第三話 その名は、エドガー
男は薄暗い物置の中で目を醒ました。
まず吐いた。四つん這いの姿勢で目一杯吐いた。
魂の記憶と肉体に残る記憶が混濁して前後不覚に陥っている。
――オスカーって名前だったのか。
心の中でそう呟くと立ち上がって、半開きで明かりが差している扉に近付いた。
目を細めながら外へ向かう。陽光が眩しい。
無造作に扉を開け放つと倒れている女性が目に入った。
肩までかかる栗色の髪の毛に整った顔は間違いなく美人と呼べる。
ただ、上半身と下半身が別たれていた。
――エラ。姉さん。好き。
肉体の記憶が悲鳴を上げている。
吐いた。全力で吐いた。
もはや胃液しか残ってなくて酸っぱい。
「ちょっと……ハードモード過ぎませんかね……」
口を拭い、げんなりした表情でそう呟く男。無理もない。
ふらつく身体に喝を入れ、物置からスコップを取り出して穴を掘る。
肉体に強く残る、エラという女性が何度もリフレインしてきた。
エラという女性を俺は知らない、と自分に何度も言い聞かせた。
涙の止め方が分からなかった。
八歳の身体はそれとは思えない程に貧弱だった。
――ま、一年間も地下暮らしじゃなあ。
中にはこれの千五十倍もの時間を地下で過ごす人もいるとかいないとか。
男は穴を掘りながら己の名前を考えていた。
オスカーはオスカーとして生きた。自分がそれを名乗るのは違うのではないかと。
時間をかけながら腰の深さまで穴を掘ったところで、エラの遺体を抱いてそっと穴の中に横たえた。
男は直接話す機会もなかったエラに感謝していた。
エラが教えてくれた知識はオスカーの中でしっかりと吸収されていたし、何よりこの世界の言葉に不自由しないで済んだ。読み書きだって出来る。
今後自分が生きていく上で大いに役立つだろう。非常に有り難い。
「エドガー、かな」
エラから一文字、オスカーから一文字。生前の自分からも一文字。
これからはエドガーとして生きていこう、エラの遺体を埋めながらそう決めた。
埋め終わった場所にスコップをそのまま墓標として立てたエドガーは手を合わせる。
「簡素でごめんな」
この村には死の臭いが蔓延している。長居は出来なかった。
勝手知ったる、荒らされた家へ入るとパンと干し肉、水を入れた水筒とナイフをカバンに詰めてエドガーは家を、村を出る。
ここまで生命の危機を感じたことはなかった。
――遅かれ早かれ。オスカーがそう言っていたのを思い出す。
「ごめんオスカー、俺も自信ねえわ」
天に向かってそう呟くと、エドガーは歩き始める。
それから十分後。
街道沿いの大きな石に頭を垂れて腰掛ける少年の姿があった。
姉と同じ栗色の髪の毛は乱雑に、肩まで伸びている。腕や脚が簡単に折れそうな線の細さと整った顔立ちが相まって、少女にしか見えなかった。
そう、エドガーである。
「体力なさすぎっすわ……」
まさか歩き始めて十分で疲れて動けなくなるとは思っていなかった。
エドガーは頭の中でやるべきことを整理する。
まず、安全な寝床の確保、そして水と食料。
それらを確保した上で、十分に身体を鍛えなければ北にそびえる山を越えるだなんて夢物語で終わってしまうだろう。
街道から隣接している森へチラリと視線を向ける。
――やっぱ、いるんかね。
エドガーはまだこの世界の人間を知らない。
オスカーの記憶にあったのは家族と数人の村人だけだった。
魔法を使えない者として他の人間と接触するリスクと鬼族に遭遇するリスクを頭の中で天秤にかける。
出会いたくないのはどちらも一緒だった。
一度は終わった身がこうして今も動いている。
それならば何を恐れることがあろう。
約束もした。人生を楽しむと。
ならば楽しそうな方に行くことにしよう。
「いっちゃいますか!」
ふん。
