番外編「錦秋の庭で」
新たなブクマ登録や評価、本当にありがとうございました。
嬉しかったので、もう少し書いてみました。番外編で、お弟子さん達視点。
本編との齟齬を訂正しました。(2020/2/24)
「一槻君のとこ、無事生まれたって?」
梅田は古馴染みの篠井が注いだ湯呑を掴むと、安い番茶に顔を顰めることも無く機嫌良さそうにぐいっと飲み干し、初めてにしては安産だったようだよと頷いた。
昔取った杵柄じゃあないが、貧乏舌はなかなか直らぬ、とはこの茶を選んでわざわざ愉しむ篠井のぼやきだ。
梅田にとっては久しぶりに飲む懐かしい味でもあり、喉を通る安番茶の古臭いような匂いに口元に笑みを浮かべた。
梅田も篠井も下積み時代は長く、師であった渋澤洋二郎の下で切磋琢磨していた間、懐はそれ程豊かではなかった。
工房に居た弟子たちはどいつもこいつも有り金は彫塑の素材につぎ込みつぎ込み、無我夢中で作品と向き合っていたものだった。作品以外には無頓着な者がほとんどで、師が、一番気が利くからと、梅田に金を持たせてはあれこれ弟子の世話を焼かせていたものだ。弟子の筆頭になったのは、俺が一番大変だったからだ! と梅田が豪語しても兄弟弟子一同皆笑って同意する。実際の所、その跳び抜けた彫塑の才能ゆえの筆頭であることは梅田含めて分かっていることではあるが、まぁ確かに、あの工房が曲がりなりにも真っ当な時間帯で生活出来ていたのは、梅田の几帳面な性格のお陰ではあった。
篠井のアトリエは、町の中にはあるものの古びた一軒家だ。結局今まで独身を通してきた篠井は、作品が受け入れられるようになった今でもこの小さな家で作品を作ることを好む。
紅葉と銀杏とが小さな庭を赤と黄色に鮮やかに染め上げている。赤い実が艶やかに光るのは、ナナカマドだろうか。
老人たちは美しい秋の彩りにその視線を存分に遊ばせた。
こじんまりとした中庭にある昔ながらの縁側に腰掛け、二人は茶請けの煎餅を音良く齧りながら件の青年夫婦の近況を語り出した。
「彼ら夫夫は、落ち着くまでが長かったものなぁ。師匠も気が気じゃなかったろうて」
一槻達が結婚を決意するまでに十年もの月日が掛かったことを案じていたのは、彼ら弟子一同も同じだ。二人は心配性だった師匠に託けて、遠慮なく安堵の笑みを浮かべた。
山羊のような白髭についた煎餅のくずを払いつつ、篠井が陽気に笑う。
篠井より五つ年下ではあるものの、相変わらず年を感じさせない様子で梅田がほくそ笑むような悪戯な目つきをした。
「師匠のことだ、一槻が可愛くて、『仕方がなかろう』とか言ったまま、なんだかんだであの若夫夫に口出しは出来んだろうなぁ。そうして、『いつになったら曾孫の顔が見れるのだ』とか言って、俺に何とかしろとせっつくのが目に見えるようだわ」
「一槻君には良いとこ見せようとしてらしたものなぁ」
「いっつも俺が割に合わないことをさせられたもんだが。叱り役だの何だのと。……まぁ、今じゃ肝心な時に必ず俺を頼ってくれるんだから、可愛くもあるがな」
どこか得意気に言う梅田に篠井は、ははっと笑う。梅田は梅田で、一槻が隠し事をしようものなら散々いじけるのを知っているので、可笑しくてならない。
梅田は実の子を妻に任せ切りだった癖に、一槻の養育には心血を注いでいた所がある。師への敬愛が溢れすぎて暴走し、一槻一槻と煩かった昔の姿は、実際の所、目立ちにくかっただけで今も変わっていない。今回も、一槻が出産するからと、実子や孫の時とは違ってなりふり構わずあれこれ調べては手を出そうとして、かえって一槻君の負担になるからお止めなさい、と妻に叱られていた。
「それで、男か? 女か?」
そう聞く篠井に梅田は嬉し気に笑った。
「男の子だった。……可笑しなことにな、赤子の癖に、寝顔が師匠にそっくりでな」
「あの顰めっ面か!?」
「そうそう、寝顔なのにな、なんだか真面目くさった顔で寝てる赤子など可笑しくてならん!」
「なんてこった!」
呵々と笑う篠井と一緒に梅田も遠慮なく笑った。
師匠の渋澤も男らしい端正な顔立ちの人だったが、母である一槻はどちらかと言えば女顔で優し気な顔をしている。渋澤に似ていると聞いて、イイ男になるだろう、と思った矢先の「師匠の寝顔ネタ」に、篠井はしばらく噴き出すのを止められなかった。
