陰日向の彼女
可愛い女の子が好きだ。
産まれてすぐの病院で、綺麗な女の看護師さんの前だと、機嫌良くしていても、小太りで眼鏡をかけたベテランの看護師さんに変わると、すぐに泣き出していたそうだから、これはもう遺伝子に組み込まれている、宿命なのではないかと思う。おまけに、天性の正直者という特性もあり、女の子を見付けては褒めるというスタイルが、すっかり自分に沁みついてしまって、幼稚園から高校まで、女子に避けられ続けるという、信じられない事態になっていた。それにようやく気付いたのも、高校三年生の夏休みを終えた頃で、気分的にはすっかり世紀末である。卒業までに、この問題が解決できるものなのか、次の大学デビューにかけるべきなのか。そもそも本当に大学に行けるのか、未来は暗雲の中だ。
これほど女の子を愛していると明言してきた人間もいないだろう。そろそろ彼女の一人位できたっておかしくないじゃないか。世の中は不公平すぎる、特に女の子に興味を持ってなかったような友人の高瀬に彼女がいるのに、なぜ自分には誰一人寄ってこないのか。できる事ならば、神様に異議を申し立てたい。どうしてここまで不公平なのか。こんなにこんなに女の子が好きなのに! ただし誰でも良いという訳ではない。女の子が可愛いのは、もちろんその子が可愛くあろうと努力しているからだ。その努力が滲み出ている人には特に惹かれる。しかし、彼女たち程、自分を相手にはしてくれないのだ。どうも、ふざけて言っていると取られてしまうらしい、どこまでも本気であるにもかかわらずだ。時々狼少年になったような気がする時がある。本当の事を決して信じてはもらえない。もし、僕の言葉を信じてくれる人がいるなら、その人の為に何だってするのになぁ。こうして僕の悩みは悶々と身体の中に溜まっていき、何処にも進めない空間の中を彷徨っていたら、季節はいつの間にか、冬目前の十一月末になっていた。
「東原って、大学進学組?」
太陽が薄い雲に隠れていた日の事だった。授業が終わった後の、ホームルームの前だったと思う。同じクラスの椋田が突然そんな質問をしてきた。
「そうだけど、何か?」
「勉強は捗ってる?」
「まぁ、ぼちぼちやってるけど、正直捗ってるとは言い難い」
「私に教えさせてもらえない?」
「え? 椋田も進学組だよね、そんな時間あるの?」
「もう推薦が決まって、特にやる事がない。教師になりたい。だから、東原みたいな人に教えられたら、凄い勉強になるんじゃないかと思う」
これは、完全に馬鹿にされている。だけど今までの自分の発言を考えると、そう思われていても仕方ないのだ。人の信頼は毎日の積み重ねにあるらしい。もはや後の祭りである。でも、勉強を見てもらえるのは、とても有難い事だ。椋田は学年でも十位以内に入る位頭が良いのだ。
「じゃあ、お願いします」
「今日から早速やっていい? 場所は図書室で、時間は下校最終時刻まで」
「分かった」
「じゃあ、掃除が終わったら図書室に」
それだけ言うと、椋田はさっと離れた。彼女に関して言うなら、容姿に至っては、全くの普通だ。見た感じだと日焼け止めくらいしかつけてはいないだろう。外に出る事はあまりないのか、肌は白い。銀色の細いフレームの眼鏡をかけていて、華やかさとはどこか遠い場所にいる。「ザ・真面目」という言葉がいかにも似合いそうである。スカートも膝丈だし、髪の毛もボブ程度で、肩につかない位の髪型をずっとしている。実は三年間同じクラスだったのだが、これと言って、言い寄った事はない。何故なら彼女は、周りを一切見ないからだ。昼休みや、朝のショートホームルーム前、自習時間。彼女の視線は、手元に開かれた本に向けられている。そして、そんな彼女に、誰も話しかける事はないのだ。だから、とてもびっくりしてしまった、まさか椋田が話かけてくるなんて、しかも自分にだ。一体何が起こっているのだろう。自分は何かに巻き込まれつつある。そんな予感が初めて頭を過った。
「xとyをこの式に代入すれば、次との関連が見えてくる」
「なるほど、そう考えると納得できる」
開けてみれば僕の杞憂は杞憂に終わった。彼女は実に勉強を教えるのが上手かったのだ。数学や化学、現代文、地理、歴史、英語。全てにおいて、僕が今まで習ってきた先生の誰一人敵わない位、理解するのが容易だった。例えられた問題の解き方、繋ぎ方、そして覚え方。暗雲もなんのその、僕の学力は日に日に上がっていった。もう少しで太陽が雲間から顔を覗かせてくれるに違いない。そうやって、下校時刻ギリギリまで図書室で勉強をしている僕等に、司書の先生がちょっかいを出しにやってくる。学生の本分である勉強をしているのにも関わらずだ。