鼻息を鳴らすとエドガーは立ち上がって森の中へと歩みを進めた。
王都ハーアットより北西に位置するロッシ山脈。
北西のヤン地方から北東のアギラ地方まで雄大に広がるその山脈は未だ人類の到達を許していないし、その麓から広がるツガ大森林には鬼族が多く棲息し、立ち入ろうとする酔狂な人間は滅多にいない。
ただ、動物も多く棲息するので、その恵みを求めて一攫千金を狙うが如く森に入る人間も居ないことは無い。動物の毛皮は高く売れる。
そんなツガ大森林の中。
エドガーは洞穴の入り口ででうつ伏せになって掌を前へ向けてじっと構えている。
その視線の先には一匹の野兎。
過去に土魔法の使い手が拠点として築いた、使われなくなって久しい洞穴と、そこから五分も歩いた所に湧き水を発見したエドガーはこれ幸いと腰を落ち着かせて既に一週間が過ぎた。
今では森の中を十五分歩くことだって出来る。大きな進歩だった。
家から持ってきた僅かばかりの食料はすぐに尽きたので、木の実や山菜を採取して食事としていたのだが、如何せんそれだけでは足りずに腹が減る。
身体が肉を欲していた。
ナイフ一本では狩りはおろか、落とし穴を掘ることすらままならなかったエドガーは魔法を行使する決意をする。
この身体で生きていくには魔法を使わない事には話にならないと悟った。
まずは虻を対象に実験をした。
「ふん!」
掛け声一つ、掌から対象を意識するとポトリと虻は地に落ちた。
身体に異常は無かった事を確認して休憩することにした。
全身から汗が吹き出ていた。
もしも生命エネルギーが虻と同量であったなら、エドガーの身体も地に伏せていたと考えると恐ろしかった。その日は震える身体を抱きしめるようにして眠った。
そして一日経った今、エドガーの狙いは前方の野兎である。
その場で気絶する可能性を考慮して洞穴の入り口でずっと息を潜めていたところ、ようやく視界に獲物が現れてくれた。
額を、頬を、汗が伝う。
「ふんっ!」
ころんと野兎が倒れる。
エドガーは己の掌を見つめ、握ったり開いたりをしながら無事を確認していた。
――大丈夫、頭痛もない。
極度の緊張から開放されたエドガーは大きく息を吐きながら野兎の元へと向かう。
はははん、肉ゲットだぜーなんて即興で作った歌を口ずさみながら。
だが、そんなテンションは一分と保たなかった。
野兎を持ち上げたエドガーの十数m先に一体の小鬼が立っていた。
薄緑色の身体に尖った耳、その薄汚れた赤い瞳は野兎ではなくエドガーを見つめていた。
視線は交錯する。
同じ年代の子供よりも小さいであろうエドガーより更に一回り小さい小鬼の手には、木で作られた弓と先端に石をつけた矢が握られている。同じ獲物を狙っていた様子だった。
一人と一体の間に緊張が走る。
エドガーは小鬼と、手に持つ野兎の間で何度も視線を彷徨わせて、
「やるよ」
そう言って小鬼に、ぽいっと野兎を投げてやった。
びくっと反応した小鬼を他所に、エドガーは興味も無いといった体で洞穴へと戻った。
――こっち来んな。
内心はドキドキだった。早鐘のように心臓が脈を打っている。
魔法は使ったばかりで不安がある。
そもそも小鬼に対して生命エネルギーが勝っている保障もない。
頼むからそれを持って帰ってくれ、と願っていた。
食いっぱぐれた事に気付いたのは陽が沈んだ後だった。
その日も洞穴の奥で震えながら膝を抱えて眠った。
浅い眠りを何度も繰り返して、エドガーはのっそりと洞穴の外へと向かう。
木々の間からうっすら陽が射している、その入り口近くには木の実や果物が置いてある。
まるでお供え物のように。
――いやまさか。
心当たりは、ある。野兎の礼だ。
しかし、本当か? と。
半信半疑ながらも空腹には耐え切れずに有り難く頂戴することにした。
