それぞれの、After that(それから)①
監禁事件から一月ほど経ったある日。
一槻は相変わらず絵を描いていた。
今が一年で一番寒い時期ということもあり、心配性の新にぬくぬくに上着を着せかけられて着膨れてしまったのだ。室内だというのにやり過ぎだとは思うが、それ程裕福な生活をしていない二人にとって光熱費は大変頭の痛い問題でもあったので、暖房は、気持ち弱めでやり過ごそうと決めていたから仕方ない。
そう。「二人」だ、と一槻は顔を笑みに緩ませる。
ちょっと強引な面もあったが、晴れて互いに思いを伝えあった二人は、この渋澤の古い家で一緒に生活を始めていたのだ。料理や買い出しは引き続き新が、掃除は気分転換も兼ねて一槻が分担する形で生活している。新の契約していたアパートも既に引き払った。
新が気にしていた発情期期間も、無事に何事も無く済んだ。先日あった新の発情期も互いに離れることなく、大きくなってしまう新がゆったり過ごせるよう、アトリエを整理して、彼のための場所を作った。
当然新はかなり遠慮していたが、お前がヒートの時に一人になるなんて怖くて絶対に嫌だと一槻がごねまくり、案外嬉しそうに新はここにいることを受け入れた。
実は一槻の救出劇の際、新は発情期ではなかったらしい。
あの事件をきっかけに、新はヒートの有る無し関係なく変化出来るようになってしまったと言う。
あの場に集結していた梅田を筆頭とした祖父のお弟子関係は、能力が向上した(?)新を大層頼もしく思ったらしい。
巨大な獣に動揺することなく利を喜ぶその神経は流石一流の世界に身を置く人達だが、遠慮まで無いのはちょっといただけない。
そう。
お弟子さんらは強がる一槻の手前敢えて言わなかったものの一人で暮らす一槻が心配で心配でたまらなかったらしく、新をなんという立派な番犬だと狂喜してしまって、新を番犬扱いするなと一槻を激怒させたのだ。
それはさておき、新の秘密は関係者全員が喜んで伏せてくれ、傭兵団に至っては積極的に新をスカウトまでしていた。
最終的に傭兵団ではなく、傭兵を引退した団長や団員が所属しているという名門警備会社に移籍することに落ち着き、先日まで新は研修という名の地獄のしごきを受けていた。
ズタボロになった新が漸く一槻の元に帰ってみれば、防寒も適当に寝食もおろそかにして絵に没頭していた一槻が熱を出して寝込んでいて、今度は新が激怒した。
ということで、熱が下がっても一槻はごろごろの雪だるまのように着ぶくれて絵を描いている。
あの事件はなかったことにされた。でもそれでいいと一槻は思っている。
有能な梅田の秘書さんが手配して一槻の私物を洗い浚い発見して渡してくれた後、いつの間にか人の姿に戻っていた新と一緒に、あの屋敷から懐かしい家までハイヤーで送ってくれた。
何もなかったことにされたけれど、何もなかった訳じゃない。様々なオトシマエがつけられた。
杉本家当主のあのイカレた老人は、新の姿を見た衝撃でか廃人状態に陥ってしまったらしい。
人形のようにカクカクと動くだけで、生きた置き物のようになっているそうだ。
傭兵たちに制圧されたSPや使用人達も黒犬を見た辺りの記憶は何故か飛んでいるらしく、自分達を倒したのは見えない位置からの傭兵団の不意打ちがあったからだと思い込んでいるらしい。
自分達の主人が何をやったかは把握しているらしく、彼らは一槻を監禁したことには口を噤んでいた。
だから新についての情報漏洩の心配はないだろうと、後日わざわざ時間を作ってこの家にやって来てくれた梅田が教えてくれた。
当主がそんな有様になり、バタつく杉本家では熾烈な家督争いがあったらしいが、どの分家も高齢の当主ばかりでありながら他にαの後継ぎは無く、純血の一族を誇れるのもあと数年だろう、と冷笑を浮かべながら梅田は言った。
種など才能の前では大した問題ではないと切り捨てる梅田老人は、祖父の弟子の中で一番優れた才能を持つβだ。
αでありながら花咲かすことも出来ずにいる一槻は、困ったように笑うだけに留めた。
アトリエにある一人掛けのソファセットに座りながら、一槻は躊躇いがちに切り出した。
最後に一人だけ、気になる人がいるのだ。
「杉本家分家の、朔子さんって方が、どうなったかはご存知ですか? 女子高生だったらしいんですが」
一槻の左側にある長いソファーに座る梅田はあっさり頷いた。把握していた人物だったらしい。淡々と告げる。
「ふむ、杉本分家の不幸な目にあったΩの女性か。彼女は出奔したな」
一槻はすぐにはその言葉が飲み込めず、目を瞬いた。
「──は? その子、寝付いていたんじゃないんですか?」
梅田はうむ、と頷く。
「長らく彼女を看病してくれていた使用人の女性と手に手を取って、本家の家督騒動でごたつく間に家を出たらしい。報告によると、その使用人の女性は大変な才女らしいのでな、一緒に居てもそうそう不幸な生活にもならんだろう」
梅田の言葉に、一槻はホッと息を吐いた。
才能の有無に容赦の無い梅田が才女だと言うのだ、きっとその使用人の女性は必死にΩの女の子を守ってやるのだろう。出来る出来ないに拘わらず、一槻が新を守っていきたいと思うように。
「…そうですか。なら、良かった」
肩の力を抜いた一槻を静かに見遣って、梅田は口を開いた。
「師は美鈴さんに惚れていたそうだ。美鈴さんと同じ境遇にあるΩ女性の話を聞いたなら、師は助け出すために必ず手を差し伸べようとなさっただろう。その人が杉本家に虐げられた人間なら尚のことな」
驚愕で一槻は硬直した。
梅田はその視線をテーブルに置かれたコーヒーに落とし、静かに言葉を紡いでゆく。
彼の老いた顔には悼む色があった。
「一度だけな、師が深酒をした時、その話を聞いたのだ。後悔と、愛しさと、哀しみの話だ」
梅田が視線を上げて、一槻を見た。
「聞くか? 良い話ではないが」
梅田は気遣わしげな眼差しでこちらを見ていたが、一槻はきゅっと背筋を伸ばして梅田に向き直ると頷いた。
「……構いません。聞かせて下さい」