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灯台

  第六章   灯台


 その灯台は思っていたよりも大きかった。根元は太く上にいくほど細くなる。ひび割れたコンクリートが白いペンキで塗られていて、てっぺんにはランプ室が赤い帽子をかぶったみたいにちょこんとのっていた。

「少しペンキのにおいがするかもしれないが、我慢しておくれ」

 どこかで見た顔の男はぼくたちに言った。背中は苦しそうに曲がり、人の良さそうな顔には細かい皺が刻まれている。髪の毛は薄い。それに声。まるで今まで誰とも話したことがないみたいに擦れた弱々しい声だった。

「ペンキを塗ったばかりなの?」コノハが訊いた。

「いつでもそうなのじゃ。風がつよくて、しょっちゅうペンキを塗り直さないとどんどん錆びていってしまう」

「風で建物が錆びるなんて、聞いたことがないわ。潮風ならまだわかるけど」

「似たようなものだよ、お嬢さん。ここの風は特別なんじゃ。とにかくなかにお入り。外は冷えるし、君たちには話したいことが山ほどある」

 ぶあつい扉の向こうには明かりがともり暖かかった。玄関のような狭い部屋を抜けて奥にいくと小さな居間のような部屋があった。部屋の真ん中には暖炉がありパチパチと火の粉が爆ぜていた。ぼくは隣でコノハが体をこわばらせるのを感じた。あの火事のことを思い出しているのだろう。しかし暖炉の炎には敵意がなくむしろ冷え切ったからだには心地よかった。

 部屋のなかは何もかもが白かった。壁や窓枠はきっちりと白のペンキで塗られ、白い木製の食卓と椅子が暖炉の隣に並んでいる。窓には白いカーテンがかかり白い電球が部屋のなかを照らしている。まるで夜の闇を追い払うための儀式をしているみたいだとぼくは思った。

「つかれたじゃろう。そこの椅子にでも腰掛けておくれ」ぼくたちを部屋まで案内すると男は言った。「あいにくとソファはないがの。まあくつろいでいてくれ。わしはスープをあたためてくる」

 天井からは大きな風車が吊り下げられ部屋の空気をゆっくりとした動きでかき混ぜていた。ぼくは麻痺したようにぼーっとしながら暖炉のそばの椅子に座り、コノハは火から一番遠い椅子に座った。あまりに突然のことで、ぼくの頭はまだこの状況に追いつけずにいた。

 机には椅子が三つおいてあったがそのうちひとつだけが古かった。かべの棚にはいろいろなものがごちゃごちゃに並んでいた。たいていは外国の本で、ときどき古いアルバムや植木鉢、瓶詰めの船なんかが飾ってあったりもした。男はここに一人で住んでいるようだった。

「あなたがここの灯台守ですか?」

 湯気のたつ皿を持ってきた男にぼくは訊いた。

「ふむ。そういうことになるな」

 男ははぐらかすような言い方をすると、ぼくたちの前にスープの入った皿を置いた。空豆の入ったコンソメスープ。

「いかにも。わしが灯台守じゃ」

 男はそう言って微笑んだ。しわの刻まれたその顔は、もう何年も油を差していない機械みたいにぎこちなく見えた。ぼくはスープを一口すくって飲んだ。スープは味が濃く、体の芯までもぐりこんだ夜気を追い払ってくれた。

「スープの豆はこの部屋で育てておる」灯台守はうれしそうに言った。「ほれ。そこの棚に植木鉢が並んでいるじゃろ。あれがこの家の畑でな。インゲン、トマト、ソラマメ、ほかにもいろいろある。深さがないからジャガイモは作れないが」

「外に畑は?」

「ない。ここの土は固いから野菜を育てるのには向かなくてな。何人かで協力すれば耕せるかもしれんが、わしはここにひとりで住んでおるからの」

「どのくらい、ここに?」とコノハ。

「もう、ずいぶん長くになるかな」あいまいな答えだった。「ずっとじゃ。思い出せる限りずっと。ざっと二十年くらいじゃろうか。この灯台には時計がないのでな、くわしいことはわからん。それにカレンダーもない。必要ないからの」

「どうして? ずっと夜だから?」

 灯台守はうなずいた。イエスのサインだ。

「なにか知っているんですね?」

 またイエス。ぼくはスプーンを皿に戻すと彼の顔をじっと見つめた。

「ぼくが目を覚ますと、町の人はみんな眠っていました」ぼくは説明した。「コノハ……彼女以外は。それで、この灯台の光が見えたから、二人でここまで来たんです」

「知っておる」彼は優しく言った。「君たちがここを目指していることはわかっていた。列車の運転手に会ったかね? 君たちを迎えに行くよう、彼に言ったのはわしじゃ。川を渡る乗り物が必要だろうと思っての」

「あなたが?」

「うむ。他に誰がいるのかな?」

 コノハは真っ赤になってうつむくと、もごもごと礼を言った。ぼくも彼に礼を言う。

「その、ありがとうございました。あの列車に助けてもらえなかったら、ぼくたち死んでいたと思います。ほんとに危ないところだったんです」

「そうらしいの。まったく、間に合ってよかった。最近は野犬も増えてきて町もずいぶんと危なくなってしまった。むかしはちょいと散歩に行ったりもできたんだがなあ」

「最近……?」言っている意味がよくわからなかった。「だけど、おかしくなったのは今日の夜からですよ。昨日までは普通だったんだもの」

「いやいやいや。そうではない」

 灯台守は皿を傾けると残ったスープをスプーンですくって飲み干した。よれよれになったズボンのポケットからハンカチを取り出して口元をぬぐう。

「町の様子が変わっていたことに気がつかなかったかね。君たちの住んでいた町には、あんなにたくさんの犬はいなかったし、川だってなかったはずじゃ。それに森は前よりも濃くなっておるし、この灯台だってもちろんなかった。違うかの?」

