森
第五章 森
父さんがぼくを釣りに連れて行かなくなったのはいつからだろうか。ぼくが父さんの釣りについていかなくなったのはいつからだろうか。
目に見えるきっかけがあったわけじゃないけど、ぼくは父さんから次第に距離を取るようになった。別に反抗期だったからじゃない。それでもぼくは二度と父さんの釣りについていこうとは思わなかった。たぶん、それは父さんのことを嫌いになりたくなかったからだと思う。いつしかぼくは釣りをしているときの父さんが嫌いになっていた。釣りをしている時、父さんはぼくに「男の話」をした。ぼくはそれが嫌だった。どうしようもなく嫌だったのだ。
昔はこうじゃなかった、とぼくは埃をかぶった釣竿を見ながら何度も考えた。魚が掛かるのを待つ間、父さんはぼくにいろいろな話をしてくれた。それはこれから釣ろうとしている魚の生態だったり遠い外国の物語だったりした。父さんの話はどれも面白かった。ぼくはよく釣竿を握りながら目を閉じて水の中にいる魚たちのことを想像した。そこには父さんの話してくれたような世界が広がっていて魚たちは鏡のような鱗で世界の光を反射しながらするりするりと泳いでいるのだった。川底で生きる小さな虫たちを小魚が食べ、その小魚をまた別の大きな魚が食べた。そしてぼくたちはその魚を釣って食べる。食物連鎖だと父さんは言った。
父さんの話はいつも面白い。ぼくはそれがいつまでも続くものだと思っていた。
タタンタタンという軽やかな振動とともにぼくは目を覚ました。体中がズキズキと痛み、頭は水を吸ったスポンジみたいに重かった。
隣に人の気配を感じて目を開けると、腕組みをして壁にもたれているコノハの姿が目に入った。左手は巻かれた包帯でふくらみ、ワンピースの両足から伸びる太ももにも同じ包帯が巻かれている。
「目が覚めたのね」ほっとしたような顔で彼女は言った。「よかった」
「ここは?」
彼女は肩をすくめた。まだ顔色はよくなかったが、とにかく意識はしっかりしているようだ。
ぼくが眠っていたのは寝台列車のベッドか何かのようだった。カーブした窓から見える外はいまだに暗くまだ朝は来ていない。冷たい車壁に手をかけ窓辺ににじりよる。足下でくすんだシーツが蛇の抜け殻のように丸まっていた。素足が冷たい。靴と靴下は誰かが脱がしてベッドに下に揃えてくれていた。服の下には包帯の感触。一瞬コノハが手当てをしてくれたのだろうかと考えたが、彼女も同じくらいひどい怪我をしていたことを考えるとその可能性は低かった。
「左腕の痛みで目が覚めて、そうしたらこの場所にいたの」
ぼくの方をまっすぐに見据えながら彼女は説明した。
「体中が痛かったけど、とにかく誰かが手当てをしてくれたみたいで血は止まっていた。はじめは頭がぼうっとしてたけどね。それで、何があったかだんだん思い出してきたんだけど、どうしてここにいるのかは全然わからない」
「君もここと似たような部屋に?」
「隣の部屋よ。中身はここと変わらない。たぶん、列車か何かだと思うんだけど。でも、見たことのない種類だわ」
「ぼくは写真でなら見たことあるよ」ベッドから降りながらぼくは言った。「寝台列車っていうんだ。列車のなかに部屋があって、そこで生活が出来る」
問題は、どうしてぼくたちがそこにいるのかということだ。ぼくは怪我をしたところをかばいながら部屋のなかを軽く調べた。部屋はとても狭く、ぼくが寝ていたベッドとその脇にあった小机のほかには、家具と呼べるようなものはほとんどない。壁にはフックがふたつありそこに木製のハンガーがかかっていた。机を調べてみたが何もない。ベッドの下にはぼくのナップサックがきちんとしまってあった。かなり濡れているが中身は無事のようだ。
「君の部屋には何かあった?」
「何かって?」
「つまり、何か手がかりになるようなもの」
彼女は黙って一枚の紙を取り出した。
