一槻と新
連載15話+番外編1話の構成です。
投稿はセットしておきました。
同じ時間にアップしますので、しばしお付き合い頂けると嬉しいです。
カランコロン、とまるで喫茶店のドアベルのようなのどかな音が奥から響く。
ギャラリーに客が来たようだ。
大往生した祖父が亡くなってからもう五年近くも経つ。それは、河川敷の藪の中でで「生き返して」もらってから五年が経ったということでもある。
あれから祖父と二人で住んでいたこの築百年の古い家をギャラリー兼住居へと改築し、一槻が祖父から生きる足しにと残してもらった遺産はほとんど使い切った。今は祖父の残した作品の知的財産権だとかになんとか生活を支えてもらってるという、言ってみれば道楽息子ならぬ道楽孫状態だ。慎ましい生活を送るなら、絵だけに打ち込んでも何とか生きていける。
大した実績も無い画家が個人ギャラリーを持つことになるなんて、人生は本当に何が起きるか分からない。
一槻は描いていた絵筆を置いて立ちあがると、昔は祖父の仕事部屋として使っていた奥の部屋を出て、表へと向かった。
ちょうど今は本番前の肩慣らしと趣味の延長で、スケッチを水彩絵の具で着色していただけだったから、中断も気楽でいい。
廊下と店舗を区切る濃紺の暖簾をくぐると、なじみになった顔が気怠そうに一槻の絵を眺めていた。
「新」
ギャラリーに立ち尽くし、所在なさげに周囲を見回している背の高い青年に声を掛けると、彼は一槻を認めてひらりと片手を上げる。
目つきが鋭く、最近まで現役でイキガッテマシタ系に見えるこの男は夏目新。
秋も終わろうとする先月、一槻がスケッチをしに近所の小山を登った時に出会った男だ。
あの日も温かそうなパーカとTシャツにデニムのあっさりした格好だったが、今日も大して変わらない。ウィンドブレーカーに、色こそ違うが似たようなTシャツとカーキのカーゴパンツ。顔立ちとがっしりした体格と相まって、ガテン系の兄ちゃんに見えるが、そっちの仕事はしていないらしい。どちらかというと警備の仕事をしているようだ。働いている人の割に平日昼間にもふらふらとやってくることが多いので、もしかしたら違うお仕事なのかもしれないなぁとぼんやり思う。
新は近くにある裏山と呼ばれる小高い山にスケッチに出向いた際、一槻と出会った。
やたら強面な上に無口無表情なヤツだったが不思議と一緒にいても窮屈さを感じなかった。
一槻がスケッチをする間、新はガムかタブレットを噛みながら山頂の倒木に腰掛け、ただ空を見ていた。
山頂にいる間、別に取り立てて会話らしい会話を交わした訳ではなかったが、その時に感じた気負わない居心地の良さが気に入って何となく彼と一緒に山を降りてきて、晩飯を一緒に食べて、別れ際一槻は自分の名刺を渡した。
その出会い以来、新は時折手土産片手にふらりとここへ遊びに来るようになっていた。
この一月で、5、6回は会っただろうか。
初めて出会った時と変わらず無口無表情な新はほとんど自身を語ることはなく、一槻も敢えて踏み込んで聞こうとはしなかった。
だがわりと頻繁に姿を見せる癖にこちらにも踏み込んで来ない、ある意味お行儀の良い新だから、一槻は彼がどんな生活をしているのか今一掴み切れないでいた。
そんな折、一槻は新に一歩踏み込んでみた。
一槻にはよく分からないタイミングでふらっと現れる新に、この間、彼は絵のモデルを頼んだのだ。
新には不思議な魅力がある。
バランス良く配置されているような顔立ちは野性味が強すぎるので、好みはそれぞれだろう。彫りが深いせいでどこか日本人離れした顔立ちだ。全体的に色素も薄い。ハーフかクオーターと言われたら納得する。黙って立っていると出来の良い彫刻に見えなくもない。
新の顔で印象的なのは薄すぎて琥珀のように見える目で、全体で言うならば、その野生を感じさせる不思議な雰囲気というか、どことなく緊張感を潜ませた彼の姿勢だ。
まず新の目力は半端ない。
