道
第三章 道
夜の匂いが好きだった。
ぼくは小さい頃から怖がりで、もちろん暗いところも怖くているだけで涙が出てくるほどだったのだけど、それでもあのつんとした凛々しい匂いをかぐためだけにぼくは何度も家を出た。夜はいつでもぼくを待っていた。春が終わり夏になっても、夏が秋に変りそして冬がやってきても夜の空気はいつも変わらずぼくを迎えてくれるのだった。ぼくは家の外に出るときまって目を閉じてしゃがみ込んだ。そうして夜の匂いをかぎながら父さんが呼びにくるまでいつまでだってそうしていた。
だからなのだろう。父さんが双眼鏡をくれたのはぼくが八歳になったときだった。たぶん、星を見るのが好きなのだと勘違いしたのだ。父さんのくれた双眼鏡はちゃんとした大人用だった。両手いっぱいの大きさで二つのレンズの真ん中に大きなダイヤルがついている。このダイヤルを回してピントを調節するのだと父さんは教えてくれた。まあ、星を見るときにはあんまり関係ないかもしれないけどな。どうして関係ないのかと訊くと、星はとても遠くにあるからピントを合わせなくてもちゃんと見えるのだと父さんは答えた。遠くにあるものは見えやすいんだ。だけど近くにあるものは見えない。見たかったら自分の目で見るしかないんだ。
自分の目がいちばん大事?
ああそうとも。だから大切にしなくちゃな。
だけどそのときにはもう、父さんの目は悪くなり始めていた。そしてぼくが十三歳になったとき父さんはついに眼鏡をかけた。眼鏡の向こうにある父さんの目はとても遠くにいってしまったみたいでぼくはもうそれを見ることはできなくなってしまっていた。まるでとても遠くにある赤くて大きな星みたいに。
町はまだ目覚めない。
夜は深く闇もまた深い。等間隔に並んだ街灯の光が道路の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。二列になって伸びていく橙色の光は滑走路の誘導灯を思い起こさせた。歩くたびに足元で氷の粒がザリザリと音をたて、はりつめた夜の空気のなかを拡散していった。
遠回りになっても大通りを通っていくべきだと主張したのはコノハだった。ぼくは狭い路地を行くべきだと言ったのだが彼女はそれを聞こうともしない。
「どうしてわざわざ狭い場所を通りたいわけ?」
街灯の明かりで地図を調べていると彼女はぼくに言った。
「それに遠回りだし。道に迷ったらどうするの?」
ぼくが言っているのはここから二本目の角を左に曲がって、住宅街の中心を通るルートだった。別に大して複雑ではないし、危険があるわけでもない。町の外へ出るときは、ぼくはいつもこの道を使っていた。
「夜に大通りは歩きたくないんだ。」ぼくは説明した。「広すぎて不安になるし、それに何かに襲われたときも逃げ場所がない。よく目立つしね」
「何が襲ってくるっていうわけ?」
コノハは噛み付いた。馬鹿にしたような口調で言う。
「忘れているなら思い出させてあげるけど、あたしたち以外はみんな眠っているのよ。誰一人起きていないのよ」
「そうとは限らない」ぼくは首を振った。「ぼくたちが知らないだけで、ほかにいるかも」
「臆病なのね」
「ちがう。慎重なんだ」
「どっちにしろ、子供だわ」
呆れたようにそう言って、彼女はすたすたと歩いていってしまった。ぼくは首を振り、彼女のあとを追いかける。
たしかにコノハは大人っぽい女の子だった。悔しいけどそれは認めなくちゃならない。普通ならパニックになってもおかしくない状況なのに落ち着いているし、それだけでもぼくとは大違いだ。それに背も高い。学校の女の子はみんな背が低かったけど、コノハは彼女たちよりもずっと大きかった。たぶん、父さんと同じくらいあるんじゃないだろうか。それでいて威圧感みたいなものはまったくない。振る舞いのひとつひとつが優雅なせいかもしれないし、とても細い体つきをしているせいかもしれない。背の高さと比べると、コノハの体つきはとても華奢で今にも折れてしまいそうだった。それでも折れずに立っていられるのは意志の強さの現われだろうか。