くしゃくしゃに丸まったそれは古い新聞の切り抜きのようだった。日付の部分は切れてしまっていて読めないが、風化の具合から相当古いものであることは間違いない。記事自体はたいして大きいものではなく、ピンボケした小さな写真がついていた。
「何だろう、塔かな……」
写真は遠くからこっそりと撮影されたものらしくよくわからなかった。鬱蒼とした森の中で、なにやら建設途中の塔のようなものが写っている。
「灯台だと思う」
「灯台?」
「写真の右側、よく見て」
言われた通り写真の右隅を見てみると、大きなガラスの塊を運んでいる車が写っていた。はっきりとはわからないが、ランプのように見えなくもない。
「これが……?」
「灯台のランプだと思う、たぶん」
「森の中だ」ぼくはベッドサイドの明かりに透かした。「あの灯台かな?」
「そうとしか考えられないわ」
「じゃあ、少なくともぼくたちの幻覚じゃなかったわけだ」
「そんなふうに思ってたの?」
「そりゃ、少しはそう考えるだろう?」
「考えもしなかったわ、そんなこと」
ぽかんとした顔でコノハが言った。
「とにかく、これでより目標ははっきりしたわけね」
「目標?」
そんなものがあったかな、とぼくは首を傾げた。
「結局、すべての謎は灯台なのよ。あの灯台が何のためにあるのかさえわかれば、朝が来ない原因もわかると思う」
「灯台の仕事は、夜のあいだに船の道案内をすることだよ」
「森のなかに船は通らないわ。列車にはレールがあるし、自動車に灯台はいらない」
「飛行機かもしれない」
「飛行機?」
「高さを知らせて、飛行機が飛ぶ目印にするんだ。もっと大きな町にいくと、いろんなビルが屋上に明かりをつけている」
「ふうん。だけど、それにしては少し小さいと思わない?」
ぼくは写真に写った灯台を見た。たしかにあまり大きくはない。まわりに生えている木よりもちょっと背が高いくらいだ。
「まだ完成途中だからかも。これから大きくなるんじゃないかな」
コノハはだまって記事の一部を指差した。そこには大きな文字で「完成間近」という見出しが書いてある。
「もしかしたら……」
「何?」
「ううん、なんでもない」
彼女は恥ずかしそうにそっぽをむくと、新聞記事をポケットにしまった。照れたような頬がほんのりと赤く染まっている。
とにかく誰かが助けてくれたことは間違いない。列車の通路を歩きながらぼくはそう考えた。列車の構造は写真で見た寝台列車によく似ていて、狭い通路の左側にずらりと客室が並び、右手には大きめの車窓が連続している。窓の外は真っ暗でずっとトンネルのなかを走っているかのようだった。列車から零れた光がかすかに外を照らし出し折り重なった木々の姿をぼくに見せた。列車は森のなかを走っていた。なぜ森の中を列車が走っているのか、なぜぼくたちがその列車のなかにいるのかという疑問はとりあえず考えないことにした。この一晩でぼくは自分でも驚くほど大胆になっていて、もう何がきても驚かないぞという気持ちだった。
客室横の案内板を見た限り、ぼくが眠っていたのは貨車を除いた五両のうち一番後ろの車両だった。前二つの車両はここと同じような客室が並んでいて、二番目の車両にはラウンジが、一番前の車両には運転席があった。ぼくは運転手に会おうとしたが、コノハがそれを止めた。
「行っても彼には会えないわよ」
「彼?」
「ええ、男の人よ。カーテンの隙間からほんの少しだけ見えたの」
彼女の話では、運転席はカーテンが閉まっていて、いくら呼びかけてみても男は姿を見せないらしかった。ぼくが眠っている間に一度行ってみたらしい。
「そうか」ぼくは少し残念だった。「お礼を言いたかったのに」
「それで思い出した」
彼女は突然足を止め、ぼくの方を振り向いた。
「ありがとう」
「え?」
「助けてもらったお礼、まだ言ってなかったから」
