寂しい獣の夜に
新は躊躇っていた。
目の前には光の落ちた端末がある。繋げばもしかしたら一槻の声が聞けるかもしれない。
だけど、絵を描いていたら邪魔になる。一槻の邪魔はしたくない。でも叶うなら一槻の声が聞きたかった。もう三日も彼に会っていない。
黒い獣の姿の新は端末を上手く扱えない。一槻の呑気な声を聞きたいがまともに操作できるか怪しかった。
空を見上げれば見事な月がある。一槻もこの空を見ているだろうか。
──人恋しいなんて、初めてだ。
今は十五夜、満月だ。
月の満ち欠けに支配される彼は今、黒い獣の姿から戻れない。
そして人間としての「新」はこの時期にΩとして発情期を迎える。必ずだ。
だから彼はピルを飲んで発情期を抑えつつ、満月の前後一週間は山の廃された神社に籠った。
彼が発情期を迎えていないまだ幼い頃、満月の光を浴びて初めて「獣」に姿を変えた時、新は初めて迎えた発情期のフェロモンの刺激に狂った。
おんぼろ借家の中を四足の獣の姿で撥ね回り、壁に体当たりをし、身体の中の血が暴れ狂うままに猛り狂った。そこには彼の母もいて、新はその爪を激しく引っかけ母を血塗れにした。
いつもの立場を逆転させて。
今はもう消息も知らない母は、その時彼を「犬神め」と怒鳴りつけた。
新は祟り神だと。
血だらけになりながら自分が産んだ子どもに「バケモノ」と「死んでしまえ」と繰り返し叫んで夜の町に消えていった。
新が十歳になる年の夏の夜のことだ。
彼の母が新を愛したことは多分、なかった。
彼女は息子の日本人離れした整った顔だけは自慢していた。だけどそれは自分の持っている高級ブランドバッグを見せびらかすようなもので、それ以上ではなかった。
──父が誰か、新は知らない。
男を繋ぎとめるための妊娠だったらしいことだけ、母と彼女の友人との会話で知っていた。
一緒に暮らしながら新は母に捨てられていた。
気まぐれに小さな体を蹴られ殴られた。食べるものもろくに貰えなかった。
施設入所後、食事を自分たちで作る時間があることを知った時、食事を毎日食べられることより新がもっとそれを喜んだのは母のせいだ。母がいなくても作り方を知っていれば簡単には飢えなくて済む。同じ額のお金でも自分で作れるならもっと長く食べられもする。食べる物よりお金の方がもっと貰えなかったが。
そんな関係だったから、母が血だらけで家を出て言った後でも新は彼女を追わなかった。獣になった彼の鼻なら追いかけることも出来ただろうけれど、もうたくさんだった。
それよりも、体内を荒れ狂うΩのヒートの熱を振り払うように、新は荒れ狂う凶暴な意思に身を任せて町を走り抜けた。
四足の獣の姿を見られたらまずい、今の自分の姿は普通の犬よりデカい、誰かに見つかったら騒がれる。そんな判断ができる程、新は荒れ狂いながらもどこか冷静な自分を感じていた。
幸い彼が母と住んでいた町は郊外にあり、人気のない場所へ逃げ込むのにたいして時間はかからなかった。
走って走って走って。
山の中に不気味な神社を見つけた。
後で職場の年配の人から聞いたことだが、もう祀る人も祀られる神もいないそこは、もともとは山岳信仰の奥の院だったらしい。町に本社も無くなった今、通うのに車道もないこの山にある奥の院は解体されることもなく残されたままだ。
そうだからか、ここは低いとはいえ山頂近くにあるので町を見下ろせば星屑をばらまいたかのように美しかったが、神社そのものは圧倒的な禍々《まがまが》しさを纏ってそこにあった。
そして、そのマガツカミの神域のような場所にヌシはいた。ドロドロの怨念を纏って。
ヒートによる狂乱で起こした出来事でずたぼろの心と体のまま、新がようやく倒した怨念の残骸からどうしたことか変な影が立ち昇ってしまった。
その怪し気な影がヌシだ。ヌシと呼ぶのは新の便宜上だ。名無しより名前がある方が都合が良い。
こんな人外なものが保護者であったとは言いたくもないが、新の精神的なものはアレが支えてくれたのは確かだ。ヌシの言葉が無かったら、多分新の心は過酷な現実に壊れていただろう。
ヌシと初めてまともに話せたのは、ヌシを解放した戦いの後だ。
凄まじく不味い口の中に涙目で嘔吐く黒犬姿の新に、ヌシは聞きたいことはあるか、と尋ねた。まるで新の心の中の不安が見えているかのようだった。
紅い瞳を不安そうに細め、嘔吐いて汚れた口元を獣の前足で拭うと新はヌシを見つめて言った。