野苺とオレンジだと思われる果物はやや酸味が勝るものの、甘みがあって沁みた。
探せば何処かに自生しているのだろうか、と考えながらもぐもぐと食する。
すっかり食べ終えて一息ついていたエドガーの元へそれは現れた。
小鬼だ。
昨日とは変わって、手には一本のナイフを握っている。
エドガーが腰のナイフに手を当てながら警戒していると、小鬼は空いている左手を真横に挙げて森の奥を指差している。
「そっちに何かあるってことか……?」
エドガーは警戒を若干緩めて問いかける。
こくこく。
分かっているのかいないのか、頷く小鬼。
「よし、連れてってくれ」
そう言うと小鬼を先に行くように促して歩き出す。
長い耳をぴくぴくさせ、何度もこちらを振り返りながら小鬼は森の奥へと進む。
一際大きく、ぴくんと耳を動かしたかと思えば、小鬼はその場で四つん這いになった。
人差し指を口に当てて「しー」とでも言わんばかりの表情で振り返った。
エドガーも慌ててうつ伏せになり、匍匐前進の構えで小鬼へと近付く。
近付いた上で小鬼が指差した先には、一匹の野兎が居た。
なるほど、とエドガーは思う。
昨日、この小鬼は野兎を狩る瞬間を見ていたのだろう、と。
その上で確実に狩る為に自分を利用しようとしているのだ。
――悪くない。
にやりと口角を上げるとエドガーはそっと右手を突き出して構える。
「ふん!」
呆気なく野兎は倒れる。
小鬼はそれを見るや否や駆け出していった。
野兎をしっかと持ち上げると、そのまますぐに走って戻り、エドガーへと差し出す。
しかしエドガーは首を振ってそれを制した。「ギギィ?」と首を傾げる小鬼。
「いいか、もう一匹だ。もう一匹探してくれ」
指をピンと一本立て、エドガーは説明する。
小鬼が探してエドガーが狩る。
その体制を作るのであれば獲物は平等にしたいというエドガーの思いであった。
勿論、狩った一匹を持って逃げるようであれば引っぱたくつもりでいた。
ところがこうして差し出してくる。木の実の件でも感じたが、どうもコイツは義理堅いようだ。狩りを共にをするならばそれで十分だと判断した。
「ギッギー!」
小鬼は目を瞑って耳をぴくぴくと動かし始めた。
更に鼻をすんすんとすると目を開けて歩き出す。
「ギッ!」
まるでこっちだと言わんばかりに先導する。
――コイツひょっとしたら凄く使えるのでは?
エドガーはそう考えながら大人しく着いていった。
数分後、エドガーの手元にも野兎があった。
小鬼の発達した聴覚と嗅覚は獲物を見つけるのに非常に有能だったし、呪殺魔法は獲物を仕留めるのに非常に有効だった。
「よし、これからもよろしく頼むな」
受け取った野兎を左手に、エドガーは右手を差し出す。
「ギー?」
しかし小鬼は首を傾げるばかりだ。
「握手だよ、握手っつーのは、なんだほら、友好の証とか? まあいいや手を出せ」
そう言って強引に小鬼の右手を取ってしっかりと手を握った。
「ギギー?」
「お前、ギーギーばっかり言うんだな。よし、お前の名前はギーギな。名前あった方が便利だろ」
「ギーギ?」
「そうそう、お前は今日からギーギだ。明日からもしっかり獲物見つけてくれよ」
そう言ってギーギの頭をぽんぽんと叩く。
「ギーギ!」
何処まで理解しているのか、嬉しそうに笑顔を零すギーギだった。
「ところで……」
「ギ?」
「洞穴、どこ?」
「ギィ……」
ギーギに道案内をして貰う道中、食べられる木の実や果物が生る木をいくつか教えてもらったエドガーはほくほくで洞穴へと戻った。
入り口近くでどうにかこうにか火を熾し、野兎の解体作業に勤しんでいた。
生きる為に、食う。
四苦八苦しながらナイフで皮を剥ぐ。続いて内臓を取り出して、肉を火にくべた。
「いただきます!」
しっかりと手を合わせ、齧りつく。