彼女はまっすぐにぼくの目を見つめてそう言った。なんだか照れくさくなって、ぼくは慌てて目をそらす。
「それよりさ」咳払いをしながら言った。「どうする?」
「何が?」
「この列車、このまま乗ってても大丈夫かな。どうしてここにいるのかもわからないし、それにそもそもどこへ向かっているのかも知らない」
「どこへ行くのかはわかるわ」
彼女は確信を持ってそう言った。
「灯台よ」
「どうして?」
「わかるの」彼女は言った。「確信よ」
確信。無条件の信頼、絶対の幸福。ぼくとは永遠に無関係なもの。お宅のお子さんはどうも人を信じていないようです、と担任だった先生は父さんに告げた。父さんはショックを受けて何かを言いたそうな顔でこちらを見たが結局何も言わなかった。ただ目だけが失望と困惑を伝えていた。
人間の身体は細胞が集まってできていて、それは毎日生まれ変わっている。昨日のぼくと今日のぼくは違うし、それは他の人でもみんなそうだ。他人を信じろと先生は言ったが、そう言った先生だって次の日にはもう別人になってしまっている。何もかもが変わっていくのに一体何を信じればいいというのだろう。
夜だけが変わらない。夜の闇は永遠で、それは変り続ける昨日と今日とそして明日を繋いでいる。
ぼくとコノハは手前の客室から順番に調べて回った。いくつかの部屋には鍵がかかっていたが、たいていの場合はあっけないくらいに開いた。どの部屋もたった今まで人が住んでいたみたいに散らかって、その空気は生活感で満ちていた。たぶん、ぼくたちの部屋は事前に誰かが片付けておいたのだろう。
初めに入った部屋は埃だらけだったのでぼくたちは早々に退散した。二つの目の部屋には何もなかった。三つ目の部屋には鍵がかかっている。
手がかりらしきものを見つけたのは四つ目の部屋だった。そこは図書館がまるごと引越してきたみたいな部屋で、狭い室内が大量の本で埋め尽くされていた。ぼくたちは積み重なった本の山を崩さないように気をつけながら部屋に入って中を調べた。たいていは英語の本だったが稀に日本語のものも混ざっていたし、ぼくもコノハも簡単な英語なら読むことができた。そこにあるのは似たようなタイトルの本ばかりだった。『睡眠学』、『眠りと目覚め』、『大いなる眠り』、『夢と無意識』、『睡眠操作の秘蹟』、『眠ることと夢見ること』。
「眠りの本ばっかりね」
コノハは『共通夢と集団催眠』をパラパラとめくりながらつまらなさそうに言った。
「学者の部屋だったのかな」
「それかよっぽど不眠症だったのか、どっちかね」彼女はページをめくる手を止め、嫌そうにそれを閉じた。
「なんだか、誰かを眠らせる研究をしていたみたい。共通夢とか、睡眠操作とか」
「共通夢って何?」
彼女の持った本を見ながらぼくは聞いた。
「みんなが見る共通の夢ってこと。都市伝説よ」
「ああ」ぼくは頷いた。「聞いたことがある。何人もの人が一斉に同じ夢を見るっていう、あれ?」
「そう。まあ、嘘っぱちだと思うけどね。あたしは」
「でも、それがいい夢なんだったら、ロマンがあっていいと思うけど」
「案外、ロマンチックなのね」
からかうようにコノハが言った。
本の山をどけると机のうえに一冊のノートがのっているのが見えた。赤い表紙で小さく日付が刻んである。日記帳のようだった。ぼくはそれを手に取り、最後のページに一行だけ書かれた言葉を読んだ。
「我らが夢は永遠なり」
ラウンジにはコーラの自動販売機があったが動いてはいないようだった。もっとも、お金を持っていなかったからどのみち同じことだったろうけど。
「よかったじゃない」コノハは欠伸を噛み殺した。「夜にコーラを飲むと虫歯になるのよ」
「虫歯になったことなんてないよ」ぼくは言い返す。「ぼくの歯は人より丈夫なんだ。歯医者さんにもそう言われた。無敵の歯だって」
「負けないものなんてないのよ。もし無敵の歯なんてものがあるとしたら、入れ歯くらいのものだわ」
