十三夜月
時々新はひどく無口になる。
それは月夜に関係するようで、満月に近づけば近づくほど憂鬱そうになる。
いや、もしかしたら月夜ではなく発情の周期に添ったものなのかもしれないが、新が頑なに喋ろうとしないので理由はさっぱり分からない。
「お前は狼男かなんかかっつーの」
ソファーの隣に座った一槻がくしゃりと新の髪を乱しても、煩そうに手を払うだけで、新は口を開かない。
一槻は二人分入れたコーヒーのマグカップの一つを、新の様子には無頓着なまま、強引にその手に渡してやる。
コーヒーぐらいは美味しいもんが飲みたいと、がぶ飲みする癖に一槻はそれなりに高級な豆で毎日毎日マシンを使ってコーヒーを淹れている。彼の唯一の贅沢品だ。
もうすぐ夕方の時間帯だ。
憂鬱そうな顔をして片膝を抱えつつ熱そうにマグを膝に置く新の姿は、変に不器用だ。どうも小さな子どものようで、一槻は何となく放っておけない。
だけど踏み込まないと一槻は決めている。
だからただ新の隣に座って、しばし同じ時間を過ごす。その行動を無言で新に許されているこの空気感が一槻には酷く心地良かった。
ゆったりとコーヒーを楽しんだ一槻はまたキャンバスに向かう。ソファーに新をほったらかしにしたままで。
それを新も気にしない。この感覚で互いに時間を過ごすことが二人にはとても自然なことだった。
ここ数ヶ月、新は渋澤の家に入り浸ってると言ってもおかしくないような定住振りだった。
ひと月ずっと居ることはなかったが、居られる時はずっとこの古い家に居て、絵に向き合うことに忙しい一槻の代わりに、案外器用な包丁捌きで新が食事を作る。たまに気持ちの切り替えをしたい一槻と一緒に台所に向かうことはあったが、新がいる時はほとんど彼が一人で作った。
料理は嫌いではないらしい。
自分で作れば好物が食べられるから、というの新が料理をする理由のようだ。
新が家主の代わりに料理を自ら作るようになったのは、例によって一槻の失敗が発端だ。
出会ってから一月以上過ぎたある日、ふらりと立ち寄った新を自ら迎えておきながら、絵に集中しきった一槻は新の存在を忘れて朝から夜までぶっ通しで絵に没頭した。
気がついたら外は真っ暗になっていて、新がソファに座って、一槻が描きあげていく下絵を静かにじっと見ていた。新がまだ部屋にいたことに大いに慌てた一槻が「せっかく新が来てくれたんだし、飯ぐらいご馳走しなきゃな!」とどたばた料理を始めたのだが、待っていたのに飽きたのか、新が珍しく、手伝う、と台所へやって来た。
一槻は基本的に食べられれば問題無い、と平気で言う性質なので、料理の腕は中学生程度で足踏みしている。自炊生活も長くなってきたと言うのに、ちっとも上達が見られない。
たどたどしい一槻の手元に悪い予感でもしたのだろう、悪戦苦闘する一槻を後目に新がちらりと冷蔵庫を見て、「こん中、勝手に使っても構わねえなら、俺作っても良いか?」と言ってくれ、「どうぞ?」と一槻が何も考えずに頷いたら、お前は絵でも描いてろ、とキャンバスに追いやられた。
また絵に夢中になっていた一槻が気付いた時には美味しいご飯が出てきて驚愕、その後、新の料理の腕前を一槻が大絶賛したという経緯がある。
週に一回宅配で届く食材の手配も、気がついたら新がさっさと注文するようになっていた。
新が一槻に一回の食費の予算を確認してくれてからその値段をオーバーしたことは一度も無い。気負いも無く料理をする新に、一槻は食事に関する全権を諸手を挙げて新に譲り渡した。
それくらいこの古い家に入り浸る新だったが、料理以上の関わりには頑なに手を出さなかった。
これだけ世話になっているのだから、と台風が荒れ狂う日に一槻が風呂や宿泊を普段のお礼代わりに勧めても、新は決して泊ってはいかなかったし、この家で風呂に入ることも無かった。
その辺りはどうやら新にとってなんだかとても大切な線引きのようで、遅くとも夜九時前にはこの家を出て帰っていく。
中坊よりも健全かもしれない。そんな事を一槻は思う。
新とはいつ来るともいつ来ないともお互い話さない。
新には「来たい時に来ればいい、オレはいつでもウェルカムだから」とだけ言ってある。
一槻は慎ましく暮らせば何とか生活できるこんなありがたい境遇を存分に楽しみ、もう一度もらった命を今度は遠慮なく使い潰そうと、とにかく絵を描いている。
あの絶望に沈んだ日々があるから、今の幸せが本当に嬉しい。
だからギャラリーを維持しつつも、世界を彩る色の美しさを噛みしめながら、一槻は筆を執る。
毎日、とにかく描く。
それが許される自分の境遇を心底ありがたいと思う。だからこそ、絵を描く時間は徹底的に集中する。一槻自身の作品を描いている時でも、仕事として依頼された作品を描いている時でも、気は抜かない。
そんな有様だから、新がいてもいなくても、一槻は基本的に気にしない。新も気にしてないようで、ただ一槻の側にいる。多分その距離感が良いんだろうな、と一槻は思っている。
新は毎日来る日もあれば、一週間以上姿を見せないこともある。
その「姿を見せない日」は何となく満月の頃の辺りの気がする。大抵の時間を製作に気が取られている一槻は、そんな気がするとは思うものの、新に何も聞かない。
話したいことがあれば話すだろうし、話さないということは、話せない内容なんだろうと思うからだ。
誰だって、言えないことの一つや二つぐらいあるだろう。聖人君子じゃあるまいし。もちろん、一槻にだってしまっておきたいことはある。だから、新が隠している何かがあったとしても、お互い様だ。
するりと新が立ち上がったのが視界の端に見えた。
そのまま気にせずキャンバスへと向っていた一槻がふと視線をアトリエのドアに向けると、いつの間にかコートを着込んだ新が部屋を出ようとしている。
彼が飲んでいたマグは片付けられ、部屋には明かりが満ちていた。
一槻の古い友人が試作品として強引に設置していった室内灯は案外優秀で、自動で部屋の明るさを一定に保ってくれるため、絵に没頭する一槻は余計時間の経過に気がつかない。
「もう真っ暗になってたんだな」
困ったように笑う一槻に、新は静かに頷いた。軽く手を上げると、どこかいつもと違う眼差しで一槻を見る。彼の無口無表情はいつもと変わらないと言うのに、その濃い色味の琥珀の目はどことなく寂し気な感情を宿してるかのように陰って見えた。
ひらりと新が手を挙げる。
「──じゃあな」
流された視線の先の目がいつもより少し細められていないだろうか?
新の挨拶にあった一拍の間にも一槻は引っかかりを覚えた。
「──新? どうかしたか?」
新のどこか何かを躊躇うような気配を声や態度に感じて、ドアを開け部屋を出ようとしていた彼に一槻は声を掛けていた。
「──なんでも、ないんだ」
こちらを一度も見ることなくそれだけぽつりと返した新は、そのままアトリエをするりと出て行ってしまう。
そんな新は初めてで、残された一槻はすぐには絵に戻ることも出来ず、困ったようにドアを見つめた。
ふと窓からのぞく空を見ると、満月に近づいた十三夜の月が地上の喧騒を余所に、静かにたたずんでいた。