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   第四章 犬


 再び犬の鳴き声がした。今度はとても近い。

「ダックスフントだと思う?」自信のない声でコノハが訊く。


 養犬所の友だちは犬についてたくさんのことを教えてくれた。犬。狗。英語ではdog、ラテン語ではcanis。学者たちはCanis lupus familiarisと呼ぶ。ネコ目イヌ科イヌ属に分類される哺乳類の一種。人間の歴史のなかでも一番つきあいが古い動物で、最も早くから家畜化されていた動物。一万二千年ほど前に子犬と一緒に埋葬された人間の遺体がイスラエルで発見されている。その歴史のなかでたくさんの種類のイヌが人間の手によって作り出されてきた。チワワ、ダックスフント、ボクサー、ブルドック、シベリアンハスキー……。国際畜犬連盟は三三一種類の犬を公認していて、世界全体では四億匹の犬がいると見積もられている。人間と違って血液型は八種類。(血液型占いが盛り上がりそうだ)。もともとの起源は狼で、つまり狩猟型の肉食動物。その脚力と鋭い嗅覚を活かした追跡型の狩りをする。もちろん、たいていの犬は家畜化されているから滅多なことでは人間を襲ったりしないが野生化した犬は別だ。そういう犬は野犬と呼ばれる。その友だちは最後にこう教えてくれた。野犬に会ったらすぐ逃げろ。


 犬たちはすぐそこまで近づいているようだった。獣臭いにおいが鼻に届きうなり声がリアルさを伴って耳に届く。

「あたしたちを追ってきたのかしら」

「たぶん」

「理由は?」

「あんまり考えたくないけど……」

「何よ」

「つまりさ、野良犬ってほら、たいてい空腹だから」

 ぼくは言葉をぼかしたがそれで目の前の現実が騙せたわけではなかった。野良犬たちが何らかの食べ物を期待してぼくたちを追っていたことは間違いない。その食べ物が何なのかはあまり考えたくなかった。パサパサしたクラッカーでないことだけは確かだ。

「まだちょっと距離があるみたい。近寄れないのかしら」

「たぶん、ランプのせいだと思う。動物は火を怖がるから」

 それが野生化した動物ならなおさらだが、しかしいずれ慣れてしまうだろう。

「むかし、ボーイスカウトの男の子たちが廃墟探検に言ったことがあるの」

 突然、コノハがそんな話をしだした。

「廃墟?」

「そう。リーダーからは絶対ダメだって言われてたんだけどね。男の子って好きじゃないそういうの。それで、その子たちは四人組だったんだけど、無傷で帰ってきたのは一人だけだった。野犬に襲われたんだって。腕とかお腹とかが傷だらけでズタズタになってた。野生化した犬は狼とほとんど同じなの」

「その話さ」ぼくはじっとりした目で彼女を睨んだ。「今する必要あったの?」

「心の準備は必要でしょ」

 すました顔でコノハは答える。こんな状況だというのに彼女は驚くほど冷静だった。

「それで、ボーイスカウトの人は犬からの逃げ方も教えてくれた?」

「ええ。一、危険な場所には近づかない。二、もしものときは走って逃げる」

「どこに逃げろって?」

 逃げ道はすでに塞がれていた。ぼくたちがさっき通ってきた道からは犬たちの気配がするし、後ろには川がごうごうと流れている。左右は背の高い建物で塞がれていた。どん詰まりというやつだ。

「川を渡る?」

「それは無理」彼女は答えた。「泳ぐのは苦手」

「泳げない? ガールスカウトなのに?」

「何スカウトだろうとできないものはできないのよ。どのみち流れが速いから泳ぐのはやめておいた方がいいわ。どうしてもって言うなら止めないけど」

「なら建物に逃げ込む?」

 ぼくは郵便局の赤い壁を見つめながら言った。そこならば寒さもしのげるし、しばらく犬たちから身を隠すこともできるだろう。

「大事なことを忘れてるみたいだから言うけど」彼女は冷静に言った。「どうやって中に入るの? 一階部分は沈んでいるのよ」

「ならどうしたらいいのさ」

 ぼくはうんざりして言った。

「何とかしてよ。問題解決は得意なんじゃなかったの?」

「なによ。そんな言い方って……」

 彼女が言いかけたとき、突然ランプの火が消えた。


 オイル切れだ。ランプの炎が消えたときぼくにはすぐそれがわかった。停留所で休んだときに交換しようと思っていたのに忘れたせいだ。どうしようもない。

 今やあたりは一面の闇だった。火の消えたランプは力尽きたように転がり地面にあたって音を立てた。まるで町の一部になって眠ってしまったみたいだ。ぼくの手から離れたときランプはランプであることをやめてただのガラクタになった。