「嫌な言い方」
「あたしは現実的なの」
現実的。とても嫌な言葉だ。
「この先が運転席?」
「ええ。でも鍵がかかっているから入れないわよ」
ぼくはラウンジの扉を開けたがその先へは進めなかった。彼女の言うとおり、鍵がかかっていて入れない。上のほうにある小窓にもカーテンがかかっていた。そこにいるのが誰にしろ、ぼくらに姿を見られたくないらしい。
くすんだ色のソファで体を伸ばす。一晩中歩いていたせいで、両足が音を上げていた。犬に噛まれた傷口もまだズキズキと傷んでいる。いずれにしても、列車に乗れてラッキーだったとぼくは思った。
ラウンジの壁は白みがかった薄いクリーム色で、橙色の照明がぼんやりとそれを照らしている。レールの継ぎ目で列車が揺れるたび、窓にかかったカーテンがふわりとなびいた。誰もいない列車はとても静かだった。ただ車輪の音だけが心地よく響いている。
列車はかなり古いものらしく壁がところどころひび割れていた。ソファもくたびれて座り心地はあまりよくなかったが文句は言えない。ぼくとコノハはお互い黙ったまま、窓の外を流れていく夜の森をながめていた。ぼくは彼女の優しい呼吸をそばで感じる。すらりと伸びた手足は、巻かれた包帯に負けないくらい白くてきれいだった。
「なんだか、夢みたい」
窓の外をみつめたまま、彼女はそう呟いた。
「何が?」
「目を覚ましてからのことが、全部。夢の中みたいに、ふわふわしてる」
「本当に夢だったら、どうする?」
ぼくはそう訊いてみた。
「何もかも夢で、本当はまだベッドで寝ているんだ。灯台なんてなくて、ちゃんと朝がきて、犬だっておとなしい。ぜんぶ、ぼくたちが見ている夢だったとしたら、どうする?」
「そうね」
彼女はちょっと考えたあと、ぼくの方を見て微笑んだ。
「たぶん、いい夢だったなって、そう思うわ」
ぼくは満足して目を閉じる。
「男の話」をする時には、父さんはきまって現実という言葉を使いたがり、そしてぼくは父さんの使うその言葉が何より嫌いだった。彼が現実について語るたびに、お前の世界は現実ではないのだとそう告げられる気分になったからだ。母さんがいなくなってからというもの、父さんは現実という言葉に異様にこだわり始めた。まるで現実的にしていれば母さんが帰ってくるとでもいうかのように。現実。現実。現実。繰り返されるその言葉が何を意味しているのかぼくにはさっぱりわからなかった。たとえばそれは学校の成績についての話だったり、あるいは進路や仕事についての話だったりした。それが現実なのだと父さんは言い、それはすなわちそれ以外のことは現実ではないのだということも意味していた。星空は現実ではなくなり絵を描くことも禁止された。夜はその価値を失い昼だけが生きることを許された。
父さんがぼくの絵の具をどこかへやってしまったとき、ぼくは自分でも驚くほど怒った。別に絵を描くことがそこまで大事だったわけじゃない。ぼくにとって絵はちょっとした趣味くらいのものだったし、父さんが禁止しなくてもいずれ描くのをやめてしまっていただろう。だけどそれは問題じゃなかった。ぼくにとって問題だったのは、父さんが何かを禁止したということだった。もちろん、禁止されていることはたくさんあった。物を盗むこと、嘘をつくこと、他人を傷つけること。それらはどれも「いけないこと」で、だから禁止されていたしぼくだってやるつもりはない。
だけど絵は? 絵を描くのは悪いことじゃない。禁止されなきゃいけない理由は何もない。父さんが絵を描くのを禁止したのはそれが現実的ではないからだ。それだけの理由で父さんはぼくの絵の具をどこかへやってしまった。ぼくにはそれがどうしても許すことができなかった。
おまえなんて現実じゃないとぼくは父さんに言ってやりたかった。ぼくにとっての現実は母さんと一緒に死んだのだ。それはもう二度と。二度と帰ってこないものなのだ。
