それから、の新①
夏目新は躊躇っていた。
彼は五日前、ヒートで獣化して、一人の人間を噛み殺した。
だが、彼は生き返ってきたはずだ。それを確かめたい。
けれど、と新は躊躇う。
彼は本当に生き返れたのだろうか。一槻には彼を助けられたと言いきれる自信がなかった。
新は彼が生き返ってくれるまで、本当なら側についているつもりだった。無情にもこちらへと近寄ってくる人間たちの気配が無ければ、力無く呼吸も無く死体のように横たわるその男がこの世に戻ってくる時までは、なんとか付き添ってやりたかったのだ。男が倒れていたのは見通しが悪い藪の中だったから、新は人間たちに気付いてもらえるよう、新の所まで藪をめきめきと折り、発見しやすいよう工作すると、その場をそっと離れるしかなかった。
人の気配が消えた後戻った時には、あの青年はもういなかった。新の離れた河川敷に救急車の音がしたのは分かっている。息が戻ったからこそ、救助されたのだろうと思う。
だけど、新がその目で見た訳ではない。
残念ながら彼が誰かに助けられたことはニュースにもならなかったし、新はあの青年の名前も住所も知らない。
だからこそ、ここの所、あの青年の安否がずっと気になっている。
──あいつは救われたんだろうか? 死にたいと言っていた。俺は、余計なことをしたんだろうか。アレが言ったことが確かなら、あいつは生き返ったはずだ。怨念は綺麗に消した。俺が助けたのは、意味があったのか? それとも、あいつをもっと苦しめてしまったんだろうか。
俺は、それを知りたい…けど、俺がしたことで、もっとあいつを苦しめてしまっていたら、どうしたらいい。
新は胸の混乱する胸の苛立ちを抱えながらぎりりと目を細め、足元を見つめた。
新は中卒で児童養護施設を出ていた。
発情期になると彼は獣になったから、施設にいる時も、まぁ今もではあるが、その時期の前後は必ず脱走して行方をくらましていた。
入所した時から新は医師からΩの発情抑制剤、つまりピルを処方されていたが、彼の変化は薬では止められなかった。普通の犬と呼ぶには余りにも巨大な獣の姿を万が一にも誰かに見せる訳にはいかなくて、入所していた間ずっと、その時期になると彼は脱走していた。
見た目はそう見えにくくても発情期の時期以外は真面目に過ごしていた新は、関わる大人たちに随分と目を掛けてもらっていたと思う。だが、この秘密がある限り、施設にとどまることは出来なかった。
所長やスタッフ、同い年の連中に引き止めてもらいはしたが、新は中卒で養護施設を離れている。それからずっと、新は理解のある職場で警備の仕事に就きながら、おんぼろアパートで一人暮らしていた。
もうすぐ成人になる今も昔も、彼が発情期の時に潜むのは、この寂れた神社だ。
発情期の終わりかけとはいえ、時折思ってもみないタイミングで変化をしてしまう今、彼はかえって身動きが取れない。
思うように探すことも出来ないからこそ、新はずっと自分が「噛み殺した」相手のことが気になっていた。
──痛い、よなぁ。どう考えても。
カーキのパーカーに手を突っ込みながら、新は座り込んでいる神社のささくれた拝殿の柱にもたれて空を見上げた。暗い山の神社からは星が良く見えた。彼を噛んだあの日と同じような天気だと気がつくと、イライラする気持ちに胸のどこかが軋む。
タバコは母を思い出すので吸いたくない彼は、カーゴパンツのポケットに入っているミントのタブレット入れをするりと取り出すと、口に放り込んだ。爽快感に胸の苛立ちが紛れるのを期待したが、スッとした舌触りはすぐに消えても胸に燻ぶるイライラは消えない。
──あいつ、ほんとに生き返れただろうか。アレが大丈夫だからって言ったのなんか、信じるんじゃなかった。
新が本来噛み殺しているのは、いわゆる怨念と呼ばれるどろどろとした残存思念のようなものらしい。それしか分からない。ヌシが言うならそうなのだろう、と思うだけだ。
母に捨てられ、当所なく初めて変化した獣姿のまま、闇に紛れるように町を彷徨っていた時だった。新は、聖域なのか、穢れた怨念の吹きだまる場所なのか、もう分からないこの廃神社に迷い込んだ。
そこにとぐろを巻くかのようにいたのが、闇よりもどろりと凝り固まった汚らわしい気配のする、汚泥のような、化け物のような、幽霊のような、気味の悪い何か、だった。
廃神社のヌシに、せっかく獣の力があるなら立ち向かってみればよかろう、と告げられるやいなや襲い掛かられ、新は否応なくその化け物に立ち向かうしかなかった。
彼は慣れない獣の四肢を使い、汚泥のごとき怨念を踏み潰した。そして強烈な不快を必死に飲み下して、獣に変化した自分の顔の、その顎と牙で怨念を噛み砕き、噛み千切った。
それが新の、怨念を始末した初めての戦いだった。
人の姿の新には怨念を蹴散らすことなどできないが、獣の姿の新には始末することが出来たのだ。
彼を犬神と言って叫んだ母は、もしかしたら新が何者なのか知っていたのかもしれないが、もういない。
怨念の残骸の中からぬるりと立ち現れたのが、新がヌシと呼ぶ、多分神のなれの果てだ。薄暗い霞のような人型のシルエットだけみせるその、今も何か分からないソレが、姿を消した母の代わりに、それでも新を導いてくれた。
自分が何なのかも分からないままの新が知る事実は多くない。新が何者なのかをヌシは語らない。
──人間の体はもうすぐ成人になるΩ種の男だということ。
──発情期は通常のΩと違って、満月の前後限定の固定であること。
──満月の前後は抑制剤の使用で発情期を抑えられるが、犬のような巨大な四足の獣の姿になること。
──発情期以外では変化しないこと。
──澱んだ怨念は接触した人間を壊すこと。
──獣姿の新なら、怨念を始末することが出来ること。何故か人間の姿では出来ないこと。
──爪で踏み潰すより、牙で噛み砕くのが、一番強力に怨念を消せること。
自分のことだというのに新が知っているのはたったこれだけだ。
自分が何が出来、何が出来ないのかはこの十年の経験で分かっても、結局自分が何者なのかは、新は知らない。
人間が獣に変化する話なんて、ニュースでも聞いたことは無い。満月に変化するなど狼男の伝説ぐらいだろうが、新は半獣人になる訳じゃない。完全な獣になる。自分を化け物と叫んだ母を責められない、と新は思う。自分でも自身をまるで化け物のように思うのだから。
そして、自分を化け物と思っている新は、先日初めて「生きている人間」を噛み殺した。
あの男にはそうしてやるしか、出来なかった。