一方、ぼくはあまり姿勢が良くない。いわゆる猫背というやつで、いつも背中を丸めて歩いている。自信がなさそうに見えるからやめろと父さんには何回も言われたが、癖というものは一度ついてしまうとどうしようもない。父さんはぼくの背中に定規を入れたり、とにかくあらゆる努力をしたが最後には結局諦めた。ぼく自身はといえば、この猫背ってやつがあんまり嫌いじゃない。少なくとも猫たちは自分に正直だし、それに自由だ。
その意味では、コノハは猫みたいな女の子でもあった。自分に自信を持っていて、そしていつも堂々としている。動きは素早く無駄がない。きびきびと歩くたびに長い黒髪が左右に揺れた。くりっとした気の強そうな目。どこをとっても猫そっくりだ。ぼくはどっちかといえば犬に近い。耳が長くて垂れているやつ。
犬の鳴き声が聞こえた。それも一匹ではなく複数。そう遠くない場所から聞こえているようだったがよく耳をすませていないとすぐに聞き逃してしまいそうだった。積もった雪が音を吸い込んでしまうせいだ。コノハの方を見ると彼女はまったく気づいていないようだった。
「犬の鳴き声?」それがどうしたの、という口調で彼女は言った。
「だからさ、犬の鳴き声が聞こえたんだ。耳をすませてみてよ」
「あたし、あんまり耳はよくないの」
目はいいんだけどねと付け足しながら彼女は言って、黒髪をかきあげて隠れた耳をぼくに見せた。言われてみれば彼女の耳は少し変わった形をしている。耳の孔は小さくきゅっとすぼまっていて、それにまわりのひだが普通より多い気がした。だけどぼくの気のせいかもしれないし、それに耳の形が変わっているからといって音が聞きにくくなるわけじゃないのはぼくも知っている。
「きれいな耳だ」ぼくは褒めた。
「ありがと。でもきれいにするのも大変なのよ」
「どうして?」
「あたしの耳、変な形だからゴミがたまりやすいの。そのぶん余計に掃除しなくちゃならないし」
「掃除しすぎるのもよくないんだよ」ぼくはむかし耳鼻科の先生から聞いた話をした。「二週間に一回くらいがちょうどいいんだ。それ以上やると耳を傷める」
「あたしのお医者さんは」コノハはむっとしたように答えた。「一週間に一度がいいって」
「ならそうなのかも」ぼくは話題を変える。「それで、犬の鳴き声なんだけど」
「何?」
「ほんとに聞こえなかった?」
「聞こえなかったわ。犬なんてこのあたりにいるかしら」
「住宅街のほうに行けばたくさんいるさ。それにこのあたりにはむかし養犬所があったらしいし」
「養犬所?」
「犬を育てるところだよ」
「育ててどうするの?」
「売るに決まっているじゃん」とぼく。
「養犬所ねえ……。こんな町外れに?」
「町外れの方がいいんだ」ぼくは説明した。「犬を育てるためには広い場所が必要だし、それに鳴き声もうるさいからあんまり人が住んでいるところでは育てられない」
「よく知っているのね」
「友だちに一人、家が養犬所をやっている子がいたんだ。犬のしつけ方とか色々教えてくれたよ」
「じゃ、しつけ方を知っているのね?」
「一応はね」ぼくは答えた。「ダックスフントくらいなら手なずけられる」
「ダックスフント以外は?」
「チワワとプードル」
「なら安心だわ」
コノハはちょっぴり皮肉のこもった声でそう言った。