突然列車が止まり、ぼくは座っていたソファから前につんのめる。鈍いブレーキ音を最後に列車は静かになった。どうやらどこかに停車したらしい。
「駅かな?」ぼくとコノハは顔を見合わせた。
「どうかしら」彼女は耳に手を添える。「でもそれにしては扉が開く音がしなかった」
「誰も乗ってこないせいかも」
「だったらすぐに出発するんじゃない?」
「そうだね」ぼくは同意する。「とにかく様子を見てこよう」
列車が壊れたんでなきゃいいけど、とぼくは付け足した。ラウンジの扉が軋んで枯れた音をたてる。ぼくたちはしんと静まり返った廊下をゆっくりと進んだ。
車外へ通じる扉は列車の最後尾にあった。ぼくたちは並んでそこから身を乗り出すと外の様子をそっと窺った。夜の空気が顔に触れる。
そこは郊外のガソリンスタンドのような場所だった。森の中でぽっかりと開けた空間に、給油機械がひとつだけぽつんと置かれている。ときどき痙攣したようにまたたく電灯が、その給油機を照らしていた。虫の鳴き声。森のなかでは雪が降っていなかった。空気も町のそれほど冷たくはない。森の木々が寒さを防いでくれているみたいだった。
「燃料切れってことなのかしら」
コノハが耳元でささやく。
「列車は電気で動くと思ったけど」
「あら。ガソリンで動く列車だってあるのよ。それにもともと機関車は石炭で動いていたじゃない」
彼女のいうとおり、ぼくたちの列車はむかしの機関車みたいな外観をしていた。深赤色の客車が四つ続いた先に、黒い機関車がつながっている。
「誰か出てきた」
彼女の言葉で目をこらす。運転席の扉が開いて背中の曲がった男が降りてきた。男は奇妙な歩き方をしていた。四つん這いになって運転席からの階段を降りてきたかと思うと、とつぜん思い出したように二本足で立ち上がりよろよろと歩く。遠すぎて顔がよく見えなかったが相当に齢を取っているのは確かなようだった。
「何をしてるんだろう」
ぼくはつぶやいたがそれはすぐに明らかになった。男は給油機のホースをつかんで苦労しながらその先を機関車のタンクへ突き刺した。
「給油する機関車なんて初めて見る」
「あたし、もう何を見ても驚かないわ」
彼女が言い、ぼくもまったく同じ気分だった。
「近づいてみる?」
「あなたが先に行くなら」
「わかった」
本音を言うと少し不安だったがぼくは強がった。悪い人ではなさそうだったし、もし彼がぼくたち助けてくれたのならお礼を言わなければいけないとも思ったからだ。
土の感触を靴底で味わいながら給油機のそばへ行くと、ツンとするオイルの匂いが鼻を覆った。男はぼくたちには気づかない様子でじっと給油口の様子を眺めている。
「こんばんは」
ぼくはそっと声をかけた。夜の挨拶。しかし男は聞こえなかったらしくこちらを振り向こうともしない。
「こんばんは」
もう一度言う。今度は少し大きな声で。それでも反応がなかったので、ぼくは男の耳元に口を近づけ蓄音機に声を吹き込むみたいに言った。「こんばんは!」
驚いたような顔で男が振り向く。どうやら無視していたわけではなく本当に気づいていなかったらしい。少し耳が遠いのかもしれないとぼくは思った。男は怯えたように後ずさる。
「すみません」
ぼくは謝った。
「おどかすつもりはなかったんです。ええと、ぼくたち目が覚めたらこの列車のなかにいて、どうしてなのかはわからないんですけど。何かご存知ないですか?」
男は意味がわからないというように首を傾げた。ぼくは質問を変える。
「うーん、つまりあなたがぼくたちを助けてくれたんでしょうか?」
男は再び首を傾げる。反応が返ってくるところを見ると声が聞こえていないわけではないようだった。男は戸惑ったような表情で目をしばたたかせると、両手で大きなバツを作った。
「言葉がわからないのよ。きっと」
