それから、の始まり
敦香谷秋水です。
お月さまの方で書いた小説と同じで、オメガバース世界をモチーフにしています。そちらの作品の方の筆がなかなか進まないので、ちょっと気分を変えて書いてみました。
どなたかの琴線に触れることが出来たら幸いです。
渋澤一槻は、一度死んだことがある。
見たこともないような獣に噛み殺されて。
あの時の強烈な痛みは、忘れたくてもいまだに生々しく甦ってきて、忘れようったってこれっぽっちも忘れられない。
これでも成人済の男だというのに、巨大な口に右肩から左にある心臓までを一噛みに咥えられ、めきりめきりと巨大な牙にへし折られるようにアバラごと肺から心臓までを噛み砕かれた。
激烈な痛みに脳裏が血の色一色に染まった。鮮やかに、真っ赤に。身体が激しくのたうって、痙攣して、熱い血が噴き出すように零れていった。痛くて痛くて、熱くて、脳みそが沸騰するみたいで。止まらず次々と零れていく何かに人生の終わりを感じて、初めて焦った。嫌だ、と。オレはまだ描きたいんだ、と。絶叫するように痛みと後悔に身悶えて、そして、迎えた見事なまでのブラックアウト。
──まぁ、オレが死にたいなんて言ったからなんだが。
ああいうのでも、臨死体験と言うんだろうか。一槻は死ぬまでの瞬間を強烈に覚えているが、逆にあの世とやらは一度もお目にかからなかった。
「ああ、オレは死んだ」と思って目を開けたら、死ぬ前のビル街の側の河川敷の藪の中で、ピンピンして生きていたからだ。
今こうして五体満足で生きている訳だから、「死んだ」訳はない。これは科学も証明してくれるんだろう。
ただ、あれが単なる夢じゃないってことは、今も一槻の体に残る「獣の噛み跡のような痣」が生々しく伝えてくる。一槻が「死んで」生き返った後に残されていたキズが。
一槻を一噛みで噛み殺した化け物は、犬神、と名乗った。
人間を一口で食べてしまえるほど巨大な顔は──黒く。
見たこともない底光りをする大きな目は──赤く。
闇の中なのに浮き出るように見える毛並みと鋭く生えそろう牙。
獣らしい吐息の生臭い匂い。
小山のような巨躯。
そして、人間のような低い、でも案外若い、男の声。
そいつに聞かれて「死にたい」なんぞと言ってしまったから、一槻は殺されたのだ。
仮初めでも「死んで」初めて分かったことがある。
命ってのは、自分が思うより何万倍もエネルギーに満ちあふれているものなんだと。
だからこそ人間は簡単に死ねないし、死ぬまでにあれほどの痛みを味わわされたのだ。癌で死んだ祖父でさえ、簡単には死ねなかった。
結局の所、健康な人間が死ぬには、徹底的に体が破壊されないと死ねないんだろう。
生々しいあんな痛みをもう一度味わうくらいなら、普通に生きて痛い思いをする方がなんぼかましだったと思い知った。
死にたいと願ったくらいだ。「死ぬ」前の一槻が追い詰められていたのは確かだ。
冷静にあの頃の自分自身を思い返せば、あれはいわゆる「鬱」だったんだと思う。
たった一人の家族だった祖父を失い。
自分の憧れであり目標でもあった宝物の絵は、祖父の最後の願いで焼き捨てざるを得ず。
祖父を安心させたくて、面会よりも優先し、渾身の力を注いで描いた絵はコンクールで落選。美大はそれなりの成績で卒業していたものの、そのコンクール入賞を何より優先していた一槻は当然ながら就職活動など一切していなかったため、現在の彼には職すらない。
大好きだった祖父に安心して欲しかった。出来るならば、自分の才能を公に認めてもらって、祖父の心残りを晴らしたかった。その為にはと魂をすり減らすように全てを注ぎこんで描いた絵が認められなかったことは、一槻を絶望の淵へと叩き込んだ。
祖父の葬式の、控室に届いたコンクールの受賞者の一覧。そこに一槻の名前は無かった。一槻は全てに、間に合わなかった。届かなかった。
魂が擦り減っていた時期に重なった出来事が一つ一つ一槻の心を折っていき、最後の一本で彼の全てがぽきりと折れてしまった。
そしてその時、彼の心から、世界を彩っていたはずの「色」が消えた。
季節は秋。皮肉なことに、燃えるような紅葉の美しい、いかにも錦秋という言葉がふさわしい日のことだった。
見れば色は分かる。分かるのに、色彩を捉えているはずの一槻の視野に浮かぶ光景が、脳裏で全て灰色になった。
一槻は画家だった。売れなくても必死に絵を描いて、絵を描くために生活してきた。
それなのに世界が灰色に染まってしまった。
見れば何色か判別できる時点で、脳裏で灰色に切り替わってしまうとしてもそれは病気じゃないんだろう、と一槻は呆然と思った。ただ、もう絵は描けない。そう思った。色を失った彼の世界に、感動するほど心動かされるものなど何も残っていなかった。
祖父の葬式の後、一月半はそれでも何とか生きてきたが、色が無い世界に生きることは、画家の彼には耐えられなかった。彼を取り巻く全てのものが、よろよろと生きる一槻を、絶望の淵からもっともっと深い底なしの絶望へと引きずりこんだ。この先どうやっても、もう一槻には生きていくことなどできそうになかった。
何もかも失った。
そう思ったからこそ死に場所を探していて、一槻は「死の獣」に出会ってしまったのだ。
生き返った世界には、「色」が満ちあふれていたことに気付いた。どこを見ても美しくて。人間の、自分の醜さすら、愛おしくて。
一槻はもう一度、この世に戻してくれた何かに感謝した。
それが、あの絶叫するほど痛い目に合わせてくれた「犬神」であっても感謝したい。
禍々しい妖気漂う闇色の体に地獄の炎の目を持つ巨大な犬。
死の気配が漂う恐ろしい姿の犬神。
──怖かった。噛まれたあの時は、死ぬくらい痛かった。だけど、いや、だから、オレは戻って来れた。寿命を前に死ぬことがあれほど苦しいことなのかと、死ぬほど思い知らせてくれた。そして、取り戻した世界が、どれほど命の色に溢れた世界なのかを、教えてくれた。
──オレの目を覚ましてくれて、本当にありがとうな。
死ぬほどの痛みで目覚めさせ、一槻の世界に色を取り戻してくれたかもしれないあの獣に、心からそう思った。