「たしかにそうです。でも……」

「一晩やそこらでは、こんなことは起こらん。そうじゃな? 君たちが目を覚ましたのはせいぜい半日くらい前のことだが、わしはもう少し長い時間をここで過ごしているからわかる。この世界はもう二十年近く眠っておるのだよ」

「二十年?」

「そうとも。それとも二十一年だったかな。まあ細かいところはいいじゃろ」

「じゃあ」信じられないという声でコノハが言った。「あたしも二十年以上眠っていたとでもいうの?」

「そういうことになるかの。いいかな。たぶん君たちはこう思っているのだろう? 昨日まではいつもと変わらなかった町が、今朝起きたらすっかり変わってしまっていたと。しかし実際にはちがう。君たちが最後に起きていたのは今から二十年前の話。君たちが昨日まで生きていたのは夢の世界じゃ。この二十年間ずっと夢を見ていたのじゃよ」

「だけど、ぼくは十五歳だ」

「眠っている人間の時間は止まる」彼は静かに言った。「とりわけ深く眠っている人間は」

「……信じられない」

「信じるかどうかは君の自由じゃ。冷めないうちにスープをお食べ。わしはランプ室を見てこなければならんから、少しのあいだ失礼するよ」

 呆然とするぼくを残して、灯台守は部屋を出て行った。火の粉が飛び、薪が音を立てて崩れて灰になる。階段をのぼる年老いた足音だけがいつまでも響いていた。


 マントルピースのうえには船の模型がいくつか置かれていた。ガラスのビンに入ったミニチュアで、暖炉の火を受けてきらきらと輝いている。模型はどれも古い型の船だった。学校の図鑑でしか見たことのないような帆船ばかりだ。マストや帆、へさきにとぐろを巻いたロープなどがていねいに作られ、まるで本物の船を魔法で閉じ込めたみたいだった。

 こういうビン詰めの模型はボトルシップというのだと父さんは教えてくれた。むかしの船乗りたちは長い船旅の暇つぶしにこういうものをよく作ったらしい。船乗りたちがべつの船を作ることは滅多になく、たいていは自分たちが乗っている船を作っていた。まあ、ひとつのおまじないみたいなものさと父さんは言った。自分たちの船がいちばん元気よく走っている瞬間を切り取って、ビンのなかに閉じ込めておくのさ。

 ビンのなかには一瞬の永遠が閉じ込められていて、船乗りたちは何度でもそこへ立ち戻るだろう。波のうえの素晴らしい瞬間。すべての航海が模範とする日。


「その船が気に入ったかね」

 両手からかすかに油の匂いをさせながら灯台守が言った。ぼくははっとして身を引くと椅子に深く座りなおした。足音がしなかったせいで彼がいつの間にか部屋に戻ってきていたことにぼくはまったく気づかなかった。コノハを見ると、彼女もぼくと同じくらいびっくりした顔をしていた。

「ここに来たばかりの頃に作ったんじゃ。あの頃はワインが好きでのぉ……。ビンばかりが増えたもんで、それが何かに使えないかと考えてな。折角なので作ってみたんじゃよ。まだ多少は若かったし、手先も震えておらんかったからの。本式ではないが、まあそこそこの出来栄えだとは思っておるよ」

 彼は足を引きずりながら暖炉に近づくと、マントルピースのうえのビンをつかんでぼくたちに見せた。

「このマストのあたりが大変でのぉ……。帆もピンと張らせるのにはずいぶんと苦労した」

「この船」コノハが訊く。「名前はあるんですか?」

「わしはセレスト号と呼んでおる。誰も乗っておらんからの」

 彼はおかしそうにクックッと笑った。

 たしかにビンの中の船は今にも走り出しそうなほどリアルだったが、乗組員の姿はどこにもなかった。どこかへ消えてしまったみたいに人の気配はしない。無人の船だけが幽霊船のように波のうえで跳ねている。逃げ出したのか。それとも眠っているのか。だけどよい船乗りというのは完全に眠ったりはしないものだ。つねに誰かが見張りで起きていて全員が眠っていることはない。波が静まり夜の闇が訪れても彼は起きていなければならない。眠ることは許されず、彼は一人マストのうえで孤独に歌う。


 スープを飲み終わると、老人はココアの入ったマグカップをぼくたちにくれた。コーヒーにしようかとも言ってくれたがコノハが飲めなかったので断った。もらってばかりでは悪いと思い、ぼくはナップサックのなかに残っていた食料を彼にあげた。

「おお、ありがとう」

 桃の缶詰を嬉しそうに受け取りながら彼は言った。それが喫茶店から勝手に持ち出したものであることは黙っておいた。世界には知らずに済ませておくべきことがいくつかある。

 コノハは両手でマグカップを包み込むようにしながら中の液体をゆっくりと飲んでいた。この場所に来てから口数が減っているような気がしたが、たぶん疲れていたのだろう。ぼくもくたくたに疲れていて、ココアを飲んでいるとその場で眠ってしまいそうになった。

「さっき、あたしたちが来ることを知っていたって言いましたよね」コノハが口を開く。「どうして知っていたんですか?」

「ここへ来たのは君たちが初めてではない」

 灯台守が飲んでいるのはコーヒーのようだった。豆の苦味がにおいを通じて伝わってくる。彼もまた何から説明すればいいのか悩んでいるようだった。

「わしがこの灯台にいる間、何人かの人間がここを訪れた。たいていは子供だったが中にはわしと同じくらいの老人もいた。彼らはみな、何かのきっかけで目が覚めてしまった人たちじゃった。そういう人間は必ずここへやってくる」