コノハが呟く。どうやらそのようだった。男は再び給油作業に戻ろうとし、ぼくたちはその背中にお礼を言った。こういうのは気持ちが大切なのだ。たとえ言葉の意味が伝わっていなくたって。
「外国のひとなのかな」
「そうかも」
しかし、あまりそうは思えなかった。男の髪は黒く瞳の色もぼくたちと同じだったし、顔立ちも近い。彼がさっきから何ひとつ喋っていないことも気になった。
機械が古いせいなのか、給油作業にはずいぶんと時間がかかっていた。あるいは単に機関車のタンクが大きすぎるだけなのかもしれない。あれだけ大きなタンクに入れるガソリンがどこからやってくるのだろうかとコノハは不思議がった。
「こんな小さな給油機のなかに、あれだけのガソリンがあるとは思えないもの」
「井戸みたいな仕組みなのかも」とぼく。「地下から直接掘り出しているんだ」
「あのね」コノハは呆れたように言った。「ガソリンとか石油って、出来るのにものすごく時間がかかるのよ。それにこの森に油田があるなんて聞いたこともないし」
「誰も知らなかっただけなのかも」
「それならこのスタンドは誰が作ったの?」
「それもそうか」ぼくは納得した。
森の地面は暖かく春の匂いがしたがどこか奇妙な感じがした。ところどころおかしな具合に地面が盛り上がっていてナスカの地上絵みたいに模様を描いている。ぼくはしゃがみ込んで地面の盛り上がった場所を眺めた。何かが下に埋め込まれているみたいで、それは列車の車輪の方へカーブしながら続いている。息を吹きかけて土を飛ばすと何か鉄で出来た棒のようなものが埋まっているのがわかった。
「レールだ」
ぼくはコノハを呼んでそれを見せた。
「見て。レールがすっかり地面の下に埋まってる」
「脱線しなきゃいいけど」
彼女は頬をかきながら答える。そして何かを見つけたようにその場へしゃがみ込んだ。
「誰かがここを通ったみたい」
彼女が指差した先には動物の足跡が残されていた。ちょうど人間の足に似た形をしているが少なくとも靴は履いていない。五本の指のあとがくっきりと残っていた。地面に顔を近付けてよく見れば、足跡はほかにも色々なところにあった。たぶん、ここは森の動物たちにとっての集会場になっているのだろう。夏の虫が街灯の光に集まるみたいに、このガソリンスタンドにはたくさんの動物たちが光を求めて集まってくるのだ。
「何だろう。この形は……猿かな」
「猿にしては大きくない? 形は似てるけど」
「大きな猿もいるよ」ぼくは説明する。「オランウータンとか、ゴリラとか」
ずっと昔のことだがオランウータンの足を見たことがあった。学校で動物園に行ったときに見せられたのだ。自分で好きな動物を一匹選んでその絵を描いてこようというのが先生から出された課題だった。ぼくはオランウータンの檻へ行ってイーゼルを立てるとそこで一日中彼の足をスケッチした。サルの足は木の枝をつかむためにとても器用になっているのだと飼育員が説明した。人間の足とは比べ物にならないのだと。どうして人間の足は不器用なのかとぼくが訊くと、人間が進化の途中でいろいろなものを捨ててきてしまったからだと彼は答えた。人間はあらゆるものを捨ててしまってそれはもう二度と手に入れることができないのだと彼は言った。進化の歴史は一方通行で、後からいくら悩んでも、捨ててしまったものは決して買い戻せたりはしないのだ。
すべての生き物は進化していると父さんは言った。人はかつてサルだったしさらに前はネズミだった。進化とは何かを捨てて別の何かを手に入れることだ。魚から進化したトカゲは陸地で呼吸ができるようになったが代わりに水中での生活は諦めなければならなかった。鳥たちは優雅に空を飛べるが地面を駆けることはできない。もしも人間が進化を続けているのだとしたら、ぼくたちはこれから何を手に入れて、そして何を失うのだろうか?
