16)閑話:私の主人(エルドール視点)
閑話。
エルドール視点です。
ジャス達と別れ、黄金壁の礎亭に戻ると、ジョシュア先生がニヤリと笑って魔法書を開きました。
その琥珀色の瞳には、決して私達を逃がしはしないという決意が浮かんでいます。
……これは恐らく、寝ているところを起こされましたね。
ジョシュア先生は、普段から冷静な印象の中性的な方です。
男性にしては高く、女性にしてはハスキーな声も、すらりと背が高くスレンダーな体型も、性別を不明にしている要因でしょう。
無駄なことを言わず、的確に物事を進めていく彼女には、ジャックベリー公爵も高い評価を下しています。
けれどそんな彼女の唯一とも思える欠点は、寝起きの悪さです。
普段よりも饒舌な口調はいっそ機嫌が良いようにも見えてしまいますが、それは大きな間違いなのです。
えぇ、以前うっかり彼女を起こしてしまった使用人は、この世の地獄を見たといっていましたからね。
その時、彼女の部屋の壁がメキッとひび割れていたのも、決して見逃してはいけない事象です。
……クレディル先生をお呼びしたほうが良かったかもしれませんね。
高速魔導馬車を手配した時点では、まだジョシュア先生は起きている時間帯でしたから、特にお二人の魔法教師のうち、どちらかを指名するという事はしませんでした。
どちらの魔法教師も公爵家に仕える魔導師です。
その腕は折り紙つきなのですから、指名する必要性を感じなかったのです。
事実、ジョシュア先生はあの魔鉱山の入り口を塞いでいた岩石を見事に退かし、取り残されていた鉱夫達を救い出してくれました。
緊急の呼び出しに即座に応じてくださった事に、感謝の念がつきません。
ですが寝起き。
……宿は宿泊日数を延長できますから、このままこのマーケンの町でみっちりと課題でしょうか。
一日で帰宅する予定でしたが、魔法の授業はなにも公爵家でなければ出来ないわけではないのです。
特に私の主たるラングリース様が苦手な書き取りの課題などは、この宿の部屋で十分出来てしまうのですから。
紙もいくらでも購入できますし、魔法のペンは埋め込まれた魔宝石の光が消えない限り何度でも使えます。
逃げられるとは到底思えません。
「ジョシュア先生、魔法の課題は必ずやりとげます。ですから、どうか少しだけ自由な時間を頂けませんか?」
ラングリース様が、決死の顔でジョシュア先生に願い出ます。
ジョシュア先生が琥珀色の瞳をスッと細めて威圧しても、ラングリース様は目を逸らしません。
黒曜石のような黒い瞳に強い決意を込め、ジョシュア先生を見上げています。
えぇ、解っています。
アリアンヌの為ですね。
このマーケンの街まで訪れたのは、全て彼女のネックレスを直す為。
ここでジョシュア先生のたっぷりとした課題を実行されてしまうと、全てが水の泡です。
魔宝石の修理には、鮮度の良い魔鉱石が必要です。
いま私の手元には、大量の魔鉱石があります。
マーケンの街に戻るのと同時に、魔鉱石店エルズマギーの店主が「息子と孫を助けてくれたお礼ですじゃ」と届けてくれたのです。
小粒ながらも今日採れたばかりの魔鉱石は、きっと良い修理をしてくれるに違いありません。
成功すれば、ですが。
いえ、必ず成功しますね。
ラングリース様は古い魔鉱石と、アリアンヌのネックレスとよく似た魔宝石を購入して何度も何度も、練習をされていましたから。
ラングリース様の願いに、ジョシュア先生がふっと気配を緩めました。
「時間も時間ですからね。授業は明日からにいたしましょう。ライリー様も既に眠っていらっしゃるようですしね」
「えっ。ライリーはここに……あっ、まさかトリアンか?」
ラングリース様が驚いたように隣に立つライリー様を見つめます。
妙に静かだとは思いましたが、いつの間にかまた入れ替わっていましたか。
一応寝室を確認しに行きますと、幸せそうに眠るライリー様がいらっしゃいました。
宿についてすぐに全員湯浴みを済ませてはいましたが、この状況で熟睡できる精神力には呆れを通り越して尊敬の念が沸いてきます。
このお忍び計画はライリー様のご提案との事。
ラングリース様を思っての事でしょうし、こんな事件になるとは予想もしていなかったでしょう。
ですが少しは反省をして頂きたいと思います。
後ほど、ジョシュア先生にはライリー様の課題を増やすように伝えておきましょう。