足が痛い。背中に腕を回して目覚まし時計を取り出すと、時刻はもうお昼前になっていた。出発してからもう二時間近く歩いていることになるけど、そんな気はまったくしなかった。ずっと朝が来ないせいで時間の感覚が麻痺してきているのだ。それに加えて両足の感覚もとっくに麻痺してしまっていた。靴の中に雪解け水が入り込んでいて一歩踏み出すたびにたぷりと揺れる。真冬の湖を歩いているような気分だった。コノハにどこかで休憩しようと声をかけると、彼女は肩をすくめただけで特に反対はしなかった。ぼくはどこか休めるところを探したが、通り沿いにはほとんど建物が見つからない。すでにぼくたちは町の外れの方まで来てしまっていた。結局コノハがバスの停留所を見つけてその中で休むことにした。停留所は小さな小屋みたいになっていたからその中に入れば雪とさよならすることができたし、そのおかげで少しは暖かい。小屋の板はところどころ腐っていて触るとボロボロと崩れだしそうな様子だったけれどぼくは目をつむることにした。
クラッカーの残りを取り出して彼女にわたす。バス停のなかは外よりは暖かかったけれどそれでも寒かったし、歩くのをやめてしまったぶん余計に体が冷えた。ぼくはコートの襟をしっかりとあわせて風が入ってこないようにすると、コノハに毛布を一枚渡した。吐く息だけが白かった。頭上ではクリーム色の蛍光灯が壊れた月明かりみたいにチラチラと瞬いていた。
「缶詰、持ってる?」コノハが言った。
「え?」
「缶詰よ。桃の缶詰。クラッカーだけだと、粉っぽくて咳が出そう」
桃の缶詰はナップサックの底の方に入っていた。くるくると手のひらのうえでそれを弄んでいるうちにぼくは大切なことに気がつき顔をしかめた。
「どうしたの?」ぼくの表情に気がついたコノハが訊いた。
「缶切りがない」
答えながらぼくはとても情けない気持ちになってきた。結局のところ、ぼくはいつだってこうなのだ。肝心なところでどうしようもないヘマをやらかす。
「そんな顔しないでよ。たかが缶切りのことじゃない」
「どんな顔しようとぼくの勝手」
「見てるとイライラしてくるのよ。別にいいじゃない、缶切りくらい。人間誰だって失敗はあるわ」
「だから?」慰めにならないよ、とぼく。慰めで缶が開けられるわけじゃない。
「少なくとも、あたしの隣にいるのが本物の人間だってことがわかった。ちゃんと失敗する生きた人間ってことがね。それに缶なら開けられるわ」
コノハはぼくのナップサックの中に腕を入れると自分のナイフを取り出した。果物ナイフみたいな小さなやつじゃなくって、大人がキャンプで使うようなでっかいやつ。女の子の持ち物にはとても見えないけれど、コノハの大きな手にはしっくりくるようだった。
「そのナイフで缶詰めを切る気?」危ないよ、とぼくは止めたけれどそれは言葉だけのことだった。悪いのは缶切りを忘れたぼくなのだし、それならぼくに彼女を止める権利はない。
慣れているから大丈夫、とだけ言うと彼女はまるでパンにバターでも塗るかのような気楽さで缶詰めのふたを切り取った。カランという渇いた音がしてアルミの欠片がアスファルトのうえに落ちる。
「すごい」ぼくはシンプルに彼女を褒めた。
「ガールスカウトで習ったの」コノハはちょっと照れくさそうにはにかむとアルミのふたを拾ってベンチのそばの屑篭に捨てた。「そんなに難しいことじゃないのよ。力の入れ方さえ間違えなければね」
「ガールスカウトだったんだ」
「むかしの話よ。夏休みになるとよくキャンプに出かけてた」
「アウトドアが好きだった?」
「別にそういうわけじゃないの」彼女は肩をすくめた。「うちは両親が忙しかったから、ね。たぶんあんまり家にいてほしくなかったんだと思う」
「行かされてたってこと?」とぼくは訊いた。嫌そうな顔をしていたんだろう。彼女は慌てて答えた。
「別に、無理やり行かされていたわけじゃないわ。せっかくの夏休みなのにどこにも行けないのは嫌だったから、自分で入りたいって言ったのよ。ガールスカウトには似たような子たちがいたし楽しかった。おかげで缶詰も開けられるようになったしね」
