それぞれの、After that(それから)②
美鈴と祖父渋澤洋二郎は偶然出会った訳ではなかった。
美鈴は隠されて育っていたので、普通ならば出会うことなど無かっただろう。新進気鋭の彫塑家渋澤洋二郎を取り込む為に、美鈴を守るはずの杉本家に嵌められたのだ。
発情期が来るタイミングで強引に絵のモデルになることを当主から強要された美鈴は、ひどく凍りついた表情で椅子に座っていたらしい。
美鈴がどんな立場か全く知らされていなかった祖父は、依頼だからと美しい振り袖姿で椅子に腰かける彼女の肖像画を描いていた。
にこりとも笑いもせず、話し掛けても人形のように相槌程度の返事しかしない美少女は、彼女の世話を任されているらしい醜い容貌の青年にだけは静かにほのかな笑みを見せる。
凍りついた人形のような有様の少女は不気味で製作意欲も減退しかかっていた祖父だったが、初めて見た彼女の頬笑みは天女のようで、そこから彼女に興味が湧いたのだという。
醜い容貌の青年はβの使用人だった。美鈴がもしも恋していたのだとしても、二人の仲が許されることはなかっただろう。その点であの杉本当主だった老人の語りは偽りだったのだ。
杉本家の狙い通り、美鈴の肖像画制作中にヒートは起きた。そして祖父は過ちを犯した。
ヒート中の性行為はほぼ100%の妊娠を招く。
ヒートの熱から解放された祖父は土下座をして美鈴に過ちを謝罪したが、有無を言わせず純潔を奪われた彼女が祖父を許すことは当然無く、彼女はそのままショックで床に伏したらしい。
製作期間中、あの青年との間に交わされる美しい笑みに心を奪われていた祖父は、いつの間にか美鈴を想うようになっていた。だからこそ余計に自分が巻き込まれたこのヒートに祖父も心を乱された。
――あの青年に向ける眼差しで自分をも見て欲しかった。
祖父はぽつりとそれだけ語ったと言う。
杉本家は喜んで祖父との縁を繋ごうとしたが、肝心の美鈴は頑なに祖父を拒んだ。
どんどんやつれてゆく美鈴はやはり祖父の子を身籠っており、その子がαである可能性が高い事を思えば、杉本家もαである祖父と自分達の家の直系の血を引く赤子の存在は惜しかったと見え、美鈴が無事出産するまで結婚話を進めることを諦め、全ては腹の中の子が生まれてから、ということになったそうだ。
祖父は美鈴に会わせてもらえなかった。
祖父に会うと美鈴が錯乱し、自分を傷つけようとするからだと告げられた。
彼女に会えないまま時は経ち、男の子を出産した彼女は監視の目を掻い潜り、出産したばかりでふらふらの身体のまま、彼女の閉じ込められていた離れの二階から身を投げて死んだ。
祖父は通夜の席でやっと美鈴に会えたが、全てはもう遅過ぎた。
祖父が強く強く申し出たものの、赤ん坊は杉本家にそのまま引き取られた。
祖父は、自分の子だと名乗り出ることも許されなかった。美鈴が死んでまで逃げ出した男に引き渡す訳にはいかないと言われ、それ以上何も言えなかった。
美鈴の死によって息子との繋がりさえ断たれた祖父は、荒れ狂う思いを作品に込め鬼気迫る勢いで製作に打ち込み、その名声を最高峰の位置にまで高めた。
梅田は、一槻には伏せられてきた実の母の話もしてくれた。
美鈴と祖父の息子、一槻の産みの母に当たる人は、杉本家によって残酷な人生を歩んでいた。
当時は今と違い、α、β、Ωの三種の判断は、その才能と発情期に入るかどうかで決まっていた。つまり、発情を起こす第二次性徴まで種の判断はつかなかったのだ。
美鈴の残した子はαとΩの間の子としては珍しく、Ωの方だった。
それまで本家の血筋の子としてそれなりに扱われていた少年は、発情を迎えた瞬間当主によって土蔵に閉じ込められ、発情が治まると同時に杉本家とも渋澤家とも何の関わりもない老夫婦の元へと養子に出された。
この老夫婦が一槻を育ててくれた祖母だ。
少年は、なかなか新しい家族に馴染めなかった。
老夫婦は少年を温かく迎えてくれたが、彼らはごく普通の一般家庭のβ同士の夫婦で、αの閉じられた社会を理解出来なかった。
それまでαの血族のそれも本家の一員として贅沢な生活環境で育ってきた少年には、自分がΩだったから一族から捨てられたということしか考えられなくなっていた。
そして、悲劇が繰り返された。
少年は外出時にヒートを引き起こし、行きずりのαに乱暴され、一槻を身籠った。
精神的に追い詰められてしまっていた少年は、出産間際に自宅で手首を切り命を落とした。お腹の中の一槻だけが奇跡的に助かった。
祖父母は残された一槻を必死で、でも愛情を込めて育ててくれた。
渋澤の祖父に連絡が行ったのは、祖母が助からない病に冒されたと分かった時だったらしい。
自分が入院してしまうことになったら一槻が一人ぼっちになってしまう。だから、渋澤の祖父に一槻を託したいと祖母は何度も頭を下げたそうだ。
その頃のことは、一槻も覚えている。
祖母の知り合いだと言ってやってきた祖父、渋澤洋二郎が、祖母の入院する間我が家においでと招いてくれ、祖母がそれがいいと安心したように笑ったのをぼんやり思い出す。
優しかった祖母が病室を訪れる度にどんどん病み衰えていく姿も、会いに行ったらもう動かなくなっていた祖母に泣き縋った日も、訳の分らぬまま終わった祖母の葬式も、いつも一槻に寄り添うように渋澤の祖父がついていてくれた。
「……オレは、渋澤の祖父に、大分甘やかされてたんだなぁ」
惨い過去が遠いものになるよう、けっして一槻の過去の伏せられた暗い部分を明かさなかった祖父、洋二郎。彼の描いた唯一の絵、宝物のように大切にしていた美鈴の肖像画まで、祖父は一槻に残さずあの世へと持っていった。
「今の幸せそうな君を見たら、師はさぞ嬉しかろう。――師が満足されるなら、我らも満足だ」
それだけ言うと、梅田老人は年に似合わず機敏な動きで立ち上がった。
にやり、とこの人にしては珍しい悪戯気な表情を浮かべ、一槻を見遣る。
「いずれ、曾孫の顔を見せてくれれば、師への土産話にも困らないな」
「ひ、ひまごって!?」
動揺する一槻にはもう目もくれず、からからと遠慮なく笑いながら梅田が帰って行った。