「ねえ!」コノハが悲鳴に近い声をあげた。「どうなってるの?」

「オイルが切れた」

「なら入れて!」

「暗すぎる!」

ぼくは彼女に叫び返した。もう一度ランプに火をつけることは不可能だった。暗すぎるし、何よりそんな時間がない。それまでランプの火を怖がって近づけなかった犬たちが一斉に活気付いていた。邪魔者は消えたとばかりに吼える。

「どうするのよ!」

 コノハの悲鳴を犬の鳴き声が覆い隠す。

「川だ!」

 言うなりぼくは冷たい水のなかへ飛び込んだ。隣でコノハが飛び込んだ音もした。姿は見えなかったがそう遠くはない。水は氷のように冷たく入っているだけで頭が痺れてきそうだった。ランプがなくなったせいで自分の両手も見えないほど暗い。定期的に届けられる灯台の光だけが頼りだった。

 犬たちの駆け出す音が聞こえ唸り声が一段と近くなってそして止まった。まるで見えない線がそこに引いてあるみたいに。

「犬は水が苦手なんだ」

 ぼくはあえぎながら言った。水は思っていたよりも深く、背伸びをしていないと頭が出なかった。

「あたしも苦手だわ」

「大丈夫?」

「なんとかね」彼女の声は苦しそうだった。「それでどうする気?」

 もといた場所へ戻れないことは明らかだった。川を渡りきることも不可能に近い。今は流れが比較的ゆっくりだったけれど、いつまた速くなるかわからなかった。灯台の光が一瞬あたりを照らす。

「考えてなかった」

「つかえないわね」舌打ち。「ついてきて、こっちよ」

 そう言って川面をバシャリと叩く。ぼくは顔を出しながら音のする方へ泳いでいった。

「いたっ」

「ごめん」

 彼女が止まったことに気づかずぼくは思い切り背中にぶつかってしまった。そこは郵便局の壁の前で、目の前に一段と暗くなっている場所がある。まるでそこにぽっかりと穴が開いているみたいだった。

「窓が開いてる。ここから入りましょ」

「窓が?」

 彼女の言うとおりだった。手探りで調べてみると、煉瓦が突然途切れて穴のようなものがある。窓が開けっ放しになっているようだった。

 中に入ったらしく、彼女の気配が消える。ぼくは濡れた体を何とか持ち上げると、そのまま窓の向こう側へと落ちた。どしん、と音がして体が固い床にぶつかる。ぼくは痛みでうめき声をあげた。遠くではまだ犬の鳴き声が聞こえている。

 次からは、とぼくは思った。ランプに油を入れるのを忘れないようにしよう。


 ぼくらが入り込んだのは郵便局長の部屋だった。入った窓の高さからしてたぶん二階だろう。ぼくとコノハはしばらく濡れた体を抱え込みながら溺れた二匹のネズミみたいにぶるぶると震えていた。

「もういなくなったかしら」

 息を切らせながら彼女が言った。両目が警戒するように窓の外を探っている。

「たぶん」

 ぼくは息を整え、やっとのことでそう言った。興奮と緊張でとても疲れていた。全身がずぶ濡れで凍えるように寒い。指先の感覚はもうほとんどなかった。

「あ―あ。ひどい目にあった」

「ごめん」ぼくは口ごもる。「ぼくがオイルを交換するのを忘れたから……」

 それきりぼくは口をつぐんだ。疲れと自己嫌悪が重なって、これ以上は一言だって喋れないとぼくは思った。

こじんまりとした部屋の真ん中にはオーク材で出来た重量感のある机が置かれ、その背後では黒い革張りの椅子が静かに座り手を待っていた。床の絨毯は深紅のようだったが窓から吹き込む風と雪のせいで、もとの色がわからなくなるほどに風化している。絨毯の毛は雪にまみれて固まり人工芝のように足を刺した。壁には立派な額とともに肖像画が並べられそのどれもが同じ帽子をかぶった別の男の顔だった。