コノハは桃を一切れクラッカーの上にのせると、それを一口でパクリと食べてしまった。口元のシロップをぬぐいながらぼくの手に缶を握らせる。
「あなたはキャンプに行ったことがある?」
「何度か。夏休みに父さんが連れて行ってくれた」
「いいお父さんね」コノハはどこかで聞いたような台詞を繰り返した。
「だけどナイフの使い方は教えてくれなかった」
ぼくは急に恥ずかしくなってうつむくと桃をふた切れ食べた。シロップはとても甘いのに、まるでわさびを食べ過ぎたみたいに鼻の奥がつんとした。
コノハはナイフの使い方のほかにも色々なことを知っていてそしてぼくは何も知らない。これが半日のうちにぼくが理解したことだった。ガールスカウトでの経験はコノハにあらゆることを教えているらしい。彼女はナイフで缶詰を開けることができたし、木の枝で火を起こすこともできた。絶対に解けないようなロープの結び方を知っていたし(彼女は桃を食べながらぼくにそのやり方を教えてくれた)、星の位置から正しい方角を導くことだってできた(もっとも、これは空が曇っていたためにあまり役には立たなかった)。
「あらゆる生は問題解決なの」
どうしてそんなに色々なことを知っているのかと訊くと、彼女はぼくにそう説明した。あらゆる生は問題解決である。それがいつかどこかの本で読んで以来忘れたことのない、彼女の生きるモットーだった。
「生きるっていうことは、目の前の問題を解決していくことなんだっていう意味。テストの問題を一つ一つ解くみたいにしてね」
「百点を取れる自信は?」ぼくは訊いた。
「もちろん、あるわ。だけど人生が百点満点のテストとは限らない。そうでしょ? 二百点満点なのかもしれないし、もしかしたら一万点取ったって終わらないのかも」
ぼくは一万点満点のテストを想像した。学校のテスト百枚分だ。考えただけでもげんなりする。
「うんざりする」ぼくは正直に言った。「どうしてみんな、途中で嫌になったりしないんだろう」
みんな、というのは具体的にはコノハのことを指したつもりだった。それが彼女に伝わったのかはわからないけど。
「嫌になっても、うんざりしても途中でやめるわけにはいかないもの。なら楽しんだ方がいいと思わない?」
「君は楽しんでいるの?」
「そうじゃなきゃ、ガールスカウトになんか入らないわよ。ガールスカウトってね、本当に毎日が問題解決なの。荷物が足りない、テントが建たない、虫が入ってくる、お湯が沸かない、チームメイトが帰ってこない、他にもたくさん。だけど、どれも楽しかったわ」そう言うと、コノハはぼくの顔をのぞきこんだ。「ねえ」
「なに?」ぼくは少しどぎまぎする。
「桃の缶詰、もう余ってない?」
「余っているけど、あげないよ」
「意地悪」
「これは夜の分だもの。いま食べるわけにはいかないよ」
ぼくはナップサックの口をしっかり閉じた。“絶対にあげないからね”という意味のジェスチャーだ。ぼくは少し意地になっていて、最後に残ったこの缶詰にすべてのプライドが詰まっているような気分だった。
「わかったわよ」コノハは諦めたようにため息をついた。「あーあ、林檎が食べたいな」
「どんな林檎?」
「甘いやつ。焼き林檎がいいな。林檎をアルミホイルに包んで焼いて、そのうえから蜂蜜をかけるの。どこに行けば食べられるかしら」
「それも問題解決?」ぼくは肩をすくめる。
「そうよ」彼女は微笑んだ。「あたしからあなたへのテスト」
「どうだろうな……」ぼくは考えた。「もしかしたら、灯台に行けばあるかもよ」
「本当に?」
「あるかも、って話。灯台守がわけてくれるかもしれない」
言いながら、ぼくはたとえ灯台守が林檎を持っていたとしても、きっと蜂蜜までは持っていないだろうなと考えていた。それとも逆だろうか?