目尻が吊りあがってはいるものの二重のしっかり開いた目で、真っ直ぐに人を見てくる。濃い色の琥珀の瞳は見慣れない上、そもそも視線の力が凄過ぎる。だからだと思うが、新の相手をするのもされるのも慣れてきた一槻はともかく、新は他人となかなか視線を合わせたがらないようだった。
まぁ、こいつの目つきで目が合ったら、知らない奴には威嚇してるみたいだもんな、と一槻はしみじみ頷いたものだ。
背は一槻と同じくらいだから、185を超えているかもしれない。長身の男だ。
それが、座ってリラックスする時はしゅるりと猫背のように片膝を抱えて背を丸めるのに、立ち上がった途端、すいっと背が伸びる。
胸を張って威嚇する訳じゃないけれど、獲物を狙うヒョウの背中のような自然な緊張が漂う。
この彼の筋肉のゆるみと緊張感とのギャップが美しい、と一槻は思うのだ。人間なのに野生の動物のような美しさがある。
人間にこんな野性味のある美しさが潜むなんて、新に会うまで一槻は知らなかった。
心から、彼を描いてみたくなった。
愛想笑いなど知らないかのようにちっとも表情を変えない新は硬派な印象に見える。
だから、絵のモデルなんてきっと嫌がられるだろうなぁ、でもまぁこんな上等なモデルなんて滅多にいないし当たって砕けろだな、と断られるのを覚悟で頼んでみれば、新には案外あっさり受けてもらえた。言い出した一槻の方が驚いたぐらいだ。
そして、今日は新にモデルになってもらう約束の日だ。
一槻が掛けた声に見ていた絵から半身こちらを向いて、新が無表情でぼそりと詫びた。
「よう。遅れて悪ぃな」
「いや、それほど待ってないよ。あのさ…」
それに応えてくしゃりと笑い、一槻が珍しく言い淀んだ。
楽天的な一槻には珍しい様子に不審そうな眼差しで新が見る。
一槻も新と同じくらいには背が高いが、いかんせん体格はひょろひょろなので、覗きこまれるように見る新の視線に気圧されたのか、身体がウッと仰け反った。
目力のある新の迫力に押されるようにして一槻は話し出した。言いながら我知らず泳ぐ目に、話す言葉もしどろもどろだ。
「いや、さ、誘っておいて何なんだけどさ……ほんとに絵のモデル、大丈夫か? 一応さ、筋肉とか描きたいから、最低、海パン一枚になってもらいたいんだけど、オレ、αなんだよな。もし新がΩだったらさ、首のガードもしてないみたいだし、ほぼ裸になるの、怖くないか? 嫌だったら遠慮なく言ってくれよ?」
思いがけないことを言われた、とでも言う風に新がパチリと瞬いた。無表情は変わらないが、彼なりに驚いたのだろうか?
「一槻、お前、αなのか?」
新がこちらに問い掛ける声がさっきより少し低くて、勘は当たりか? と一槻は内心、モデル交渉がお流れになるのを覚悟した。
「あぁ。αって言っても、出来損ないだけどさ、それでも、Ωの発情期には反応するよ」
一槻は無表情のままこちらを見返す新に苦く笑った。
この世界は男女のどちらも妊娠可能だ。だから、男女と言っても、その体の見た目と仕組みが多少違う、というぐらいしか意味はない。機能的には、男女ともに愛する人間の子どもを産める。
そう、肝心なのは男女差ではない。この世界で実は一番影響がある区別は、α《アルファ》、β《ベータ》、Ω《オメガ》の3つの「種」だ。
人間なのに発情期のある種がΩ。才能に溢れていて、そのせいでやたら純血を目指すのがα。Ωもαも合わせて人類の3割ぐらいしかいないけど、αの方がまだ多く、Ωは全体の一割しかいない。Ωみたいな発情期も無くて、普通だと言われてしまうのがβ種だ。人類の七割はβだけど、そのβよりも実際世界に影響力を持っているのが二割しかいないαだ。この世はαが君臨している。
だけど、普通、相手にその「種」を聞くことは少ない。その「種」の特性のせいで歴史上長くΩは差別されてきた。相手に種を聞かないのは、そんな歴史の中で出来た暗黙の了解、社会の潤滑油というものだ。だから、余程のことでないと相手の種を聞くことはないのだが…。