その身は淡白で鶏肉に近い。
何か味付けをしたい、と少しだけ思う。
しかし肉、肉だ、肉なのだ。
久しぶりの食感に生きている実感を得た。
「ごちそうさまでしたっ……!」
――やっと少し、落ち着けた気がする。
余す所なく腹に収まった野兎と、奇妙な隣人に感謝をしてエドガーはゆっくりと眠りについた。
翌朝、湧き水の所でエドガーが顔を洗っているとギーギが姿を見せた。
「よう、おはよう」
「ギギギィ」
真似ているのか、似たようなイントネーションで発音するギーギに微笑みを浮かべながらエドガーは自分の考えを話し始める。
「今日はさ、もっと大きな獲物が良いんだよ、大きいの。こーんな」
ぶわっと両手を広げて、大きいヤツ! とアピールする。
野兎二匹では頭痛も起きなかった。
呪殺魔法がどの程度使えるかを把握しつつ、食料確保を同時に行えるなら二度美味しい。
「ギッギー! ギギ、ギギッギギィ?」
頷いた後で首を傾げるギーギ。
伝わったのか伝わってないのか、そして何を言いたいのか。
「分からん……まぁほれ、頼むわ」
エドガーはそう言うとギーギを追い立てて先に歩かせた。
森は奥に行くに連れて傾斜が増える。ロッシ山脈が近付く為だ。
ツガ大森林入り口より、全体の五分の一程度の距離でも進めばそこはもう山とも言える。
エドガーは地面と仲良くなっていた。それはもう全力で。
「心配してくれてたわけだな……なるほどね」
多少ついたと思っていた体力は、徐々に増えていく傾斜に完敗した。
ギーギに隙を見せまいと無理をしていたのが災いして、暫くは動けそうにない。
「ギィ……」
「すまん……ちょっと休憩ってことで」
「ギギーギー」
エドガーが大の字になっているとギーギは何処かへと行ってしまった。
――アイツ体力あるなぁ。
小さな歩幅で颯爽と消えていったギーギに関心しながら、エドガーは体力の回復に努める。
実際には山の歩き方にコツがあると知るのはまた先のことである。
汚れるのも厭わずに横になっているエドガーの元にギーギが桶を持って帰ってきた。
中には水が入っている。どうやら汲んできたらしかった。
「おぉ……この桶はギーギが作ったのか? 凄いな、器用だな」
「ギッ!」
差し出された水で喉を潤し、ふぅ、と一息ついたエドガーはようやく立ち上がる。
「よし、お待たせ、行こうか」
「ギッ! ギッ!」
そうして暫く歩き続けていると、傾斜の終わりが見えてきた。
先を歩きながら心配そうに何度も振り返るギーギだったが、それがエドガーを奮い立たせ、終わりまで倒れずに歩ける事が出来た。
視界が開けた。
そこには大きな、とても大きな湖が広がっていた。
遥か昔に隕石が落ちて出来たクレーターに水が溜まったかのように見えるその湖は山の、森の中にあってその存在を一層際立たせていた。
「凄いな……ここは……」
「ギァー!」
エドガーは思わず立ち尽くす。
ギーギは何処か誇らしげに見えた。
「あの湧き水はここの地下から流れてきてんのかね……」
「ギ?」
「いや、なんでもない」
「ギギー、ギィギ!」
苦笑しながら頭を振るエドガーを余所に、ギーギは一点を指差す。
そこは湖の畔。
未だ距離はあるがエドガーにも確認出来た。
鹿だ。
なるほど、良い大きさだと思う。
「よし、行くか」
「ギッ!」
そろりそろりと物音を立てないように、今度は傾斜を降りながらエドガーが先行する。
うつ伏せになり、目視でおおよその射程を確認して掌をかざす。
「ふんっ!」
どすん、と音を立ててその場に倒れる鹿。
――頭痛はない。
エドガーはまず自分の身体を確認した。
小さな鹿だった、と思う。
しかし気絶はおろか頭痛すらない。
一体この呪殺魔法はどれ程のものなのか。