ぼくたちの生きているこの世界は、今の人間たちに合わせて神様がつくったものだ。もしも人間が進化を続けていき、やがて完全な存在になったとしたらこの世界はどうなるのだろうか? ぼくたちはこの世界を捨ててどこか別の世界へ行くのだろうか? 大昔、ぼくたちのご先祖さまが「むかしむかし」の世界を捨ててこちらへやってきたみたいに。
ぼくたちが話しこんでいると、背中の曲がった男が困ったような顔をしてやってきた。列車のほうを指差し、しきりに手でバツを作っている。
「列車が故障したみたい」
彼女は言って、わかったというように男に向かってうなずいてみせた。男はそれから線路を指差し、それからずっと遠くの灯台を指差した。
「ここからは歩いていけってさ」
ぼくはため息をついた。しかたがない。傷はまだ痛んだが足の疲れはさっきまでに比べればだいぶなくなっていた。
ぼくとコノハは男に手を振ると夜の森へと歩き出す。
茂った木々の合間を縫うようにして線路は伸びていた。細い鉄製のレールがきれいな曲線を描き、土に埋まった枕木が歩くたびに目を覚ます。線路は長い年月とともに森の一部になっていた。
「森のなかを列車が通っているなんて知らなかった」
小石を蹴飛ばして歩きながらコノハが言った。飛んでいった小石はレールにぶつかり跳ね返ってどこかへ消える。
「世界にはぼくたちの知らないことがたくさんあるみたいだ」
ぼくは言った。夜に森を歩くのは初めてだ。ほとんどの生き物は眠っていたが虫たちだけは起きていた。リリリリ……という音が森中にこだまして消える。
「あの列車、なんだったのかな」とぼく。「つまり、誰が何の目的で森のなかに線路を引いたんだろう?」
「ただの森じゃないわ。灯台がある。たぶんだけど、あれは工事用車両なのよ。灯台を建てるための機材とか、人とかを運ばなきゃいけないでしょう?」
「それに働いている人たちが暮らす場所も」
だから、あの列車は寝台列車の形をしていたのだろうとぼくは考えた。ということはつまり、あの部屋にはかつて灯台を建てた人たちが暮らしていたことになる。それがどれくらい前のことかはわからないけれど。
「足元に気をつけて」
腐った枕木をよけながら彼女は言った。地面にはたくさんの枯れ枝が落ちている。そこは死んだ木々の墓場だった。
「夜の森を歩くときは斜め下を見ながら歩くこと。じゃないと躓いたりして危ないから」
「了解、リーダー」
「何がリーダーなのよ」
「だって、君の方が実際年上だし、頼りにもなるだろ」
「そんなことないわ」彼女はついと前を向いた。「それに、あたしを助けてくれたのはあなたよ」
「ぼくも君に助けられた。それに君の方が冷静で落ち着いているし……」
「あなただって落ち着いているじゃない」
「ぼくは君が一緒だから、落ち着いているだけ。君とは違うよ」
それを聞いて、コノハは大きなため息をついた。あなたって何にもわかってないのね、という表情でぼくを見る。
「もういいわ、あたしがリーダーで。あなた本当に何にもわかってないんだもの」
頭上を見上げると木々が開けた隙間から夜空がのぞいているのが見えた。灯台の光が差し込み雲の流れていく空を明るく照らす。夜の闇。森の声。すっぽりと闇にくるまれたその場所では何もかもが調和して完成されたひとつの世界をつくりあげていた。
空が白くなる。再び雪が降り始めていた。舞い落ちる氷の粒が灯台の光を反射してキラキラと輝く。言葉は白い煙になって空へと消えた。