「なぜ?」

「それがこの灯台の役目だからじゃ。より正確にいえば役目のひとつ、じゃな。一番の役目がなにかわかるかな?」

「……目が覚めてしまった人が迷わないようにすること?」

 躊躇いながらぼくは答えた。自分でも何かが違う気がしていた。この灯台に与えられた役目は、なにかもっと大きなものだ。それが何かはわからないが。

「それも役目のひとつではある」彼は言った。「しかし一番の役目ではない。一番の役目というのはの、みんなを眠らせておくことじゃ。世界をいつまでも夜のままにしておくこと。その中で町の全員を眠らせておくこと。それがこの灯台の役目なのじゃよ」

「どういうことです?」

「簡単に言えば、これは魔法の灯台なのじゃよ。灯台の光が夜を固定して、町の人間たちに同じ夢を見せるんじゃ。今までと変わらずに、町のなかで生活している夢をな。ああ、どういう仕組みなのかは聞かないでおくれ。わしは何も知らんからな」

「じゃあ、みんなこの灯台のせいだっていうの?」

 怒ったようにコノハが言った。

「おばさんたちが目覚めないのも、朝が永遠に来ないのも、みんなこの灯台が悪いってことなのね?」

「怒らないでおくれ」彼は疲れたように言った。「みなが話し合って決めたことじゃ。町の大人みんながな……」

「町の人たちが決めた?」ぼくは意味がわからなかった。「大人たちがずっと眠っていようって決めたってことですか?」

「わしは何も知らん」

 灯台守は首を振った。とつぜん、ぼくは彼がとても年老いていることに気づいた。ひげで隠れた顔は一面に深いしわが刻まれ、背中はいまにも折れそうなくらい弱々しい。

「わしはその場にはいなかったからな。わしにわかるのはただ、何十年も前に彼らがこの灯台を作り、そして眠り続けているということだけじゃ」

 彼は椅子に深く座り、疲れたように目を閉じた。まぶたが何かにおびえているように震えていた。

「あの、ごめんなさい」コノハが申し訳なさそうに言った。

「気にすることはない。みんな、はじめはそういう反応をする。言われたことを信じたくない人間は怒るものだ……。君はまだ大人しいほうじゃよ」

「ほかの人たちはどうしたんですか?」

 ぼくはとつぜんそのことに気づいた。

「ぼくたちの前にもここへ来た人たちがいたんですよね? その人たちはどこへ行ったんです?」

「いい質問じゃな」彼は目を細めてにっこりした。「一度目覚めてしまった人間がもう一度あの眠りにつくことは難しいが、不可能ではない。もしも君たちが望むなら、もう一度昨日までの夢の世界に戻してあげることができる。これまでやって来た人たちは皆そうした」

「全員?」

「そうとも。全員じゃよ、お嬢さん」

 彼女は黙り、ぼくも黙った。いろいろなことが頭のなかでごちゃごちゃになっていて言葉にならなかった。灯台守の言うことはどれも突拍子がなく簡単には信じられそうにないことばかりだった。ぼくはココアを飲みながら目の前に座った老人の顔を見た。信じられないような話だったけれど、彼が嘘をついているとも思えなかった。そんなことをする人間には見えなかったし、それに嘘をつくならもう少しそれらしい嘘をつくはずだ。考えることが多すぎて頭痛がした。コノハが眠そうに目をしばたたかせ、指先で涙をぬぐった。

「もちろん、今すぐに決めなくてもいい」コノハが眠そうにしていることがわかったらしく、彼は微笑みながら言った。「ずっと歩いてきて疲れただろう。少し眠りなさい」

「眠っても、また目は覚めますか?」

「覚めるとも」

 彼はそう言って、ぼくたちを寝室に案内した。


 寝室には白いペンキで塗られた二段ベッドがあり寝転がると優しい木のにおいがした。明かりを消して目を閉じる。二重になった窓の外で風が鳴る音が聞こえた。

「ねえ、起きてる?」

 しばらくたって、上の段からコノハの声が聞こえた。

「起きてるよ」

ぼくは返事を返す。ごそごそとシーツから抜け出す音が聞こえて、コノハの頭が逆さになってひょいとのぞいた。

「ほんとだ」

「嘘をついてもしょうがないもの」

「そうね。そのとおり」彼女は言った。「あなた、あの人の言うことを信じる?」

「あんまり信じたくはないけど、でも嘘をついてるとも思えない」

「本人がそう思い込んでるだけってこともあるわ」

「そうかも。君はどう考えてるの?」

「わかんない」彼女は顔をしかめた。「でも悪い人じゃなさそうだし、しばらくは信じてもいいかもって思う」

「なんだか信じられないよ」

「なにが?」

「ぜんぶ。一日前には誰もいない町を一人で歩いてたのに、今ではこうして暖かい部屋でベッドに入ってる。嘘みたいだ」

 それでもベッドの温もりは本物だった。ぼくが信じようと信じまいと。それはたしかにそこにある。それが現実という言葉の意味だ。コノハと目が合う。彼女の顔がすぐ近くにあった。強い強い風の音。

「ねえ」彼女は訊いた。「あなたはどうするつもり?」

「なにが?」

「わかってるくせに。あの人は言っていた。あたしたちが今いるこの世界が現実で、昨日までいたところは夢の世界だって。あなたはどっちを選ぶの?」

「さあ……わからないな。君は?」

「わかんない」彼女は少し辛そうだった。「あの人が言ってること、本当なのかまだわからないし。でも、あたしは夢のなかで生きるなんてこと、やっぱりするべきじゃないと思う」

「そっか」

 しばらく沈黙が続いた。部屋の中は暖かかったがまだ夜の寒さが残っているような気がして、ぼくは毛布に深くもぐりこむ。夢の中で生きるべきではないと彼女は言ったが、たぶん大人たちはそう考えなかったのだろうとぼくは思った。彼らは永遠に夢の中で生きたいと願い、だからこそこの灯台を作ったのだ。