一槻の夫の黒犬の彼もなかなか見られる顔立ちをしていたことを思えば、どっちに似ても問題はないだろうに、よりにもよって真面目くさった顔で寝る赤ん坊とは。
居眠りする時まで生真面目な顔で寝ていた師匠を思い出し、懐かしさと血の繋がりの見せる不思議さに篠井は嬉しくてたまらない。
ようよう息を整えて、篠井はもう一つ、気になることを聞いた。この社会では逃れられない、種、の話だ。
「種はどうなった?」
「──αだそうだ」
「──そうか」
αで生まれついたことを喜ぶ人は多い。
だが、ここにいる二人はそれだけで喜ぶことが出来るほど単純ではいられなかった。
αの人口は多くない。その種に優れた才能を持つ者が多いことで、二人の子どもはその種に生まれたということだけで様々な人目を集めてしまうだろう。それだけで済めばいいが、現実はそうもいかないだろうということを老人たちは知っていた。
一槻もメディアに取り上げられることが出てきたが、メディアには一切出ない夫「新」の子であることの方が問題としては大きい。
新の持つ不思議な力。それを受け継いでいるかもしれない無力な赤ん坊は、見えない悪意にさらされている。新の持つ力は周囲に伏せられているが、知る者は少なくないのだ。
「黒犬の彼は、どうしてた?」
「案外落ち着いていたな」
「ほう?」
結婚するまでの長い期間、新が子どもや一槻と家族になることについて、彼の持つ力のせいで迷惑をかけたくないと拒絶していたのを知っている二人には、その冷静さは意外であったのだろう。
梅田はどこか困惑した様子で新の言葉を語った。
「新君が言うにはな、あの廃神社の主が、赤子に結界を張ってくれた、と言うんだ。注目を集めにくくする、人に意識されにくくなる結界、だそうだ」
篠井は目をぱちくりさせた後、梅田に掴みかかるように詰め寄った。
「そんな便利なものがあるのかっ!?」
あるなら、自分も、とちらりと思ってしまったのが態度に出た篠井は、我に返ると溜め息をついて梅田に詰めた距離を空けた。よく分かっていない表情を改めないまま、梅田も腕組みして首を傾げている。
「よう分からん。新君がある、と言うから、そうか、とは言って見たが」
「まぁ、神のなれの果てなんだろう? その主は。そんな存在が結界を掛けてくれるっていうなら、安心なのかもな。効果は分からんが」
「新君が、俺にはそんな事一度もしてもらってない! とかムッとしてたよ。ま、照れ隠しなんだろうが…それにしても大概よな」
さすが元神、と取り敢えず納得はせずとも全部飲みこんだ顔をして、梅田は篠井を見た。
「新君が手を打ったのは分かるが、我らは我らで出来ることをしようと思う」
梅田の言葉に、篠井はあっさり頷いた。
「当然だな。一槻君には伏せてあるとはいえ、黒犬の彼そのものが狙われるケースもまだあると桂から聞いてるよ。赤ん坊なら、尚更だろう。守り手は必要だろうな」
白い顎鬚を思案気に引っ張りながら、篠井は友人である元傭兵団団長、現警備会社会長の桂から聞いた話をもらす。
「では、今までの倍の配備で良いか?」
篠井の言葉に渋澤家の金庫番、梅田はあっさり頷いた。
「いいんじゃないか? あんまり人員が多いと新君がイラつくからな。一槻にバレても面倒だ。倍ぐらいが妥当だろう」
ああそうだった、と梅田は白髭の友人を見遣った。
「ついでに、子育ての専門家の家政婦の派遣も頼む。一槻も新君も身内がいない。子育ては次から次へと訳の分からぬことがあるものだと家内が言っておった。二人を助けてくれるような家政婦がいてくれればこちらも安心だ。だが、普通の家政婦では困る。新君の力を思えば、その件もちゃんと飲み込めるような専門家が必要だ」
梅田の言葉に、ふむ、と篠井は頷いた。
「お前の代わりに子育て全てを引き受けてた泰代さんの言葉なら間違いないな。では、その件も合わせて桂に依頼しておこう」
「頼む」
当の一槻が気付いたら、有り難いが申し訳ないから止めてくれ、と懇願しそうなことを老人たちは平気で決めていく。
大金が掛かることであろうと、大事な師父の遺した可愛い孫である。小さな頃から慈しんできた自負のある弟子一同にとって、一槻と待望の小さな家族の安全は絶対のことだ。ちなみに新のことは皆一槻の夫と言うより護衛として見ているきらいがある。一槻に幸せになっては欲しいものの、独占欲の強い新に少し苛立っているような老人たちである。その為、面と向かってはしないが、彼らの中で新は一槻の添え物扱いだ。新も狙われてはいるものの、警備の仕事にも就く新には敢えてアプローチはしてない。こういう老人たちの要望も聞きながら、桂が調整しつつ、一槻とその家族は護られていた。