「そろそろ帰んないと、真っ暗になっちゃうよ。寒いしさっさと帰ったら?」
人がいると戸締りが出来ないので、早く帰れとよくせかされている。しかし、言われなければ遅くなってしまうのも確かで、延々と絡んでくるのから逃げるように、僕等は帰る準備を始める。
「明日は数Ⅰの総復習をする」
「分かった。じゃあ、あのノートを持ってこなきゃ」
勉強開始から二週間以上経ち、成績が上がっても僕等の会話は事務的なレベルのままだった。相変わらずそれ以外の会話の糸口を僕は見つけられない。日が暮れて蛍光灯で照らされた、長く静かな廊下を二人で並んで歩く。この頃には部活の生徒も帰ってしまっている事が多かった。隣で歩く椋田を横目で見る。歩いてる時は、さすがの椋田も本を読んではいないのだ。その視線は廊下の果てでも見るかのように、ずっとずっと先を見据えていた。椋田が今何を考えているのか、僕はとても気になった。
「椋田」
「なに?」
「本を読む以外に好きな事はある?」
「勉強」
「それ以外には?」
「特にない。昔から本と教科書があれば十分だった」
「友達は?」
「必要だと思った事ない。私にとっては、本が先生であり、友達だったから」
「そうなんだ」
それ以外言える事が思い付かなかった。それで満足だと言っている人に、何をしろと言えるだろう? でも、どうして僕に勉強を教えようと思ったのだろう。椋田が何を考えているのか、僕にはまだ分からない。掴めない。どんな質問をすれば、探していた答えをもらえるのか分からない。椋田は難しい。表情も変わらない。その頬は、筋肉の動かし方を教えられていないらしく、いつも 口元を引き結んだままなのだ。
その年の十二月は、秋が終わるのを惜しむかのように、初雪が遅かった。雪がないと、からっ風が吹き荒れて、地上は余計に寒くなるように思う。あの白い絨毯は、触れると冷たいけれど、積ると暖かいから不思議だ。太陽が差し込む内は温かい室内も、日が沈むと、温めるべき卵の存在を忘れてしまったかのように、そっぽを向いてしまうのだ。
今日は一段と寒さが堪える。横に座っていた椋田がぶるっと震えるのを感じた。僕はズボンを穿いているけど、女の子は皆スカートだ。もちろん見ている分には大歓迎だが、いざ自分がそうだったらと考えると、とてもやっていられない。女の子は凄いなと、僕は尊敬してしまう。そういえば、寒くなってきたから持っていきなさいと、今日の朝母親に無理やりブランケットを持たされた事を思い出した。
「ちょっと、トイレ行ってくる」
椋田は無言で頷く。席を立って振り返ると、カバーがかかった文庫本を読んでいた。相変わらず、椋田は本が友達なのだ。
勉強中にした質問には、的確に答えが返ってくる。僕のアバウトな所も拾って、ちゃんと分かってくれる。なのに、椋田の事を分かってくれる人が見当たらないなんて。
「勿体ないなぁ」
掠れた呟きが廊下に漂う。窓の外は薄曇り、そういえば、今日は雪が降るかもしれないと天気予報で言っていた。
教室に行くと、珍しく高瀬が残っていた。どうやら彼女の麻井が委員会に出席していて、それを待っているらしい。全く、羨ましい。
「東原、最近順位上がってきたよな。何処の大学受ける気でいるの?」
「……考えてなかった」
「勉強してるのに、何処行くか決めてなかったの?」
自分でも呆れた。椋田と勉強する事が目的になっていて、どの大学に進むのか考えるのをすっかり忘れていた。どこまで間抜けなんだろう。さすがにこの時は、涙が出そうな位、自分を馬鹿だと思った。でも、僕は一体何に向いているんだろう。そもそも、大学に行って何がしたいんだろう。成績が上がっても、目標がなければ椋田がしてくれた事も無駄になってしまいそうで、とても怖くなった。
図書室に戻ると、椋田は目を閉じて俯いていた。あの本は読み終わってしまったらしい。そっと肩にブランケットをかける。その背中はとても小さい。僕の為に、自分で問題を作ってきてくれるし、要点をまとめたノートを渡してくれる事もある。こんな馬鹿な僕に、どうしてそこまでしてくれるんだろう? 本当にこれが椋田にとっての勉強になっているのだろうか。むしろ迷惑になっているんじゃないだろうか。これがなくなったら、僕等は会話をするんだろうか。
「ごめん。寝てた」
「いや、こっちこそ毎日付き合ってもらっちゃって、ごめん」
「ブランケット?」
「今日寒いし、良かったら使って」
「ありがとう」
頭からすっぽり被って、雪ん子みたいに丸まった。ブランケットの隙間から顔だけ丸く覗いてる。低くて先が少し尖がっている鼻、ふっくらとした頬、そしてリップしかつけていないのに、薄紅色の唇。可笑しいな。椋田ってこんなに可愛かったっけ?