机のスタンドライトは首が半分取れかけていて不気味にぐらぐらと揺れていた。そのとなりにはブロンズの鍵。見たこともないような形をしているが、そもそもブロンズの鍵自体見るのは初めてだった。何に使うのか見当もつかない。シルバーのタイプライタ。金貨。銀貨。たくさんの切手。廊下へ続くドアは湿気で黴が生え始めている。それはすでに何十年と閉ざされた死の部屋だった。

「明かりはないのかしら」

 震えるコノハの言葉に従って電灯のスイッチをさがす。二箇所ほどに見つけたがどちらも反応はなかった。机のうえのスタンドにも変化はない。

「ダメみたい。電気は通っていないし、発電機もなし」

「使えない部屋ね」

「電気屋さんじゃないんだもの、仕方ないよ」

 部屋が寒いのはだいたい雪風のせいだった。窓が壊れていて閉められないせいで、冷たい風が遮られることなく吹き込み絨毯を凍らせた。歩くたびに音をたてて砕ける氷の絨毯を踏みながら、ぼくとコノハは部屋のすみの暖炉を調べた。掛け金をすべらせ鉄製の黒扉を静かに開ける。薪はないがそれ以外の点は問題がなさそうだった。コノハは扉を開けて廊下に出るとすぐに一抱えの木材を持って戻ってきてそれを暖炉のなかへ丁寧に並べた。どこからそれを手に入れたのか聞いても彼女は教えてくれなかった。

「火を起こせる?」

「もちろん。風よけと、渇いた木材と、それに三時間の作業時間があればね」

 ぼくは黙ってポケットからマッチ箱を取り出したが、びしょ濡れで使い物にならなかった。ぼくは郵便局長が喫煙者であることを祈った。薪を並べるのはコノハに任せることにして、ぼくは局長の部屋を調べてまわった。そこにはあらゆるものがあったが肝心なものは何もなかった。暖かい毛布、ランプの油、寝袋、それにマグカップ一杯のココア。ぼくが欲しいのはそういうものだったがもちろん一つとしてこの部屋にはない。ここは人が生きるための部屋ではなかった。そこはひとつの墓場だった。死んだ文字と数字たちが夜になるたびに徘徊する世界の墓場だった。ぼくの爪先が床に転がったファイルを蹴飛ばす。白い厚紙で綴じられたそれはすべすべとした大理石の墓標みたいに見えた。とても寒い。墓場はいつだって寒かった。


 母さんは墓場を信じていなかった。ぼくもそうだ。骨の名残を埋めて何になる? 棺桶の中には何もない。そこには一握りの灰と空っぽの言葉がつまっているだけだ。だけど結局母さんの墓は作られてぼくたちは季節が変わるたびにそこを訪れる。父さんが墓場を信じているからだ。墓場は生きて残された人間が作る。死んだ人間は語らない。


 マッチ箱は部屋の隅で見つかった。小さな木箱のなかにぎっしりと詰まっていたのだ。どの箱にも郵便局の名前が印刷されていて、かわいいポストのイラストが添えられている。ぼくはそれをコノハに渡し、コノハはそれを擦った。

数分後、部屋は暖かな暖炉の炎で満たされていた。ぼくとコノハはその熱で濡れた服を乾かした。もちろん全部脱ぐわけにはいかなかったから上着と靴下だけだ。爆ぜた火の粉が絨毯の氷を溶かしていた。時間がたつごとにそれはかつてのしなやかさを取り戻しネコの毛皮のようにぼくの両足を包み込む。炎が湿った部屋をほどよい温もりと明かりで満たし、かじかんだ指先に感覚が戻ってきた。ぼくとコノハは体育座りで暖炉を囲った。煙と灰のにおい。それが煙突に吸い込まれそして夜の空気のなかに消えていく。