 大人たちがそう願った理由が、何となくだけどぼくにはわかるような気がした。深い眠りについた人間の時間は止まると灯台守は言った。人は夢の世界なら永遠を生きることができる。ちょうど瓶詰めになった船の模型と同じように。同じ日を何度も繰り返し、一瞬の幸福を永遠のものにする。父さんと言ったキャンプの思い出。湖畔のテント、鳥のさえずり、静かに漕ぎ出されるボート。すべての日々が模範にすべき聖なる日。

 ぼくはすぐ眠りに落ちた。


 どのくらい眠っていたのかわからないが、あまり長い時間ではなかったような気がする。ふと目が覚めたとき夜はまだ続いていて、部屋のなかはひどく寒かった。はじめは毛布が薄いのかとも思ったが、手触りはやわらかくしなやかで十分な厚みもある。部屋のなかを一瞥すると、ストーブの火が落ちていることに気づいた。自分で点けようにもやり方がよくわからない。コノハは眠っているようだった。

 ぼくは壁にかけてあった上着を羽織るとそっと部屋を出た。廊下の明かりも落ちていて夜の気配がまたすぐそばまで忍び寄っているような気がした。居間とキッチンの方は真っ暗で誰もいないようだった。耳をすますとかすかな物音が上のほうから聞こえてくる。ランプ室だろうか、とぼくは思った。

らせん階段は幅が狭く、大人一人がようやく通れるくらいの広さしかなかった。それはアンモナイトの化石みたいにぐるぐると回りながらずっと上まで続いていた。そのてっぺんにはランプ室があるのだろう。かすかに光がこぼれている。ぼくは急な階段をゆっくりとのぼった。足音が幾重にも反響して消える。上にいくほど寒さが増し、吐く息はどんどん白くなった。

 のぼりすぎて足が痛くなり始めたころランプ室に着いた。白い小さな部屋で壁のほとんどがガラスで出来ている。部屋の真ん中では大きなランプが輝き、あたりを明るく照らし出していた。老人はランプの点検をしているところだったが、ぼくが来たのに気づくと手を止めた。

「君か」彼は少し驚いたように言った。「どうした? 眠れないのかね?」

「部屋が寒くて」ぼくは言う。

「寒い?」

 灯台守は不思議そうな顔をして言った。

「ああそうか」しばらくして彼は手を打った。「ストーブじゃな」

「ええ」

「すまんの。滅多にお客が来ないので、寒さのことはつい忘れてしまうんじゃ。わしはいつもこのランプ室で寝ているのでな」

 大きなランプが煌々と燃えているせいで、ランプ室のなかはとても明るく暖かかった。さっきまで冷え切っていたぼくの体も次第に温まりこわばりがほぐれていく。

「あのストーブ、どうやって点ければいいんですか?」

「うむ」彼は困ったように言った。「実はの、あれは寝ている間は点けられないんじゃ。煙が部屋にたまってしまうからのぉ。寝室のクローゼットにセーターがいくつかあるはずじゃから、申し訳ないが今夜はそれで我慢しておくれ」

 彼はココアの入ったマグカップをぼくにわたした。飲んでみるととても甘い。今までに飲んだことのない味だった。

「それはホットチョコレートじゃよ」

「ココアとは違うんですか?」

「少し違うな。こっちの方がずっと甘いし、味も濃いじゃろう?」

 たぶんチョコレートを溶かして作っているのだろう。密度が濃くどろりとした食感がする。冷えた体を温めるにはちょうどよかった。

「灯台に登るのは初めてかね?」

 ひげについたチョコレートをぬぐいながら灯台守が言った。

「むかし一度だけ。父さんと海に行ったときに、灯台があったんです」

「ほう」

「でも、ランプ室まで来られたのは初めてかも。その灯台も今はないし」

「閉鎖されたのかね」

「たぶん。港のおじさんがそう言っていました」ぼくはふと気づいた。「あの、もしかしてこの思い出も夢のなかの話なんですか?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

 彼は曖昧な答え方をした。ガラス窓に鼻をくっつけ外をのぞいている。ぼくも彼の隣に行くと、かすかにくもったガラスをふいた。外は一面の闇。遠くで町の明かりが死にかけの心臓みたいにちかちかと点滅している。

「何が夢で何が現実かなんて、いったい誰にわかるというのかね? 我々はみな、自分の生きている世界が現実だと思って生きている。たとえ何の根拠もない思い込みにすぎずともな。結局はそれが人間というものじゃ」

「父さんはいつも現実を信じていた」

 ぼくは呟いた。この老人に話したところで何の意味もないとは知っていたけど話さずにはいられなかった。

「だけど、父さんはあの世界が現実じゃないって知っていたはずだ。さっき言ってましたよね。この灯台は町の大人たちが話し合って建てたんだって」

「ほとんどの大人たち、じゃ」彼は静かに言った。「例外はある」

「あなたも?」

「わしもじゃ」

 そう言った彼の目は寂しそうだった。ここに住んでいるのだという彼の言葉を思い出す。大きなランプ。油のにおい。それに一面のガラス窓。この老人は、とぼくは思った。ずっと一人でここにいたのだ。決して手の届くことのない町の明かりを眺めながら、一人ぼっちでここにいたのだ。何年も。何十年も。

「寂しくないんですか」ぼくは訊いた。

「寂しいとも」彼は答える。「ときどき考えてしまうのじゃよ。どうしてわしは、あの夢の世界にいけないのかとな。いっそのこと、ランプを壊してしまおうかと考えたことさえある。そうすれば少なくとも、起きているのがわしだけではなくなるからな」

「でも、あなたはそうしなかった」

「そうじゃな。しなかった」

「どうして、あなたは灯台守なんですか?」

「それはわしにもわからん」彼は遠くを見ながら言った。「たぶん、わしは夢の世界にいるべきではない人間だったのじゃろう……。わしはあの夢の世界に行きたかったが、夢の方はわしに来て欲しくはなかったのじゃ。少なくとも奴らはそう言っていた……」