「役に立ってるなら良い」
それだけ言って、椋田が差し出した左手には、イチゴ味の飴がポツンと載っていた。もらって食べたその飴は、どこまでも甘かった。
昨日の夜から降り始めた雪は、十センチ程積もって、アスファルトの黒だった世界を真っ白に染めた。この冬初めて踏む雪の感触が懐かしい。毎年体験しているはずなのに、夏が過ぎるとすっかり忘れてしまうのだ。最初は楽しみに思えても、真冬にはうんざりしているかもしれない。夏に冬が恋しくなるみたいに。でも、これ位ならすぐに溶けてしまうだろう。だって、冬なのに清々しい位太陽が輝いているのだ。僕は今日の晴天に後押しされるように決意してきた事がある。それは、お昼に椋田を誘うという事だ。友達がいない椋田は、いつも自分の机で一人でお弁当を食べている。高校三年間で、誰かと食べているのを一度も見た事がない。それならその初めてを僕が貰っても良いんじゃないか。今こそ、長年培ってきた女の子に声をかけるというスキルを活かす時!
昼休みのチャイムが鳴り終わる前に、僕は待ち切れずに椋田の席に向かう。
「椋田!」
駆けるかのように慌ててきた僕を見て、不思議そうに眼鏡の奥に隠された目を見開く。少し茶色味かかった、その目に僕が映る。
「東原~、お昼一緒に食べようぜ」
そこへよりにもよって今日、高瀬が彼女を連れてやってきた。
「二人で食べろよ!」
「二人で食べてると、周りから冷やかされるから嫌なんだよ。頼む」
一緒にきた麻井が、隣の机の持ち主に了承を得てから、慎重に椋田の横まで運んだ机をくっつけた。
「四人で食べましょう」
微笑む美人には敵わない。椋田は気にせず自分の席で弁当を開いて食べ始めていた。僕は向かえに腰を下ろす。視線の先に弁当を食べる椋田。いつもは隣同士で座っているから、思わず緊張する。困った。手が震えて箸で上手くおかずが掴めない。
「椋田さん。タコウインナーとか、リンゴのうさぎが入ってる。可愛いお弁当ね」
「ありがとう。自分で作ったお弁当を褒めてもらえたのは、初めて」
「自分で作ってるなんて、凄いね。私はまだお母さんに作ってもらっちゃってる」
「母は仕事で忙しい。二人分私が作ってる」
「そうなんだ。凄いね」
それ以外にも、アスパラのベーコン巻、切り口がギザギザになっている茹で玉子など、色とりどりの美味しそうなおかずが並んでいた。どれでも良いから一つ食べてみたくて、うずうずしてしまう。
「ところでさ、前からずっと気になってたんだけど、どうして東原に勉強を教えようと思ったの?」
そこへ、僕も前から気になっていた質問を高瀬がぶつけて、もう、弁当どころではなくなった。椋田は暫く僕の顔をじっと見る。どうしよう、めちゃくちゃ怖い。
「二年生の五月頃に、屋上から唄が聴こえてきた事があった」
「ああ、数学の望月先生が、ギターを弾けるらしいって噂になったあれ」
「あの日屋上から聴こえてきた曲。生前、音楽教室で講師をしてた父が作ったもので、凄く懐かしくて、開けてあった窓に寄りかかって聴いてた。そしたら、隣に東原が立って、凄い良い曲だねって言ってくれた。それが嬉しくて、ずっとそのお礼をしたいと思ってた」
「お父さんは……」
「生徒を送る時、交通事故に遭いそうになったのを庇ってそのまま。女の子は無傷だったけど、男の子はこめかみに大けがをした。父は、曲を生徒と一緒に作るのが好きだった。良く聴かせてくれた」
過去を眺める椋田の視線は、哀しそうで、ただただ優しい。たった一度の出来事のお礼をする為に、僕にここまでしてくれたのは、お父さんの為だったに違いない。一人浮かれている場合じゃなかった。僕は自分が本当にやりたい事を真剣に考えなきゃいけない。こんな不真面目では、とても椋田のお父さんに顔向け出来ない。母親が作ってくれた、弁当をしっかり箸で掴んで食べる。毎日美味しい弁当を作ってくれている。こんな当たり前をこんなに有難い事だと思ったのは、産まれて初めてだ。
それからの僕は、椋田に助けてもらいながら、自力でも必死で勉強をした。椋田は相変わらず、本と友達で、でも、時々麻井と弁当を食べるようになった。
大学の合格発表の日に待ち合わせた図書室で、結果を報告した。僕は初めてそこで椋田の笑った顔を見た。あんなに素敵な笑顔がこの世にあるなんて、僕はどうしたら良いか分らなくなって、床を見て頭を掻いてしまった。