「焚き火を思い出すな」

「焚き火?」

「うん。ガールスカウトでよくやったんだよね。薪をちゃんと組んで、だんだん火を大きくしていくの。最初は新聞紙とかに火をつけてさ」

「いつもわからなくなるんだけど」ぼくは彼女に訊いた。「焚き火って何をするの? ずっと火を見てるだけ?」

「人によってはね。大人はそれだけで満足って人も多いよ。でもあたしたちはまだ子供だったから色々やった。火の近くでトランプしたり、みんなでマシュマロ焼いてみたり」

「うらやましい」

「マシュマロが?」

「うん」ぼくは頷いた。「一度家のコンロで焼いてみたけど、すぐ燃えちゃってうまくいかなかった」

「火が強すぎると駄目なのよ。炭火でゆっくり焼かないと。お父さんと焚き火をしたことはないの?」

「どうしてそう思うの?」

「そんな感じがしたのよ。話を聞いてると、仲がよさそうだし」

「昔話だよ」

「……今は違うの?」

 ぼくは答えなかった。「焚き火はしたことあるけど、マシュマロは焼けなかった。父さんが嫌いだったからね。マシュマロは女の食べ物なんだってさ」

「ふうん。ずいぶんと……」

「保守的?」

「そう、保守的、な人なのね」

「妹がいなくてよかったと思うよ」ぼくは言った。「コノハは、兄妹いるの?」

「ううん。お兄さんがいたらよかったって思うことはあるけど」

「へえ」意外だった。「どっちかって言うと、弟がいそうに見えるけどな」

「どういう意味?」

「別に、深い意味はないよ。つまり……お姉さんっぽいってこと」

「うん、そうね」彼女は照れたように顔を背けた。「今の忘れて」

「安心して。眠れば忘れちゃうから。昔からそうなんだ」

「でも、忘れられないこともあるでしょう?」

 ぼくはナップサックを引き寄せて中身を床のうえに並べ、残っているものを整理した。町の地図、双眼鏡、ランプの替え芯、鉛筆、水筒、クラッカー残り一袋、白パン、それに串が数本。犬の毛で出来た毛鉤が底に引っかかっていた。ぼくは白パンをちぎって串に刺すと暖炉の火であぶって食べた。

「うん」ぼくは言った。「忘れられないこともある」

 

 局長の机にはレコードをかける機械があった。たぶん彼の趣味だったのだろう。円盤はそばになかったがどこかから彼女が見つけてきた。ラベルは長い年月とともに黄ばんでいた。エリック・サティのジムノペディ。ぼくはそれをターンテーブルにそっとのせ、スイッチを入れた。ピアノの淡々とした簡素な音が部屋に広がる。

「電気は通ってないはずなのに」

 不思議そうに彼女が呟いたが、ぼくにとってはどうでもいいことだった。三分の四拍子のスローなテンポ。ゆっくりと悲しげな旋律。家を出てから初めて、ぼくは心が安らぐ気がした。哀愁に満ちた旋律のなかで薪がゆっくりと崩れ落ちていく。


 しばらくすると、コノハが外の様子を見てくると言い出した。

「大丈夫、外っていってもこの部屋の外って意味よ。建物の外には出ないわ」

「それでも危ないよ」

 ぼくはしぶった。他の部屋がどうなっているかわからないし、そもそも一階部分は水の中だ。床が腐っていることだって考えられる。

「あなたは心配しすぎ。だいたい、いつまでもここにいるわけにはいかないわ。そうでしょ? 出口を探さなきゃ。あたし、もう一度あの川に飛び込むのは嫌だもの」

「もう少し休んでからでも……」

「なら、あなたはここでジムノペティでも聞いてれば。あたしはもう十分休んだわ」

 それだけ言い放つと、コノハは暖炉の中から火のついた薪を一本取ると松明代わりにして扉の外へ出て行った。ぎしぎしという足音がだんだん小さくなりそして何も聞こえなくなる。ぼくは長めの薪を選んで暖炉の中に投げ込み火が大きくなるのを待った。立ち昇る火の粉の竜が優雅に空を舞い爆ぜて死んだ。崩れ落ちた灰が墓標のように積み重なり世界を覆う。人は死ねば灰になる。これから生れてくる人間の数はかつて死んでいったすべての人間の数よりもずっと多い。もしも彼らがすべて死んだら世界は灰に包まれるだろうとぼくは思った。そこでは息をするたびに灰が人を殺す。死んだ人間は灰になる。灰。灰。灰。そればかりが残り他には何も残らない。