「奴ら?」

「わしをこの灯台へ連れてきた連中じゃよ。みな青い服を着ていてな」

「でも、そんなのひどい」ぼくは急に腹が立ってきた。ランプを思い切り蹴飛ばしてやりたい気分だった。「あなたは何も悪くないのに。あなたのおかげで、みんな眠り続けていられているのに」

「じゃが、彼らはもうわしのことを覚えてはいまい。そういうものなのじゃよ。それに」

 彼はつとめて明るい声を出そうとしながら言った。

「ここの暮らしも、まあそこまで悪いものでもない。灯台は暖かいし、近くに湖があるから食糧にも困らん。自分のペースでのんびり生きられるぶん、もしかしたら君の生活より恵まれているかもしれんぞ。わしは時間というものがどうも苦手での。それに風呂やら何やらも好かん。どのみち町の生活には馴染めなかったろうよ」

 ぼくは自分が灯台で暮らしている様子を想像してみようとしたがうまくいかなかった。朝起きて……いやちがう。ここに朝は来ない。とにかくおきて、食事を作り、あとはふらふらと日々を過ごす。眠くなれば寝る。お風呂はなし。時計もカレンダーもない、学校もない、仕事もない。まるで「むかしむかし」の生活みたいだとぼくは思った。

「もしも」とぼくは訊いた。「もしもぼくが夢の世界に戻りたくないって言ったら、ここに住まわせてくれますか」

「その場合は、そうじゃな」

彼は微笑んだ。

「たぶん、ストーブを直さなければならんじゃろう」


 ぼくたちはしばらくの間その灯台で暮らすことにした。時間はたっぷりあったし他に行くところもなかったからだ。灯台守は親切でぼくたちのストーブを直してくれ、食事の時間になると三人分の料理を作ってくれた。

「ふだんは食事の時間など決めていないんじゃが」と彼は言った。「しかし食事は一緒にした方が楽しいからのぉ」

 彼が灯台や倉庫にペンキ塗りをするのを、ぼくたちは食事のお礼に手伝った。灯台のペンキはすぐぼろぼろになってしまい、いくら塗ってもキリがないのだと彼は言った。もしかするとランプの熱が悪いのかもしれなかったが、そうだとしてもどうしようもない。ペンキはまだ倉庫ふたつぶん残っていた。

「全部なくなったらどうするの?」

「そうじゃな」コノハの質問に、彼は少し考えて答えた。「まあ、ペンキの禿げた灯台もなかなかオツなもんじゃ。それより君はペンキ塗りがうまいな」

 とつぜんそう言われて、ぼくは作業していた手を止めた。ちょうど扉の枠を塗りなおしていたときだった。

「ペンキ塗りは初めてかね?」

「たぶん」

「絵は?」

「描いていました。でも、むかしの話ですよ」

「ふむ。それでじゃな。一度体が覚えたことは二度と忘れない。もう絵を描く気はないのかね?」

「時間も、道具もありませんから」とぼくは言った。

 決まっていたのは食事の時間だけで、あとはみんなばらばらに過ごしていた。眠くなったら寝室へ行ったし、目が覚めれば居間にやって来た。灯台守だけはランプを見る仕事があるので定期的に階段をのぼったが、仕事はそれだけだった。ぼくたちはペンキを塗ったり、料理を作ったり、書斎で本を読んだりしてのんびり過ごした。

「これは全部町の図書館から持ってきた本じゃ」

 書斎に案内してくれたとき、彼はそう言った。二十年以上前の本なのでなかには傷んだり破けたりしていたものもあった。コノハは特に絵本が気に入っていて、書斎から持ち出した絵本を小さな子供みたいに枕元に積み上げていた。

「子供みたいだね」

「おかしい?」

「ううん」ぼくはそのうちの一冊を手に取った。「これ、最後の方が破けているね。つづきは?」

「わかんない。どこにも見つからないのよ。たぶん、図書館のどこかにあるんだと思うわ」

 それから、何かを思いついたように急に身を乗り出した。

「ねえ、あなたが続きを描いてよ」

「ぼくが?」

 無理だよ、とぼく。

「だって、あなた絵が好きなんでしょう? あたし、あなたが描いた絵を見て見たいもの」

 ぼくはうなって絵本を閉じる。


 灯台守がいつ眠っているのかぼくにはわからなかった。ランプ室が寝室代わりだと言っていたがそこで寝ている気配もない。もしかすると眠っていないのかもしれないとも思ったが、訊いてみても彼ははぐらかすばかりで何も教えてくれなかった。

「老人は眠らなくても平気なんじゃ」

そう言って、彼は曖昧に笑った。

 眠れないとき、ぼくとコノハはよく一緒にトランプをやった。たいていは居間か寝室でやったが、ときどきランプ室で老人と三人で遊ぶこともあった。灯台守は老眼でカードがよく見えず、ぼくがこっそり教えてあげなければならなかった。チェスやオセロをすることもあったが、どんなゲームをしてもたいていはコノハが勝った。初めて知ったのだがコノハはとてもゲームが強かった。

「自分が今、何をすべきかだけを考えるの」

 五回連続で大富豪になったときコノハはそう言った。

「簡単よ」

「そうかな」ぼくは三回連続で大貧民になっていた。「あんまり簡単とも思えないけど。トランプはよくやってたの?」

「そりゃあ、ね。ガールスカウトのときに散々やったわ。テントのなかで出来る遊びなんて、好きな子の言い合いとトランプくらいだもの」

「へえ。青春だね」

 クラブの三を出しながらぼくは言った。

「あら。あなたはやらなかったの?」ダイヤの七。

「残念だけど」スペードのクイーン。

「秘密主義だったのね」クラブのキング。「まだチャンスはあるし、大人になるまでに一回はやっといた方がいいわよ。それともあとであたしとやる?」

「何を?」

「好きな子の言い合い」

「遠慮しとくよ」

 ぼくはしかめ面でスペードの二を出す。

「青春じゃな」

 ジョーカーを見せながら灯台守が笑った。

 トランプをしていると、ときどき列車の男が居間に入ってくることがあった。彼は灯台近くの小屋にひとりで住んでいるらしく、二日に一度こっちへ食糧をもらいにくるのだった。ぼくとコノハは助けてくれたお礼を言ったが、彼は言葉がわからないらしく不思議そうにこちらを見るだけだった。彼には名前もないのだと灯台守はぼくたちに教えてくれた。

