αの血族の闇②
「あ、ら、た?」
呆然として黒い獣の顔に手を伸ばしてくる一槻を困ったような眼差しで見て、低い声でああと応える。
その瞬間、一槻の顔が表情が激変した。
つい先程まで見えた歓喜の色はどこにもなく、一槻の整った顔はすっと血の気が引いた色になり、元々は本のわずか垂れた目がきゅうっと吊り上がった。
その表情は、新の見たことも無い一槻の激怒の表情だった。
一槻の憤怒の形相にたじろぐように後ずさろうとした獣をがしりと毛ごと鷲掴み、一槻は逃げようとした黒犬の巨大な口元を抱え込むようにぐいっと引き寄せた。
爛々と底光るような茶色の目が、新の大きくなった紅い目を遠慮なく覗き込む。
「おま、お前、新かよっ?! じゅう、銃って!! おま、そんなの使われたって!! け、けがぁ、怪我してんじゃないかっ!?」
青ざめた顔のまま、一槻は黒い獣の顔に、腕に、身体に視線を走らせ鬼気迫る勢いで銃創のありかを探ってゆく。この巨大さでは一槻であっても手の届く範囲はそれ程広くないというのに、彼は必死に両手で新の声がする獣の身体を弄って怪我を探した。
余りの遠慮の無さとくすぐったさとで、部屋のほとんどを塞ぐ獣はぶるりと身体を震わせる。
「い、一槻、平気だ。怪我、ないから」
黒い巨犬の身体から新の声が響く不思議には全く反応せず、ついには血の匂いを探そうと少し硬い毛が密集する獣の身体に鼻を埋めて一槻は血の匂いと硝煙の匂いを探し始めた。
「い、一槻、俺は怪我なんてしてないって」
慌てたように身じろぐ獣姿の新の声は弱り切っていた。間髪いれずに顔を上げて一槻が絶叫する。
「だって、銃! 銃だよ? 撃たれたら死んでもおかしくねーんだよ! 心配するわ、馬鹿ッ!!!!」
新の身体を探る指は止まったが、がくがくと震えたままの指で獣の身体をぎゅうっと掴みながら涙と一緒にぼろぼろと言葉をこぼしていく。一槻の口は止まらなかった。
「馬鹿だろお前馬鹿じゃね馬鹿やってんじゃねーよほんとお前馬鹿だろ馬あ鹿ッ!」
動揺に揺れた一槻の涙と掠れていく声に、獣は大きな身体を少しでも小さくするかのようにその身を縮め、「ごめん」と一言一槻の身体にその声を落とした。
しばらく、どちらも動けなかった。
部屋の外にはざわついた物音がしていたが、獣姿の新が器用に外れた扉を立たせて身体で押さえていたから多分まだ誰も入っては来られない。
新を失ったかもしれない恐怖に震える身体を、巨大な獣に縋りつくように押しつけて一槻は話し出した。
「お、お前がし、心配してると思って、けど、オレ、色々持ってかれてて、お前に連絡できなくて、がちがちに閉じ込められて、ヤバいって焦ってた。逃げられそうな場所も無くて、さ…」
心配させたよな、ほんとごめんな、と震えながら一槻がつぶやく。
一槻は黒い毛皮に顔を埋めたままで、一向に顔を上げようとしなかった。
苦い、苦い現実を吐き捨てるように一槻が呟くように言う。
「あのジジイ、オレを形だけ養子にして、Ωの女性を集めて、オレの内縁の妻に大量に宛がって、αの子どもを山ほど産ませるつもりだったんだ…そんでさ、親族の子どもとして養子にさせるよう配るつもりだって。Ωの発情期セックスはほぼαが生まれるからって…労せずハーレムを持てるんだ、α冥利に尽きるだろって」
αの番はいくらでも持てるもんな、と新がぼそりと言った。
新の言葉に怖気を振るって身体をびくりと強張らせた一槻に、大きなしっぽがファサリと包むように撫でてくれる。
お前がそんなの好きじゃないって、分かってるから。新の静かな囁きに、一槻の身体の強張りが少し解けた。
ノロノロと漸く一槻が赤く腫らした目を新に向けた。
獣姿の新を間近で見ているというのに、一槻が黒い獣を見つめる姿に嫌悪の視線はどこにもない。
自分を厭うような苦い表情で一槻は俯いた。
「最悪だ。権力と金持った馬鹿は始末に負えねーよ。こんな腐った家になんて居たくなかった。早く逃げたかったけど、オレじゃどうにも出来なくて…」
オレ、こんなに何にも出来なかったんだな、と一槻の小さな声が落ちる。
獣の姿では俯く一槻の頭を手で撫でて慰めることも出来ない新は、しっぽを何度も揺らして落ち込む彼の背中を何度も撫でた。
