臭い匂いの奥から、どこかで嗅ぎ慣れた匂いを感じた。え? と動きを止めた一槻を労うように獣がファサリとしっぽを揺らし。
「一槻。無事で、良かった」
犬が、若い男の声で話した。その声は、今では懐かしさすら感じる大切な人の声をしていた。