 夢と現実を分けるものは灰だということにぼくは七歳の頃気がついた。夢の世界では何かを燃やしても灰が出ない。煙草には灰皿がいらないし焚き火も燃えればそれで終わる。夢の世界は永遠の象徴なのだ。そこではあらゆるものがやり直せて取り返しのつかないことはひとつもない。だからぼくは夢を見るのが好きだった。目を覚ましたときにはすべてがきれいになくなっているその気軽さが好きだった。

 現実の世界はそれとは違う。ものを燃やせば灰が出る。ぼくたちはあらゆることから灰を生み出す。それは捨てられた過去であり二度と取り戻せないものたちの名残だ。だからぼくたちは灰を捨てる。目の届かないところに捨ててそれがはじめからなかったみたいに振る舞い、夢の世界を作り上げる。その偽物の世界の裏側では灰がいつまでも降り積もり、ときどき雪崩れがおきてひとが死ぬ。死んだ人間は焼かれて灰になりそして棺桶と共に地面の下へと埋められる。墓を作るのは生きた人間だ。そうしてみんな灰のことを忘れてしまう。灰は決してなくならないというのに。あらゆるものが失われたあとも灰だけは永遠に残り続けるというのに。


 何かが倒れる音がしてぼくは手に持った薪を取り落とす。火の粉が指先をかすめてぼくは慌てて腕を引っ込めた。耳をすます。物音は扉の外から聞こえていた。雪や風の音ではない。扉に耳をつけるとかすかな足音が聞こえた。それに続いて響く女の子の声。何かに怯えたような悲鳴。上の階からだ。

「……コノハ?」

 ぼくはそっと扉を開ける。返事はない。部屋の外は静まりかえっていて氷の溶ける音だけがただ響いていた。ぼくは暖炉のそばまで引き返すと火のついたばかりの薪を抜き取り、コノハを真似て松明のように高く掲げた。絡みつくような熱気が髪を揺らす。

廊下は寒く足を一歩出すたびに足元で氷が音をたてた。それはごく短い廊下でぼくが出てきた部屋のほかには扉が二つしかなかった。どちらの扉にも鍵がかかっていて開かない。右側の鍵はだいぶ錆びていたから無理やり引けば壊れそうだったがやめておく。

 上へ続く階段は無事だった。すくなくとも今のところは。すべての段がぐらついていて体重をかけるたびに不気味な音をたててきしんだ。まるで床下に隠れている小さな小人たちがぐらぐらと床板を揺らしているみたいだった。上った先は郵便の保管庫のような場所で背の高い棚が行く手を遮るように何列にも並んでいた。手のひらくらいの大きさをした引き出しがいくつも棚についている。そのひとつひとつが手紙の眠る寝室だった。息を整えようと深呼吸するたび、黴と埃の匂いが鼻をついてぼくは咳き込む。

 眠っている郵便たちを起こさないように気をつけながらぼくは松明を高く掲げた。火の塊がゆるやかにとけてあたりを照らす。黒い影が一瞬、棚と棚の間を駆け抜けた。ここには何かがいてそれは人間ではない。

「コノハ」

 ぼくはもう一度彼女を呼んだ。弱った雛のようなうめき声がそれに答える。

「どこにいるの?」

「こっち」弱々しい声がして彼女が棚の裏から姿をあらわした。左腕を押さえ体をひきずるようにして動いている。松明の明かりに照らされた顔は必死に痛みをこらえていた。

「何があった?」

 彼女のそばへ駆け寄りながらぼくは訊いた。

「犬よ」

 彼女は左腕を抱きしめていた手を外し、松明の下でぼくに見せた。べっとりとした血糊が手のひらを真っ赤に染め、だらりと垂れた左腕からはまだ血が流れ続けていた。傷口から獣の匂い。