「彼もある意味ではわしと同じなのじゃ」

 男が去っていった扉を見つめながら灯台守が静かに言った。

「あの男も眠れなかった人間のひとりでの、どういう理由かは定かではないが、町が眠っても夢の世界にいけないままじゃった。もしかすると、灯台守の交代要員として確保されていたのかもしれん。しかし、わしが出会ったときにはすでに、なんというか〈野生化〉しておった」

「言葉がわからなかったってことですか?」

「それだけではない。会ったばかりの彼は四本足で歩き生の肉や魚をそのまま食べていた。たぶん、野犬たちと一緒に生活しておったのだろう……。彼のほかにも、森のなかには何人かそういう人たちが住んでおる」

 ぼくは森のなかで見た動物の足跡を思い出す。四本足の動物。人間そっくりの足跡。あれはただのサルではなかったのだ。

「それで、彼はどうしてここに?」

「うむ。なぜかは知らんがわしになついての、それにその頃は町も危険になっていたから灯台に連れてきた。しばらく一緒に暮らしておったらだいぶ人間らしさが戻ってきたのじゃが、結局言葉だけは戻らんままじゃ」

「列車の運転はあなたが教えたの?」

「わしが?」老人はまさかという顔をした。「わしに列車の運転などできるものかね。あの男が自分で学んだのじゃよ。もしかしたら、むかしは本当に列車の運転手だったのかもしれん」

 それ以来、ぼくとコノハはときどき男の小屋を訪ねるようになった。言葉は通じなかったが彼はいつでもぼくたちを歓迎してくれ、湯気の立つハーブティーをふるまってくれた。小屋は湖のすぐそばにあり、男はそこでよく釣りをしていた。時には我慢できずに湖のなかに飛び込んで魚を捕まえていることもあり、そんなときにはいつもずぶ濡れになって小屋へ戻ってくるのだった。男は捕まえた魚を振り回しながら大声で笑い、ぼくたちもそれを見て歓声をあげた。

「これこそ生きているってことだわ」

 楽しそうに笑いながら彼女が言った。

「ねえ、そうじゃない?」

 そうかもしれない、とぼくは思った。


灯台のランプ室からはぼくたちの町がよく見える。ぼくたちは食事が終わるとよくそこへ行ってお喋りをした。ぼくとコノハはたいていココアを飲んだが、灯台守は葡萄酒を飲んだ。倉庫に蓄えてある大量の葡萄酒は、彼が町から持ち出してきた数少ないもののひとつだった。ぼくもコノハも灯台での暮らしに慣れ始め、ときどき老人に代わってランプの見張りをすることもあった。

「この灯台を止めることはできないのかしら」

 ある日、コノハがぼくたちに向かってそう言った。灯台守はランプを磨いているところだったが手を止め、彼女の顔をまじまじと見た。

「どうしてかね?」

「あたし、よく考えてみたの。この灯台について」

 彼女はずっと頭のなかで組み立てていた台本を読むみたいに、すらすらと話し始めた。

「この灯台のおかげ……ううん、この灯台のせいで町の人たちは眠っている。ずっと夢のなかで暮らしている。それは幸せなことかもしれないけど、やっぱり間違っているんじゃないかしら」

「灯台を止めれば朝が来て、人々は目覚める。それでどうするつもりじゃね? 町はもう昔とは違う。二十年も眠ったままだったのだからね。危険な野犬たちがあちこちにいるし、建物だってすっかり古くなった。それに、町の一部は川の底に沈んでおるんじゃ。そんな中で、誰が目覚めることを望むのかね」

「だけど、それも時間の問題だわ。いつまでもこんなことを続けるわけにはいかない。ランプの油だっていつかなくなるし、川はどんどん大きくなる。このままじゃ、いつか町は川底に沈むわ。そうしたら眠っている人たちはどうなるの?」

「そのときは」老人は静かに言った。「そうじゃな、彼らは死ぬじゃろう。人間はいつか死ぬものじゃ。違うかね? 彼らはな、ゆっくりと眠りながら死んでいくことを選んだんじゃよ。少なくとも夢を見ている間は幸せでいられるからのぉ……」

「でも、そんなの間違ってる」

 コノハは怒っていた。ぼくはこんなに怒った彼女を見たのは初めてだった。イライラしたり、落ち込んだりしたことはあっても、彼女は決して本気で怒ったりはしなかったのだ。

「そうじゃな。君は正しい。彼らはたぶん間違っておるのじゃろう……。しかし、人間とは間違うことしかできん生き物じゃ。彼らが自分で眠っていたいと思ったのなら、わしにその夢を壊すことはできん。たとえ無理やりやらされたとはいえ、わしは灯台守じゃからの」

「でも……」

「だから、それは君の仕事じゃ」

 彼は優しくそう言った。焦がしたバターのような両目が彼女をじっと見据えている。

「君がそれを望むなら、そうするがよい。未来をつくるのは子供の特権だからの。何が夢で何が現実かということは重要ではない。何を現実にするかということが大切なのじゃ」

 そう言うと、彼は静かに階段を下りていった。明かりの灯ったランプをぼくとコノハに託して。


「あたし決めたわ」

 翌日、湖のそばを二人で歩いているときにコノハが言った。湖面は静かにさざ波立ち、満天の星空を映し出している。この森ではたいてい雪が降っていて、星空が見えることは稀だった。たぶん神様が気を利かせてくれたのだろう。

