それから、の新②
あの男を見たのは、噛み殺した日の前日、近所の小さなスーパーだった。
新はその頃にはもう、様々な怨念を山ほど見てきた。しかし、死者の怨念そのものは勿論よく見たが、それより何より怨念にべっとりと張り付かれた人間を見ることが一番多く、へばり付くそれを引き剥がせばなんとかなるものがほとんどだったのだ。
あの男はそんなレベルではなく、まだ「生きて動いているのに怨念になりかけ」ていた。そんなものを新はその時初めて見たのだ。
生きながら怨念になりかかっていたその若い男は、怨念が体にへばりつくのではなく、そのドロドロした汚泥状のものと体が混ざり合ってしまっていた。そんな姿は生きている人間には有り得ない。
怨念はきっと重いのだ。怨念が纏わりついている人間は、大抵動きが遅い。怨念の取り憑く量が多い程、取り憑かれる人間は動けない。ヌシはどう見ても人間ではないが、そんなヌシでもべっとりと体に怨念を纏わりつかせていた時には今のように自由に移動できてなかった。もっと言えば、窒息させるかのように全身が怨念に呑まれてしまった人間はたいてい死んでいる。それなのにさっき見たあの男は、普通に動き回っていた。その上で、存在というか魂というか、あの男そのものと念とがぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。もう怨念だけを剥がすように始末すればいいという状態ではない。
新はそんな存在を初めて見たのに動転し、慌てて店を飛び出すと必死の形相でヌシの所へ向かった。
あれはヤベえ。ただその言葉だけがぐるぐると新の頭の中を回っていた。
ヌシの回答は簡潔で惨いものだった。
ソレを助けたいのならソレごと噛み殺せ、さもなくばそのままソレは死ぬ。混ざり合っている悪い念が中の人間を喰い殺すだろう、と。
ヌシは社殿の暗がりにぼんやりとその姿を浮かび上がらせていた。闇の中に潜みながら霞のような何かでその存在を浮き上がらせる。ろくにモノも見えない闇の中なのに霞みたいに見えるって何なんだと新は思う。毎度のことながら、本当に訳が分からないが、それよりも語った内容が最悪だった。
新は激高した。まだ生きている人を殺せと?
冗談ではなかった。噛むことになるはずの、自分の、今はまだ人間のその口元が、牙が、気持ち悪さにぞわりとそそけ立った。
「俺は人間だ。獣じゃないんだよ!」
『オ前ガ喰ワネバ、奴ハ死ヌ』
「何で俺なんだ! 拝み屋なんていくらでも他にいるだろ!」
『ナレバ拝ミ屋ナルソレラヲ、連レテクルガ良イ』
取りつく島も無いヌシの言葉に、新はガシガシと頭を片手で掻き毟る。吐き捨てるように叫んだ。
「そんなモン、どこにいるかなんて俺が知るかよ!」
『他ニ道ハ無イ』
「くそっ」
『明日ハ、十三夜月ヨ。満月ハ近イ。オ前ノ獣ノ力ガ満チユク』
顔も形も分からぬヌシがひた、と新を見据えた気配がした。
『ソ奴ヲ助ケタイト願ウナラバ、獣トナリ、闇ニ紛レ、奴ゴト念ヲ喰ラエ。他ニ道ハ無イ』
くそっ、と吐き捨てるようにヌシに背を向け、新は社殿の階にどさりと座り込んだ。
初めて怨念を始末してから十年経っても、化け物を始末する不快さも未だに慣れないのに、ヌシはあの青年を喰えという。
新は自分の変化した姿を思い起こす。あの姿は背の高い方の自分より更に小山のように大きいのだろう。視点がいつもの自分よりもっと高い位置にあるのだから。
獣の新は、それだけの巨体を持ちながら、何故か人に存在を気付かれることなく闇に紛れこむことが出来る。よくは分からないが、それがなかったら初めて変化した時、人間に追い回されても不思議ではなかった。下町のごちゃごちゃした町並みの中のぼろい一軒家に新はいたのだから。
…そうして、そんなことが出来る獣が普通でないのも分かっているのだ。新は何から何まで、普通じゃない。
人間を喰らえ、と言われたことが苦痛でたまらない。それしかきっと方法が無いのだろうと分かっているからこそ、自分は人間だ、獣なんかじゃないと新の中のなけなしのプライドが軋みを上げる。
今の時代、人間は噛むことを喧嘩の中にほとんど入れない。それは喰うことに繋がるからだろう。
だから一番強力に始末をつけられるとはいえ、正体も良く分からないヘドロのような怨念を噛み殺すことは新にとって苦痛でしかない。
最強の攻撃手段になるからと分かっていても、牙で噛むためであっても、不快なものを口に入れるのは相当の覚悟がいる。並大抵の気力では済まない。そして、その目的は、命を奪うためだ。自分が生き残るために、相手を殲滅するために全力で牙を突き刺し、顎を噛みしめなければならない。