何か裏があるのではないかと言い様も無い不安に駆られていたエドガーだったが、獲物が倒れると同時に駆け出して鹿の回りで小躍りしているギーギを見ると、まあいいかと思考の隅に追いやるのであった。
「しかし、こうしてみるとでかいな」
倒れた鹿を目の前にエドガーは漏らす。解体には時間がかかりそうだった。
「その桶、もう一つ作れるか?」
そんな質問に、ギッ! と頷くギーギ。
「よし、だったらそれと、木の板が二枚、あと作って貰いたいものがあるんだ」
そう言って地面に木の枝で絵を描く。木の板を何枚も合わせて作られた桶の形状を見る限り作れそうだった。
「こう、長い木の棒みたいなのに、蔦とか蔓みたいなのあればそれをつけて、だな」
言いながら絵を描く。
「その先にこう、針を曲げたのをつけれるか? それを二本、頼みたいんだが」
「ギッ!」
地面の絵を見ながらふんふん、と考えているようなギーギだったが、何かを理解したのか来た道を登って森の方へと歩いていった。
「それじゃ、その間こっちはこっちで頑張りますかね、と」
エドガーはまず、首を落として血抜きをした。
桶に湖の水を汲んで、切断面を突っ込んではじゃぶじゃぶと洗う。
次に腹を裂いて、取り出した内臓を空いた桶に時間をかけながら入れていった。
皮を剥ぎ始めたところでギーギがいくつかの木を持って戻ってくる。
「お、いいところに来たな。ちょっと木の板持ってきてくれ」
作業を中断してエドガーはギーギを手招きする。
気になっていたことがあった。
桶から内臓を一つ取り出して、ギーギが持ってきた木の板の上へ置く。
「これ、レバーだと思うんだよな」
まだ温もりを残すその塊は、エドガーが言うようにレバーだった。
「これ生で食える? 食ったりする?」
「ギ?」
エドガーの期待とは裏腹にギーギは首を傾げるばかりだった。
「んー、食べたことないか。この世界でも寄生虫ってやっぱりいるのかな……」
「ギィ……?」
目を瞑り、腕を組んで悩むエドガー。
「よし!」
目が開かれた。
「食おう!」
「ギッ!」
木の板に載せたレバーの薄皮を剥ぎ、ナイフで一口サイズに分ける。
ちょんちょんと指で突いて感触を確かめたり、目視で何度も確認しても違和感は覚えなかったので腹を決めた。指で摘む。ギーギもそれを真似て一つを指で摘んだ。
「いただきます!」
勢いよく口に放り込む。
信じられないものを見たかのようにカッと見開かれた双眸からは、驚きと喜びの色が浮かんでいた。
「滅茶苦茶美味いッ……!」
まろやかな舌触りながら噛めばキュッと音を立てるしっかりとした弾力。
そして舌の上のみならず口の中全体に止め処なく広がる甘みと旨み。
食べる機会なんてもう無いだろうと思っていたレバ刺し。
眼下には雄大な湖と、ロケーションも相まってかつて無い多幸感を覚えていた。
ふと横を見ればギーギも恍惚とした表情で、まるでその意識は空を越えて宇宙まで行っているかのようだ。
「美味いなあ!」
ひょいぱく。
「ギーギギッギ!」
ひょいぱく。
「幸せだなあ……」
ひょいぱく。
「ギィィ……」
ひょいぱく。
気が付けばあっという間に木の板からレバーは消え去ってしまった。
残念そうに木の板を見つめる一人と一体。
「よし、もう一品いこう。ギーギ、火を熾せるか?」
今にも泣き出しそうなギーギを見ていられなかったエドガーはそう告げる。
「ギイッ!」
この世の終わりみたいな顔から一転して、両手を挙げて喜びを爆発させたギーギを見て、エドガーは微笑みを浮かべた。
新しい桶をギーギから受け取り、その中に湖の水を入れた。
古い桶から鹿の心臓を取り出して揉みながらじゃぶじゃぶと洗う。
そのまま置いておき、今度は木の棒をナイフで削り、先端を尖らせる。
そうして串を作ると、鹿の心臓に差し込んでいく。
「よーし、こいつは軽く炙っていくぞ」