「ひどい」

 ぼくは着ていたシャツを脱ぐと細長く裂いて即席の包帯を作り、それを彼女のうでに巻いた。傷口を洗いたかったが水がない。出血だけでも止めておく必要があった。

「この部屋に降りてきた瞬間に襲われたの」

痛みで顔をしかめながら説明する。

「たぶん、ここに何匹か住みついていたんだわ。松明のおかげで助かったけど……」

 彼女の足元には火の消えた松明が転がっていた。おそらく投げつけた勢いで消えてしまったのだろう。火が広がらなくてよかったとぼくは思った。

「立てる?」

「一応は」

「なら、急ごう」

 ぼくの手には松明があったがそれだけでは安心できなかった。犬は賢い生き物だから、この火にもすぐ慣れてしまうだろう。ぼくは背筋がひやりとして腕が震えだすのを感じた。ぼくは震えていることを気づかれないように隠しながらコノハに肩を貸し、彼女がおそるおそる立ち上がるのを手伝った。火の消えた薪を拾い上げ、自分の松明をつかって再び火をつける。

「痛い?」

「ううん」コノハは首を振った。「大丈夫。ありがと」

 ぼくはコノハのことだけを考えようとした。彼女の痛みと彼女の震えだけを。他人を気遣っている間は不思議な余裕が生まれて何も怖くないような気がした。自分が強く賢くたくましくなったように錯覚できた。それはただの錯覚だったが、だからと言って何の意味もないわけじゃない。ぼくはコノハの体重を背負いながら松明を掲げてゆっくりと歩き出した。

「ごめん」

「何が?」ぼくは訊いた。

「あたしが余計なことしなければ、こんな目にあわずに済んだのに」

「結果論だよ」とぼく。「出口は見つかった?」

「ううん。少なくともここからは出られない。高すぎる」

「そっか」

「しばらくここにいるしかないかも」

 コノハはため息をつく。

「ジムノペティでも聞く?」

 ぼくがそう言ったときだった。


 あらゆることが同時に起こった。棚の陰から二匹の犬が飛び出しコノハの背中に飛び掛り彼女は悲鳴をあげて床に倒れた。松明の炎が揺らぎ投げかけられた影法師が膨れ上がる。

コノハの背中を踏み台にした一匹がぼくの足に噛み付こうとした。ぼくは避けようと必死に足を動かし勢い余って背後の棚に激突してその痛みで声をあげた。衝撃で引き出しが次々と口を開け黴臭い封筒が雨のように降り注いだ。ぼくはそのうちの一通をつかむ。「愛する我が子へ 母より」。封筒には宛名もなければ差出人の名前もなかった。これじゃ届くわけがない。ぼくは可笑しくて声をあげそうになった。しかし代わりに犬が声をあげ、ぼくは口を閉じて手紙を捨てた。靴のかかとに噛みついてきたそいつをぼくはそのまま蹴り飛ばした。かわいそうだと思う暇すらなかった。かかとを床にこすり付けて涎を拭うとぼくは顔をあげて彼女を探した。

 コノハが怪我をした左腕をかばっていることは明らかだった。犬のほうもそれがわかっているらしく執拗に彼女の左側を狙い続けていた。コノハは右手で左腕の傷をおさえながら右足を犬のわき腹に叩き込んだが、犬はすぐに起き上がると彼女の上着を噛み破った。その勢いでコノハが膝をつく。彼女の身体が痙攣したかと思うとぐったりして動かなくなった。黒い犬は勝ち誇ったように雄叫びをあげると彼女の首筋に狙いを定めて前脚を折った。

 ぼくは転がっていた彼女の松明をつかむと、犬に向かって思い切り投げつけた。直接当たりはしなかったが犬を驚かすにはそれで十分だった。そいつが怯んだ隙にぼくはコノハと犬の間に体をすべりこませて手元に残った松明を構えた。疲れと緊張と興奮で松明を持つ手が震えたが炎は消えなかった。ぼくは犬の黄色い瞳が自分を捉えるのを感じ、鋭い犬歯が打ち鳴らされる音を聞き、そして獣臭い死の匂いを嗅いだ。