得体の知れない何かに恐怖もあったが、それより、この事態を説明してもらえるのなら何でも教えて欲しかった。
「俺は、一生このままなのか?」
『満月ノ前後ハ』
どこから聞こえてくるのか分からない声が夜の境内に響く。幽霊の声が聞こえたのだと言われても納得するような声だった。新は怪し気な影をじっと見つめながら問い掛ける。
「時間が経てば俺は元に戻るのか?」
『是』
まだ十歳の新には、ヌシの言葉は難し過ぎた。何を言っているのか分からなくて、新は眉をぎゅっとひそめた。
「分かんねぇ。ぜ、ってなんだよ? 合ってるってことか?」
『是』
さっぱりわかんねえ、と新は力無く首を振った。それでも気を取り直すようにして彼はヌシを見た。
「…俺は一生この犬みてーな姿のままじゃねえってことだよな?」
『オ前ハコレヨリ満月ノ前後ハソノ獣ノ姿ヲ纏ウ』
「満月限定?」
『是』
そっか、と溜息と共に俯いた新は、ノロノロと顔を上げた。その赤い眼には縋るような光があった。
「…なあ。俺って、祟り神なの? 犬神って祟るの? 俺は誰かを殺すの?」
『否。オ前ハ祟リ神デモ犬神デモナイ』
「え、じゃあ何?」
『知ラヌ』
間髪入れない言葉に新は言葉を失くす。ぼんやりと霞むようなヌシはその言葉に感情を乗せなかった。何を思っているのか読めないが、ヌシは淡々と言葉を重ねた。
『オ前ガ何者カ、我モ知ラヌ。分カルノハ、オ前ノ獣ノ姿ニハ怨念ヲ払ウ力ガアルコト。オ前ガ人ノ身体ト獣ノ身体ト、両方ヲ持ツコト』
ヌシの言葉を身動きもせず聞いていた新は、ぽつりと言った。
「…俺、化け物なの?」
『オ前ノ言ウ化ケ物ガ、先程我ニ憑イテイタ怨念ヲ指スノナラ、オ前ハ人間ダ』
ゆらゆらと陽炎のようにヌシの身体が揺らめく。
『オ前ノ言ウ化ケ物ガ変化スルモノヲ指スノナラ、オ前ハ化ケル者ダ』
ヌシの淡々としたその言葉に、新はかくりと力無く獣の尻を落とし、座り込んだ。
自分は母の言う犬神でも祟り神でもなかった。怨念という、あの禍々しい何かでもないらしい。同時に、人間であっても化ける者ではあるらしい。
──そうか、俺って化ける者なのか。
内心でそう呟いた新の獣の口元は本のわずか上に引き上がっていた。
化け物ではなく、化ける者と言われた事は存外新の心を軽くしてくれたのだ。
見るからに人間ではないヌシに「お前は人間だ」と言われたことは、少年新の心を救った。
『我ハ行ク』
新の心の変化に気付いたのだろう、今は清浄な気配だけを纏うヌシはそれだけ言い残すと忽然と姿を消した。
この元神域以外で、ヌシを見たことは無い。だが新の心が揺れてどうしようもない時はいつもヌシが現れて言葉を交わしてくれた。
自分が化け物めいた存在であるという秘密は、十の子どもには重かった。
例え大人であっても抱えきれないようなその秘された現実の重みに潰れそうな時、霞のようなそれは必ずやってきた。
だからもうこの先何があったとしても一人でだって大丈夫だと新本人も思っていた。
それが、ここ数ヶ月新は忘れていた寂しさに苦しんでいた。
発情期になると必ず周囲から脱走してここへと逃げ込んでいた新には、寂しさなどとうの昔に当たり前のことになってしまっていたはずだ。それなのに今一人きりでいる寂しさが途轍もなく胸を抉ってくる。
ヌシと出会った後、結局行く所などどこにもない新は自分がズタボロにした家に戻った。
彼が暴れた物音と母親の絶叫は近隣住民に聞こえていたようで通報されていたらしい。
事件ではないかと自宅を捜査していた警察に保護され、新はそのまま児童養護施設へ送られた。
中学を卒業してからは所長に後見人としてアパートに住めるようにしてもらい、脱走癖を持つΩという事情を汲んだ職場で働きながら一人住んでいる。
ヒート時の脱走のことは所長と主治医がピルの効きが悪いと申請してくれ、Ωの発情期休暇を貰えるようにしてくれていた。
けれど、支えてくれる人たちがいたとはいえ、施設にいた時も働いて一人暮らしを始めてからも、新は発情期の時は必ずあの廃神社へと籠った。
施設はいつだって周りに人がいたし、アパートに籠っていたとしても何かあった時に入って来られないとも限らないからだ。
獣の姿になる自分を誰にも見せる訳にはいかないから完全に一人でいられると分かるここにいられるのは、新を安堵させた。
一人生きていくすべさえ失ってしまう恐怖に比べたら、寂しさなどどうでも良かった。
そう、最近まで新はこんな気持ちにはならなかった。一槻と過ごすまでは。
寂しいなんていつ振りの気持ちだろうか。