「――多分、気づきさえしたら、じーちゃんのお弟子さんらは権力も金も持ってるから、オレのこと助けてくれるとは思ったけど、お前はオレと同じで権力も金も無いから、無茶しないか心配してたってのに、なんで、なんで、お前」
ゆっくり顔を上げた一槻は、真っ赤に腫らした目を逸らさずに新を見て言う。
「ほんとに、怪我、ないんだな?」
獣の巨体が体を起こしきちんと足を揃えて座り直す。油断なく、身体は引き戸の扉を塞いだままだが。
「俺は無事だ、なんともない」
じっとこちらを見る紅い瞳に、漸く一槻は深い溜め息を吐いた。
そして、真剣な顔で獣姿の新を見た。
「外に出たら、お前もオレも銃で狙われんの?」
ぴくぴくと耳を動かした新は慎重に外の様子を探ると小さく首を振った。
「外の捕り物は終わった、と思う」
「梅田さんたちが、やっぱり権力ぶっ込んだの?」
一槻の遠慮ない言葉に、新はどこか困った声でああ、と頷く。
「本当は傭兵とこっちに来たがったんだが、俺の方が適任だからこの部屋以外の完全制圧を頼んだ」
「傭兵!? あの人達、日本で一体何やってんの?!」
年寄りの冷や水って知らないのかね?と頓珍漢な突っ込みを入れる一槻に、新が困ったように項垂れた。
「…梅田さん達と傭兵部隊に、俺のこの変化がバレた」
「うん、まぁ、共同戦線張ってたみたいだしね? そりゃそうだよね? でもさ…違くない? そっちより先に、オレに言うことないの、新?」
「一槻に黙ってて、悪かった」
「いや、違うよね? そっちじゃないよね、オレ、そっち方面で怒ってんじゃないから。だって、水臭いよって話じゃん、オレがあんだけ犬神に感謝してたの聞いてたでしょ、新? 聞いてないとは言わないよなあ?」
ぐい、と巨大な獣の口元を再び遠慮なく捕まえて、透き通るように紅いその瞳を逸らすなとでもいうようにじっと見つめると一槻は言う。
「オレね、監禁されてる時もお前のこと心配だったけどさ、それより何より、たったさっき、心底お前が大事だって思い知った。銃使われたって、使われたのがお前だって分かって、もしかしたらお前が死ぬとこだったかも知れないって知って、背筋が凍った」
一槻がほんの少し、笑った。優しい優しい笑みだった。
「オレには分かったよ。新が死んだら、オレも壊れちまうかもしれないくらい、お前が大事だってこと。…でさ、多分、それ、オレだけじゃないでしょ? 新も、そうなんじゃないの?」
一槻の手がするりと伸ばされ、変形して長くなってしまった新の口元を優しく撫でる。
「オレにだってずっと秘密にしてたその格好のことを他人にバラしてまでオレを助けに来てくれた、その、お前の気持ちの大本をオレは知りたい。──新、教えて? お前にとって、オレって、何?」
今まで一切踏み込んでこなかった一槻の遠慮の無い猛攻に、新はビシリと硬直した。
「言えよ」
ぎくしゃくとした変な動きであちこちを見る新に一槻は追い詰める手を緩めない。
「オレは、お前の何?」
今まで見たことも無い一槻がそこにいた。
妖艶で普段は見せない男らしい強気な笑みを浮かべて笑う一槻に、知らず新は目を奪われてしまった。
居たたまれなくて別な方をちらほら見るものの、顔の正面で笑う一槻が気になって仕方ない。紅い瞳を覗く獰猛な笑顔から目が離せなくなった。
なあ、と一槻が甘く囁く。
「…新、オレは、お前が好きだよ。──なぁ、お前は?」
すりすりと細長い獣の口元を優しく撫でる掌に、新は背筋をゾクリと震わせた。ふわ、と温かいものが新の唇に触れる。一槻の伏せたまつ毛が見え、その唇がちゅうっと新の口元に吸いつくと、またゾクッと新に痺れが走る。
「あらた?」
いつもからからと笑う一槻のどこに、こんなセクシャルな彼が潜んでいたのだろう。新は大きな身体をカチコチに強張らせ、そっと彼の姿を見返した。
「……」
「…ん?」
「………」
「──あ、ら、た?」
「…………」
「───言おうか?」
一槻の笑みが妖艶さを増したが、何故か微笑みは怖さを増した。
ゴクリと生唾を思わず飲み込んでしまった新は、観念したかのようにぎゅっと眉をひそめた。
大きな獣は項垂れるように頭を下げると、そっと一槻にその顔を寄せ、小さく囁いた。
「……………………………………俺、も、一槻が、大事、だ」
大きな大きな黒い獣の恥し気なその声に漸く、一槻は彼らしい明るい声を上げて笑ったのだった。