ギーギが熾した火の上に串を渡し、たまにくるくると回して全体を炙っていく。
パチパチと音を立てて煙を上げる。
「もう良いかな」
全体に色が着いた所で火から下ろして木の板に載せると、レバーと同じように一口サイズにナイフで切っていく。
「ハートのタタキってやつだ」
「ギギギ?」
「タタキだよ、タ・タ・キ」
「ギギギ!」
「まあいいか、ほら食べよう」
「ギッ!」
その一切れを指で摘んで口へと運んで行く。
「うんまぁ……」
表面を軽く炙った事で口当たりが優しくなった上にコリコリとした弾力はしっかりと残り、噛めば噛む程にその旨みが溢れ出る。いくらでも食べられそうだった。
「贅沢を言えば塩胡椒が欲しいくらいか……この世界で調味料って簡単に手に入るんかね?」
「ギィ?」
恍惚とした表情で、またも宇宙へと旅立っていた意識を戻してエドガーに向けるも、分からないといった様子で首を傾げるギーギだった。
「ま、追々、かな。今は食べちまおう」
「ギーギッギギ」
ハートのタタキを平らげるのにも時間はかからなかった。
「ごちそうさまでした……っと」
しっかりと両手を合わせるエドガー。
それを見たギーギも真似て合掌した。
「さて」
エドガーがチラリと視線を横に向けるとまだ解体半ばの鹿がいる。
腹が満たされた状態でそれを視界に収めると若干テンションも下がろう。
「ギーギ、この辺に洞穴とか、鹿肉を置いておけるような場所ってあるかな?」
どう見積もっても一度で持って帰ることが出来る量ではなかった。
「ギッ!」
頷くギーギに「分かった」と告げるとエドガーは鹿の皮を剥ぎにかかった。
その一方で絵を描いてギーギにあれこれと指示を出す。
ギーギは器用だった。
小鬼という種族自体がそもそも手先は器用な個体は多かったが、ギーギはその中でも群を抜いていた。尤も、本人を含めてそれが特別だとは誰も知らない。
エドガーが描いた絵を見ながらナイフで木を削っては蔦を結わえてゆく。
何度か指示を仰ぎながら完成させた時、
「ふぅ、終わった」
とエドガーも息をついた。
「毛皮、いるか?」
ふるふる。ギーギは首を横に振る。
「そっか、じゃあ貰っちゃうな」
「ギッ」
「よし、まずはその洞穴に運んじゃおうか。板のそっち側持ってくれ」
「ギッ!」
転ばないようにと気を付けながら、鹿肉を載せた木の板を持ってよいせよいせと傾斜を登る。
小柄な持ち手達にとっては大変な重労働だった。
やっとの思いで洞穴に辿り着き、並んで腰を下ろす。
「あぁそうだ……桶は中身をその辺にぶちまけちゃってから持ってきてくれ……こっちは今日食べる分だけ肉を分けておくから……」
休憩してからな、と付け足すエドガー。
ギーギも疲れたのか、異存はないようで「ギィ」と小さく漏らすのみであった。
桶にそれぞれ鹿肉の塊を入れて、一人と一体は洞穴から姿を現した。
「気休めだけど、木の板でも立てかけておこうか」
血の臭いに誘われて他の動物が寄って来る可能性は高いだろうとエドガーは考えていた。
木の板と落ちている木の枝をいくつか重ねて、簡単に洞穴に蓋をした。
「ま、やられたらその時はその時だ」
今はこれが精一杯、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「おっと、そういえば内臓って何処に捨てた?」
いざ下山、と歩き出したエドガーだったが、すぐにその歩みを止めた。
「ギッギ」
あっち、と指差すギーギに従って一本の木の根元に行ったエドガーは、ナイフで腸を少しばかり回収して桶に入れた。
「よしよし、それじゃ今度こそ帰ろう!」
「ギーギー!」
勿論スムーズに下山など出来るはずもなく、何度かの休憩を挟んだ後にへろへろになりながら洞穴に辿り着いたのは陽が暮れる間際だった。