「落ち着け」

 ぼくは自分に言い聞かせた。

「落ち着け」

 何度もそう繰り返す。手にひらにかいた汗がしたたり音を立てて床に跳ねた。松明の炎は徐々に薪を飲み込み手元の方へ近づいていた。火を運べと声が言い、逃げてしまえと別の声が言った。松明を取り落とし床に這いつくばって死んでいく自分の姿が脳裏をよぎった。犬の視線はぼくを見つめて離さない。


 ぼくは幼い頃の記憶を掘り起こす。人形の記憶。小さな女の子が泣きながらぼくのそでを握っている。彼女の人形はずっと遠くに転がり、クタクタよりもずっと大きな犬がそれを見つけて口にくわえた。ボタンで出来た人形の目が助けを求めるようにぼくを見ていた。みんながぼくを見ていたのだ。期待をこめた目で。希望に満ちた目で。その視線に押されるようにしてぼくは人形のもとへと近づき大きな黒い犬と目をあわせる。犬の目は何も語らない。それは人形の目よりもずっと無表情でただ敵意だけを伝えている。汗臭い匂いが鼻を刺し苛立たしげに耳がぴくぴくと動いた。ぼくは足がすくんで動けなくなりそして父さんの下へと逃げかえる。何も出来ずに逃げたぼくを見て父さんはやっぱりと言う。どんな言葉よりもぼくにはそれがつらかった。

父さんはぼくに何も期待していない。父さんにはすべてがわかっている。ぼくのすべてがわかっているのだ。


「落ち着け」

 三度目。ぼくは余計な記憶を頭の奥へと追いやり目の前の相手に集中する。ぼくが逃げたのは大昔のことだ。今は違うし何よりここに父さんはいない。ぼくがどれだけ情けない人間かを知っている人がここにはいない。ただそれだけのことなのにそれがぼくに勇気をくれる。まるで自分に勇気があるみたいな錯角をぼくにくれる。

 誘うように松明の先を下げると犬は弾けるように飛び出してぼくとの間合いを一気につめた。ぼくは松明の炎で弧を描き追い払おうとしたが、犬はするりと身をかわすとぼくの腰骨に食らいついた。ゴリンという痛みが走り膝をついて倒れる。必死に振り回した手がちょうど犬の瞳をぶって喰いこんだ歯がはなれた。それでも痛みは消えない。犬はすぐさま体勢を立て直すとその巨躯を活かしてぼくを突き飛ばし身体のうえにのしかかろうとした。臭い息が顔にかかりぼくは思わず息を止めた。首の血管を狙おうとする牙を両手で必死に押しとどめた。犬は狂ったように首をふってぼくの手から逃れようともがいたがぼくは意地でも離さなかった。もしも手をはなせば二人ともここで死ぬだろうということがわかっていた。

 すでに松明はどこかへ行ってしまっていたがそれを探す余裕もなかった。歯を食いしばりながら首をつかんだ両手をひねり、犬の頭を床にたたきつけた。いくら身体が大きいとはいえこれは堪えたらしい。ぼくはその隙にとどめを刺そうとしたが噛まれた腰が痛くてまともに立ち上がることさえできなかった。犬は頭を振ると正気を取り戻したかのようにぼくを睨んだ。逃げなければと思ったが身体が動かなかった。夢のなかで逃げているみたいに足にも腕にも力が入らなかった。どんなに力を入れようとしてもマシュマロみたいにふにゃふにゃに溶けてしまう。犬はそのことを知っているかのようにゆっくりとにじりよってきた。お前が逃げられないことなどお見通しだとその瞳は告げていた。すべてを見透かすそれは父さんの瞳と同じだった。

 床のうえを這いずるように逃げる。すると、足の先が何かに触れた。熱い。ぼくにはすぐにそれが何かわかった。火を運べと声が言う。ぼくはさっと腕を伸ばすと足元の松明をつかんでそれを犬の黒い体に向かって真っ直ぐ投げた。きゃうんという情けない声とともにそいつは逃げた。肉と油の焼ける匂いをあとに残してそいつは逃げた。

