彼女の初恋と彼らの最後の恋①
初めての恋なんです、とその依頼人の女性は言った。
ラテン系の香り漂う魅惑的な顔立ちと肉感的な身体つき、首元をデコルテラインまですっかり覆う特徴的な銀色の首飾りをした彼女は完璧な日本語を話した。
「ずっと忙しくて。必死に生きてきて、恋なんて考えたこともなかったんですけど」
そう言って彼女ははにかんだように笑った。純粋に恋人を想うその幸せそうな笑顔に一槻は胸が詰まった。
「僕も同じです」
一槻は思わず口にしていた。
「僕もずっと恋なんて考えたこともなかった。恋よりしたいことがあったから」
ふふっと彼女が笑って頷いた。
「本当に。私、今の自分がなんだか自分じゃないみたいに感じるんですけど、今くらいは素直に想いを噛みしめようかと」
家族以外を大切に思ったのは初めてなので。
そう照れくさそうに笑った彼女は、とても幸せそうに見えた。そして、大切そうにそっと一枚の写真を取り出した。
どこかで見たことのある面影の少女が、古代日本らしき衣装を着て真っ直ぐにこちらを見ている。
少女の覚悟が決まったかのような清々しいくらいに自我を放射する瞳に、一槻は魂ごと吸い込まれそうだった。
「演劇、ですか? 舞台の前かな? 古代日本って言ったら卑弥呼とか?」
「あ、みんな正解です」
くすっと女性が笑った。そうですよねやっぱり定番ですよねこんな姿見たら連想するの、と嬉しそうだ。
「大きさ、ご希望の号数は有りますか?」
そうですね、と首を少し傾げると、女性はぐるりとギャラリーを見回した。
一槻のギャラリーの絵は号数のイメージを肌で感じてもらう役目も兼ねている。依頼の多い肖像画は祖父や友人をモデルに、何枚か号数を変えて描いてあった。完成したらまた新の絵も飾るつもりだった。
長い髪をくるりと振りながら、女性がこちらを見た。てきぱき、きびきび。そんな印象のある動きだ。
「傍で見ても?」
「どうぞ、ご遠慮なく。僕はちょっとお茶の準備をしてきますので、ごゆっくりご検討ください。価格表が必要な場合は、そちらのファイルに載せてありますので」
一槻が示したテーブルの上の黒いファイルを確認すると、女性はそれを手に取って、価格と号数を確認しながらじっと絵を比べ始めた。
誠実に商談が出来そうな雰囲気に、ほっとする。
ちらりと様子を見ていると、どうやら家に飾るには割と大きなものを気に入っているようだ。F30号と40号の、長辺が1メートル前後の作品の辺りで目が彷徨っている。
「どちらか、イメージは固まられましたか?」
一槻が問いかけると、女性は困ったように笑った。
「大きい家なので、どちらも飾れそうなのが困っちゃいますね」
なるほど、と一槻は頷く。確かに一般の家庭には大きさは大事な決め手だ。
イメージだけは有るんですけど、と言う彼女に、一槻は教えて下さいと願う。
この人は、これから描かれる絵に、何を望むのか。
描き手である一槻にとって、それは貴重な情報だ。
女性は、じっと手の中の写真を見つめた。切なそうに、焦がれるように。先程見せた幸せそうな笑顔と裏腹な切羽詰ったような熱に、一槻はどきりとした。
「彼女、役者さんなんですけど」
「ええ」
「時々、あの人、迷うんです。もちろん、人間だから、迷うのなんて当然だし、当たり前だと思うんですけど…正解が無いことにより深く迷っている感じがするんですよね」
「……わかります」
一槻の深い相槌に、女性は苦笑に近い困った顔で笑う。
「私、同じお仕事をしている訳じゃないし、彼女の苦しみを本当に分かってるかどうかも自信は無いんですけど、一つだけ、これは正しい、というか、間違ってない、というか…彼女の決断した覚悟、みたいなものは凄く大切なものだと思ってて」
これ、と言って女性がさっきの写真を見せてくる。一槻には彼女の言いたいことが分かった。
卑弥呼姿の少女の目に宿る、決然とした意志。女性の言う「覚悟」が形になったかのような表情だった。
うん、と頷くと一槻はその共感を、閃きを言葉にした。
「これを写し取ってみましょう、鏡のように」
一槻の言葉に、女性がパッと表情を明るいものにする。
「……そうです! そんな感じ、そう、鏡! 迷ってる時に、鏡を覗きこむみたいに、道標になってくれる、覚悟を決めさせてくれる、そんな絵が欲しかったんです!」
ありがとう! と感謝を目に込めて、女性が笑った。その目は、どこか泣き笑いのようだった。