森を抜ける道は暗く長い。線路はあちらこちらに蛇行しながらどこまでも続いているようだった。足元の地面には段々と雪が降り積もり、ぼくたちが歩くたびに氷の粒が砕けて散った。ときどき傷が痛んだけれど体は奇妙に軽く、ぼくは森の澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら足を進めた。
「夜の森って、本当はこんなに静かじゃないのよ」
コノハはぼくにそう教えてくれた。彼女はぼくのすぐ隣を歩いていて、その声が優しく耳をくすぐる。
「うるさいの?」
「ううん……、ぴったりな言葉はにぎやか、ね。森の生き物はほとんどが夜行性だから、昼間と同じくらい夜の森もにぎやか。虫の鳴き声とか、鳥の羽音とか。ときどき狸の背中なんかを見ることもある」
「狸の背中、か……。夜の森にはよく行くの?」
「うん。結構ね」
「この森にも詳しいの?」
「うーん」彼女はちょっとばつの悪い顔をした。「残念だけど、この森には来たことがないわ。ガールスカウトに入っていたのは前の町だったから……」
そういえば、そんな話を聞いた気がする。
「君のいた前の町ってさ、どこ? この町の近く?」
「近くはないけど、そんなに遠いわけでもないわ。列車で一時間くらいのところ。この町よりちょっと大きくて、町の真ん中に大きな川が流れてる」
「行ってみたいな」
「今度いっしょに行きましょうよ。この夜が明けたら」
この夜が明けたら。彼女のその言葉で、ぼくは初めてそのことを考えた。旅が終わったあとのことを。それまでぼくは灯台を目指すことだけを考えていて、そこに着いた後のことなんて何一つ考えることさえしなかった。だけどぼくたちが目指している灯台まではあと少しで、たとえ何が待っていようともぼくたちの旅はそこで終わる。朝は明けるかもしれないし、明けないかもしれないけれど、とにかくもうすぐ全てが終わるのだ。
突然、ぼくはこの夜が愛おしくなった。朝が来てこの旅が終わってしまうことが嫌だった。父さんのところに帰るのも嫌だったし、コノハと別れるのも嫌だった。町にいた頃は朝がやって来て何もかもが元通りになることを願っていたのに、今では心のどこかでこの夜がずっと続いてほしいと思っている自分がいる。
ねえ、とぼくは隣を歩くコノハに言った。
「何?」
「あのさ」ぼくは言葉を切った。「……ううん、何でもない」
そして灯台が現れた。
突然霧が晴れたみたいに森が開け、ぽっかりと開いた大きな空間がぼくたちの前に姿を現した。空気の色が微妙に変わる。相変わらず月は隠れ、星の姿もなかったが、ぼんやりとした暖かな光が森のなかを包んでいた。
灯台。
すべての光の中心でそれだけが影になっていた。灯台の影は山の向こうからやってきた巨人のような姿で屹立していた。ぼくは震える足を動かし灯台が作る影のなかへ最初の一歩を踏み入れた。湿った草と露のにおい。それがぼくにわかったすべてだった。
「見て」
彼女が言ったが言われるまでもなくぼくは見ていた。灯台には小さな扉が一つと丸い窓が三つあった。三つの窓はしまっていたが小さな扉はいまゆっくりと開いているところだった。
「中から何か出てくる」
「誰か」ぼくは言いなおす。「人だ」
彼はぼくたちが今夜出会ったどんな動物とも違っていたがしかしどこにでもいるような一人の男だった。一ミリの猶予もなく鬚を剃り髪の毛は少しだけ薄い。どこかで見たような顔立ち。それとも気のせいだろうか? 灯台の光の下で、ぼくたちはしばし見詰め合った。
「ようこそ」
彼は静かにそう言った。