一槻は敢えて微妙な話題に踏み込んだ。Ωの身を危険に晒すのが専らαだと思えば、αの矜持などどうでもいい事だ。それでも話し辛い事でもあるので、一槻は苦笑いを伏せた表情に隠して話し出した。
話しておこうと思ったのは過去、Ωのヒートの強制力を甘くみていた愚かな自分の姿だ。
「オレ、大学の同期にΩでピルが効かない奴がいてさ、いっつも発情期がいつ来るかってピリピリしてたの覚えてるからさ。ほんとは月一回の周期なんだから、そんなにずっと緊張しなくても良いのになって思ってたけど、あいつのヒートに巻き込まれかけたら、確かに甘っちょろいことなんてもう言えねぇよ。βの友達が一緒にいなかったら、オレ、加害者になっちまってただろうしな。番なんて欲しいとも思ってないし、何よりオレは雑種だからステータスのために番持つなんて論外だしなぁ」
自分の話し方で嫌な思いをさせてしまっただろうか。気になって、結果困ったような顔で一槻は新をそっと見遣った。
新は黙ったまま、相変わらずの無表情で一槻を見ていた。感情が現れない分、まるで端整な彫像がそこにあるかのようだった。
Ωであることを周囲に申告する人は少ない。ほとんどのΩは抑制剤のお陰で問題なく社会生活を送れる。抑制剤が開発されたからこそ、Ωの人達はその種の残酷な宿命から初めて解放されたのだ。
αと違ってその種の特性から長い間貶められてきたΩの人達は、社会的な不利を未だに押し付けられがちで、だからこそΩであることは伏せられる。この社会の悪循環だ。
Ωの特性。Ωの発情期は、αを狂わせる。
番という特定の相手を持たないΩは、毎月の発情期中、無差別にαを誘惑する性フェロモンを放出する。αであればΩの発情期のフェロモンを拒否はできない。
そう、Ω種は同種ではないα種を問答無用で誘惑することが出来る。
その香りは強烈で、故意ではなくとも互いの同意を無しにαに発情しているΩへの性行為を強要させるだけの力を持つ。
番は発情期中にΩのうなじから首筋周りを、αが噛むことで発動する。そこに感情は関係なく、発情期中にそのΩのうなじを噛んだαだけがΩの番になる。番を定めたΩは、それ以降発情期には自分の番にしか効かないフェロモンを出すようになる。更に言うと、性の相手としては、そのαしか受け入れられなくなってしまうという。
何度も言うが、そこに感情は関係しない。嫌っていようと愛していようと、ヒート中にαがΩを噛むだけで、番は成立する。だからこそ、問題が起きる。
新は自分を語らない。語らぬまま、Ωの疑いを否定もしないまま、静かに一槻を見て尋ねた。
「……俺がお前をわざとヒートに巻き込んで、番になろうとしたらどうすんだってことは考えないのか?」
新の質問に、一槻は溜め息を吐くようにして言葉を繋いだ。
「あー、それなぁ。……考えなかったって言ったら嘘になるけどさ、それでもさ、はっきり言って、αの方が立場強くなるだろ? だって、ヒート中にうなじ噛んだαとしかセックスできなくなるって、どんだけ拘束力強い縛りだよ? 噛んだαのオレは浮気し放題。でも、噛まれたΩの方は俺としかセックスできなくなって、フェロモンで他の奴を誘うことも出来なくなんだろ? 無理に違う相手とやろうとすると吐くって聞いたぞ? それ、もう呪いの域に入ってるよなぁ……閉経するまで毎月発情期は来るのに、さ」
一槻がαのくせにΩ目線で話すのが不思議だったのだろう。困惑したように新が聞いてくる。
「番になったことを盾に、結婚を迫られたらどうするつもりだ」
この質問は、αがΩを貶めるためによく言う典型でもある。
αの中にはΩを番にしておきながら結婚せず、コレクターのように番を増やしていく者もいるそうだ。
そんなことが出来る背景には、αが社会的強者でΩが社会的弱者として虐げられてきていた過去の事実がある。この台詞は、そうやって不愉快な状況に追いやられかねないΩの最後の自衛を逆説的にあざ笑う質問でもある。αより、Ωの方が立場が弱い。その弱さを逆手に取った質問だと、そう見做されかねない際どい台詞。
──新は俺を試してんのかな?