 ぼくはまだここにいる。


 汗と血糊をぬぐいながらぼくはコノハの姿を探した。封筒の山から彼女の右腕が突き出しているのが見えた。それはまるで救いを求めているみたいにあたりをまさぐっていた。ぼくは彼女の名前を呼びながらキャタピラのように這って進んだ。体を動かすたびに怪我をした腰が痛みパチパチと火の粉が爆ぜる音が聞こえた。それに何かが燃える嫌な匂い。

 ぼくは彼女の腕をつかむと封筒の束に埋もれた彼女の全身を引っ張り出した。彼女は左腕の痛みに顔をしかめていたが少なくとも意識はまだ残っていた。

「大丈夫?」

「あたしはなんとか」また火の粉の爆ぜる音。「そっちは?」

「まだ生きてる」

「よかった。ありがとう」

「何が?」

「助けてくれて」

「助けられてよかった。動ける?」

「たぶん」

 松明の炎はいまや部屋中にまわりつつあった。たぶん、最初にコノハが投げた松明もどこかに火をつけていたのだろう。一面に紙が詰まったこの部屋はまるで暖炉の中みたいによく燃えた。棚が一つまるまる火に飲み込まれ、行き場のない手紙たちが黙したまま灰になって消える。棚から体を引き離し出口を目指した。燃え盛る炎の輝きが部屋を明るく照らしていたが、あたり一面に煙が立ち込めていたせいで前の様子は何もわからなかった。

「頭を下げて」怪我をしていない方の手でコノハがぼくの髪に触れた。「煙を吸い込んじゃ駄目」

「わかった。ねえ、どっちが出口だと思う?」

「このまま真っ直ぐ進めばいいはず。でも間違ってるかも。そしたらごめん」

「大丈夫」

「あたしが先に行く」彼女は歯を食いしばった。「ゆっくりついて来て」

 コノハは四つんばいになりながら煙の向こうに消えた。腕の怪我が痛むのだろう、左腕を引きずるようにしている。ぼくは出来るだけ腰に負担がかからないような体勢を取ると彼女の後をついていった。時々灰が雨のように降り注ぎぼくたちを咳き込ませた。部屋はオーブンのように熱くなり煙はその濃さを増していく。時間がたつにつれてどんどん頭が朦朧としていくのが自分でもわかった。火事のときは煙が一番危ないのだと消防士から聞いたことがある。ぼくには消防士の知り合いはいなかったが、彼はぼくたちの学校の防災訓練にやってきてそして教えてくれたのだった。火事で死ぬ人は大抵の場合煙をたくさん吸い込んだせいで死ぬ。もちろん炎の熱で焼け死ぬ場合だってあるけれど、実はそういうケースはあまりない。だから火事に巻き込まれたら絶対に煙を吸い込まないように注意することだと彼は言った。

 ぼくは怪我をした腰が許す限り姿勢を低くして、まるで床を舐めるみたいな格好で前に進んだ。床の木材は長い時間とともに風化してところどころ腐りかけていることが匂いでわかった。それはあらゆる人から忘れ去られ手入れされることなく朽ちていく黒い森の匂いだった。扉はまだ見つからない。


「コノハ」

 ぼくは不安になって彼女の影に声をかけた。ぼくの言葉は立ち込めた灰色の霧に吸収されたがきしんだ蝶番の音が代わりに返事をした。どこかで扉が開き新鮮な空気が水の匂いとともに入り込んできた。彼女の声が聞こえたが言葉の意味はわからない。ぼくの意識はもう限界だった。わき腹から流れ出した血が川をつくり炎の熱で蒸発した。ぼくは救いを求めるように腕をのばすと体を扉にくぐらせようとした。冷たい空気が髪をなで、炎の舌が足の先を舐めた。体が燃えるように痛い。

 くぐもった爆発音が聞こえ、バラバラと何かが崩れる音がした。後ろで天井が崩れ始めていることがわかった。部屋中が悲鳴をあげて軋んでいた。紫色の煙が充満し何も見えない。前を行く彼女の影すらも見えなかった。

視界がかすむ。息が苦しくなりぼくは何度も咳き込んだ。どこかで列車の汽笛が聞こえランプの光が目をくらませる。それともあれは灯台の光だったのだろうか?

 最後の呼吸とともに世界が落ちてぼくは何もわからなくなった。



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