「ここに残るんだね」

 ぼくは言った。彼女がそうするであろうことが、ぼくには初めからわかっていた。

「ええ。夢の世界には戻らない」

「君らしいよ。これからどうするつもりなの?」

「まだ決めてない。しばらくはここで暮らして、準備が出来たら町へ戻るつもりでいるの。町は雪が降っているし野犬もいるけど」

「それでも行くんだね?」

「それでも行くの。あそこには解決しなきゃいけない問題がたくさんある。それって素晴らしいことじゃない?」

「どうかな」

 曖昧な答え。今のぼくにはわからなかった。問題が山積みの現実と、何の心配もいらない夢の世界。いったいどちらが素晴らしいのだろう。

 ぼくは足元に落ちていた石を拾うとそれを湖面に投げた。小さい頃に習った水切り。銀色の石は四回はずんで消える。

「あなたはどうするの?」

 彼女が訊いた。

深く深く沈んでいった石ころを見つめたままぼくは何も答えない。


 一人でいると、ときどき父さんのことを考えた。ぼくの絵の具を捨てたのは現実の父さんだったのか、それとも夢の世界の父さんだったのか? 夢の世界の父さんは、それが夢の世界だと、現実ではないと知っていたのだろうか? 父さんがあれほどまでに現実という言葉にこだわっていたのは、自分の世界が現実ではないと気づいていたからなのかもしれない。灯台守は言っていた。この灯台は町の大人たちがみんなで建てたものなのだと。そのなかに父さんはいたのだろうか?

 何度問いを繰り返しても答えはでなかった。父さんは滅多に自分のことを話さなかったし、ぼくも聞きたがったりはしなかった。知りたいとも思わなかったのだ。ぼくたちはお互いに秘密主義で、自分のことは自分の心の中にしまっておくタイプの人間だった。

 ずっと一緒に暮らしていたのに、ぼくは父さんのことを何も知らない。父さんがどこで育って、どんな人たちと仕事をしていて、職場ではどんな風に振る舞っていて、いつもどんなことを考えて生きているのか。父親ではなく一人の人間として、父さんがどんなふうに生きているのかを。

 ぼくは目を閉じる。目を閉じて父さんの顔を思い描く。夜のなかで何度父さんの顔を思い出そうとしても、それは決まって上手くいかなかった。寝室の天井に描く父さんの顔は、何度も描き直そうとした肖像画みたいにぐちゃぐちゃだった。暗い部屋のなかで、ぼくは自分の涙に気づく。


 灯台守がぼくを呼んだのは一階の玄関を塗りなおしていた日のことだった。ぼくは手に持っていた刷毛をペンキの缶に浸すと居間に向かい、そこでコノハとぶつかりそうになった。

「地下室の前で灯台守があなたを呼んでたわ」

「どこだって?」

「地下室よ」

 それだけ言うと彼女は居間を出て行った。

 地下室があることは知っていたがそこに入ったことはこれまでなかった。扉には厳重な鍵がかかっていたし、特に行ってみたいとも思わなかったからだ。地下室へいくための扉は灯台の裏手にあり灯台守はそこでぼくを待っていた。

「君に見せたいものがある」

 彼はそう言うとポケットから鍵の束を取り出して、建物のなかで唯一赤色に塗られたその扉を開けた。扉はすっかり錆びつきかすれた音を立てたがとにかく開いた。ぼくは彼のあとに続いて扉をくぐり地下室へ続く階段を下りた。

「ここじゃ」

 灯台守は大きな鉄製の扉で立ち止ると、鍵束からさっきとは別の鍵を取り出しそれを鍵穴に刺した。降り積もった埃と時間のにおい。そこにあったのは資料室のような場所だった。古びて茶色になった紙の書類がファイルされて何枚も並んでいる。部屋の奥には書き物をするための机があり、そこにはペンやクリップが散らばっていた。まるでさっきまでそこにいた誰かが慌てて部屋を出て行ったみたいに。

「ここは?」

「奴らの部屋じゃよ。この灯台を作った奴らのな。設計図やら計画書やら手紙やら、そういうものが全部入っておる。焼いてしまおうかとも思ったんじゃが、どうにも面倒でな。しかしまあ、取っておいてよかった。君の探し物も見つかるのではないかな?」

「ぼくの探し物?」

 しかし灯台守は口元に笑みを浮かべただけで何も言わなかった。そして机の引き出しをごそごそと漁り、やがて分厚いファイルを取り出すとぼくに渡した。黴の生えたような紙のにおい。埃で鼻がむずむずした。

「これは?」

「署名じゃよ。この灯台に関わった人たちの名前がみんな書いてある。一人残らずな。どう使うかは君次第じゃ」

 灯台守はいたずらっぽく微笑むとぼくを残して部屋を出て行った。どうするべきかしばらくのあいだ悩んだが、結局ぼくはファイルを机のうえに広げそこに書かれた名前をひとつひとつ読み始めた。細い、神経質な文字で書かれた名前たちは小さな虫の行列のようにどこまでも続いていて、どれだけページをめくっても終わらなかった。それだけたくさんの人間がこの灯台を作ったのだ、とぼくは思った。

 ときどき知っている名前が出てくることもあった。友だちの父親や学校の先生の名前。隣に住んでいるミホさんの名前もあった。そういう名前が出てくるたびにぼくはページをめくる手を止め、彼らがどんな人たちだったかを思い出そうとした。うまくいくこともあったしいかないこともあった。ぼくは自分が彼らからとても遠くに離れてしまったような気がして、そのたびに悲しい気持ちになった。

