1)プロローグ
貴族の庭というものは、なぜこうも無意味に広いんだろう?
公爵家ともなればその広さは軽く森レベル。
つまり、いま現在僕は迷いつつあるのだが。
ここ、どこなんだろうな。
周囲の木々を見回す。
いつもと違うルートで来たから、さっぱり分からない。
普段なら部屋を抜け出した後は図書室に行くのだけれど、なんとなく、裏庭に出てしまった。
額はもちろんの事、身体のあちらこちらから汗が噴出し、シルクのシャツを濡らしている。
腕といい、足といい、身体中が休みたいと訴え始めている気もする。
気のせいと言う事にしたいけれど、このまま自分の部屋に戻るにもしゃくに触るのだ。
こんな事なら、エルドールをまいてくるのではなかった。
「ラングリース様、本日は魔法学と馬術、それと礼儀作法の授業がございます。
特に魔法学は先日も授業をお受けにならなかったのですから、本日は必ず受けて頂きます」
淡々としたお堅い口調で、今日の面倒な授業内容を告げるエルドールの目を盗むのは、それほど難しい事ではなかった。
わざと紅茶を手に零し、痛がって見せればあいつは即座にタオルを冷やしに部屋を駆け出して行った。
ぬるい紅茶で火傷するはずもないのにな。
赤くもなっていない手の甲を見て苦笑する。
エルドールさえ離れてしまえば、部屋を抜け出すのは簡単だ。
公爵家とはいえ、三男の僕にはエルドール以外、側仕えはいないから。
父上の代から、ジャックベリー公爵家の執事を勤めているセバスチャンの孫が、エルドールだ。
歳が近いことから、僕付きの使用人になっている。
けれどセバスチャンと違って、エルドールは真面目すぎるのだ。
だから、こんな風に僕にあっさりとまかれる。
今頃は僕のいないからっぽの部屋で、頭を抱えているに違いない。
その後、図書室に駆け込んで、そこにもいない僕に焦るといいんだ。
困ればよいのだ。
どうせ仕事で仕方なく仕えているくせに、僕を見失うのが悪いのだから。
ふんっと僕は鼻を鳴らして、地面の小石を蹴り飛ばす。
小石は僕の太い足に蹴り上げられて、空高くポーンと飛んでいく。
けりっ、けりっ、けりっ。
僕は次々と小石を蹴っていく。
小石を蹴るたびにお腹の肉がたぷんたぷんと揺れた。
……くっそ、疲れるだけだな!
息切れまでしてきて、僕はその場に座り込んだ。
服が汚れても気にしない。
むしろ激しく汚してやりたい。
使用人達が困るぐらいに。
僕の汚れた服を嫌々洗う使用人達を想像すると、笑いがこみ上げてくる。
そろそろ春が来るけれど、まだまだ水は冷たいのだ。
いっそ寝転がってやろうか。
雪がまだ少し残る土は湿っていて、さらさらと着心地の良いズボンが湿ってきていた。
真っ白いシャツにもいつの間にか所々茶色い染みがついている。
魔導洗浄機を使っても、なかなかこの汚れは落ちないに違いない。
きっと、手で少しずつ洗って汚れを落とさなきゃいけなくなる。
ざまぁみろというものだ。
ちょっとだけ気分を良くしていると、どこからか話し声が聞こえてきた。
――……魔力を……集中して……心の深遠を……――
どこからだろう。
あまり聞きなれない低い声と、そしてもう一つ、その声に合わせるように幼く澄んだ声が響く。
フォルトゥーナの声だ。
愛らしい妹の声に僕は立ち上がって、声のするほうに向かった。
声にどんどん近づいてゆく。
ちょっとした森が途切れて、その木陰から覗いてみる。
するとやはりフォルトゥーナと魔法教師のクレディル先生が熱心に呪文を唱えていた。
いつもと違う声色で呪文を唱えるクレディル先生に合わせて、呪文を唱え続けるフォルトゥーナ。
陽の光を浴びて輝く艶やかな黒髪と、雪のように白い肌。
幼いながらも美しさを秘めた、淡く透き通ったピンクの瞳。
皆が口をそろえてフォルトゥーナを褒め称える。
彼女は、美の女神リプアに愛された地上の天使だと。
『それに引き換え、ラングリース様は……』
嫌な言葉が頭をよぎって、僕は慌てて首を振った。
クスクスと嫌な笑い声まで思い浮かぶ。
使用人共がなにを言ってたっていいんだ。
どうせ公爵家の子供である僕に逆らえはしないんだから。
この間だって、赤髪の使用人のアクセサリーを思いっきり踏んで壊してやっても、文句一つ言ってこなかった。
きっと何も言えないんだ、あいつらは。
……赤髪の子、泣きそうになってたけど知るもんか。
記憶から視線を逸らして、目の前の二人に意識を戻す。
真剣な瞳で、魔力を操るフォルトゥーナ。
その透き通ったピンクの瞳が、不意に翳った。
フォルトゥーナの声に、抑揚がどんどん無くなっていく。
クレディル先生は彼女の異変に気づかないのか、呪文を止めようとしない。
ゆらり。
フォルトゥーナの周囲に暗い影が沸きあがる。
ゆっくりと、影はフォルトゥーナの身体に巻きつき、その身体に入ろうと蠢いた。
「フォルトゥーナ!」
僕は咄嗟に叫んだ。
怖かった。
彼女が彼女で無くなってしまうような。
どこか遠いところに消えてしまうかのような、どうしようもない恐怖。
「お兄さまっ」
僕の声に振り返ったフォルトゥーナのピンクの瞳に光が灯り、声が抑揚を取り戻す。
瞬間、彼女の周囲に沸きあがっていた黒い影が、弾かれたように縦横無尽にうねりだす!
「フォル!」
僕は木陰から飛び出して、フォルトゥーナを抱きしめる。
自分でも驚くぐらいに素早い動きだった。
この太った身体のどこにそんな力があったのか。
ただ彼女を守りたかった。
小さくて、愛らしくて、誰よりも優しい妹を。
黒い影が蛇のように激しくうねり、僕の身体に突き刺さる!
全身を激しい激痛が襲い、僕はフォルトゥーナを抱きしめる腕に力を込めた。
「お兄さまっ!」
悲鳴のようなフォルトゥーナの声。
あぁ、フォル。
泣かないで。
なんともないからと口にしたくても、出来なかった。
激痛で身体が上手く動かない。
フォルトゥーナの顔が霞んでゆく。
身体の中で影が大きく蠢いて。
――僕の意識は、ここで途切れた。