「なら、そろそろ行きましょ」
彼女はぴょんとベンチから降りると、スカートの裾の雪を払った。バス停の外は暗くまだ夜が明ける気配はなかったけれど彼女の手だけが白かった。
道路の脇に一台の車が停まっていた。棺桶みたいに黒い小型車で、テールランプも点けずに停車している。屋根には分厚く雪が降り積もり窓ガラスも白く曇っていた。コノハは一瞬ためらったようだったが結局指先で窓ガラスをふいた。冷たそうに顔をしかめ何事か毒づく。
窓ガラスから透けて見える車の中には小さな子供がひとり眠っていた。助手席に行儀よく座り目をつむっていた。シートベルトはしていない。窓を叩いたが一向に目を覚ます様子はなかった。
「寝ているだけだよね」
ぼくは訊いたがコノハは答えなかった。ドアには鍵がかかっていて開けられそうにない。ぼくたちにしてやれることは何もなかった。コノハは悔しそうに唇を噛むと足早にその車を離れた。遠くから見たそれは父さんの吸っていた煙草の箱みたいに見えた。
一歩足を進めるごとにぼくたちは町から離れていく。それに従ってあたりはどんどん暗くなった。まるで誰かがぼくたちの後ろにぴったりとついてきて、パチンパチンと電気のスイッチを切っているみたいだった。並んでいる街灯の間隔が徐々に広くなりやがて完全に姿を消した。今やあたりを照らしているのはぼくのランプと森の灯台だけだ。灯台の光は眠った町の上をぐるぐると一定のリズムで巡回していた。光と影が交互に訪れ町の残像が影絵みたいに目に焼きつく。
再び犬の鳴き声が聞こえ、ぼくは何かから逃げるみたいに早足になったが、逃げる場所はどこにもない。
もともと犬は夜行性だったのだと森のなかで父さんはぼくに話したが、ぼくは冗談だと思ってすぐにはそれを信じなかった。隣の家でミホさんが犬を二匹飼っていて、その二匹とも朝に散歩していることをぼくは知っていたからだ。そのふかふかだけどちょっと臭い毛並みに触らせてもらったことだってある。一方の犬はずいぶんと年寄りらしくいつも尻尾がくたっと下を向いていてちょっと歩くともう限界というふうに座り込んでしまうので、ぼくはクタクタと呼んでいた。
もともとって言っただろ。父さんは笑って言った。犬の祖先を知ってるか?
狼でしょ。
そうだ。そして狼は夜行性だ。昼に寝て、夜動く。その方が狩りには都合がいいからな。
そうなの?
そうとも。狩りをする動物はたいてい夜行性なのさ。
それじゃ、どうして犬は朝起きて夜眠るの?
あれは人間に合わせているんだ。それに時代が変われば習性も変わる。父さんだって昔は九時になるとすぐベッドに入っていたけど、今じゃ日付が変わっても平気で起きているようになっちまった。
ぼくは九時に寝るよ。
えらいな。
だけど、たまに眠れない日もある。なかなか寝付けなかったり、眠っても途中で目が覚めちゃったり。
なかなか眠れないのは、と父さんは言った。昼間に満足していないからだ。楽しい一日を過ごしたあとはよく眠れるだろ?
その通りだとぼくは思った。じゃ、父さんは毎日あんまり楽しくないんだね?