「では、わたくしは隣室に下がらせて頂きます。明日は朝食を終えたら、すぐに授業を始めます。覚悟をしておいて下さいね」
フフフフフっと笑って、ジョシュア先生は部屋を出て行きました。
ゆっくりと熟睡してくださる事を祈ります。
ルームサービスやらなにやらで彼女の眠りが妨げられる事の無いよう、宿のマスターにはよくよく伝えておきましょう。
「……光の欠片よ、我が手元を照らし出せ」
ラングリース様が短く唱えると、小さな光の球が出現しました。
椅子に腰掛けたラングリース様の手元が良く見えるように、光の球は丁度良いと思われる位置に留まりました。
ちなみに椅子は当然の如く特別仕様です。
見た目は普通の椅子と変わりませんが、脚が鉄製なのです。
恰幅の良いお客様用に、常に置いてあるようです。
ラングリース様は、アリアンヌのネックレスと、魔鉱石をテーブルの上に置きます。
二つを見つめる目線は、真剣そのものです。
使用人の事であれ、精一杯思いを込める姿は、私がラングリース様に出会ったばかりの頃を彷彿とさせます。
私がラングリース様と出会ったのは、八年ほど前でした……。
◇◇
「ラングリース様。こちらが今日からお仕えする事になるエルドールです」
……ずいぶん、丸っこいですね。
年配の使用人に連れられて、私の前に立つラングリース様を初めて見た時の感想はそれでした。
まだ三歳と幼いにもかかわらず、体重は既に通常の二倍はありそうな横幅です。
可愛いとか、愛らしいとか、理知的だとか、そういった褒め言葉が咄嗟には口から出てきません。
噂には聞いていましたが、これほどまでとは思わなかったのです。
つん、と突けば、そのまま転がって行きそうではありませんか。
あ、コロけました。
慌てて、そのお身体を支えます。
両手にずっしりと、その体重がのしかかります。
正直、溜息を隠すのが精一杯です。
もともと、私はジャックベリー家長男のオリバート様にお仕えする予定でした。
ですがオリバート様は成人と同時にご結婚され、隣国との国境に程近い小領地を治められることになり、まだ未成年の私は三男のラングリース様にお仕えすることになりました。
せめて次男のルパート様ならと思わずにはいられません。
ルパート様は現在ウィンディリア王立学園の寮でご生活されています。
眉目秀麗、成績優秀。
文武両道を極めたお方で、将来が約束されています。
ですが三男のラングリース様は、どうでしょうか。
公爵家には残らず、数ある爵位のうち伯爵の爵位を貰い、ジャックベリー家を出られるのではないでしょうか。
私は代々公爵家にお仕えしてきた家柄を誇りに思っているのですが……。
あ、またしてもコロけました。
どうやったら一日に何度も転がれるのでしょうか。
不思議でなりません。
もちろん、即座に抱き止めていますからお怪我などさせてはいませんが。
ボリュームのあるお身体も、鍛えぬいた私の肉体なら難なく受け止めれます。
だからでしょうか。
私が選ばれたのは。
女性の使用人ですと、支えきれずに一緒に転がりかねませんからね。
あ、またですか。
歩くより転がるほうが早いのではないでしょうか。
「ラングリース様、お手を失礼します」
仕方がありません。
あまり褒められた事ではありませんが、手を繋いでしまいましょう。
このままでは、本当に階段を転げ落ちてしまいかねませんからね。
手を差し出す私を、ラングリース様はきょとんと見つめ返してきました。
肉に埋もれた細い瞳が、目一杯、見開かれています。
綺麗な黒い瞳が、嬉しそうに輝きました。
「えるどーる、ありがとう」
にこっと。
ぷくぷくなほっぺたを緩ませて、ぎゅうっと私の手を握り返してきます。
舌足らずな声で私を呼び、スキップしそうな勢いです。
……なんですか、この可愛い存在は。
先ほどまでの憂鬱な気持ちが嘘のようです。
握り返してくる手の柔らかさは、他の子の比ではありません。
肉がたっぷりと詰まっているせいでしょうか。
ふにふにとしていて、ずっと握っていたくなるではありませんか。
あ、でもまたコロけるのですね。
でも今度は私が手を繋いでいますから、大丈夫です。
ラングリース様にお仕えして、丁度一年が経とうとしていた頃です。
「お母様が、病に……?」
不意にもたらされた情報に、私は混乱を隠せませんでした。
私の両親は、オリバート様にお仕えしています。
隣国から流れ着いた未知の病に侵されたと言うのです。
私はいても立ってもいられませんでした。