……過保護ではあるが、実験のための誘拐など確かに危険性はあるのだ。
短く返事した梅田は、安堵したように溜息を吐くと、秋の澄んだ青空を見上げた。
「師匠が逝かれたのも、こんな青空の秋の日だったな」
「そうだったなぁ」
あの日。
祖父の葬儀の場で、彼らが見たことも無い程虚ろな表情をして喪主の席に着いていた一槻。
梅田だけでなく篠井達も知っている、一槻の絶望のきっかけは、斎場に届いたコンクール落選の報せだった。祖父のためにと心血を注いでいた一槻は、あの時絶望の淵に落ちてしまったのだろう。
師であった渋澤洋二郎も一槻を本当に愛していたが、一槻もまた、祖父を敬愛し、その愛情に応えようと必死で努力していた。
だが、芸術の世界は、努力だけでは進めないことが、往々にしてある。
その個人だけのブレイクスルーのような何かがなければ、人々の心を揺るがす力を持ち得ないのだ。
──一槻はもうダメかもしれない。
弟子たちは皆口にはしなかったが、一槻がもう生きていけないかもしれない、とすら危惧していた。
ただ一人、梅田を除いて。
梅田は、一槻を信じていた。彼の心にある、美しいものを美しいと真っ直ぐに切り出す力を。そして、辛い状況の中逃げ出さずに、今は力及ばずとも精一杯の力で、自らが信じた美しいものを最後まで作り上げた胆力を。
老人は信じていた。だから、ただひたすら、見守っていた。
昔のように師の家に泊まり込み、掃除や洗濯をし、ご飯を作り、何も言わず、一槻の側で静かに暮した。
転機は一月後の深夜だった。幽霊のようにぼんやりとソファに座ったままだった一槻が、気がついたらその場から消えていた時は、梅田は総毛立った。
あの時は梅田の方も意識が普通ではなかった。彼は起きていた。たいして集中していた訳でもない本をぼんやりと眺めていただけなのに、気がついたら五時間以上も経っていたのだ。神経の細かい梅田には有り得ない失敗だった。
慌てて一槻を探そうと立ちあがった梅田は、戻ってきた一槻がふらつく足で自室へ戻ろうとしているのを見つけた。
一槻は何故か血だらけだった。それなのに傷跡はどこにも見当たらない。肌に近いほど多い血痕はこの血の出所が一槻自身だと暗示しているというのに。とにかく支えるように一槻に付き添い布団に押し込んだ梅田は、最悪な事態にはならなかったことに深い安堵のため息を吐いた。
昼を過ぎ夕方頃ようやく目覚めた一槻は、あの明るい眼差しを完全に取り戻していた。
しかし、何があったのか、一槻は決して梅田に話さなかった。
だが。今にして思えば、あの不可解な血痕は黒妖犬の新によって悪い何かが払われた跡だったのだろうと梅田は思う。
新には怨念を噛み殺す力があると聞いた。あの頃の一槻になら、そんなものが取りついていてもおかしくない。それ程の虚ろさ加減だった。
あれから不自然に出血する様子も無く、あのまま変わりはないようなので梅田は余計なことは言わず、ただ一槻の体調に変化がないかだけを確認するに留めていた。
十年経っても時折あの幻のような血の跡を幻視してしまうのは、あの日の衝撃がまだ梅田から抜けていないと言うことなのだろう。
「今日は良い日だ。師匠もほっとしておられるだろう。」
師が逝ってしまった日も美しい秋の日だった。
錦秋の景色はあの日々と同じく美しい。そして哀しい思い出も、今、幸せな思い出で上書きされた。一槻も今はこの秋の美しさを真っ直ぐに見詰めているだろう。そう確信できることに、梅田は頬を緩ませた。
同じように空を見上げていた篠井が、ハッと気がついたように梅田を見る。
「おい、一槻君の子、写真撮ってきただろうが! さっさと見せろ!」
おお、と手を打った梅田は、にやりと笑うと懐から出した端末を操作し始めた。
「まぁまて、見るならまず、これからだ」
そう言って、突き出された端末に映し出された赤ん坊の生真面目な寝顔に、老人達二人はは年を忘れて爆笑したのであった。
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