 父さんの名前は結局見つからなかった。安心したようながっかりしたような気持ちでぼくはファイルを閉じようとして、一番後ろのポケットに紙が数枚残っていることに気づいた。取り出して光にかざす。それは役員たちの名簿のようだった。そこに載っているのは、灯台を作る中心になった人たちの名前だった。ぼくはその名簿の最後に書かれた名前を三度見た。どれだけ見つめても、それがぼくのよく知っている名前であることは明らかだった。

 ツカモト タカシ。

 父さんの名前だ。ぼくは名簿をファイルに戻すと、乱暴な手つきでそれを引き出しのなかにしまった。汚いものを触ったときみたいに、何度も手のひらを机にこすりつける。もう一秒たりともこの部屋にいたくなかった。ぼくはこの部屋に来たことを後悔し、ファイルを見てしまったことを後悔した。記憶のなかからこの五分間のことだけをすべて捨ててしまいたかった。ぼくは荒々しく椅子を蹴って立ち上がると忌々しいこの部屋を立ち去ろうとした。

「いたっ」

 靴の爪先が何かを踏み、よろけたぼくは机に思い切り肘をぶつける。涙目になりながらぼくは自分が踏んだその何かを拾い上げた。黄ばんだ小さな紙切れ。どうやらファイルのポケットから落ちたものらしかった。表面に小さな文字で何かが書かれている。ぼくはそれを顔に近づけ、読んだ。そこには懐かしい父さんの字でこう書かれていた。

「ハッピーバースデー」


 灯台守は扉の外でぼくを待っていた。

「探し物は見つかったかね?」

 ぼくは立ち止った。自分が何を見つけたのか、まだ彼に言う気にはなれなかった。

「明日が、ぼくの誕生日だったんです」

 ようやくのことでそれだけ口にする。灯台守はぼくが握りしめた紙を見て、そしてぼくの頭を抱いた。

「そうか」彼は優しく言った。「誕生日おめでとう」

 瞳の奥からこみあげた涙は、かすかに夜明けの味がした。


 その日は食事のあとにケーキが出た。コノハが苦労して焼いてくれたのだ。

「ガールスカウトに入っていてよかったわ」

 木のへらで生地をかき混ぜながら彼女が言った。

「おかげでパンケーキを焼くのだけはうまくなったもの」

 牛乳がないせいでクリームが作れなかったため、コノハは大きなパンケーキを焼いた。ぼくたち三人が食べても余るほど大きなやつだ。そんなわけでぼくたちは小屋にいる男も呼ぶことにした。ケーキを見ると彼はとても喜んで、お礼に森で取れた林檎をくれた。コノハが嬉しそうにそれを焼き林檎にし、蜂蜜をかけてパンケーキのうえにのせる。灯台守がランプ室からロウソクを何本か持ってきてくれたので、ぼくたちはそれをパンケーキのうえに五本刺した。

「十五歳なんだ」

「明日にはね」とぼくは答えた。

 マッチをするのはぼくがやった。ガールスカウトに入っていなくたって、それくらいのことはできる。マッチをこすると、町でランプが消えたときのことを急に思い出した。ぼくは五本のロウソクに火をつけ、マッチの火を水差しで消す。コノハが部屋の明かりを落とすと部屋は真っ暗になった。ロウソクの炎だけが静かに揺れている。

「決めたのね」暗闇のなかで彼女が言う。

「うん。決めたよ」ぼくは答える。「ぼくはあっちの世界に戻る」

 地下室を出たときぼくの気持ちは決まっていた。もう一度、あの夢の世界に戻る。そうして父さんに会うんだ。会ってそれからどうするのかはわからない。笑って話せるとは限らないし、もしかしたら殴ってしまうかもしれない。だけどそれでもいいとぼくは思った。あの世界に戻って、そして父さんに会わないとぼくは先に進めない。

「さびしくなる」彼女の声は本当にさびしそうだった。「せっかく林檎の木も見つけたのに」

「また食べにくるよ」ぼくは言った。

「本当?」

「本当」そう言ってうなずく。だけど暗かったから、きっと彼女には見えなかっただろう。

「ほんの少し帰るだけ。またこっちに戻ってくるよ。こっちの、君がいる現実の世界に」

 だけどその前に、ぼくは帰らなくちゃならない。父さんが選んだあの世界に。

 父さんが夢見ることを選び、永遠にしたいと思った世界が何なのかをぼくは確かめてみたかった。父さんの現実をこの目で確かめてみたかった。現実を見ろ、と父さんは言った。これが現実だと父さんは言った。たぶん、その言葉に嘘はないのだろう。父さんは自分の選んだ世界を現実だと思っていて、思いたくて、そしてぼくにも思ってほしかったのだろう。ぼくにも同じ世界を生きてほしかったのだろう。だからぼくは帰らなくちゃならない。帰って聞いてみなくちゃならない。父さんが何を考えて灯台を作ったのかを。何を望んでこの世界を選んだのかを。

「ちゃんと戻ってきてね」

「すぐだよ」ぼくは言った。「一晩、留守にするだけさ」

「わかった」

 ロウソクを吹き消そうとすると、灯台守と目があった。彼はむかし会ったときよりずっと年を取り、顔のしわも増えたけれど、それでもその目だけは変わっていない。焦がしたバターみたいに優しい目。

「元気でな」

「あなたも」

 ロウソクの炎が揺れている。暗闇のなかで輝くそれは、ぼくがかつて運んだランプの火だった。ランプの炎。油のにおい。路地裏にかかったシャツ。雪の積もった歩道橋。幻影の家。コノハと出会った喫茶店。ハム。チーズ。それにクラッカー。泊まっていた車とそのなかで眠り続ける子供。野犬たち。森のなかの列車。足跡。長く尾を引く遠吠え。どこまでも続く夜の闇。振り続ける雪はやがて溶けて川になる。長い、とても長い夜の思い出。

「おやすみなさい」

 ぼくはロウソクを吹き消した。


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