ぼんやりとそんな事を思いつつ、一槻は肩の力を抜いて、からりと笑う。
「それも、考えてもみなよ。オレ、金持ちに見えっかよ? 爺さんの遺産はこの家を改築してギャラリーにすんのに使っちまったし、出来損ないのオレにはαの血族なんていねーよ。つまり金蔓はいない! 爺さんだって、オレのこと養子にはしてくれたけど血の繋がりはねーらしいしなぁ。つまりオレは天涯孤独の身だよ? 平気で趣味で生きてるからさー、毎月結構ぎりぎりで生活してるしね! こんなオレと結婚するなんて無謀なこと、誰がするんだ?」
一槻の笑顔が悪戯っ子のものに変わる。
「第一、オレ、新のこと嫌いじゃねーし!」
一槻の言葉に新の目がびっくりしたように見開かれた。小さな子どものようにきょとんとした顔は強面の彼にはあんまりにもそぐわなくて、一槻は声を上げて笑った。
一槻の言う「出来損ない」のαという言葉には実は二重の意味がある。
一槻はαの血族出身ではない。
α種は両親共にαであることに拘りがちで、しかも血統を重視する。長く支配階級にいたαの純血であることを絶対視している者は多い。
対して、一槻は両親を知らない。祖父が引き取ってくれたお陰で生活出来てきたけれど、一生独身だった祖父の血縁である訳もない。いわゆる、どこの馬の骨か分からないαだ。Ωとαとの間に生まれた、しかも、望まれなかった子どもの可能性が高い。残念ながら、よくある話でもある。
もう一つの出来損ないという理由は、才能の件だ。
α種はβやΩより才能に秀でているという暗黙の了解がある。公式見解では違う。でも政府がαにはβやΩよりも才能に優位性があるという結果は認められない、なんて広報しているが、世間では「α」ってだけで、才能が凄いってことになっている。
実際その立場の一槻にしてみたら勘弁して欲しい世間の常識って奴だが、世間は遠慮なくαの一槻に期待を掛け、勝手に期待を裏切られたと幻滅していく。
笑いを収めた一槻が目元をぬぐって新を見ると、もうあの可愛いきょとん顔はどこにもなくて、それが一槻にはちょっぴり残念だった。
「一槻」
「何?」
話しかけた新は、真っ直ぐに一槻の目を見た。
一槻もその目を逸らすことはない。ふわりと笑って新の視線を受け止めた。
新の低い声が続く。
「俺はピルがよく効く。周期も乱れない。だから平気だ」
「了解」
簡潔にそれだけ話した新に一つ頷くと、一槻はじゃ、行こうぜ、とあっけないほど簡単に仕事場へ向かった。
またしても目を見開いた新に、一槻の方が驚く。
「どした?」
「……お前、嫌じゃないのか?」
「何がだよ?」
分からんと首を傾げる一槻に、困ったような顔をして新が言う。
「ヒートに巻き込まれかけたこと、あるんだろ? Ωなんて、嫌じゃないのか?」
「何だお前、オレのこと気にしてくれてんの? 優しいねー、新は!」
バンバンと肩を叩く掌に当惑したような顔を向ける新に、あっけらかんとした一槻の声がさっさと置き去りにしていく。
「だってさー、新ぁ、お前、あいつと違って、ピル効くんだろ? じゃ、問題無くね? ピルが効くならさー、飲み忘れさえしなけりゃ発情期来ないんだし……第一さー、新ってわざとそんなことする奴じゃないじゃん?」
言いたいことを言った一槻は、住居スペースとの間仕切りになる暖簾をぺらりと持ち上げて振り返る。
「前、言ったろー? オレさ、生き返ってから、絵を描くのが楽しくて仕方ないんだよ。ほんとさ、もう、毎日が楽しくて、幸せでたまんないんだよね。だから、考えても無駄なことなんて、どーでもいーんだよ。それより絵を描きたい。新みたいな極上のモデル前にして、余計なことなんて考えたくねーよ」
にんまりと笑う一槻の表情には迷いも疑いも一切ない。
「聞きたいのはそれだけかー? じゃ、行こうぜ! 奥が仕事場なんだよー」
迷惑じゃなかったら、参考までに写真も撮らせてくれよなーなどとずうずうしく話す一槻に連れられ、どこかまだ困った顔のままの新が、追いかけるように歩いて行く。
困った顔なのにどこか嬉しそうな新を見て、一槻も一層楽し気に笑ったのだった。
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