顔の間近で、相手を殺す。
その圧倒的な経験は、否応もなく新の心を消耗させた。
それでも新は怨念を喰い千切り、噛み砕く。口の中に残るこの世のものとも思えない酷い味を忘れるためにも、新は強力なミント味のタブレットを手放せないが、彼は怨念を断ち切る役目を黙々とこなした。
こなせたのは、新の「俺は人間だ」という強烈な思いがあったからだ。
新が怨念を始末することは別に誰に知られることでもなく、逆に誉められることだってない。
けれど、発情期期間中に否応なく黒い巨大な獣になる新は、深夜にふらりと廃神社を出ては、町で見つけた怨念を始末してきた。歯を食いしばりながら。
ヌシにそうせよと言われた訳ではない。
新はただ、獣の自分であっても生きている意味が欲しかった。
化け物にしか見えない姿に変わり果てていてもこうして生きている意味が欲しかっただけだ。
黒い獣になって神社でただひたすら時が過ぎるのを待つよりも、何か自分が満たされたのは確かだったから、新は町を彷徨って怨念を屠ってきた。十年の間、あの汚泥を噛み千切ってきたのだ。
でも今回は違う。
生きた人間が相手だ。ただの怨念ではない。怨念の混ざった人間のままで喰い殺せとヌシは言う。
新は人間を噛み千切りたくなどなかった。
だけど、そうしなければ、あの青年は助からないという。
嫌だ。どちらも嫌だ。だけど、自分のせいで人が死ぬかも知れないのは、もっと嫌だ。
自分なら助けられたのに、と後悔するのは凄く嫌だ。
どうせ、あいつが取り殺されたら払うために噛むのは俺だ。どうせ殺すのなら同じじゃないか。
──ならばどうする?
ふと、新は俯いた顔を上げ、ああ、と呻いた。
時間が来た。体に薄ら熱が溜まって行くのを感じる。抑制剤は飲んでいたが、とうとう発情期のタイミングが来たらしい。
みるみるうちに、新の身体が闇に溶けていく。わさわさと生える毛に覆われ、骨格が歪み、内側から膨れる感覚と共に視界が見る見る内に上がって行く。
口から洩れる呼気が不自然なほど熱い。吐いたことなど一度もないが、灼熱の炎が口から出てもおかしくない程の熱を感じる。
視力もいつもと違って、自由自在だ。見ようと思えば遠く町まで何故か見通せる。するりと立ち上がる彼は完全な四つ這いだというのに、目は自然と前を向き、違和感など全く無い。人の姿の時には生えていたことなど一度も無い尻尾をゆらりと揺らす。
自分の立つ世界が切り替わったのを新は己の感覚のどこかで感じていた。
この世に寄り添うように接するもう一つの世界。そこが、この姿の新の在る世界だ。
ゆっくりと自身の変化を見下ろした新は思う。
──たとえ。たとえ、俺以外の人間が「お前は人間じゃない」って言っても、自分自身でだって人間なのか化け物なのか信じられなくっても。俺自身の心は何一つ変わってない。この姿の時でだって俺は俺だ。それは誰より俺が知ってる。この身体は変わっても、俺の心は、人間だ。
だから、と新は顔を上げた。遠く、あの男のいる場所を見通すように。
──俺はあいつを助けよう。俺が喰えば、あいつは助かるなら。俺は、あいつを噛もう。
ちらり、とヌシを振り返る。深い闇に沈む社殿の奥にはもう、あの不確かな存在は影も形も無かった。
いつものことだ。ヌシは自由だ。
それを分かった上で、新は姿の見えないヌシをその真っ赤な目で見据えた。
──ヌシ。俺はお前の言ったこと、信じるからな。
新は踵を返すと、闇の深まった町へと駆け出していった。
そして、河川敷で再びあの青年に出会った新は、請われるまま彼を噛み殺したのだった。
デカイ図体の癖に優柔不断な新が、現場に戻ってようやく重い腰を上げて噛み殺した相手を探し始めた時には、もう青年の匂いはどこにも残っておらず、その足取りをたどることは出来なかった。
結局、ただの一般人である新には自分の知る情報以外を集めることは出来ないまま、ずるずると時は流れた。
二人が再会するのは、あの時から五年の歳月が流れた後だ。
小高い山の中腹にある廃神社にスケッチをしようと紛れ込んだ一槻が、たまたま立ち寄ってのんびり眼下の町を眺めていた新に声を掛けたのだ。
黒犬の姿ではない新を一槻がそれと見破ることは全くなかったし、新の方でも一槻にその事実を告げるつもりはなかった。
あの日、表情を全く失っていた彼が、別人のように幸せそうに笑っている、その姿を見れただけで新は嬉しかった。
おまけとして、偶然「生き返してくれた黒犬」への感謝を怒涛のごとく口にする一槻を前にして、あの悩みは何だったのかと、呆然とする新の姿があったことも付け足しておく。