一槻は新をほとんど構わない。日中は特に、ただひたすら絵を描いている。
一槻の頭の中には描きたい何かが確かにあるようで、新が例え動いてもその視線がキャンバスを離れることは無い。
一槻が見ている新には分からない何かも静かに待っていれば一槻の筆が動く度その姿を少しずつ見せてくれる。
どちらかといえば女顔のような一槻の整った顔は真っ直ぐ筆の先に現れる形を見る。その真剣な眼差しが綺麗だと新は思う。一槻が聞いたら「男に綺麗って何だよ」と笑うかもしれないが、新は一槻のその眼差しを見れるのが嬉しい。一槻が作品を生み出す大事な時間に、側にいてもいいのが嬉しい。
新は基本的に生み出す側じゃない。形になった怨念を壊す側にいる。仕事も警備の仕事なので、やっぱり何かを生み出してはいない。もしかしたら料理はそういう新の気持ちのバランスを取っているのかもしれない。
自分が壊す者だと強烈に自覚する新だから、一槻の側で何かが作り上げられていくのをみるのは幸せだった。
綺麗な顔立ちを遠慮なく崩すようにいつもけらけら笑っている一槻は、女性にはモテにくいと苦笑する。絵に夢中になり過ぎるのを許して貰えないから続きもしなかったらしい。面倒だし結局男友達とつるむのが楽だったから、誰かと付き合ったことはなかったと一槻はあっけらかんと笑っていた。
誰かとこんなに長く一緒にいるのは新が初めてだと聞いた時、新の鼓動がドキリと強く揺れた。
嬉しくて、嬉しくて、一槻の話すたわいもないおしゃべりを新は隣でひたすら聞いていた。
彼が河川敷で噛み殺したあの時一槻の顔は凍りついたかのようにひどくその感情を失くしていたが、今は百面相をするかのようにご機嫌でくるくる表情を変えていく。
新はそれをただ夢中で見ていた。
だから時間を作っては一槻の元へ行き、いつもその隣で丸ごとの彼を見ていた。二人の時間が何より楽しかった。
誰かと長く一緒にいることが初めてなのは一槻だけじゃないんだ、そう新も言いたかった。
新にとって他人の関心は怖いものだった。
興味を向けるその目に例え好意があったとしても変化の秘密を暴かれてしまったら、新は全てを奪われてしまうことになる。だからずっと誰とも距離を置いて生きてきた。
でも一槻はちょっと他の人と違う。
一槻の一番強烈な関心は絵に向いていて、一緒にいようが何をしようが、それはぶれない。
だからそっけないまでに一槻は新に踏み込まない。
それは女性達には嫌がられる個性だったかもしれないが、新には願ってもない長所と言えた。
居心地のいい相手と安心して側にいられる。それは、新が生きてきて初めての経験だった。
その嬉しさと共に、不安もあった。
獣の自分が一槻をあの日殺したのを一槻に知られるのが怖い。
例え一槻があの日のことを感謝してくれていても、今の自分はどう見たって人外の巨大な生き物だ。
小山のような体も、燃えるような赤い禍々しい目も、一噛みで大人の肩口から腹までを噛みつける巨大な口元も、灼熱のような呼気も、鋭い牙も爪も、人を怖がらせることはあっても喜ばせることはない。
人間にとって彼の姿はきっと恐怖だろう。
彼はヌシから自分は「犬神じゃない」と教えてもらった。だからどこか平然と、当たり前の気分で母の名付けた黒犬の自分を「犬神」と名乗った。母の言う祟り神じゃないことを新だけは分かっているんだから、名前なんてどうでもいい。そう、彼は思ったのだったが。
新は祟り神じゃないのに、あの日彼はそう名乗ってしまった。
この獣の姿でそう言われたら誰だって新が祟り神だと素直に信じてしまうだろう。新が禍々しい存在じゃなくたって意味はない。地獄の使者にしか見えないようなのに姿を変えてしまう奴が実は隣にいたことを知ったら、いくら呑気な一槻といえども新を恐怖の目で見るだろう。
人間は普通、獣に姿を変えたりしない。
そしてきっと新がそんな秘密を一槻に黙って側にいたことを許して貰えない。
だから新は一槻と距離を置く。
しかし分かっていてやっているのに、今の獣姿を秘密にしておくのは最善だと知っているのに、新の胸は寂しさに凍える。
ソファに二人座って飲み物のマグを抱え、たわいのない事をしゃべりながら過ごすあの一時が無性に恋しい。
強面な癖に臆病な新は、自分の気持ちを持て余して、途方に暮れたように空を見上げた。
発情期が終わるまであと三日。
くるりと獣の身体を丸めた新は、境内下で、窮屈そうにそっと鼻先を体に埋め、無理やり目を閉じた。