そうだな……。父さんは何かを考えているようだった。楽しくないわけじゃないんだ、もちろん。だけど満足しているわけでもない。大人になると簡単には満足できなくなるのさ。
つまり、欲張りなんだ。
そうとも言えるな。
こうしてぼくは一つのことを学んだ。大人というのは欲張りだ。そして欲張らない限りぼくたちはまだ子供でいられるし九時にベッドに入ることもできる。
最後の街灯は郵便局の近くだった。赤煉瓦を積み上げてできた古い建物。歩いているだけで崩れそうなほど脆い。歩くたびに足元で崩れた煉瓦の粉がざりざりと音を立てるのがわかった。
道路にはいろいろなものが落ちていた。粉になった煉瓦、割れた手鏡、新聞の切れ端、虫の死骸、積もった雪の中からは錆びた鉄屑が顔をのぞかせていた。それはかつて起きていたものたちの名残であり時間が見せるつかの間の残像に過ぎなかった。
「ゴミが急に増えてきた」
コノハが顔をしかめながら言った。道が汚れているのはあまり好きではないのだろう。ぼくだって嫌いだ。
「どうしてかな」ぼくは黒い布の切れ端を踏みながら言う。「このあたりは元から人が少なかったような気がするけど」
「人が少ない方が道は汚れるのよ。片付ける人がいないから」
「なるほど。じゃ、それが理由?」
「ううん」彼女は首をふる。「それにしたって多すぎる。落ちているゴミの種類も不自然だし。まるで嵐のあとの海岸みたい」
嵐のあとの海岸にはいろいろなものが流れ着く。たいていは役にも立たないゴミばかりだけど、ときどき瓶詰めになった手紙や珍しい魚の死体なんかがやってくることもある。
「理由がわかったよ」
ぼくは突然それに気づいた。ランプの光に照らされて見たこともないほど大きな川がぼくたちの前を流れていた。
川はタールのように黒く渦巻きあらゆるものを拒む門番のようだった。川幅はそれほどないが深さは相当あるらしい。普通の川と違うのは流れが一定のリズムで変化していることだった。ごうごうと洪水のように荒れ狂ったかと思うと、とつぜん湖面のような静けさを取り戻す。そしてしばらくたつと再び緩やかに流れ出すのだった。
「こんな川見たことない」
「あたしもよ」しかし本当の問題は別のところにあった。「それに、こんな川がこの町にあったなんて知らないわ」
ぼくらの町に川はない。それはこの町に住んでいる人間なら誰もが知っている事実だった。この町に海はなくそしてそこに至る川もまたない。こんな大きな川が一晩でできたとはとても考えられなかったが、しかし実際にそこにある以上そう考えるしかなかった。
ぼくは新しいランプの明かりで足元を慎重に照らしながら川べりに近づいた。川のこちら側には石造りの建物がずらりと並んでいたが、川の向こうには鬱蒼としげる森の姿が見えるだけだった。この川を越えればもう町の外だということだ。ぼくたちは自分で考えているよりずっと遠くまで歩いてきたようだった。
「泳いで渡れるかな」ぼくはコノハに言ってみたが、彼女の表情を見ればそれが不可能なことは明らかだった。少なくとも彼女にとっては。ぼくはといえば、夏のプールで泳ぐのは好きだったけど雪がふるなかで水泳するのはできれば避けたい。
「どこかに橋があるかも。探してみる?」
「いいけど、たぶん無駄よ。橋があるとは思えない」
「どうして?」
「昨日まではこんな川、なかったんだもの。誰も橋なんて作ってないわよ。それに」
彼女は川べりにしゃがみ込むと指先で黒い水に触れた。
「見て。川のなかに階段が続いてる」
川べりの建物からは石造りの階段がのびていて、それは川の中へと続いていた。まるで誰か川の底で暮らしている人が作ったみたいに見える。
「ほんとだ。アトランティスみたい」
「アトランティスって何?」
「海中都市だよ。それよりこれがどうしたの?」
「気づかないの?」呆れたような口調。「町が沈んでいるのよ」
「沈んでるって、つまり……洪水みたいに?」
「この建物、見て」
コノハが言う。ぼくは川べりに並んだ建物がよく見えるようにランプを掲げた。
「普通、こんな川の近くに建物を建てる?」
ふつう川のそばに建物は建てない。なぜなら嵐がきたときそういう建物はすぐ流されてしまうからだ。だけどここにある建物はどれも川のすぐそばに立っていた。まるで町が途中から水のなかに沈んでしまっていて、建物の二階が頭だけ出しているみたいな感じだ。
「つまり」ぼくはゆっくりと整理するように言った。「もともとここは坂道か何かで……低いところが全部水の下に沈んでいるってこと?」
「たぶんね」
それきりコノハは黙った。何かを考えているみたいに難しい顔をして、じっと目の前の川を睨んでいる。長く続くこの夜以外にもぼくたちが考えなければいけないことはたくさんありそうだったが、いくら考えてみても答えが出るとは思えなかった。雪は降り続いている。川面に落ちた雪の結晶はなにかに抵抗するみたいにしばらくふるえていたが跡形もなく消えてしまった。