ですが私はラングリース様に仕える身。
そうそう長期のお休みは取れません。
それにもし取れたとしても、病に侵されているお母様の側へは行かせていただけないでしょう。
「えるどーる、痛いの?」
ぎゅぅっと。
私の手をラングリース様が握っていました。
見上げて来る瞳は、不安げに揺らめいています。
……いけませんね、主を不安にさせるなどとは。
使用人失格です。
何でもありませんという私に、ラングリース様はより一層握る手に力を込めました。
そして片手で私の胸に手を伸ばし、不思議な事をいったのです。
「痛いの、痛いの、とんでいけっ」
何の言葉なのでしょうか。
そのような魔法はありません。
けれど、一生懸命、私の胸のあたりに手をかざし、何度も何度も、唱えていました。
その眼差しは真剣です。
「なぜ、その場所なのですか?」
「えるどーる、ここが痛そうなの。痛くなくなるといいの」
…………。
「えるどーる?」
何も、言えませんでした。
溢れる涙が止まりません。
ただ、ラングリース様を抱きしめていました。
幸い、お母様は一命を取り留めました。
オリバート様から報告を受けたジャックベリー公爵が即座に治癒術師を派遣し、治療してくださったからです。
感謝の念がつきません。
ですが……。
どうして、このような事になったのでしょう。
お優しかったラングリース様が、急に変わってしまわれたのです。
最初は、何か機嫌が悪いのかとも思いました。
ですが事あるごとに使用人いびりを始めたのです。
洗い立ての洗濯物が干された竿を倒し、掃除をする使用人の足を引っ掛けたり。
目の前でワザと食器を割って片付けさせたり。
子供のする事だと微笑ましく思っていた使用人達からも、徐々に疎まれるほどに、執拗に悪質になっていきました。
幼馴染でいたずらっ子なライリー様ですら、止めるほどです。
私も何度もお止めしましたが、所詮使用人。
黙れと命じられれば、黙らねばなりません。
ラングリース様のきらきらと輝くように美しかった瞳は、いつの頃からか暗い色を灯すようになりました。
まるで別人のように意地悪く変貌されてしまったラングリース様を、私はただただお仕えする事しか出来ませんでした。
いつか、私の胸を一生懸命さすってくれた、ラングリース様に戻ってくれることを願いながら。
◇◇
「出来たっ!」
ラングリース様の嬉しそうなお声に、私ははっとしました。
その手元には、アリアンヌのネックレスが輝いています。
「成功したのですね」
「あぁ、見てくれ。完璧ではないか?」
心底嬉しそうに、ラングリース様はネックレスを掲げます。
赤い魔宝石はくすみが取れ、見事に煌いています。
内に灯る光も、ずっとずっと強い光を放っています。
「お見事です。アリアンヌも、きっと喜ぶ事でしょう」
「そうだろうそうだろう。渡すのが楽しみだ」
嬉しくてたまらないというように、ラングリース様はネックレスを何度も光にかざしています。
その黒い瞳は昔のように、きらきらと輝いています。
ラングリース様が、フォルトゥーナ様の魔力で倒れた日から。
まるでそれまでの事が嘘だったかのように意地悪な言動が消え去り、ラングリース様は以前のように戻られました。
使用人達の中には、まだまだ信じれないもの達もいるようですが、徐々に、元のように戻ってゆくでしょう。
現に、ラングリース様を見る使用人達の眼が、とても優しくなっているのですから。
見守る私の前で、ラングリース様の身体が不意に傾きました。
「ラングリース様?」
「……すまない、ほっとしたら、急に、眠気が」
言われて気づきました。
本来ならば、とうに眠っている時間でしたね。
いつの間にかトリアンも寝室に行っていたようです。
「明日はジョシュア先生の課題がありますからね。もう眠ったほうがよろしいでしょう」
「そうだな。先生の授業で居眠りをしたらと考えると、ぞっとする」
ぶるぶると頭を振り、ラングリース様はネックレスを大事にしまいながら寝室へと向かわれました。
今日はいろいろなことがありましたからね。
明日の起床は、できる限りゆっくりとお願いしましょうか。
ジョシュア先生は朝食を終えたらすぐにと言っていましたが、彼女も鬼ではありません。
授業は厳しくとも、たっぷりと睡眠さえ取れれば、無茶を言う方ではないのです。
宿のマスターに明日の起床時間をくれぐれも間違わないように伝え、私も眠る事にしましょう。
お休みなさいませ。
良い夢を。